神話が息づく穂高の郷■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
等々力は「とどりき」と読む。陣屋は江戸時代の松本藩領内、等々力を治める大庄屋・等々力氏の邸だが、それ以前より
当地には同氏の城郭が構えられていた。遡ると等々力の地名は神代の時代、都から下向し東夷(東国の蛮族)と戦った
仁品(にしな)王がこの地に陣を敷き「郎等(郎党)、等しく力を集めん」と宣した伝説に由来すると言う。一方で等々力氏の
出自は飛鳥時代、やはり都から下向した武人・田村守宮(たむらのいもり)の末裔が等々力姓に改めた事に始まるそうだ。
等々力氏はこの地方の名族・仁科氏の配下として代を重ねていく事になるが、平氏の後裔を称する仁科氏も、仁品王に
仮託して仁科姓を名乗るようになっており、穂高近辺(そもそも“穂高”というのも大和神話に由来の地名である)の地名や
氏族は太古の昔からの伝承に由来する所が大きいようでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうした伝来に信憑性があるかは兎も角として、室町時代頃から仁科氏に従うようになった等々力氏、1400年(応永7年)
信濃守護・小笠原修理大夫長秀に対し信濃国人衆がこぞって反抗した大塔(おおとう)合戦にその名を残しており、国人
一揆側に加担した仁科氏の郎党の中に「戸度呂木(等々力)」とある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国時代になると名族・仁科氏の血脈に甲斐の武田信玄が介入。徳栄軒信玄の5男である武田晴清が養子入りし、その
名跡を乗っ取った。斯くして晴清は仁科五郎盛信(もりのぶ)と改名、勇猛な武田軍の一翼を担う名将に成長する。■■■
等々力氏は盛信に従う事で穂高地域の支配を任され、この過程で等々力城が用いられたようだ。■■■■■■■■■■
1567年(永禄10年)に生島足島(いくしまたるしま)神社(長野県上田市)で信濃各地の諸将が武田家への忠誠を誓った
起請文には等々力豊前守定厚の名があり、1580年(天正8年)盛信が発給した文書に等々力治右衛門尉宛のものがある。
ところが信玄の没後、武田家は斜陽の時期を迎える。武田家の家督を継いだ四郎勝頼は父・信玄に負けじと外征政策を
採るが破綻、逆に武田領は西の織田信長から侵され、遂に信濃国内の豪族が離反していき領国を支えられなくなったのは
周知の通り。信濃各地の支配体制が崩壊する中、仁科盛信は高遠城(長野県伊那市)に籠もり、ただ一人織田軍に気炎を
吐いた。もはや信濃が織田家の手に落ちるのは明白な状況下、武田軍の意地を見せるべく最期まで果敢に抵抗した彼は
遂に討死、武田家滅亡の花と散ったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
松本藩の民政拠点に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうして信濃の支配者が消え去った事で、等々力氏も拠り所を喪失し再び在地の一土豪へと戻った。よって、等々力城も
廃城、等々力氏は江戸時代になると松本藩領となったこの地で松本藩主・小笠原家に従うようになる。1614年(慶長19年)
大坂冬の陣では藩主・小笠原信濃守忠脩(ただなが)率いる軍勢として出陣したが、戦後は帰農して等々力の大庄屋に
なっている。これにより等々力家の邸宅は陣屋として機能するようになり整備され、折々に藩主が訪れ鮭漁や鴨猟などの
休息所として使われたのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「御本陣」と呼ばれた等々力陣屋の主屋には殿様座敷がある上、江戸時代の中期に作庭された庭は須弥山(しゅみせん、
仏教的世界観)式石組庭園と言われ、美意識が凝縮されている。等々力家からは分家が派生し、近隣村々の大庄屋にも
なっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
また、等々力庄屋孫右衛門の子で1749年(寛延2年)に生まれた白沢民右衛門(しらさわたみえもん)らは、その当時灌漑
水源に乏しかったこの地域に拾ヶ堰(じっかせぎ)と呼ぶ農業用水の開削を1801年(享和元年)から計画、工事の難航が
予想される事から、当初松本藩は事業を認可しなかったが、民右衛門らは江戸に出て幕府老中と折衝を重ねて1816年
(文化13年)2月11日、遂にその工事が開始された。それまで地域住民らが綿密に調査・測量を行っていた上、水利を望む
百姓らが6万7000人も工事に参加した事から予想に反して短期間で終わり、全長15km、10村に(これが故に拾ヶ堰と呼ぶ)
配水する用水路はわずか3ヶ月で完成。功績を称えた松本藩は民右衛門たち工事指導者に名字帯刀を許した。ちなみに
拾ヶ堰は現代でも安曇野市内各所に農業用水を通潤させてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
明治維新を経て、現在に至るも等々力陣屋には等々力家の方が在住されているが、拝観料を払えば内部を見学させて
頂けるので、必見の観光名所と言える。陣屋の主屋や庭園は勿論の事、正面玄関を固めている長屋門(写真)は1979年
(昭和54年)2月1日、当時の穂高町指定有形文化財になっている。この長屋門は桁行33.82m×梁間4.65mの平屋で屋根は
桟瓦葺切妻造。圧倒される程の長さを誇る。さらには旧家らしく古文書が数点保管されており、件の仁科盛信書状と条目、
それと1614年に出された三枝元久書状の合計3点が同日に穂高町有形文化財の指定を受けた。加えて邸内に植えている
ビャクシンの木(樹齢推定600年)は1970年(昭和45年)9月5日、穂高町指定の天然記念物。これらは安曇野市制施行後の
2008年(平成20年)10月29日、改めて市文化財・天然記念物として再指定されている。■■■■■■■■■■■■■■■
一方、等々力城址は大半が耕作地・住宅地と化して殆んど遺構が残らない状態だが、等々力陣屋から北西300m程の所
(NTT東日本穂高電話交換所の裏150m位)に土塁の残欠が塚となって保存されている。この塚の上には、城址碑の他に
石彫家・大神弘氏が作った灯籠と不動明王石像が置かれており、旧城の名残を窺わせる唯一の地点となっている。■■■
|