信濃国 春日城

春日城本丸址

所在地:長野県長野県伊那市西町

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★☆■■
公園整備度:★★■■■



天文年間(1532年〜1555年)の築城と伝わる。平家一党・粟田口民部重吉の16代後裔
伊那部(春日)大和守重慶が城主。伊那部は在郷名から採った姓で、本姓は春日でござる。
よってこの城の名は春日城(春日丘城)であるが、別称で伊那部城とも言う。
重慶は300貫文を領し10騎を従える将でござったが、次第に勢力を拡大。重慶の後、
子の但馬守重成が継ぎ、さらにその長子・左衛門尉重親へ代を重ねた。重成の次子
(重親の弟)新左衛門重国は殿島へ進出し殿島城(下記)主となっている。武田晴信(信玄)が
本拠地の甲斐から信濃へと攻略の手を伸ばしてきたのはこの頃でござる。最初に諏訪を
切り取った晴信は、北上し信濃守護・小笠原氏との対決を深める一方、伊那方面へも
兵を進め、高遠城主・高遠頼継と戦う。伊那の諸豪族も高遠に与し、武田軍と対陣。
小笠原氏もこれと連携する構えを見せている。1545年(天文14年)武田軍は藤沢氏の
福与城(長野県上伊那郡市箕輪町)を攻めんとしたが、これに対し小笠原氏が藤沢氏
支援に回り、軍勢を春日城に入れ武田軍と睨みあったと言う。藤沢氏は高遠頼継と
行動を共にしていた。武田軍は同時期に高遠城も攻略している。
然るにその結果、反武田連合は散々に蹴散らされ高遠城は落城。小笠原軍も活躍の場を
得ることなく撤収。伊那衆は武田方への服属を余儀なくされた。春日氏一門もまた、
この時に服従したと見られる。しかし去就定まらぬのが信濃国人の常、事あるごとに
武田家への反乱を企てるのも茶飯事であった。武田軍主力が第2次川中島合戦で北上、
越後長尾家(上杉家)の軍勢と長期対陣している隙を狙い、重親・重国兄弟をはじめ
伊那衆が反旗を翻している。ところが長尾家との和議が成立、武田軍が引き返してくるや
瞬く間に伊那は平定されてしまう。1556年(弘治2年)、重親・重国兄弟ら反乱の首謀者
8名は晴信に誅殺された。春日城にある案内板によれば、この時の粛清を受けた者の中に
春日河内守の名もあり重親の子であろうと記載している。となると、重親は親子揃って
処刑された事になろう。この事件の後、春日城は高遠城の支城と位置付けられ武田家の
支配下に置かれるようになり申した。後年、春日城主には春日河内守昌吉が就いたと言う。
時は下って1582年(天正10年)斜陽の武田家は織田信長の軍勢に攻め立てられるように
なっていた。この年の2月、織田軍の信濃侵攻が本格的に行われ信濃諸郡は続々と
織田家の手に落ちていく。そんな中、果敢な抵抗を目論んだのが仁科盛信が守る
高遠城であった。春日昌吉は手勢を引き連れて高遠城に籠城、虎口の守備に就いたと
されるが、織田軍の猛攻に晒されて落城。昌吉一党は討死し、直後に春日城も
織田軍の攻略により落城焼失した。これで廃城となり、以後は農耕地と化した。
城は天竜川の浸食によりできた河岸段丘上に築かれている。大きく見て東側に
天竜川、城地の北と南もそれぞれ渓谷となっている。要するに、西側の山地から
突き出した舌状台地を利用したもので、伊那地方に良く見受けられる形式の城だ。
舌状台地の最先端、南東隅の一角が本郭で、その西〜北を「『」の形で覆うように
二郭が繋がる。その二郭の北西側が三郭で、各曲輪間は深さ10mに達する急峻な空堀で
区画されていた。曲輪の縁部分は土塁を構え、特に三郭の西側外縁部(城外との境)は
舌状台地を完全に横断する長大な堀と土塁で分断していたようである。
近代になり、城地は公共施設が建ち並ぶようになる。三郭の位置にNHKのラジオ中継局が
置かれ、その西側(城外部分ではあるが)には長野県伊那文化会館。こうした施設が
ある為、三郭部分は整地されてしまっているが、建設以前からこの部分は風化で
埋もれてしまっていたようである。その反面、二郭と本郭部分は春日公園として
整備され、空堀・土塁の良好な遺構が綺麗に残されてござる。公園敷地は14.3ha、
1950年(昭和25年)地元の西町区が主体となり開設され、事業を市が引き継いだ後の
1964年(昭和39年)には都市計画公園として計画決定され申した。園内には
躑躅の木が2万本、桜の木が染井吉野150本+緋寒桜50本の計200本植えられ、
伊那市内では高遠城址公園に次ぐ花の名所となってござる。何より、台地上に
開けた城址であるためここから眺める伊那谷・南アルプス連峰の光景は壮観。
文化施設が密集している場所なので、駐車場も存分に用意されている。
児童遊具などが置いてあるのはご愛嬌…と言った所だが、城郭愛好家としては
縦横に掘り込まれた見事な空堀を見るために是非訪れるべき城跡と言えよう。


現存する遺構

堀・土塁・郭群等








信濃国 殿島城

殿島城跡 模擬櫓門と空堀

所在地:長野県伊那市東春近

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★☆■■
公園整備度:★☆■■■



伊那市役所から南へ2.6km、長野県道209号線と同488号線が交差する中殿島信号付近に
あった城。春近神社・護国寺の裏手にある小高い崖上を利用した平山城でござる。
上記春日城の項を見て分かるとおり、春日城の支城として機能した城と考えられるが
春日城が天竜川西岸に位置するのに対し、殿島(とのしま)城は東岸に所在し、さながら
2つの城で大河を挟み込んでいるように見える。天竜川水運は伊那街道・遠州街道の
陸上経路と並ぶ移動・流通経路であるため、こうした支城網が必要だったのだろう。
春日城とは東西逆、西側が段丘にせり出した立地になっており、東西100m×南北150m
長方形をした本郭からは西への眺望が開ける。この本郭は3重の空堀で囲まれており
春日城や高遠城をはじめとする伊那地方の段丘利用城郭が深い空堀で大きく曲輪を
分断する形状になっているのとは異なる形態。3重空堀の南側にはやや広めの
二ノ丸があり、周辺部を土塁や(部分的な)石垣で固めていた。城の周辺部は沼地、
北方には御射山(みささやま)を挟んで物見城があったが、防御構造としては
それだけのもので、いわゆる“舌状台地”利用の城郭とは異質なもの。ともあれ、
この3重空堀の様態は必見であろう。信州の城でこのような構造になっている城は
極めて珍しい。しかもこの堀、条ごとに深さが異なっていて、堀間の塁壁を併せると
俗に言う“比高二重土塁”のようである(3重なので比高三重土塁と言うべきか?)。
比高二重土塁と言えば、小田原後北条氏の得意とする技法…という認識があるが
信州の城でそれは在り得ず(だから“後北条流”という単語が禁句になるのだがw)
実に謎めいている。二ノ丸以遠は宅地化され遺構が残らないが、3重空堀と本郭部分は
1988年(昭和63年)から伊那市の都市公園として整備保存されてござる。小さいが駐車場もあり
道にさえ迷わなければ(西から直登不可、いったん東へ回り込み宅地を抜けてくる)
来訪しやすい城郭。本丸虎口には城門が建てられているが、これは模擬門だ(写真)。
城の歴史を紐解けば、春日城主・春日重親の弟である新左衛門重国がこの城に入り
殿島(とのじま)大和守と称した事を起源とする説が主流だ。これは戦国中期、天文年間の
事で、殿島重国の所領は1500石程度あったと言う。しかし室町初期の1400年(応永7年)
信濃国内で起きた大乱「大塔合戦」に“殿島”を名乗る武将が居たとされ、殿島城の
発掘調査でも創建は南北朝期にまで遡るとする結果が出た。当城の本郭が
方形であるのも、この時代の方形城館形態を踏襲したからではなかろうか?
殿島城の旧名を本城と呼ぶが、これも古くからの伝統がある故の名称か。
よって、重国は旧来の殿島氏の名跡を継承したと考えるべきであろう。
いずれにせよ、殿島氏は宗家・春日氏と運命を共にしている。先述の通り、1556年7月
伊那衆は武田信玄に反旗を翻すが鎮圧され、重国らは狐島(きつねじま)の
蓮台場で斬首(磔刑とも)された。後、黒河内(くろこうち、旧長谷村の地名)に
処刑された8人が葬られ“八人塚”と呼ばれ申した。殿島城についてはその後の
記録がなく、破却されたとも、高遠城・春日城の支城として武田軍が用いたが
武田氏滅亡により廃城になったとも考えられている。


現存する遺構

堀・土塁・郭群




松本市内諸城館  高遠城・一夜の城・貝沼城館群