信濃国 犬甘城

犬甘城址 堀切と曲輪列

所在地:長野県松本市大字蟻ケ崎・宮渕

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★☆■■
公園整備度:★★■■■



「いぬかいじょう」と読む。松本市街地北西を塞ぐように北から南へ一本筋で延びる山塊尾根を
利用した山城。この山の麓には放光寺なる寺があった事から、別名は放光寺城。城の創建は不明。
戦国期、在地土豪の犬甘氏が在城していた事により犬甘氏が当地に入った鎌倉時代中期、或いは
室町初期の正平年間(1346年〜1370年)頃に作られたとする説もあるが確証は何もない。ともあれ
戦国時代になると犬甘氏は信濃守護・小笠原氏に従うようになっていた。その頃の松本周辺は、
小笠原氏の本城である林城が松本盆地東端を塞ぐ険峻な山の上に在り、林城の支城である桐原城
埴原(はいばら)城・山家城などが周囲の山々に陣取り、さらに井川城・深志(ふかし)城が
平野部の押さえとして構えられていた(いずれも松本市内に所在する城郭群)。犬甘城はこれら
林城支城群の中で最西端、松本盆地の西の防壁として機能し、遡れば室町初期に小笠原氏が信濃
守護に任じられ領国入りし国人衆を平定しようとした頃の放光寺合戦でも用いられていた経歴がある。
放光寺合戦は仁科氏・村上氏・須田氏など信濃西街道(松本から白馬・大町・北信濃方面へ通じる
主要街道)沿いに南下してくる敵との戦いだった為、この道の直上にあり往来を掌握できる犬甘城が
戦場になったのだろう。
ところが戦国中期になると、信濃国は南の甲斐武田氏から侵食を受けるようになっていく。強大な
武田信玄の軍事力により小笠原氏は防戦一方となり遂に1550年(天文19年)7月、武田軍は
松本盆地へと侵入したのでござる。この月の15日に埴原城が落とされた事を契機として、林城と
その支城群は一気に落城または自落する。そんな中で唯一残されたのがここ犬甘城であった。
主君である小笠原長時は既に逃亡、平瀬城(同じく松本市内)を経て村上氏の葛尾城(長野県
埴科郡坂城町)へと落ち延びたが、犬甘城主・犬甘大炊助政徳は城に踏み止まったのでござる。
ところがこの後、犬甘城は思わぬ誤算で落城する。ある夜、武田軍随一の猛将にして松本城代を
任せられていた馬場美濃守信房が月明かりを頼りに20騎ほどを引き連れて斥候に出た。この
一群に僅かな供を連れた騎馬武者が近づいてくる。何とそれは政徳だったのである。政徳は
信房の軍勢を村上軍の援軍と勘違いし、出迎えたつもりであったのだ。戦巧者である信房は、
城主不在をその目で確認するや即座に軍を差し向け犬甘城を一夜のうちに平らげたのでござる。
一方、不覚にも敵味方を間違えた政徳は信房の追撃を振り切るのが精一杯で、城に戻る事も
出来ず遁走。犬甘氏は小笠原氏に従い落ち延び、後に越後上杉氏の庇護を受けたが、江戸期には
徳川譜代大名として復帰した小笠原氏の家老になっている。そして犬甘城は武田軍の攻略後、
用いられなくなったようだ。
徳川氏が政権を掌握した後、江戸幕府は一国一城令ならびに山城禁止令を出し、全国の城は
城主格以上の格式を持つ大名の居城のみに制限される事となった。松本藩も、当然ながら
領内にある松本城以外の城はすべて破却するようになり、既に廃城となっていた犬甘城は、
御留山として入山が禁止される事となる。しかし時代が下り天下泰平の気風が広く流布すると、
もはや山城の危険性はなくなり、江戸時代後期の1843年(天保14年)松本藩主・戸田(松平)
光庸(みつつね)は藩の管理下にあったこの山を民衆に開放、桜・楓などを植えて君臣遊楽の
地とした。この植樹工事には地元の成相組や岡田組・庄内組・島立組・山家組の百姓が動員され
春は花見、秋は月見の場所として領民皆で風雅を楽しんだのである。
実は犬甘城山からは松本城の内部が丸見えになる。藩主の居城が覗き見できる地を公園として
一般開放するとは、戦国争乱すでに遠き昔という暢気さと言えよう。
ところがそれから30年を経ずして明治維新の動乱が到来、武家の世の中は終焉を迎えたのである。
松本藩領は筑摩県となり新政府による改革が断行される中、改めて犬甘城山は1872年(明治5年)の
筑摩布達153号に基づき、1875年(明治8年)太政官布達公園“筑摩県立公園第1号”とされ申した。
松本最初の公共公園となった犬甘城山は、筑摩県の併合により長野県立公園に改称。さらに後は
城山公園として整備されるに至り、1892年(明治25年)には当時の東筑摩郡松本町が管理する
ようになる。松本町は1907年(明治40年)5月1日に市制を施行、市有地となった事で城山は
公共施設の設置場所としても利用されるようになる。山の中腹には松本市営水道の配水地
(城山配水地)が置かれる事になり、この施設は1923年(大正12年)9月の市営水道供用開始から
現在に至るまで稼動してござる。同様に山麓にも1963年(昭和38年)3月と1964年(昭和39年)
3月に配水地が作られ(蟻ヶ崎配水地)、1986年(昭和61年)3月にも増設された。
つくづく、この山は松本の市民生活に密着した山なのでござる。
さて城の縄張りであるが、一列に連なる山塊尾根に従い、北端の最高所を主郭(T郭)とし
南に向かってT〜Yの曲輪列を並べた連郭式の縄張り。尾根を数箇所の堀切で分断し曲輪とした
単純な構造であるが、堀切の削り込みは深く、現在に至るも綺麗に残る。また、山列の西には
奈良井川が並行して流れている為、城の西側斜面は川へと落ちる断崖絶壁。ここに堀切から
落ち込む竪堀までもが用意されているので、西側の守りは鉄壁と言っても良いだろう。ところが
曲輪列の東側は完全な平場としか思えない程のなだらかな緩斜面になっている。現在、その場所が
城山公園の広場として開放されている訳だが、公園整備による改変があったにせよこの緩やかさは
とても山城の守りとして使えないような不自然さだ。曲輪の直近には横堀が掘られていた形跡が
あるものの、それだけで防備できるようなものではなく、むしろ敵の軍勢が大挙して押し寄せるに
格好の位置と言える。これが本当に戦国期の山城なのか?と疑問に思ってしまう程。放光寺合戦の
折は戦闘正面が西側だったであろうからまだ良いが、武田軍相手では東側が敵の侵攻路となる訳で
城主・犬甘政徳の勘違いが有ろうと無かろうと、落城する運命だったのかもしれない。
ともあれ、城跡からの眺望は抜群。主郭となっている山塊最高所の標高は672m、最下段にあたる
南端のY郭でも662m。奈良井川河畔の標高が580mだから、比高差は100m近くに達する。さらに
この山塊は北の鳥居山(標高743m)、その先に上ノ山(標高841m)へと続く為、南から攻められても
平瀬城(鳥居山・上ノ山の中間)・光城(上ノ山のさらに北)へと脱出する事が可能でござる。実際、
林城を脱した小笠原長時はこの経路で越後方面へと落ち延びている。これら山塊群最南端にある犬甘城
特に南端のY郭からの見晴らしは最高だ。現在ここには展望台が建っており、そこから眺めれば
西に安曇野盆地の大平原、東に美ヶ原の山並み、そして南には松本市街地の大景観が広がり、実に
感動的な風景を目にする事ができ申す。もちろん、松本城の勇姿が手に取るように眺められるのは
言わずもがな。犬甘城は、犬甘城自体を見るよりも松本城を見る為に行くべきかもしれない(笑)
公園となっているため、駐車場も完備。車さえあれば楽に登城できる。
なお(完全な)余談でござるが、松本が町から市になった1907年5月1日の午前8時に祝賀の花火を
打ち上げ、記念式典を行ったのがここ城山公園でござった。つくづく、この山は松本の市民生活に
(以下略w)。
それにしても、そこそこ遺構が残っている城跡なのに(国史跡・県史跡とは言わないまでも)
市史跡にすらなっていないのは何故だろう?


現存する遺構

堀・土塁・郭群








信濃国 小屋城

小屋城跡の説明板

所在地:長野県松本市小屋南

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:☆■■■■



小屋館とも。別名で村井城(むらいのじょう)。JR篠ノ井線村井駅の北西300mほどの位置にあったとされる
城館跡。曹洞宗大淵山泉龍寺の前を南北に走る道があり、その道路沿いに説明板が置かれ、そこには
所在地「松本市大字芳川小屋」と記されているものの、現在の住居表示では小屋南1丁目となる。
(泉龍寺山門前から北に100mちょっとの位置にこの写真の説明板が立つ)
1724年(享保9年)に編纂された「松本古城記」には小屋村屋敷構と記録され、平安末期の武将・手塚太郎
光盛(てづかみつもり)の館とされてござる。光盛は朝日将軍こと木曽義仲の配下として有名を馳せた
名将であるが、彼の出自は諏訪地方であり、更に近年の研究では上田市の可能性もあると再考されるので
小屋城が光盛の館というのは確証がない。“村井城”の別称から分かるように、この城の主は現地の豪族
村井氏と推測するのが正しいようで、この城館を平時の居館とし埴原城を詰城に用いていた。と言うか
むしろ埴原(旧:東筑摩郡中山村埴原)が村井氏の出身地であり、そこから平野部の小屋へ進出したのが
歴史的な流れである。平安時代、官牧(軍馬などを供給する朝廷管理の牧場)の埴原牧を統括した牧人が
村井氏(埴原氏)で、後に勢力を広げ鎌倉時代から室町時代にかけて現在の松本市南部〜塩尻市北部
一帯を支配地とした豪族でござった。
戦国期、村井氏は信濃守護である小笠原氏に従ったが、それは甲斐の武田家からの脅威に晒される事へ
直結した。小笠原軍はこの城を信濃府中(松本)の防衛拠点に据えて戦いに備えたが、1548年(天文17年)
7月19日早朝に行われた塩尻峠の戦いで小笠原方は大敗を喫し、村井氏は滅亡。同年9月にかけて
小笠原軍の防衛戦線は縮小を続け、10月になるといよいよ武田軍が筑摩郡に入って来る。武田晴信は
小屋城を接収、10月2日に改修工事の鍬立式を執り行っている。武田軍はここを拠点として信濃府中への
侵攻作戦を展開、小笠原方の切り崩しを進めていった。1550年7月10日に晴信がこの城へ入り、13日に
近隣の熊井城、15日にはイヌイの城(埴原城の事か?)を次々と落城させてござる。このような連続落城に
守護・小笠原長時は恐れをなし、その本拠である林城を捨てて逃亡してしまった。よって同月19日に
晴信は深志城へ入城。深志城は松本城として再整備され、筑摩郡の首府としての体裁を整えていったが
一方で小屋城は存在価値を失い、松本から安曇郡への中継拠点に使われた後、廃城となったようだ。
現状、城跡は全くの住宅地になっており遺構らしきものは何もない。見学と言っても、この案内板を
見るだけの事になるので近隣住民の御迷惑にならぬよう御気を付けあれ。







信濃国 井川城

井川城跡

所在地:長野県松本市井川城

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★☆■■■
公園整備度:☆■■■■



読み方は「いがわ(濁音になる)」城。井川館とも。所在地はそのものズバリ、松本市井川城1丁目。
室町時代初期、信濃守護に任命された小笠原氏が守護所として用いた城館でござる。
鎌倉幕府に仕えていた小笠原右馬助貞宗は、倒幕の機運に伴って足利尊氏へ味方。1334年(建武元年)
信濃国守護と任命された。後に南北朝が対立するようになると北朝(足利方)に与し、その勲功として
1335年(建武2年)信濃国安曇郡住吉荘を与えられた。この住吉荘というのは元来、長講堂領つまり
京都府京都市下京区にある長講堂の所領であり、即ち皇室領荘園であったものだ。従前、貞宗の
本拠は伊那郡の松尾館(長野県飯田市)であったが、こうした勢力拡大により松本平に進出し
新たな拠点として築いたのが井川城であると言われる。南朝方から派遣される信濃国司に対し
自らの権益を守る必要から、井川城は整備拡張され使用されたと推測されてござる。しかし一方で
「小笠原系図」に拠れば貞宗の嫡子・信濃守政長は1319年(元応元年)7月11日にこの城で誕生したと
言われており、それが事実であれば既に鎌倉時代後期の時点で小笠原氏の城館が築かれていた
事になる。詰まる所、井川城の創建が何時なのかは不明なのである。廃城時期もまた不明で、
1459年(長禄元年)に小笠原大膳大夫清宗(貞宗の6代後裔)が新たな本拠として林城を築く迄は
用いられていたようだが、その後の動向は分からない。林城の支城として存続したとする説もあるが
いずれにせよ後世には用いられなくなっている。
城の所在地は松本駅の真南、およそ900mの位置。駅近物件であるが、とても松本市街地の直近とは
思えない程に“田舎感”溢れた雰囲気で、写真にある通り田圃の中に塚が盛り上がっているのが
城跡として唯一の痕跡となっている。ここは薄(すすき)川と田川が合流する地点のすぐ南側で、この
2河川が城の北側を二重に塞ぐ天然の濠を成す地形。一方、城地の西側は南から北へと穴田川が、
更にその支流である頭無(ずなし)川が城の南側に流れ、四方が川に囲まれている上に一帯は
湧水が豊富な場所。この頭無川という小河川は城跡をぐるりと回り込んで流れており、まるで濠として
使われる為に存在しているかのような流路だ。「井川」という地名も、井戸(湧水)や川が余りある
様子から付けられたものだと言う。
さて、写真の塚(土盛り?)は主郭の隅にあった櫓台と伝承されている。周囲が田圃であるため、
まるで浮島のようになっている櫓台だ。しかしそうなると、肝心の主郭(曲輪)はどこなのか?と
理解に苦しむ様態でもある。大概、城跡のこういう地形は濠が田圃に変化して…という具合なのだが
それならば小さく孤立する櫓台だけが残るのは何故?曲輪の痕跡は何処??と悩む訳だ。逆に、
この田圃が曲輪を水没させて造成されたものだとすれば、往時の曲輪は跡形もないという事に???
どっちにせよ見た目に分かる遺構は殆ど無い井川城でござるが、地域に残る小字名には「古城」や
「中小屋」など館の縄張に由来するであろうものや、「下の丁」「中の丁」と役所の存在を示すもの、
「中道」という城下町割りの名残と考えられるものもある。加えて、松本市教育委員会が行った発掘
調査に拠れば主郭跡から礎石建物群の痕跡が検出されており、この城が信濃守護所に相応しい
壮大な規模と格式を備えていた事が確認された。松本市は1967年(昭和42年)2月1日、この城跡を
市の特別史跡に指定していたが、林城と合わせ2017年(平成29年)2月9日「小笠原氏城跡」として
国の史跡になっている。


現存する遺構

土塁
城域内は国指定史跡








信濃国 荒井城

荒井城跡と伝わる土塚

所在地:長野県松本市島立字荒井

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:☆■■■■



荒井館、清水ヶ城(清水城)とも。松本電鉄上高地線の信濃荒井駅から北北東に200m程の位置、国道
158号線(野麦街道)の「東荒井」交差点を南側に入った路地周辺が城跡とされる。奈良井川の西岸、
現在は住宅地となっている場所で、往時を偲ぶものは写真にある土塚だけ。滴水館道場という柔道場の
向いにあるこの土塚は、伝承では荒井城の土塁遺構と言うが果たして?ちょっと信憑性に欠けるように
思えるが、その上に鎮座する熊野社の小さな祠はもしかしたら城内鎮守の名残なのかもしれない。
城の創建時期は不明。現地の案内板によれば、小笠原氏の松本進出に伴って築かれた支城の一つで
南北朝時代〜室町時代のものと推測される。一方で1430年(永享2年)に島立貞時が、或いは戦国期に
入ってからの1489年(延徳元年)島立右近貞永が創建との説もありよく分からない。いずれにせよ
島立貞永がこの城に居たのは間違いないようだ。島立氏は小笠原氏庶流の家柄、宗家に従った家臣で
誰あろう貞永という人物は深志城つまり松本城の築城者でござる。永正年間(1504年〜1520年)に
貞永は深志城を構築しそちらへ居を移したようだが、彼の孫・貞知が1523年(大永3年)再び島立氏の
居城として用いるようになったと言う。地名にある「島立」が島立氏との関係を物語っていよう。
そして1550年7月の武田軍松本侵攻により落城。以後の歴史は詳らかでない。


現存する遺構

土塁







信濃国 百瀬陣屋

百瀬陣屋跡 薬医門

所在地:長野県松本市寿豊丘

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:☆■■■■



1671年(寛文11年)頃の創建と言われる諏訪高島藩(長野県諏訪市)分家・旗本諏訪家の采地陣屋。
高島藩諏訪家2代当主・出雲守忠恒(ただつね)は1657年(明暦3年)9月28日に没する折、遺言として
残したのが、長男・因幡守忠晴(ただはる)に家督を相続させるも、2男・下総守頼蔭(よりかげ)と
3男・対馬守頼久(よりひさ)にそれぞれ1000石を分知するというものであった。この為、当時の
高島藩領3万2000石のうち、筑摩郡5000石の中から埴原1000石を頼蔭に、内田1000石を頼久に
分けた。よって、高島藩から独立した両名は寄合旗本として立家する。
頼久の知行分は創立当初、北内田村・南内田村のほか赤木村などを所領にし、内田に陣屋を置いて
いた。ところが1671年に赤木村において入会地(村民共同の所有地として用いられる土地)の山を
巡る争論が起きたため所領替えをし、旧領に替えて竹淵村・上瀬黒村・下瀬黒村・白川村と百瀬村の
一部が新たな領地に定められたのでござる。陣屋は内田から百瀬に移り、斯くして築かれた統治の
新拠点がこの百瀬陣屋である。頼久は1682年(天和2年)4月21日、上野国邑楽郡(群馬県南東部)と
下野国安蘇郡(栃木県南西部)に500石を加増されており、以後その後継が所領を相続していく。
百瀬に統治拠点を移した当時は代官として三井氏が入っていたが、享保年間(1716年〜1736年)の
始めに萩原氏と近藤氏が交代で就任するようになる。更に後からは近藤氏が御用人格兼代官となり
明治維新まで続いた。しかし明治新政府は全国の旧幕府領を収公、これに旗本領も含まれたため
百瀬陣屋は廃止されたのである。だが建築物は旧代官・近藤家がそのまま住居として継続使用、
現在まで破却される事なく残っている部分がある。
陣屋母屋は間口5間×奥行3間、元来は茅葺屋根であったが近年になって瓦葺きに改められた。
建築年代は不明だが、江戸時代中期以後と推定されている。敷地は断片的ながら土塁に囲まれ
旧態を残しており、敷地の入口は枡形虎口として入り組んだ態様を見せてござる(写真)。
1978年(昭和53年)7月に松本市指定史跡となっているが、現在の市政情報では確認されないため
指定解除になったのかも?場所はJR篠ノ井線平田駅から東南東に1.2km。住宅街の中、入り組んだ
路地を入っていく事になり少々分かり難い位置だが、残された門や家屋は情緒たっぷり。無論、
今も近藤家の住居なので見学時には御迷惑をおかけしないよう注意されたい。
なお、現代では「百瀬」を「ももせ」と読むが、江戸時代には「ももぜ」と呼んでいたとの事。


現存する遺構

母屋・土塁





安曇野市南部諸城郭  春日城・殿島城