信濃国 高遠城

高遠城址 桜雲橋と問屋門

所在地:長野県伊那市高遠町東高遠
(旧 長野県上伊那郡高遠町東高遠)

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★☆■■
公園整備度:★★★★



高遠と言えば饅頭、それに全国有数の桜の名所として名高い城跡である。近年は歴女たちの感性をくすぐる
「江島配流の地」として持て囃されているが(詳細後記)優れた民政家たる保科正之成育の地、そして何よりも
戦国史上稀に見る激戦に及び血で血を洗う玉砕戦を繰り広げた実戦城郭である事を忘れてはなるまい。
城の創建は定かでない。平安時代末期に地頭の石田氏が館を構えた場所、あるいは源平合戦期の1179年
(治承3年)笠原平吾頼直が築城したとか、室町初期の暦応年間(1338年〜1341年)木曽義親が入部したとする
話があるが、どれも曖昧なものでござる。中先代の乱(室町初期におきた鎌倉幕府復活運動)で北条時行が
籠もった大徳王寺城を高遠城とする説もあったが、最近になって大徳王寺城は伊那市長谷溝口、つまり別の
場所にあった事が確定的となり否定すべき説であろう。高遠城について確実に言えるのは、諏訪大社神職に
あった諏訪氏から分流した高遠氏の城であったという事でござる。しかし、それとて高遠氏初期の城は的場城
(伊那市高遠町長藤(おさふじ)的場、高遠城の北側を流れる藤沢川の対岸)の事を指すと推測する説もあり
判然としない。この“初期高遠城”の姿は不明瞭であるが、とりあえずこの地域が高遠氏の領地であった事は
確かである為、それについて記す。
高遠氏が諏訪氏から分流したのは南北朝動乱期の事。上記の大徳王寺城で戦った諏訪頼重(下記の武田
信玄に倒された人物とは別の者)または継宗(頼重の弟)の嫡男・貞信(さだのぶ、信員(のぶかず)とも)が
諏訪氏の伊那郡進出によって現地へ赴き、土着したものと伝わる。貞信が高遠家を興した事で、諏訪氏の
家督は頼重・継宗の3弟・安芸守信嗣(のぶつぐ)が継いだが、元来は嫡男である筈の貞信は諏訪家総領の
地位を欲して野心を滾らせ、また信嗣が継承した諏訪家の内部も紛争が絶えず、室町期を通じて諏訪家と
高遠家は延々と対立を続けたのでござる。
然るに、時は下って1542年(天文11年)甲斐の武田晴信(後の信玄)は領土拡張に乗り出して諏訪氏領の
諏訪郡を攻撃した。かねてから諏訪郡を欲していた高遠氏当主・頼継(よりつぐ)は晴信と示し合わせて諏訪を
東西から挟撃する。この先年、晴信は実父・信虎を国外追放して武田家督を相続していたが、信虎時代には
武田家と諏訪家は同盟関係にあった。晴信はその虚を突き、諏訪へと侵攻したのである。防戦ままならず、
諏訪家総領・頼重は武田軍に降伏、後に切腹を余儀なくされる。
斯くして諏訪郡は武田家と高遠家が2分して統治する事になるが、両者とも内実は諏訪の完全制圧を狙って
おり、この体制は間もなく破綻した。当初、高遠軍が武田軍を奇襲で駆逐したが、反撃に出た武田軍が圧倒的
優位に立ち、逆に高遠軍は諏訪から追い出され、本拠である高遠で防備せざるを得なくなる。諏訪から高遠に
至る(現在の国道152号線)杖突峠を挟んで両者は睨み合ったが、遂に1545年(天文14年)武田軍が高遠へ
侵攻、4月17日に高遠城は落城した。この後、高遠頼継は武田に降伏し家臣になったとも、いずこかへ逃亡し
消息不明になったとも伝わる。いずれにせよこれで高遠城は武田のものとなった。
当時、武田軍は諏訪を押さえつつ、その北の信濃府中(現在の松本周辺)小笠原氏(信濃守護)や埴科郡の
村上氏と対決を深めており、高遠城は武田領南端の備えとして、また来るべき伊那谷南進作戦時の橋頭堡と
して、重要な役割を期待された。斯くして武田氏による城の拡張整備が図られ、1547年(天文16年)からその
工事が着手され申した。“武田の猛牛”と渾名された猛将・秋山伯耆守信友(虎繁(とらしげ)とも)が城代とされ
(信友は1556年(弘治2年)に高遠城主となったという説もあり)一説には高遠城の縄張りを晴信の軍師・山本
勘助晴幸が行ったと言われる。これを以って現在に至る高遠城の創築と見做す向きもある。
高遠城は杖突峠から城へ至る街道に沿った藤沢川と、南から来る秋葉街道と並走する三峰川の合流地点に
位置する。北の藤沢川、南の三峰川が城の西で合流する為、北〜西〜南の3方は天然の大河を堀とする要害
地形で、東側だけが陸続きとなっている。これは標高1180mの月蔵山が西へと裾野を広げた末端部にあたり、
いわゆる舌状台地を為してござれば、まさに築城好地と言えよう。台地部分の最高所は標高805m、対して
藤沢川・三峰川合流地点は724mなので、比高差80mほどを数える。この台地上を縦横に空堀で掘削し分断、
城の要諦を形成している。敷地の南側中心部に本丸、その北東側を半円状に覆いかぶさる形で二ノ丸、更に
三ノ丸と連なる梯郭式が基本形。これを見る限り、高遠城よりも後に築かれる諏訪原城(静岡県島田市)や
田中城(静岡県藤枝市)など、本丸を弧状の曲輪で取り囲む所謂“武田流築城術”の萌芽が垣間見える。本丸
南東側へは南郭が連なるが、これは馬出としての用法であろう。
南郭のさらに南東側には宝幢院郭が連結、本丸〜南郭〜宝幢院郭は連格式の構造。もともと、この曲輪の
位置には宝幢院という寺があり、それを移転させて造成した曲輪であった事から宝幢院郭と呼ばれるように
なったそうな。そして本丸の西側に密接するのが勘助曲輪。三峰川側の断崖を牽制する曲輪で、仮に川岸から
本丸へ直登する敵が居たとしても、ここで封じ込める役割を持つ。勘助曲輪と本丸の間は切岸で間仕切られる
程度だが、比高差は10m程度あり敵が一気に侵攻する事は不可能だ。そもそも高遠城内の堀はどれも深さが
10mほどの急峻なもの。起伏が連続する段丘は、攻め寄せる敵兵に疲労を強いる事になる。勘助曲輪という
名称も“最前衛は拙者が守る故、落とせまい”という山本勘助の自負あっての事か?隻眼の名軍師が縄張り
したという伝説、真偽の程は如何に??
城の敷地は東西およそ500m×南北およそ400m。この縄張りが基本的に維持され、明治維新まで踏襲されて
いる。中世城郭としては大規模だが、近世城郭では小さい位で、それでもそのまま使われたと言うのだから
優れた縄張りだったのだろう。
この城を拠点に、武田軍は伊那谷の南進政策も推進していく。天竜川の流れを下れば、その先には遠江や
三河の豊穣な大地が待っている。富国強兵を国是とする武田家としては、伊那谷の南征は必須でござった。
南征の進展に伴い、次第に高遠城は前線拠点から信濃中央部たる諏訪・伊那地方の統治城郭へと役割を
変えていく。これに関連して1562年(永禄5年)信玄の4男である諏訪四郎勝頼が城主に任じられ、伊那郡代と
なった。高遠城の縄張りについては、山本勘助ではなくこの時に武田家宿老・馬場美濃守信房が執り行ったと
する説もある。なお、勝頼の入城により秋山信友は更に前線となる飯田城(長野県飯田市)へと転進している。
勝頼は諏訪御料人こと諏訪頼重の娘(小説等では湖衣姫や由布姫と云われ、近年の研究では梅姫?かと)と
信玄の間に生まれた男子で、後に武田家を相続するがこの頃は諏訪家の正式な後嗣と位置付けられていた。
故に、諏訪・伊那の統率者として高遠城主に補されたのである。ちなみに諏訪御料人は早世したものの、その
母(つまり勝頼の祖母、諏訪頼重の側室)はこの当時まだ存命で、孫の勝頼を頼って高遠城に迎え入れられ
生活していたと言う。
ところが信玄の嫡男(長男)・義信は内訌の末に廃嫡、1567年(永禄10年)10月19日に自刃。そのため勝頼が
信玄の後嗣候補となり、1571年(元亀2年)2月に甲府へ召還された。よって、高遠城主の座には武田逍遥軒
信廉(のぶかど、信玄の3弟・勝頼の叔父)が就く。信玄の病没後、武田親族衆筆頭となった信廉は、流浪の
生活を送っていた信虎を高遠城に呼び寄せ面倒を見た。しかし信廉も、武田領の南拡に伴い高遠を後にし
伊那谷を転戦する。最終的に、高遠城を守ったのは1581年(天正9年)から城主となった仁科盛信であった。
五郎盛信は信玄の5男、すなわち勝頼の弟で、信州の名族・仁科氏を継承し武田家中の中心人物となっていた
武将。既に南から織田・徳川軍が武田領を侵食し武田家が斜陽を迎えていた頃の話でござる。伊那の統治
城郭であった筈の高遠城は、再び前線城郭として機能するようになっていた。
翌1582年(天正10年)2月1日、それまで武田に服属していた木曽の古豪・木曽義昌が反旗を翻した事で、
織田軍と武田軍は全面戦争に突入。義昌を取り込んだ織田信長は信州制圧の大軍を発し、一方で勝頼も
木曽討伐に軍を編成し2月2日に出陣する。ところが長年の武田支配に鬱屈(と織田軍への恐怖)を募らせて
いた信州諸豪族は、義昌と同調して不服従の道を選んだ。これにより勝頼は軍を出せなくなり、織田軍は
抵抗らしい抵抗も無いまま、信濃進軍を進めていく。2月25日には武田一門衆筆頭の穴山梅雪(ばいせつ)
までもが織田方へ寝返り、武田軍の組織的反撃は不可能となった。
そんな中、唯一籠城の構えを見せて織田軍を阻止せんとしたのが高遠城の盛信でござる。2月28日に勝頼が
居城の新府城(山梨県韮崎市)へ退去する一方、兄を、武田家を守る為に不退転の決意を固めた盛信は、
織田軍が降伏を勧めんと派遣した使者を追い返して高遠城を枕に討死する意思を表明。この時、盛信は
使者として訪れた僧の耳を削ぎ落とし、織田軍への徹底抗戦を示したと言う。これにより、高遠城攻略部隊の
長であった織田信忠(信長長男)は開戦を決断、城は3月2日早暁から織田軍の猛攻に晒された。
織田軍は3万とも5万とも言われる兵力であったのに対し、城方は3000。恐らく、敗色濃厚となった戦況を前に
逃亡兵も多かったであろうから、実質的にはもっと少ない籠城兵であっただろう。また、城内には婦女子も多く
残されていた。そんな状況下、盛信は必死の抵抗を続けた後、自害する。城内に残されていた者は男女の
別なく討ち果たされ、高遠城は1日で玉砕したのでござった。なお、この城攻めでは総大将である信忠自身も
最前線に立ち、城塀を打ち壊すなどしている。高遠城全滅の後、信忠軍は諏訪へ侵攻し放火狼藉を働き、
勝頼は新府城さえ捨てて逃亡を図ったが、3月11日に天目山の戦いで破れ自害。ここに甲斐源氏武田家の
嫡流は滅亡した。
落城後、高遠城は織田家臣の毛利秀頼に与えられた。ところが3ヵ月後の6月2日、本能寺の変で織田家の
政治体制は瓦解。信州は統治不能の大混乱に陥り、秀頼は城を捨てて郷里の尾張国へと逃亡する。高遠城は
下条頼安、あるいは木曽義昌が奪取を図ったと伝わるが、結局のところ信濃国のほぼ全域を徳川家康が領有
したため彼らは駆逐され、伊那衆の保科弾正忠正俊が城主となった。言うまでも無く正俊は武田旧臣。巧みな
用兵から「槍弾正」と称され、真田幸隆の「攻め弾正」・高坂昌信の「逃げ弾正」と並んで“武田の三弾正”に讃え
られていた武勇の人である。要するに武田家統治時代から高遠城に関わっていた訳だが、武田家の滅亡後は
家康に従うようになっていたのでござる。
1585年(天正13年)11月、小牧・長久手合戦に連動して松本城(長野県松本市)主・小笠原右近大夫貞慶
(さだよし)が家康陣営から離脱、豊臣秀吉の下へ奔る。高遠城は小笠原勢によって攻められるが、正俊はよく
守り、これを撃退した。
ところが戦国争乱は豊臣秀吉の手によって収められる。天下人となった秀吉は1590年(天正18年)家康に関東
移封を命じた。これにより保科氏は下総国多胡(千葉県香取郡多古町)1万石に移された。保科氏の退去した後
高遠城主は正式な記録に残されていないが、毛利河内守秀頼が10万石で飯田城に入っている事から、その
領地に含められたと推測されている。1593年(文禄2年)に彼が没すると、娘婿にして大津城(滋賀県大津市)主
京極若狭守高次(たかつぐ)の弟である京極丹後守高知(たかとも)が遺領の大半を相続、高遠城も京極家の
ものとなった。そして秀吉没後、1600年(慶長5年)に天下分け目の関ヶ原合戦が勃発。高次・高知兄弟は共に
東軍・徳川家康に属し戦功を挙げた。結果、京極氏は加増転封で丹後国(現在の京都府沿岸地域)へと移る。
そして新たな高遠城主となったのは保科越前守正直(まさなお)。正俊の子である。正直は1601年(慶長6年)9月
29日に高遠城内で病没したが、遺領2万5000石は嫡子・肥後守正光に相続された。この正光こそ、高遠藩祖と
される人物でござる。
武勇の家にして譜代大名たる保科家は幕府の信任厚く、徳川幕府草創期において多大なる貢献をし、大坂の
陣でも武威を轟かす。これに目をつけたのが2代将軍・徳川秀忠であった。秀忠は正室・お江与の方を遇した
恐妻家として知られるが、実はその目を盗み1611年(慶長16年)侍女に男子を産ませている。しかし嫉妬深い
お江与の方を憚り、幸松(こうまつ)と名付けられたこの子は隠し子とされ、賢女にして気概の人として知られる
見性院(けんしょういん)に預けられ養育されていた。誰あろう見性院とは武田家の数少ない生き残り、亡き
信玄の2女である。妾腹の子を嫉み、ともすれば命さえ奪いかねないお江与の追求を、彼女ならば跳ね除けると
見込まれての事であった。しかしそれも時間の問題、幸松の存在を隠しきれるものでもなかった。
そもそも幸松という名前自体、「いずれ幸いを待つ(松)」という由来のもので、秀忠にとって明かす事の出来ぬ
秘事であった事が如実に現れている。いよいよ切羽詰った見性院と秀忠は、幸松をお江与の目の届かない所へ
移すしかなくなり、保科正光に託したのである。当時、正光には実子が居なかった。また、旧武田遺臣つまり
見性院ゆかりの者として信の置ける人物であった事から、幸松を正光の養子とし江戸から遠い高遠城で養育
せんとしたのである。時に1617年(元和3年)の事であった。
実の父親から引き離され、しかも徳川の籍からも外された幸松であるが、これで難を逃れる事ができ、見性院と
正光によって立派に養育された。元服し正之と改名した幸松は、1631年(寛永8年)保科家の家督を継いで高遠
城主になる。不遇の少年時代を経た正之は、領民を慈しむ賢君となっており、後に3代将軍・家光に見出されて
その側近に取り立てられた。実兄・家光もまた父母の愛情から遠ざけられて育った経緯があり、同じ境遇を
分かち合った秘蔵の弟を事のほか重用したのである。才覚溢れる肥後守正之は、家光治世を見事に補佐し、
1636年(寛永13年)出羽国山形(山形県山形市)20万石へ加増転封、最終的には会津(福島県会津若松市)
23万石の太守に任じられる。江戸初期の4賢君に数えられた会津中将正之は、家光死後も徳川宗家を支え
続けた。明暦の大火で焼け落ちた江戸城(東京都千代田区)天守の再建を差し止め、民政復興を最優先とした
政策も正之の建策によるもの。武家政権の象徴である(しかも将軍居城の)天守を不要とし、それよりも江戸
町民の生活安定にこそ予算を配分すべきという論は、当時の武士としては常識外のものであっただろうが、
それに至る思考を巡らせたのは人目を忍ぶ生活をし弱者の思いを理解した正之ならではであろう。保科家は
御家門(将軍家一門)に列せられ松平姓を名乗る資格を与えられたが、正之自身は養父・正光が育ててくれた
恩を忘れず、生涯保科姓のままであったという逸話も、彼の篤実な人柄を顕していよう。
さて、正之の転封後に高遠城主となったのは徳川譜代家臣・鳥居主膳正忠春(ただはる)であった。正之と
入れ替わりで山形からの移封、石高は3万2000石。1663年(寛文3年)8月1日に忠春が没すると、嫡男(長男)
左京亮忠則(ただのり)が跡を継ぐ。鳥居氏の時代、高遠城は大手口を城の東側から西側へと変更している。
しかし忠春・忠則父子は揃って暗愚な暴君で、商人からの借金を踏み倒そうとしたり、領民から年貢の過酷な
収奪を行い続けた。何と、忠春の死因は恨みを買った末路の斬殺であったとも言う。遂に幕府から詮議される
事になった渦中、1689年(元禄2年)7月23日に忠則が急死。結果、家中不届につき鳥居家は改易され、高遠
城から追われる事になったのでござる。
しばらくこの地は天領(幕府直轄領)とされたが、1691年(元禄4年)2月9日に摂津国富田(大阪府富田林市)
3万3000石の大名であった内藤駿河守清長が移封される事が決定する。清長の入国は翌1692年(元禄5年)
9月21日になったが、それに先立つ12月1日、高遠藩士らに宛てた17ヶ条の条目と11ヶ条の覚書が発布されて
いる。幕府の検地で高遠の石高は3万9000石とされていたが、このうちの6000石は幕府公領とされたので、
内藤家に与えられた領地では財政難が継続。清長は新田開発を企画し収益の増加を図った名君であったが
一方で幕府の役務に伴う出費も嵩んでおり、なかなか増収には繋がらなかったようである。因みに、江戸郊外
甲州街道沿いに屋敷地を持っていた為、そこは内藤町(ないとうちょう)と呼ばれていたが、1699年(元禄12年)
新たな宿場町の開設に伴い敷地を提供、次第にこの宿は隆盛していく。これが内藤新宿、つまり現在の東京
新宿新都心成立のきっかけでござる。また、信濃国内では駒ヶ岳を横断する街道を開通させるなど、清長は
土木建設に先見の明がある俊才であった。
その清長が病に臥せり嫡子・伊賀守頼卿(よりのり)に家督を相続させる直前の1714年(正徳4年)罪を得た
大奥御年寄が江戸から高遠へと流されてくる。彼女の名は江島、7代将軍・家継の生母である月光院こと
お喜世の方の右腕として辣腕を振るった“大奥の最高権力者”であった。江島は同年1月12日、亡き前将軍
家宣の供養参詣で寛永寺・増上寺を訪れたが、帰城が遅れ門限を超過、江戸城から締め出される失態を
犯す。しかも寺参りの後、芝居小屋見物に耽っていた事が発覚、当時一世を風靡していた山村座の俳優
生島新五郎との密通が疑われた。本来、大奥の女性は将軍ただ1人に仕えるべき存在であるにも関わらず
他の男と通じたとあらば、不義不忠の極みである。特に、武家封建社会であった当時では、役者風情など
“河原者”として乞食同然に扱われた下賎の者。そんな男と、大奥の頂にある女が噂に立つなど言語道断の
非常事態と言えたのである。
これは江島を吊るし上げる事で月光院の権勢を払拭、江戸城中の支配権を回復しようとした一派の政治
工作であったが、いずれにせよ、風紀が乱れきった大奥の綱紀粛正を図り、見せしめとして江島を処罰する
必要があった。月光院の取り成しにより江島は罪一等を減じられ死罪は免れたものの流罪となり、4月1日に
高遠入り、幽閉されたのでござる。清長はこの直後、16日に病死し頼卿が家督相続した。道ならぬ恋に身を
やつし、悲劇の結末を迎えたという逸話に世の女性方は共感を覚えるようだが、引き取った高遠藩では対応に
苦慮、事ある毎に江島の処遇を幕府に問い合わせていたと言う。8代将軍・吉宗の代になり、江島は幽閉の
閑居から外に出る事は許されたが、それでも高遠城内のみ行動の自由を得ただけで、死ぬまで城外へ出る
事はなかった。一方、生島新五郎は八丈島へ遠島とされ現地で没したとも、老齢になり恩赦を受けて江戸へ
帰った所で亡くなったとも言う。
頼卿の後、高遠城主の座は大和守頼由(よりゆき)―伊賀守頼尚(よりたか)―大和守長好(ながよし)
大和守頼以(よりもち)―駿河守頼寧(よりやす)―若狭守頼直(よりなお)と続く。このうち、幕末期の藩主
頼寧は名君として知られ、藩内の殖産振興、西洋式兵制の導入、幕府への外交具申などを行った逸材。
1828年(文政11年)忠烈の士である仁科盛信を讃えるべく、高遠城内に“新城神”を祭り盛信を祭神として
いる。学識に富み高遠城下では文化も隆盛、隠居して頼直に藩主の座を譲った翌年の1860年(万延元年)
藩校・進徳館が開校し士卒の教育向上を目指している。進徳館は財政緊縮の為、三ノ丸にあった家老の
空き屋敷を用いたと伝わる。
最後の藩主となった頼直も幕末の混乱期を巧みに乗り切った賢主で、皇女和宮下向の役務負担、生麦事件
発生時の警備活動、それに戊辰戦争における新政府軍への貢献などを果たしている。後に明治の元老となる
西園寺公望(さいおんじきんもち)が奥羽戦線に従事した際、高遠藩兵がこれを良く援け、新政府から賞典金
2000両が授けられ申した。維新後の1869年(明治2年)頼直は版籍奉還により高遠知藩事に。しかし1871年
(明治4年)廃藩置県で職を解かれたのである。高遠城は廃城とされ、城内諸建築は解体・破却、植生していた
樹木でさえも競売にかけられ、城跡は荒廃を極め申した。
1875年(明治8年)城跡は公園として一般開放されたが、無情な荒地だった事を憂い翌1876年(明治9年)から
旧藩士らが桜の植樹を開始、年々木は増やされていった。これが桜の名所として知られる高遠城址公園の
由緒であり、桜の木は現在1500本を数える。1879年(明治12年)城内に残されていた新城神と、以前から
内藤氏が太祖・藤原鎌足を祭っていた藤原社を再編合祀し新城神社・藤原神社としてござる。そして1912年
(明治45年)本丸南隅に太鼓櫓が再建された。元来、本丸には天守代用の3重櫓(辰巳櫓)や御殿、それに
この太鼓櫓があり城下に時を告げていた。廃城によりこれらの建物が破却された為、太鼓は移され、城南に
ある白山の地で使われたが、1877年(明治10年)旧本丸に復された。高遠では藩政時代より夜明けから
日没迄の偶数時に太鼓を鳴らしていたが、変遷の後もこの制度は続けられ明治末年、櫓楼が建て直された
ものである。以後も1943年(昭和18年)まで時報の太鼓は鳴らされた。現在、使用されていた太鼓は二ノ丸
跡地内にある高遠閣(下記)2階で保存されている。
さてその高遠閣とは何ぞや、という話でござる。1933年(昭和8年)高遠町民有志は城址敷地を活用すべく
会館を建て、町民の公会堂や観光客の事務所とする構想を打ち出した。これにより建てられたのが高遠閣で
伊藤文四郎の設計。1936年(昭和11年)12月6日に完成。間口14間×奥行9間×棟高10間の木造2階建てで、
敷地面積790u。入母屋屋根は現在鉄板葺きとなっているが、当初は柿葺きの格調ある風格であった。この
高遠閣は2002年(平成14年)8月21日(9月3日公示)国の登録有形文化財になり、2003年(平成15年)から
2004年(平成16年)にかけて改修工事が行われ構造補強やバリアフリー化が図られた。この改修工事は
2004年10月11日に終了してござる。
その後の城跡であるが、城下にあった問屋門を太平洋戦争後の1948年(昭和23年)本丸虎口に移築(写真)。
問屋は幕藩体制下、街道の宿駅で往来事務を取り扱う役人が駐在した場所である。直接的に高遠城の遺構と
いう訳ではないが、高遠藩政に関わる建物であり、移築後半世紀を過ぎた今や高遠城の顔となっている。
1960年(昭和35年)2月11日には城跡のコヒガンザクラが長野県指定天然記念物になり、城跡そのものも同日
長野県史跡とされた上、1973年(昭和48年)5月26日には国指定史跡となってござる。建物こそ残らないが、
戦国期から踏襲された縄張りを残し、部分的に用いられていた石垣や土塁・堀が良く保全されているのが
その理由である。なお、進徳館舎は江戸時代から城内にそのまま残る藩校として稀有な存在であるとして
(旧態を失ってはいるものの)併せて国史跡の内容に含まれた。さらに2006年(平成18年)4月6日、財団法人
日本城郭協会による日本百名城の一つに数えられ申した。正直、他の百名城に比べると遺構の残り具合や
規模が弱いような気がするものの(確かに名城ではあるのだが)、やはり“桜の城跡”の知名度は全国区…と
いう事なのだろうか?
本丸門・本丸冠木門・二ノ丸門・搦手門は城下町に移築保全されている。大手門も数度の移築を経て、城内
敷地に展示保存。この大手門は長野県立高遠高校の正門として使われていた。進徳館は改変を受けている
ものの、当時のままの位置に残されている。
兎にも角にも、桜の名所としての認知度は抜群。開花の季節になると入城は有料になるが、それ以外の時季は
自由に出入可能である。かつての勘助曲輪から三ノ丸西部にかけて遺構が潰されてしまっているのが残念で
あるが、そこが広大な駐車場になっているので車での来訪は非常にし易くなってござる。
城地の山容を評して兜山城(兜城)、甲山城の別名も。


現存する遺構

藩校進徳館舎・堀・石垣・土塁・郭群
城域内(含進徳館舎)は国指定史跡

移築された遺構として
大手門・本丸門・本丸冠木門・二ノ丸門・搦手門








信濃国 一夜の城

一夜の城跡 土塁

所在地:長野県伊那市富県

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★☆■■■
公園整備度:☆■■■■



「一夜の城」は「いちやのじょう」と読む。名前からして分かるように、所謂“一夜城伝説”の残る城である。
この城がその名を轟かすのは上記の高遠城が1582年に織田軍から攻められた時の事。織田信長について著す
史書「信長公記(しんちょうこうき)」の中で、3月1日に織田信忠が天竜川を渡り「かいぬま原」に陣を敷いたと
書かれている。この「かいぬま原(貝沼原)」の陣城と言うのが一夜の城の事とされてござれば、高遠落城の
前日、信忠が一夜の宿としたのが「一夜の城」と言う名の由来と推測できよう。通説ではこの経緯から、当城は
信忠の陣所として急造され、まさしく一夜にして作られた城と言われてきた。一夜城と言えば木下藤吉郎による
墨俣一夜城(岐阜県大垣市)や、藤吉郎あらため豊臣秀吉の石垣山一夜城(神奈川県小田原市)が有名だが、
墨俣は数日、石垣山は80日ほどをかけて完成させたのが実際の話なので、むしろ信忠の貝沼原城こそが真実の
一夜城と推測されてきたのである。この説を際立たせたのが1901年(明治34年)刊行の「南信伊那史料」なる本で
この書物で初めて「一夜の城」の名が用いられた。それまでは特段の城名はなく、1875年(明治8年)当地に貝沼
学校(現在の伊那市立富県(とみがた)小学校の前身)を建築する際にも、筑摩県に提出された「学校敷地願」の
中で現地の説明を「延引坊城址」と記載している。この城跡には延引坊という寺が建てられていた事からの仮称と
言う感じでござろう。
信忠は翌2日に高遠城への総攻撃を敢行、同日中に落城させてその日は高遠城内に仮泊。更に3月3日になると
杖突峠を越えて諏訪へと転進している。即ち、臨時構築の陣城である一夜の城はその日限りのものであった。
この後、上記の通り寺地になったり学校用地となったりしたが、昭和以降は畑として内部が開削された。現在は
敷地の四周に僅かながら土塁が残るのみでござる。このうち、東面土塁(写真)は農業道路に面しているものの
その道路は道幅3m程の非常に細い道で、現地住民の方々にとっては使いづらい生活道路となっている。この為
城跡の遺構である土塁を切り崩して道路拡幅を行う計画が浮上。すわ、高遠城攻防戦に関わる貴重な遺跡が
滅失する危機かと城郭愛好家からは悲鳴が上がった一方、道路工事に先立って2017年(平成29年)発掘調査が
執り行われた。その結果、土塁の外側(現状で道路になっている部分)一帯から大掛かりな堀の痕跡が検出され
その深さは2.6m、幅6mにも及ぶ本格的なものであった。堀底はU字形になっている“毛抜堀”のように見えるが
実は昭和の開墾によって改変されたもので、堀底の最奥部は更に深く掘り込まれた状態になっているため、
本来はV字形断面の“薬研堀”だったと推測されている。また、出土した遺物は中世の天目茶碗や古瀬戸の
四耳壺、内耳土器などで、これらは詳細不明ながら少なくとも16世紀以前の物と推定され申した。となると、
信忠が陣城を構築するより遥かに前のものと言う計算になり、しかも一夜限りの陣城としては大掛かり過ぎる
構造物という事でもある。恐らくここには在地豪族の居館があり、それを信忠が接収して陣所としたと云うのが
実際の所なのであろう。さすれば、この城も「一夜城」としての成立ではない事になるのだが、しかし信忠が
「一夜限りの在城」という事実は変わらないので、そういう意味での「一夜の城」と考えれば良いのだろう。
城地は伊那市の富県、宮花八幡神社から東へ150mの地点。約50m四方を敷地とする方形館の構造を成す
場所で、先に記したように四周を囲み土塁が残存。このうち東面の中央部に土塁の切れ目があり、ここが
敷地入口の虎口になっていたと推測できる。その虎口には土留めの石垣が埋め込まれているが、これは
昭和の開拓時に改変された構造物なので、旧来の城館に石垣は存在していない。敷地内は現状でも畑地
つまり私有地で、近隣には住宅が建ち並ぶ場所でもあるため見学時には配慮されたい。
なお、危惧された道路拡幅は2019年(平成31年)3月の時点では未だに行われてござらぬ。


現存する遺構

土塁・郭








信濃国 黒河内城

黒河内城跡 土塁

所在地:長野県伊那市富県

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★★■■■
公園整備度:☆■■■■


現存する遺構

土塁・郭群




信濃国 
貝沼古城

貝沼古城跡 土塁

所在地:長野県伊那市富県

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:☆■■■■


現存する遺構

土塁・郭群




信濃国 
貝沼池田城

貝沼池田城跡

所在地:長野県伊那市富県

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:☆■■■■


現存する遺構

土塁・郭群




信濃国 
貝沼荒城

貝沼荒城跡

所在地:長野県伊那市富県

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:☆■■■■


現存する遺構

土塁・郭群



上記「一夜の城」の所在地である貝沼原(伊那市富県一帯)には、俗に「貝沼七城」と呼ばれる在地豪族の城館が
密集所在してござる。これらの城館は詳しい経緯が不明で、あるいは織田信忠の駐屯時に織田の大軍が各所に
野営した陣所であるとも考えられている。その真偽は分からないが、以下にいくつかの城を列記する。
まず黒河内城(くろごうちのじょう)は、一夜の城から北東に180m、長野県道209号線に面した「上組」バス停の
脇にある土堤(写真)が城館土塁の名残だ。一夜の城が三峰川の河岸段丘上の平地に所在しているのに対し、
こちらの城はその河岸段丘の段丘崖に接していて、城としての防御性は高い。土塁は南東側を欠落するものの
台形をした敷地の四周を囲んでいて、東西方向におよそ60m、西面が30m・東面が50mほどの大きさを有しており
この土塁を見るだけでなかなかに迫力がある。東面土塁の横には現在、細い道路が通じているが、恐らくこれは
当時の堀跡を転用した作りでござろう。ただ、敷地内は一般民家なので立ち入りは憚られる。
続いて古城(こじょう)と池田城(いけだんじょう)であるが、こちらは一夜の城から南東側に位置し、大門集会所の
真南100m付近の区画が古城、その東隣の区画が池田城となっている。いずれも土塁で囲繞され密接した敷地は
さながら1つの城の主郭と副郭が並び建つようでござる。要するに、在郷武士の居館それぞれが1つ1つの城館と
なって成立していたと云う事なのであろう。写真は各城の北西隅を写したものだが、池田城の写真にある右隅の
部分は既に古城の区画となっている。こちらの2城も敷地内は一般民家なので立ち入りは出来ない。傾斜地に
面した土塁・切岸を外側から見るのみだが、これらの土塁は結構分厚く、存在感がある。
最後に荒(あら)城であるが、古城の西側区画あたりと推測される。要するに、荒城〜古城〜池田城が並立し
まさに“連郭式城郭”であるような様相を見せている。こちらも傾斜地の法面が当時の切岸であったと(写真)
想像できるのだが、それ以外には明確な遺構が無くあまり良く分からないのが実情。その反面、来歴としては
埋橋弥次郎・埋橋彦介なる者らが城主だったとも伝わるのが、多少なりとも他の城より抜きん出ている点か?




春日城・殿島城  箕輪町内諸城郭