信濃国 長尾城

長尾城址

所在地:長野県安曇野市三郷温字上長尾
(旧 長野県南安曇郡三郷村温字上長尾)

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:☆■■■■



旧三郷村、温(ゆたか)集落にあった古城。来歴はほとんど不明だが
1971年(昭和46年)9月1日に旧三郷村指定史跡、2008年(平成20年)10月29日
安曇野市指定史跡となっている。堀金氏(堀金長者屋敷の項を参照)一族である
長尾氏の城とされるが、この地域は西牧氏の勢力も入り組んでおり、情勢詳らかではない。
長野県の公益財団法人で文化財情報提供を行っている八十二文化財団による
概要説明では、当城は西牧氏による築城となってござる。この西牧氏、
平安末期から続く安曇郡南部の土豪で滋野氏の傍流と伝わる。そもそも
「西牧」とは平安時代の官営牧(軍馬等を育成する国営牧場)古幡牧の事で
信濃国府(現在の長野県松本市)から西方にある牧であった事から「西牧」と
呼ばれたもの。上田・佐久など東信を本拠とする滋野氏の一族が勢力を広げ
この西牧を管理する職に就いた事から、その家系が西牧氏を称するようになった。
西牧(つまり古幡牧)は旧梓川村(現在は市町村合併で松本市梓川)にあり、
西牧氏はそこを中心として勢力を拡大、北方の三郷地域へと進出していき
この城を築いたと推測するものであろう。市町村合併で安曇野市に
統一された事から分かる通り、三郷村と堀金村(堀金氏の勢力圏)は極めて近く
この城が西牧氏と堀金氏(長尾氏)の“境目の城”であったのは確かだ。
名の知られる人物としては、近隣にある真言宗平福寺の観音堂建立に尽力した
西牧讃岐守憲兼がいた。観音堂の銘に1431年(永享3年)3月、憲兼寄進とあり
室町時代、西牧氏が西牧郷の地頭として勢力を維持していた事が読み取れる。
長尾城が築かれているのは梓川河岸段丘による微妙な傾斜地で、全体的に
西側が高所、東側が低所となっている。城の東隣には南から北へと流れる
用水路があるが、これは恐らく城が用いられていた当時は天然の川であり
濠にしていたと考えられる。現在もこの川(水路)に沿って段丘が残り
流路沿いが一列(縦方向)の林となっているのが特徴。こうした傾斜地形を
防備に利用していたのであろう。長尾城の位置で南西方向から北東方面へと
延びる(横方向の)林が交わっているので、それが城地の目印になる。
なお、犀川は文禄年間(1592年〜1596年)の大洪水で流路が変わるまで
現在よりも西側、つまり長尾城の直近を流れていたのでござる。
城の縄張りは3角形の本郭に4角形の副郭が連結するもの。各曲輪は土塁で囲まれ
外周を空堀が巡る。3角形をした本郭の突き出した頂点(副郭とは反対側)の先には
数段の帯曲輪が用意されていた。現在、城跡一帯は林檎畑になっていて、土塁や
堀はほとんど整地されてしまっているが、上記の通り川沿いの林だけは
手付かずなので、この部分に隠された堀はかろうじて散見できる状態でござる。
ちなみに、詳細地形図で見るとこの堀の際が標高635m地点なので
長尾城址空堀跡の形状が等高線上で綺麗に浮かび上がっている(笑)
ともあれ、城跡は耕作地なので保存状態は不良。駐車場所もない上、
農地を荒らす訳にもいかないので、あまり立ち入れない城址でござろう。


現存する遺構

堀・土塁
城域内は市指定史跡








信濃国 真々部氏館

真々部氏館跡土壇

所在地:長野県安曇野市豊科高家真々部
(旧 長野県南安曇郡豊科町高家真々部)

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:☆■■■■



旧豊科町高家(たきべ)集落にある乗護山金龍寺(臨済宗妙心寺派)境内周辺が
かつての真々部氏居館址。真々部城とも呼ばれる平地城館。1975年(昭和50年)
9月1日、当時の豊科町史跡に指定。長尾城と同じく2008年10月29日に
安曇野市史跡として再指定されてござる。
金龍寺の創建は鎌倉時代初期、承久の乱で有名な後鳥羽上皇の発願とされる。
信州の古豪・仁科氏が上皇警護を承る“西面の武士”として取り立てられた事で
この地に下幸し寺を建立した事が始まりだとか。ただし、恐らく創建時の寺は
現在地とは別の場所にあったと思われる。ともあれ、真々部周辺は金龍寺の
門前町として隆盛していく。今では地方集落の体になっているが、中世の町並みは
参拝客をもてなす商業街として中核都市になっていたようだ。寺そのものは
時代の推移に従って興廃を繰り返していたが、市が立つ門前町の賑わいは
翳る事なく続き、高根市・穂高市と並び真々部市は安曇平三大市に数えられた。
また、真々部の地は信濃府中から安曇郡へ抜ける進軍路の玄関口でもあった。
そこへ忍び寄ってきたのが例の如く甲斐武田氏である。信州併呑を目指す
武田晴信(信玄)は繁栄を極める真々部市をも支配下に置かんとする。
ちょうどこの頃、仁科右衛門大夫盛政(当時の仁科氏当主)が信玄に服属。
安曇・白馬・大町一帯を支配下に置いた仁科氏が帰順した事で信玄の信濃攻略は
格段の進歩を遂げた訳だが、これに伴って真々部の地も武田家のものとなった。
信玄は現地支配を仁科氏の庶流・丸山内蔵助長雄に命じ、斯くして真々部氏館が
築かれたのでござる。正確な年代は不明だが、1550年(天文19年)頃とされる。
この丸山氏、盛政の4代前にあたる仁科弾正少弼盛明の次子・肥後守盛慶(もりよし)が
筑摩郡にある日岐(ひき)城(長野県東筑摩郡生坂村)を領して以来
丸山姓を名乗ったもの。盛慶の4男が内蔵助長雄で、真々部に入部して以降
真々部尾張守真光と名を変えたのでござる。これが真々部氏の始まりだ。
信玄と敵対した側である信濃守護・小笠原長時の記録によれば
「真々部村城主、真々部内蔵介七騎(貫高115貫)」とあり、真々部市を
治めるに相当な勢力を持っていたようだ。この後、真光は信玄の娘を娶り
いよいよ隆盛、門前町転じて城(館)下町となった真々部の整備を施す。
道路網や水路が整然と作られ、真々部市は全盛期を迎えた。城下は真々部氏の
上級家臣が住む西小路街、一般家臣や町民が住む上町・中町・下町へと整理され
碁盤の目を成している。この碁盤の最外部、街区西端を南北に
千国(ちくに)街道が走り、信濃府中(松本)追分〜真々部市〜糸魚川を連絡。
衰退していた金龍寺も復興された(この為、金龍寺中興開基を真光とする)ほか
周辺にある大寺3箇所(金龍寺含めると4寺)も整えられ申した。寺社への寄進は
当時、施政者が行うべき行政事項(逆に言えば、それを為す事が権力者の証)として
当然の事であると同時に、寺堂を軍勢の駐屯地として利用できる事にもなり
この館が周辺諸寺と一体化して強大な武田軍の軍事拠点になった事を意味する。
まさに“宿城”となる館を手にした武田軍はより一層の北伐を行うが
それは北の軍神・長尾景虎(上杉謙信)との対決に繋がっていく。謙信もまた
武田の軍勢を押し返すべく信濃国人衆へ積極的に働きかけており、仁科盛政は
永禄年間(1558年〜1570年)に武田家から寝返る動きを見せたと言う。これにより
信玄は盛政を謀殺(1561年(永禄4年)か?)、仁科家の家督を自身の5男
盛信に継がせて乗っ取った。真々部真光も盛政に同調したとされ、同様に
粛清されてござる。しかし真々部家は絶家とはならず、後嗣が跡を継いでいる。
穂高神社の所蔵品・鷺足膳(装飾を施した配膳卓)には1573年(元亀4年)
2月吉日付で「願主真々部内方」の裏書があり、1580年(天正8年)8月11日付の
仁科盛信書状には「真々部同心被官同前之事」と書かれ、真々部氏の一族郎党に
命令を下した事が記録として残ってござる。なお、この書状では真々部市で
馬の売買が行われた事も記されており、真光の自害後も市は活発であったようだ。
ところが1582年(天正10年)2月に武田家は滅亡。木曽から攻め上がってきた
木曽義昌から金龍寺に禁制(きんぜい、乱暴狼藉を禁止し安泰を約する証明)が
出されたものの、ほどなく信濃全域は無主の国となり混乱を極める。
本能寺の変後に徳川家康の先鋒として信濃へ入ったのは旧信濃守護・長時の3男
小笠原貞慶(さだよし)でござった。真々部氏は貞慶に従うようになったが
以来、歴史上から名が消える。恐らくこの折、館も廃絶したのだろう。
金龍寺開基たる真光(並びにその妻、嫡子・孫三郎)の墓があることから
いつしか館跡が金龍寺境内となり、江戸時代になると徳川将軍家から寺領の保護が
行われた。明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく、国家神道政策による仏教棄却)で
いったんは廃絶するも、すぐに再興されて現在に至ってござる。
元来の館は45間(約81m)四方の正方形をした本郭を中心に、同じく120間(約215m)
四方の正方形をした二郭が取り囲む輪郭式の縄張り。往時は二郭の南側に
三郭も隣接していたと言う。この縄張りを基点とし、城下街区は碁盤の目となり
縦横に街道が走っていた。武田氏時代の寺は4箇所であったと述べたが
江戸時代になるとさらに3箇所増え(他地からの移転も含む)7寺となった事から
“真々部七寺八小路”と称される。館の大手口は西側、西小路に面して開かれていた。
曲輪は土塁や堀で防備されていたが、現在は市街化により殆ど消滅。
二郭の南半分が金龍寺境内、本堂裏側にある土壇(写真)が本郭の名残。
二郭の北半分は金龍寺の墓地となっている。近年まで金龍寺前の堀が残されて
いたようだが、道路舗装により埋め立てられてしまった。しかし、寺前には
堀に架かっていた石橋の橋桁だけが埋め込まれるように残されており
紛れも無く一帯に堀が掘削されていた事を確認できる。何より、金龍寺周辺は
高家真々部集落の中でも特に「殿村」と呼ばれており、館の存在が
現在でも生活に根付いている事を偲ばせている。
金龍寺の場所は長野県道316号線、真々部交差点〜真々部北交差点の間。
JR大糸線利用なら一日市場(ひといちば)駅から北東へおよそ800m。
ちなみに、駅名にある“一日市場”はかつての真々部市に由来するもの。


現存する遺構

土塁・郭群等
館域内は市指定史跡








信濃国 飯田砦

飯田砦跡石碑

所在地:長野県安曇野市豊科高家飯田
(旧 長野県南安曇郡豊科町高家飯田)

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★★■■■
公園整備度:☆■■■■



真々部氏館から北東へ約1.5km、同じく豊科高家にある砦館跡。安曇野市上水道の
高家配水場から西北西の方角およそ350m地点、勘左衛門堰と呼ばれる農業用水路が
不自然な直角の折れ曲がりを為す場所が飯田砦跡の敷地でござる。
東西30m×南北25mの長方形を成し、土塁が現在も良好に残る。敷地北東端には
屋敷神(城内鎮守)を祀る。来歴には諸説あり、現地の石碑(写真)に書かれた
説明によれば武田軍が筑摩郡から安曇郡へと進出する際に築かれたとされ、近隣の
真々部氏館(上記)や吉野町館(長野県安曇野市豊科)の前衛となった、とある。
勘左衛門堰の流れに古城の趣深い飯田砦跡の情景は良く映え、如何にも
農村の原風景という情感を醸し出しているが、敷地は私有地なので見学には
注意が必要。駐車場もないので路駐する事になるが、民家の裏道程度の道幅で
十分な駐車余地もない。じっくり見れば面白そうな砦跡ではあるのだが、
いかんせん、それが許されるような状況に無いのが惜しい所でござる。
1975年9月1日に当時の豊科町史跡、2008年10月29日に安曇野市史跡に指定。


現存する遺構

堀・土塁・郭群
城域は市指定史跡




安曇野市北部諸城郭  松本市内諸城館