信濃国 等々力陣屋

等々力陣屋跡 長屋門

 所在地:長野県安曇野市穂高等々力
 (旧 長野県南安曇郡穂高町穂高等々力)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★■■
★★★■■



神話が息づく穂高の郷■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
等々力は「とどりき」と読む。陣屋は江戸時代の松本藩領内、等々力を治める大庄屋・等々力氏の邸だが、それ以前より
当地には同氏の城郭が構えられていた。遡ると等々力の地名は神代の時代、都から下向し東夷(東国の蛮族)と戦った
仁品(にしな)王がこの地に陣を敷き「郎等(郎党)、等しく力を集めん」と宣した伝説に由来すると言う。一方で等々力氏の
出自は飛鳥時代、やはり都から下向した武人・田村守宮(たむらのいもり)の末裔が等々力姓に改めた事に始まるそうだ。
等々力氏はこの地方の名族・仁科氏の配下として代を重ねていく事になるが、平氏の後裔を称する仁科氏も、仁品王に
仮託して仁科姓を名乗るようになっており、穂高近辺(そもそも“穂高”というのも大和神話に由来の地名である)の地名や
氏族は太古の昔からの伝承に由来する所が大きいようでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうした伝来に信憑性があるかは兎も角として、室町時代頃から仁科氏に従うようになった等々力氏、1400年(応永7年)
信濃守護・小笠原修理大夫長秀に対し信濃国人衆がこぞって反抗した大塔(おおとう)合戦にその名を残しており、国人
一揆側に加担した仁科氏の郎党の中に「戸度呂木(等々力)」とある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国時代になると名族・仁科氏の血脈に甲斐の武田信玄が介入。徳栄軒信玄の5男である武田晴清が養子入りし、その
名跡を乗っ取った。斯くして晴清は仁科五郎盛信(もりのぶ)と改名、勇猛な武田軍の一翼を担う名将に成長する。■■■
等々力氏は盛信に従う事で穂高地域の支配を任され、この過程で等々力城が用いられたようだ。■■■■■■■■■■
1567年(永禄10年)に生島足島(いくしまたるしま)神社(長野県上田市)で信濃各地の諸将が武田家への忠誠を誓った
起請文には等々力豊前守定厚の名があり、1580年(天正8年)盛信が発給した文書に等々力治右衛門尉宛のものがある。
ところが信玄の没後、武田家は斜陽の時期を迎える。武田家の家督を継いだ四郎勝頼は父・信玄に負けじと外征政策を
採るが破綻、逆に武田領は西の織田信長から侵され、遂に信濃国内の豪族が離反していき領国を支えられなくなったのは
周知の通り。信濃各地の支配体制が崩壊する中、仁科盛信は高遠城(長野県伊那市)に籠もり、ただ一人織田軍に気炎を
吐いた。もはや信濃が織田家の手に落ちるのは明白な状況下、武田軍の意地を見せるべく最期まで果敢に抵抗した彼は
遂に討死、武田家滅亡の花と散ったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

松本藩の民政拠点に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうして信濃の支配者が消え去った事で、等々力氏も拠り所を喪失し再び在地の一土豪へと戻った。よって、等々力城も
廃城、等々力氏は江戸時代になると松本藩領となったこの地で松本藩主・小笠原家に従うようになる。1614年(慶長19年)
大坂冬の陣では藩主・小笠原信濃守忠脩(ただなが)率いる軍勢として出陣したが、戦後は帰農して等々力の大庄屋に
なっている。これにより等々力家の邸宅は陣屋として機能するようになり整備され、折々に藩主が訪れ鮭漁や鴨猟などの
休息所として使われたのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「御本陣」と呼ばれた等々力陣屋の主屋には殿様座敷がある上、江戸時代の中期に作庭された庭は須弥山(しゅみせん、
仏教的世界観)式石組庭園と言われ、美意識が凝縮されている。等々力家からは分家が派生し、近隣村々の大庄屋にも
なっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
また、等々力庄屋孫右衛門の子で1749年(寛延2年)に生まれた白沢民右衛門(しらさわたみえもん)らは、その当時灌漑
水源に乏しかったこの地域に拾ヶ堰(じっかせぎ)と呼ぶ農業用水の開削を1801年(享和元年)から計画、工事の難航が
予想される事から、当初松本藩は事業を認可しなかったが、民右衛門らは江戸に出て幕府老中と折衝を重ねて1816年
(文化13年)2月11日、遂にその工事が開始された。それまで地域住民らが綿密に調査・測量を行っていた上、水利を望む
百姓らが6万7000人も工事に参加した事から予想に反して短期間で終わり、全長15km、10村に(これが故に拾ヶ堰と呼ぶ)
配水する用水路はわずか3ヶ月で完成。功績を称えた松本藩は民右衛門たち工事指導者に名字帯刀を許した。ちなみに
拾ヶ堰は現代でも安曇野市内各所に農業用水を通潤させてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
明治維新を経て、現在に至るも等々力陣屋には等々力家の方が在住されているが、拝観料を払えば内部を見学させて
頂けるので、必見の観光名所と言える。陣屋の主屋や庭園は勿論の事、正面玄関を固めている長屋門(写真)は1979年
(昭和54年)2月1日、当時の穂高町指定有形文化財になっている。この長屋門は桁行33.82m×梁間4.65mの平屋で屋根は
桟瓦葺切妻造。圧倒される程の長さを誇る。さらには旧家らしく古文書が数点保管されており、件の仁科盛信書状と条目、
それと1614年に出された三枝元久書状の合計3点が同日に穂高町有形文化財の指定を受けた。加えて邸内に植えている
ビャクシンの木(樹齢推定600年)は1970年(昭和45年)9月5日、穂高町指定の天然記念物。これらは安曇野市制施行後の
2008年(平成20年)10月29日、改めて市文化財・天然記念物として再指定されている。■■■■■■■■■■■■■■■
一方、等々力城址は大半が耕作地・住宅地と化して殆んど遺構が残らない状態だが、等々力陣屋から北西300m程の所
(NTT東日本穂高電話交換所の裏150m位)に土塁の残欠が塚となって保存されている。この塚の上には、城址碑の他に
石彫家・大神弘氏が作った灯籠と不動明王石像が置かれており、旧城の名残を窺わせる唯一の地点となっている。■■■



現存する遺構

長屋門《市指定文化財》・陣屋主屋・庭園・土塁








信濃国 小谷城

明科小谷城跡 南側登城口

 所在地:長野県安曇野市明科中川手
 (旧 長野県東筑摩郡明科町中川手)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★☆■■■
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海野一族塔ノ原氏の出城?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「こやじょう」と読むが「小谷」を「こや」と読むのは難読なので、最初から平仮名で「こや城」と表記される事が多うござる。
(「おだに」「こたに」或いは長野なので「おたり」と誤読する危険性がある為)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
小屋城とも。JR篠ノ井線明科駅の北東およそ500m、線路縁にある城山公園が所在地。会田川が犀川へ合流する地点に
程近く、深志(松本)から生坂・八坂を経て善光寺平(長野)へと至る信濃西街道(現在の国道19号線)が坂北方面への
矢越峠道(国道403号線)と分岐する地点を管掌する交通の要衝である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の創建・来歴は全く不明であるが、この城の南1.2km程の場所にある山が塔原(塔ノ原)氏の本城である山城・塔ノ原城
(安曇野市内)である為、その出城と考えられる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そもそも明科の地は古代に赤科と記し、鎌倉時代中期に会田御厨(みくりや)の地頭職となった海野氏の後裔・海野三郎
幸次が塔ノ原に進出、塔ノ原氏となった。会田御厨は会田川上流にある荘園で旧東筑摩郡四賀村(現在は市町村合併で
松本市)に会田の地名が残る。海野氏は信州の名族・滋野氏分流、あの真田一族と同族として知られる家柄だ。しかし
戦国争乱の時代を迎え、甲斐の虎・武田信玄が信州制圧の軍を発し、塔ノ原氏は征服される。これにより明科は武田の
勢力下に置かれる事となった。更に1582年(天正10年)3月、織田信長により武田氏が滅亡。その信長も同年6月、京都
本能寺の変で横死。支配者不在となった信濃国は混沌とし塔ノ原氏が復活を目論むものの、徳川家康の意を受け信濃
平定に赴いた小笠原氏の兵と衝突し1583年(天正11年)2月に排除された。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この過程のいずれかで、小谷城は廃城となったようでござる。なお、塔ノ原氏滅亡に前後する1582年の閏12月16日付で
東筑摩郡筑北村の豪族・青柳伊勢守頼長(あおやぎよりなが)が「塔原・同赤科」領のうち20貫文の土地を伊勢神宮に
寄進した記録があり、当地の情勢が流動的であった事がよく分かる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

断崖上の細尾根で守っていた城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
小谷城のある場所は山々を抜けてきた会田川が大きく蛇行し(川の流路は東→北→西)細い半島状となった地点。よって
城の三方は川に囲まれ、唯一南側だけが陸続きになっている。しかも会田川の急流は浸食作用で比高30mほどの絶壁を
形成している為、川沿いの侵入は不可能である。即ち、城への出入口は南側1箇所だけに限られる事となり、築城好地と
言えよう。会田川沿いに会田御厨へと通じる会田口を押さえる地点として重視されたのも当然か。川の対岸にある山には
茶臼山城(安曇野市内)があったとされ、両城の距離はわずか300mほど。会田川の両岸で締め上げ、会田口を封鎖する
事が可能であったと想像できる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
経歴不詳の上、現在は城山公園(という名の広場)に整地されてしまっているので、旧来の縄張りがどのようなものだった
かは分からない。とりあえず、公園広場となっている最高所は細長い削平地(どこまで旧態かは不明だが)で、恐らくこれが
主郭であったと思われる。その奥には割と大きな広場があり、二ノ郭とされる。半島最先端部は一段下がる位置になるが
詰め曲輪か?と考えられ、現在ここには城山稲荷神社が鎮座。これまた城の鎮守社の名残であろうか??■■■■■■■
反対に主郭の手前、城の入口へと通じる登城路(写真)が見事である。細い痩せ尾根がそのまま土橋のような道となって
おり、両脇は断崖そして川の急流。現在は植林されて多くの木に囲まれているものの、当時は吹曝しだろうから、ここから
落ちれば真っ逆さまに会田川へと叩き込まれる。しかも(公園整備により埋められたようだが)当時はこの道を多重堀切で
分断していたようなので、簡単に歩ける道ではなかったようでござる。この土橋状遺構は片側(川沿い側)が高くされており、
外縁部に対する土塁を兼ねていたとも考えられる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
(同様な構造は八王子城(東京都八王子市)の大天主導入路などにも)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
小ぶりな城ではあるが天然の地形を上手く利用した構造で、もし往時のまま保存されていればかなり面白く見学できたの
ではないか…と考えさせられる城址。つくづく、自然風化と近代の改変が勿体ないとも思う(苦笑)■■■■■■■■■■
正式な駐車場と呼べるものはないが、登城口付近に路上駐車は可能(本来はタイヤチェーン着脱場)。■■■■■■■■
もっとも、JR篠ノ井線の明科駅から徒歩圏内なので無理に路駐はしなくても良いかと。■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等








信濃国 堀金長者屋敷

堀金長者屋敷跡土塁

 所在地:長野県安曇野市堀金烏川(上堀)字元屋敷
 (旧 長野県南安曇郡堀金村烏川(上堀)字元屋敷)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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堀金の地勢に見る武家居館の存在■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
地元の古豪・堀金(ほりがね)氏の居館址。単に堀金氏館・堀金氏屋敷とも。堀屋敷あるいは岩原館と称される事も。
「岩原」の名は堀金氏の詰城が岩原城(安曇野市内)であった為。堀金烏川には岩原の字名もある。■■■■■■■
安曇野市は2005年(平成17年)10月1日に市町村合併で成立したが、それ以前、この地は南安曇郡堀金村であった。
更に遡れば1955年(昭和30年)4月1日に三田(みた)村と烏川村が合村して堀金村となり、一気に鎌倉期まで戻れば
野原荘堀金郷として在地武士が開墾事業を行っていたとされている。そもそもそれ以前、古墳時代よりここに住居が
構えられていた痕跡がある事から、烏川扇状地のほぼ平坦な地形は入植に向いていたのであろう。こうした歴史の中
仁科氏の分流である堀金氏が支配者として統率するようになっていく。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
館の創建時期は不明だが、堀金氏が台頭したのは戦国時代の大永年間(1521年〜1528年)と見られる。しかし、その
時代は在地武士間の戦闘が激しさを増す時期であり、平野部に置かれた単郭居館だけでは十分な防備は為し得ない。
この為、戦時の詰城として山城の岩原城が用いられたのである。されど岩原城と堀金氏館との距離は直線距離だけで
4km以上。川や田畑を抜ける道は大回りしている上、岩原城は信州でも屈指の険峻な山に築かれている為、即応は
難しいと推測される。居館と詰城を分ける例は他にもあるが、例えば越前朝倉氏の一乗谷城(福井県福井市)は館の
すぐ裏山1km弱であるし、甲斐武田氏の本拠・躑躅ヶ崎館と詰城の要害山(ようがいさん)城(共に山梨県甲府市)は
2.5km程だが一本道で連絡している。これらに比べ堀金氏館と岩原城の連絡経路は不便な状況にあるが、にも拘らず
それを使ったのは守るに堅い岩原城の防備性能と、統治拠点としての効率が良い堀金氏館のどちらも捨て難いもので
あった証でござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

武田に臣従した堀金氏の浮沈■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
武田大膳大夫晴信(信玄)が信濃の攻略を加速させていた1551年(天文20年)、武田軍が安曇野一帯の併呑を期して
進軍してくる。この折、堀金氏は宗家・仁科氏と共に武田家へ服従するようになった。信玄の近習・駒井高白斎政武の
日記である「高白斎記」には、この年の10月22日「ほりか子(堀金)出仕」との記載がある。安曇野攻略のため深志城
(後の松本城、長野県松本市)へと入った晴信に臣従を表明するべく参陣したのだ。■■■■■■■■■■■■■■
これ以後、堀金勢は武田軍に編入され、安曇地方で反武田氏の立場をとった平瀬城(長野県松本市)を同月24日に、
小岩嶽城(安曇野市内、下記)を翌1552年(天文21年)8月、平倉城(長野県北安曇郡小谷村)を1557年(弘治3年)7月
攻略している。こうした功により、堀金一族の堀金平太夫盛広は千国(ちくに、小谷村内の郷名)6村の地頭職に任じ
られている。一方1561年(永禄4年)9月10日、武田家史上最大の激戦とされる第4次川中島合戦において堀金安芸守
政氏(当時の堀金氏当主か?)が戦死する被害も受けてござる。上記の盛広は1567年、等々力陣屋の項で記した生島
足島神社の起請文に仁科家臣団筆頭として名を残しているが、彼もまた1581年(天正9年)頃、仁科一族の渋田見氏と
婚姻した事を武田家に届け出なかったとして処分され、越中国砺波郡(富山県西部)の一向宗寺院・和沢山勝満寺で
出家、堀金郷との縁が切れる受難を被った。この後、武田家そのものが織田信長に攻められて滅亡し、堀金一族は
四散して歴史の彼方に消え去った。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在の屋敷跡は一般民家の敷地になっている。私有地なので勝手に立ち入る事はできないものの道路沿いに土塁や
堀の痕跡を望む事ができる。駐車場などは無いので見学の際は節度を忘れずに。場所は安曇野市役所堀金総合支所
(旧堀金村役場)から西に約300m、長野県道57号線が三田郵便局へと至る場所の北側カーブ付近。■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等








信濃国 小岩嶽城

小岩嶽城跡 模擬砦門

 所在地:長野県安曇野市穂高有明小岩岳
 (旧 長野県南安曇郡穂高町有明小岩岳)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★☆■■■
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谷戸の地形を活用した縄張り■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在の地名表示では「嶽」を「岳」の字としており、小岩岳城とも表す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
安曇野市北西部、標高1296.1mの富士尾山から東方へと突き出す北富士尾沢尾根の末端部にできた谷戸を利用した城郭。
尾根東端の頂、標高841m地点を詰城とし、そこから南北2本に分かれて延びた支尾根で挟み込んだ谷間が根小屋城館、
さらにその東側に広がる平野部が小岩嶽集落(城下部)という構成になってござる。■■■■■■■■■■■■■■■■
このうち詰城部は極端に狭い山頂部を用いている為、実用的には物見台程度のものであったと推測される。山麓から登る
道は数条の堀切で分断されていたと考えられるが、現在は入山禁止区域に隣接するため登山は勧められない。■■■■
城郭として実働していたのは根小屋部である。この根小屋部は最上段を主郭とし、そこから下るU郭・V郭が棚田のように
広がっている。現在、主郭部には小さな社があり、その標高は640m。詰城部との比高差は200m近くにも及ぶ事になる。
曲輪間は3m程度の土塁・空堀によって区分けされ、それは横矢をかけるべく屈曲し、特に主郭虎口は原始的ながら枡形を
形成、しかも石垣組みで防備していた。しかし現在これらの遺構は大半が風化し、あるいは山林整備等で破壊されたため
明瞭な残存状態とは言えない状態である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、谷戸式城郭としての利点で尾根に囲まれた城は東側だけを防備すれば良い構造になっている上、水源も磐石。
今も一帯は矢竹が蔽い茂っており、ここが実戦に即した城郭であった事は確かだ。現地説明版によればこの根小屋部の
主郭面積は1ku、南北135m×東西40mの広さで、北の天満沢・南の富士尾沢を天然の堀として活用していたとある。この
根小屋地区の外に宿城とされる城下集落が広がり、それもまた防備の一端を担っていた。無論、戦時には集落の住民を
根小屋城部に収容して人的磨耗を極限する手筈になっていたのだろう。ただ、城の歴史は皮肉にもその構造ゆえの被害を
生み出したようでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

武田に抵抗した古厩氏の悲劇■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
当城の創建時期は不詳。この地域を治めた古厩(ふるまや)平兵衛盛兼の城だと言う。盛兼は仁科安芸守盛国の3男で、
信濃大町・白馬近辺を本領とする仁科氏から見てその南域である穂高一帯、古厩郷を守る事で古厩氏を名乗るようになる。
当城の他、近隣に平時の居館である古厩城(安曇野市内)なども構え、1530年代頃から威勢を張っていた。■■■■■■
ところがこの後、甲斐の武田晴信が安曇野へ軍を進めて来る。同族の仁科氏や堀金氏らは武田軍に従って難を逃れようと
したが、古厩氏は旧来の信濃守護・小笠原信濃守長時と共に晴信と敵対する。この結果、1551年10月27日に武田の軍が
小岩嶽城下へ押し寄せ放火に及ぶ。落城こそしなかったが宿城は焼き払われ、さらに翌1552年8月12日にも合戦が起こり
激戦の末に城主・盛兼は自刃し、14日に落城しており申す。この時の様子を「打取頭五百余人、足弱取候事数不知候」と
甲斐の郷土史記「勝山記」では記す。即ち、討ち取られた者が500人超、城内に非難していた非戦闘員(足弱)は数えきれ
無いほど捕虜になったと言う。集落の民は皆殺し同然に撫で斬り、捕らえられた婦女子は隷族として売り飛ばされ、或いは
慰み者にされたのである。戦国時代の“村の城”は往々にして城下農町民の避難場所として機能するものであるが、それが
落城した際の末路は悲惨なものだ。特に、甲信地域に連戦を繰り返して覇を競った武田軍・上杉軍らの強大な軍事力は
このように凄惨な嗜虐を何度も行っている。小岩嶽城はまさにこうした悲劇の典型例と言えるだろう。近年の歴史ブームで、
歴女さん達は武将を神格化して信玄や謙信を聖人君子のように扱うが、果たしてこうした実情は御理解でござろうか…と
これは蛇足なので閑話休題。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

小笠原に抵抗した古厩氏の滅亡■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方、攻め手の武田軍側に残る記録としては城将・山崎七郎なる者を討ち取った手柄により大堀館(長野県長野市)主の
町田兵庫正之が大幅に加増されているが、これは異説もあり断定できない。兎も角、この戦いの後に古厩一族は武田家に
帰順し以後は武田軍に編入された。後継の古厩盛隆は1561年の第4次川中島合戦に武田方で出陣している。それに加え、
1567年の生島足島神社起請文にも名が残る。だが武田氏が滅亡し織田信長も横死した後、信濃国は徳川家康が併呑する
事になる。家康の尖兵として信濃府中(松本)へと乗り込んできた小笠原右近大夫貞慶(さだよし、長時の3男)はかつての
信濃守護の家系を武器に周辺諸豪族を従えていく。時の古厩氏当主・因幡守盛勝もいったんはこれに従ったが、独立心
旺盛な信濃国人衆らしく次第に貞慶から離反していったのでござる。これに対して1583年、貞慶は反対勢力の粛清に取り
掛かり2月13日、盛勝や塔ノ原三河守らが松本城に誘引された上で謀殺された。これに伴い小笠原軍が小岩嶽城を攻め
落とし古厩氏は滅亡、城も廃城となった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、古厩氏と塔ノ原氏は連携していたようで、塔ノ原城(上記小谷城の項を参照)の兵糧は全て古厩小屋(小岩嶽城)へと
移送し挙兵に備えていたようだが、機先を制した小笠原氏により落城してしまった事でこの兵糧は収奪され、松本城へ持ち
去られたのだった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現状、城跡は小岩嶽城址公園とされて模擬砦門(写真)や展望台が建てられている。城跡の復興建築…と言うと一昔前は
やたらに在りもしなかった天守を建て(てしまっ)たものだが、この城では中世城郭らしい再現に留めていて良い。しかし
一方で“城址公園”と言いつつ敷地は放置状態で、堀や土塁の整備はおろか下草刈りさえ満足に行われていない“藪”な
状態なのは如何なものか。1967年(昭和42年)7月5日の旧穂高町史跡指定を経て2008年10月29日に安曇野市指定史跡と
なっているのだから、もう少し何とかして欲しいところ。現地案内板にも、これら再現建築を「観光事業の一環として建造」と
しているので、関係各所の善処を期待したい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
砦門の前が駐車場になっているので、現地までの来訪は楽だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群
城域は市指定史跡




高井郡内諸城館  安曇野市南部諸城郭