信濃国 荻野氏居館

荻野氏居館跡 岩松院

 所在地:長野県上高井郡小布施町雁田

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

■■■■
★★★■■



現存する遺構

岩松院諸建築
本堂天井絵鳳凰図(葛飾北斎画)は町宝
福島正則霊廟は町指定史跡



信濃国 
福島正則屋敷

福島正則屋敷跡標柱

 所在地:長野県上高井郡高山村高井

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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現存する遺構

土塁
館域内は県指定史跡



信濃国 
小布施陣屋

小布施陣屋跡

 所在地:長野県上高井郡小布施町小布施

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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■■■■



現存する遺構

稲荷社石祠
陣屋域内は町指定史跡



信濃国 
六川陣屋

六川陣屋跡

 所在地:長野県上高井郡小布施町都住

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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■■■■



現存する遺構

石垣・用水堰
陣屋域内は町指定史跡





高井郡の歴史に見え隠れする荻野氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
長野県北東端部、現在の栄村〜須坂市にかけての一帯はかつて高井郡とされており、明治維新後の郡区町村編制法にて
1879年(明治12年)1月14日に上高井郡と下高井郡に分割された。この頁では、郷土の歴史に沿いつつ、高井郡内の城館に
ついていくつか説明いたしたく候。なお、栄村は現在の行政区分で下水内(しもみのち)郡となっているが、近世までは大半が
高井郡であった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
今や北信濃有数の観光地となった小布施町、それに隣接する高山村。小布施といえば葛飾北斎所縁の町、或いは特産品の
栗やリンゴを使った郷土色豊かな銘菓で人気が高く、昔からの町並みが見事に残されている。当然ながらその歴史は古く、
遡れば平安期から開発領主が開墾に勤しみ、それに伴う領地争いなど紛争も多発していた。小布施付近の土豪・荻野氏は
険峻な山稜を背にした雁田(苅田)の地に館を構え支配拠点にしていたと言い、この館は後世、岩松(がんしょう)院なる寺へ
変貌する。これが荻野氏居館であり、背後の山には尾根の段毎に雁田小城・雁田大城・滝ノ入城・二十端城という城砦群が
構えられていた。これら山上の城砦群は包括して雁田城と呼ばれ、当然、居館の詰城として機能していたものと見られるが
城ごとの構造や特徴が異なっているため、築城年代や築城主がどのようなものであったかは不明である。荻野氏以前には
狩田(雁田)氏なる氏族が居たという説もあり、雁田城はその手によるものであるとか、若しくは古代山城に類するものとする
考察もある。荻野氏の台頭がいつの頃かというのも不明確で、後に岩松院となる荻野氏居館の成立年代も詳しくは判らない。
戦国時代になると、信越国境付近に勢力を築いたのが高梨氏であるが、荻野氏も高梨氏の勢力に統合されていき、居館の
廃絶年代もまた不明としか言いようがない。曹洞宗梅洞山岩松院の開基は1472年(文明4年)雁田城主・荻野備後守常倫の
手によるものとされているので、それ以前だろう。但し、山上の雁田城は廃城とせず継続使用されていたのは確実と言える。
高梨氏をも超越する勢力となる甲斐武田氏・越後上杉氏が北信の覇権を手にした折に用いられたと見られ、川中島合戦の
年代には武田氏が、その滅亡後は上杉氏がそれぞれ時代ごとに入れ替わりで改修・使用していたと考えられるからだ。■■

川中島藩主に“凋落した”福島正則■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
川中島合戦の話が出たので、ここで補記を入れておく。武田信玄が甲斐即ち山梨県から北進政策に出て信濃各地を併呑、
残すは越後との国境近辺のみとなり、これを阻止せんとして上杉謙信が南下し、川中島で数度の合戦に及んだというのは
誰もが知っている話である。武田家は信濃のほぼ全域を手中にしたが、上杉軍の阻止により善光寺以北の信濃領は完全
掌握するには至らなかった。こうした経緯から、川中島以北の4郡、つまり甲斐から見た“奥四郡”は次第に“川中島四郡”と
呼称されるようになった。高井郡はこの4郡に含まれる為、江戸時代以降、高井郡域を含む藩を川中島藩と呼ぶ事がある。
だが実際には高井郡と川中島は相当な距離があり(例えば、高山村役場と川中島古戦場址は直線距離で18km以上もある)
川中島藩と言いつつも、川中島そのものは藩領に含まれていない場合があった。これを踏まえて話を進めると、江戸幕府が
成立し大坂の豊臣氏も滅んだ後の1619年(元和5年)、安芸国広島城(広島県広島市中区)主・49万石の太守であった福島
左衛門大夫正則が高井郡へと転封されて来た。正則と言えば賤ヶ岳の七本槍の1人、関ヶ原合戦では石田治部少輔三成へ
猛攻を加えて東軍勝利の原動力となった武将である。高井郡内で彼に与えられた封は2万石、これに捨て扶持として越後国
魚沼郡に2万5000石が加えられていたとは言え合計でたった4万5000石、49万石からは比較にならない減封であった。■■
理由として挙げられるのは広島城の無断修築、武家諸法度違反であるが、裏に“豊臣家創業の功臣”たる福島家への圧力が
あった事は当然であろう。徳川幕藩体制が確立した中、豊臣大事を掲げた戦巧者である正則に西国の大封を与え続けては
あらぬ火種となりかねないからだ。広島城の件は幕府にとって格好の処分材料となり、この地に左遷されてきたのであった。
斯くして正則は高井郡内に居館を構える。その規模は約100m×70mの単郭方形館。敷地周囲を土塁と堀で囲うのみであり
石高や経緯からして当然であるが城とは呼べない陣屋政庁であった。これが高井野陣屋、通称は福島正則屋敷でござる。
正則屋敷、と言うものの広島からの移封時に正則は家督を2男の備後守忠勝へ譲った為、正式な高井野藩主は福島忠勝と
いう事になる。この高井野藩をして川中島藩と記載する事もあるが、先に記した通りその領地に川中島は含まれていない。
然るに忠勝、何と1620年(元和6年)には病死してしまう。子に先立たれた正則は藩主不在となった事で魚沼郡2万5000石を
幕府に返上、所領は高井郡2万石のみとなった。しかし彼は領内の検地を行って新田開発や治水整備を施すなど所領の
発展に功を成している。正則と言えば兎角“猪武者”という印象が強いが、その実、豊臣政権内での優秀な官僚でもあり、
治世の才がない訳ではなかった。主家である豊臣家滅亡、大減封、さらに息子の死と続いた正則の晩年は不運であったが
高井野藩内の治績は優良なものであり、地元では現在も遺徳が讃えられてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■
1624年(寛永元年)7月13日、福島正則死去。享年64歳。遺体は岩松院に葬られたが、この折幕府の検死を待たず荼毘に
付してしまった為、その不手際を責められ高井野藩は取り潰しとなってしまった。つくづく福島家は不運な末路である。夏の
暑い盛りであったため、遺体の維持が困難であった事から検死を待たなかったと言われるが、実は憤懣やるせない正則は
自害しており、死因をごまかすべく火葬してしまったとの俗説もある。ともあれ、江戸時代初期の城館主が中世城館の跡地
だった寺に葬られたと言うのも何かの因縁であろうか?岩松院に残る正則の霊廟は極めて質素なもので、過去は黙して
語らない。この霊廟は1973年(昭和48年)2月20日、小布施町の史跡とされている。■■■■■■■■■■■■■■■■■
高井野藩改易後、遺領の大半は幕府に収公され天領となった。正則の遺児(忠勝の弟)・市之丞正利に3112石が残された
ものの、彼もまた1637年(寛永14年)12月8日に死去。正利に子は無かったのでこれを以って福島家は断絶、高井野陣屋も
廃止された。(後年、忠勝の孫である伊豆守政勝が2000石の旗本として福島家を再興した)■■■■■■■■■■■■■■
高山村の記録によれば1785年(天明5年)陣屋跡地に浄土真宗高井山高井寺(たかいさんこうせいじ)が移転して来ている。
寺の整備に伴い、幕末の安政年間(1854年〜1860年)陣屋遺構の土塁を崩して堀を埋め立て、現在は敷地東北隅部に高さ
2m・長さ19m程度の土塁断片が残されるのみだが、正則の治績を鑑み屋敷跡は1966年(昭和41年)3月31日、長野県史跡に
指定されてござる。なお、寺の周囲を囲う石垣はこの安政期構築のものなので陣屋遺構ではない。■■■■■■■■■■■

天領支配を行った小布施の陣屋と、堀家の出張陣屋である六川陣屋■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、天領となった高井郡を治めるべく築かれたのが小布施陣屋だ。1701年(元禄14年)に設置されたこの陣屋は、高井郡
周辺の諸村を統治。管轄地域は小布施・雁田・六川(ろくがわ)・清水・中子塚・松村新田・福原新田・大島(以上小布施町内)
駒場・中山田・奥山田・牧・黒部(以上高山村内)・塩野・亀倉・栃倉・村山・米子・井上・中島・相之島(以上須坂市内)・桜沢
(中野市内)の高井郡内22村に水内(みのち)郡(現在の長野市〜飯山市一帯)16村を加えた合計38村、1万9121石である。
代官に任じられたのは市川孫右衛門で、年貢徴収・司法・行政の職制に当たっていた。100m四方の敷地を有したと言う
陣屋は46坪の本屋に加え役人武士や下働の小者を抱える長屋、鎮守の稲荷社などで構成されていたが1715年(正徳5年)
廃止、その機能は中野陣屋(長野県中野市、下記)に統合された。稼動時期僅か15年、今は小布施町内の街並みに埋もれ
遺構らしい遺構は何もない。観光名所「日本のあかり博物館」北側の細い路地(人ひとりがようやくすれ違える程度の細さ)を
入ると、陣屋跡標柱と稲荷社の名残りである小さな石祠があるのみ(写真)だが、小布施町の史跡として1979年(昭和54年)
3月30日に指定されてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
時は移り、小布施陣屋の廃止から約80年後の1792年(寛政4年)、高井郡・水内郡のうち4982石は越後国椎谷(しいや)藩
(現在の新潟県柏崎市椎谷)堀家が領有する事になった。これに伴って、椎谷藩の出張陣屋が六川村に設置され申した。
六川陣屋である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
椎谷堀家については多少の説明が必要であろう。豊臣秀吉旗下“名人久太郎”と称された名将・堀左衛門督秀政には奥田
直政なる従兄弟がおり、主君である秀政を良く支えた。直政の活躍は誰もが一目置くようになり、功を讃えて堀姓の名乗りを
許される。奥田改め堀監物直政の子等も父に違わぬ名将となり、特に4男・式部少輔直之(なおゆき)は徳川秀忠の直臣に
取り立てられ、大坂の陣で奮戦、江戸町奉行や寺社奉行の要職を任せられるようになった。直之の石高は1万石に満たず
大名ではなかったが、後嗣の代に加増されて大名に列し(ただし江戸定府)、越後国椎谷を本領とした。これが椎谷堀家で、
元来の主家である秀政の家系は没落し改易となっているため、宗家よりも繁栄した事になる。しかし、椎谷堀家も江戸時代
中期になると藩政に緩みが生じる。財政の立ち行かなくなった椎谷藩では領内に重税を課したが、逆に巨大一揆が発生し
藩政はなお混乱。遂に幕府が裁定するに及び、椎谷藩領のうち半分を召上げ、それに相当する新たな替地を与えて藩政の
刷新を図ったのでござる。1792年、こうして椎谷堀家に与えられた新領が高井郡9村・水内郡2村で、六川陣屋は椎谷藩から
役人を迎えて統治実務に当たるも、現地の大庄屋・寺島家の者が代官に取立てられる事もあった。所領内訳は高井郡内が
六川・清水・中子塚・中条・羽場(以上小布施町内)・中山田・奥山田(以上高山村内)草間・大熊(以上中野市内)の各村、
水内郡では中御所・問御所(以上長野市内)村にて候。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
陣屋の敷地は六川通りに面しており、東西35間(63.7m)×南北70間(127.4m)。敷地そのものが雁行の矩形となっていて、
東側に正門、南側に裏門を開いた。この中に陣屋庁舎役宅の他、御蔵・馬屋・藩士長屋・砥石蔵・稲荷社などが建てられ、
1868年(明治元年)には藩校の六川修道館が設置され申した。この修道館は明治の学制によって邇言小学校、後の都住
(つすみ)小学校へと改組されている。さらに同年、陣屋敷地の拡張計画もあったと言われるが、明治維新により沙汰止みと
なっているようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こちらも小布施陣屋跡地と同様、現在殆どが宅地化されて遺構らしい遺構は見受けられない。現地案内板によれば石垣や
用水堰が残るというが良くわからない。ただ、稲荷社を改めた奥田神社(堀直政の旧姓に由来)が鎮座し、地図上にも神社の
表記がされているので目印にはし易いだろう。また、陣屋の高札場(写真)が復元されているが、これは旧遺構の屋根部分が
町内共同井戸の庇として使われていたのを戻したものだという話がある。兎に角、こちらも小布施陣屋と同じく1979年3月30日
小布施町史跡に指定されてござる。場所は長野電鉄都住駅の南西側。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■







信濃国 須田氏居館

須田氏居館址 蓮生寺

 所在地:長野県須坂市日滝

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★☆■■■
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中世須坂に蟠踞した須田氏の館■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在は市制を敷いている須坂もかつては高井郡に属する小さな町であったが、ここにも戦国時代の城館と近世の陣屋が
それぞれ存在した。以下は須坂の郷土史とこれら城砦についての説明でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■
古来、須坂の町(須田郷)を領していた土豪は須田氏だった。清和源氏の流れを汲む北信州の名族・井上氏の分流と云う
須田氏は、須坂の領有を鎌倉幕府成立期の源頼朝に起源を求めている。即ち、須田小太夫なる人物が頼朝の近臣に取り
立てられ須田郷を本貫地と定め、鎌倉時代〜室町時代にかけて勢力基盤を拡充していったのだ。そんな中、鎌倉後期に
須田郷から大岩郷(須坂市日滝)へ勢力を広げた須田氏は、南北朝期に北朝へ従い南朝方軍勢を迎え撃つ功を挙げたと
いう。さらに室町幕府が確立するや、信濃守護は小笠原氏に定められたものの、北信濃の国人衆は強権的な小笠原氏の
支配に反抗し国人一揆を展開、この中でも須田氏は中心的役割を果たしていた。戦国時代には北信の雄として村上氏が
抜きん出た力を持ち甲斐武田氏に対抗し続けたが、村上氏の後背地を領する高梨氏・井上氏と並んで須田氏は存在感を
示し、村上氏を補佐する地位を保っている。こうした中で大岩郷に築かれた須田氏の居館が須田氏居館である。■■■■
正確な築城年代は不明であるが、おそらくは室町時代、須田氏が大岩郷での支配力を確固たるものにした頃であろう。
居館の裏手には険峻な山が聳え、そこに築かれた城はその名も大岩城、平時の居館である須田氏居館に付する戦時の
詰め城であった。須田氏居館と大岩城は一心同体、宗家筋にあたる井上氏をも凌駕する勢力を有するに至った須田氏の
本拠地として機能する城館群であった。史料上の初見は1454年(享徳3年)応仁の乱直前の事である。数度にわたる北信
地域での合戦を勝ち抜き、実力を備えてこの居館を構えた須田氏は戦国乱世へと突入していき申した。然るに、御存知の
通り北信濃は南から甲斐武田氏が圧迫し村上氏とその盟胞たちが徐々に窮していく訳だが、須田氏は一族内で武田方に
付く者あり、自尊を貫いて領封を守らんとするも耐え切れず越後長尾氏(上杉氏)を頼る者ありと分裂していく。このような
状況下、須田氏居館は弘治年間(1555年〜1558年)あるいは永禄年間(1558年〜1570年)の頃、武田軍の侵攻に遭い焼き
討ちされ廃絶したと見られる。武田に焼き討ちされたという事から、大岩郷須田氏は上杉に与した側だったようだ。■■■■
この後、須田一族の中で武田方に付いた者は武田家の滅亡と共に没落。一方、上杉家を頼った者はその配下に加えられ、
中でも武田方が滅んだ1582年(天正10年)以降、正式に須田宗家の家督を継ぐ事になった須田相模守満親(みつちか)は
1585年(天正13年)海津城(長野県長野市松代)主に任じられ川中島一帯を守備、上杉家中でも重臣として厚遇されたので
ござる。川中島以北の信濃は上杉領として維持されていたが、しかし豊臣秀吉の天下仕置きで1598年(慶長3年)上杉家は
会津へと転封になってしまう。これに伴い、満親後嗣の須田大炊頭長義(ながよし、満親2男)は陸奥国梁川(福島県伊達市
梁川町)2万石へと居を移し、須田氏と信濃の縁も終焉を迎え申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在、須田氏居館址は真言宗馬隆山蓮生寺の境内になっている。本堂のある場所が居館中心郭であったと見られ、寺内
敷地各所ならびに大岩城へと通じる斜面の随所が削平地として曲輪の段を構成してござる。中世城郭を見慣れた人なら、
ひと目見て「是は如何にも」と思える平場や切岸がそこかしこに並んでおり、地面を掘り返すと炭化した米や粟などの糧秣
(焼き討ちで焼亡した兵糧)・土器・石臼・石棒といった往時の居館で用いられていた生活用具が出てくると言う。■■■■
なお、居館址は対象外のようだが大岩城址は須坂市の指定史跡になっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

土塁・郭群等








信濃国 須田城(須田古城)

須田古城 主郭跡

 所在地:長野県須坂市臥竜

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★■■■
★☆■■■



須田氏の出城?分流の城?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方こちらは須坂市の中心街、現状で臥竜(がりゅう)公園となっている敷地にあった須田氏の山城。須田氏は須田郷から
大岩郷へと進出したとの経歴なので、上記の須田氏居館は新領での居館、こちらの須田城の方が本貫地と言う事になろう。
須田「古城」とされるのはその為でござろうか? しかし大岩郷に本拠を構えた事から、この城は須田氏の出城と云う扱いを
されているのが一般的である。或いは、大岩郷に居を構えた須田宗家(大岩郷須田氏、上記の須田満親に繋がる家系)と
異なる須田郷須田氏が持った城と考える説もある。大岩郷須田家と須田郷須田家が分裂したのは戦国期になってからの
事と言い、それは即ち武田に属するか上杉に属するかの相克を招いた。大岩郷須田家は相模守満国―満親および満国の
弟である満泰の一派で上杉方に与し、須田郷須田家は刑部少輔信頼―左衛門佐信正の父子でこちらは武田家に臣従。
必然的に、須田城は武田の城として使われた事だろう。なお、系図上で満国・満泰と信頼は兄弟であるが、そもそも須田家
系図はいくつかの説があるので正しいかどうかは分からない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さりとて、武田家が滅亡し結果的に北信濃は上杉家の勢力範囲となったのは上記の通りだ。武田方であった須田信正は
上杉左近衛権少将景勝に従うを余儀なくされたが、1585年に安曇郡にある千見(せんみ)城(長野県大町市)への出兵を
命じられそれを拒否したため、景勝に謀殺されている。斯くして須田郷須田家は滅亡するのだが、須田城の廃城はそれより
少し後、須田満親が上杉景勝に従い会津へ去った時の事と見られている。とすると、須田城が須田氏の「出城」と言うのは
須田郷須田家の成立以前と、須田郷須田家の滅亡から会津移封までの限られた期間を指しているのかもしれない。■■■

近代都市公園の名作・臥竜公園に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
須坂市街地の南東隅部に位置する臥竜山は、山頂の標高471.5mを指す北峰と、それに附属している高さ470.6mの南峰に
分かれている。北峰の方が僅かに高く大きいのだが、須田城は南峰を使って築かれた。山麓での標高は400m強なので、
比高差は60m超と言った感じだ。この南峰の山頂が主郭、そこから北西(須坂市中心街方面)へ尾根が延びており、主郭
北西下段に副郭が削平されている。主郭は30m×10mの規模、副郭は15m×10mの大きさで、両者の間には堀切と思しき
起伏が見受けられる。この山頂部一帯を取り巻いて帯曲輪が巡り、部分的にはそれが横堀のようにも見える。須田城が
武田家に従属したのなら、武田系築城術が取り入れられ、主郭を囲う横堀が導入されてもおかしくはないだろうが、これは
あくまでも私見。話を須田城の縄張りに戻すと、副郭の更に先、北西側尾根の先端(南峰部の北西端)には物見郭と思しき
曲輪も付随する。現在、この物見郭の突端には東屋があって、そこからは須坂市街地の眺望が開けている。城山の北側
斜面には数条の竪堀があるとされる一方、南側は絶壁となって隔絶し、侵入者がこちらから登るのは難しい。また、南峰と
北峰を結ぶ尾根(南峰山頂から北東方向への尾根)は基本的に一列で、そこも数段の削平地になっている。往時はここも
城域だったのか、尾根の北端(北峰主山塊との接続部)には堀切が掘削されているものの、後世の改変が大きく、あまり
城跡らしい情景は見受けられない。こちらの尾根には江戸時代に須坂藩を治めた堀家(下記、須坂藩陣屋の項を参照)の
霊廟や、観音堂が置かれている。また、臥竜山を含む周辺一帯が1931年(昭和6年)都市公園として整備され、現状では
臥竜公園になっていて、市民の憩いの場とされてござる。当然、それに応じて広大な駐車場もあり来訪も簡単だ。公園には
須坂市の動物園もあり、近年ではそこがTV番組で取り上げられ某アイドルグループの聖地になっていたのだとか(笑)■■
なお、臥龍山の南北両峰に抱かれる形で大きな池(竜ヶ池)が水を湛えており、如何にも城の濠だったように見えるのだが、
この池は公園の開設時に作られた人造湖で、それ以前は桑畑であったそうだ。ただ、その桑畑を囲うように土塁が残存し、
そこが須田城の山麓居館地であった様子を物語っている。現在、その土塁が竜ヶ池の堤防として取り込まれているとの事。
須田古城跡は1970年(昭和45年)5月25日、須坂市の史跡に指定されてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
余談だが臥竜公園は日本さくら名所100選・日本の名松100選・長野の自然100選と言った数々の名選に挙げられる景勝地。
(臥竜山は全山が赤松に覆われ、その麓の公園には桜の木が大量に植えられている)■■■■■■■■■■■■■■■
この公園内には須坂市立博物館もあり、その屋外展示として須坂藩陣屋(下記)の詰所建築物の切妻屋根部分が置かれて
いる。公園の野原に建物の「屋根だけ」が鎮座する光景はなかなかに奇妙なのだが、古建築に興味のある方は必見。公園
散策路は竜ヶ池の縁から南峰〜北峰を経て一周しているので、登山は簡単に行える(とは言っても比高差はそれなりだが)。
余談の余談だが、「臥竜公園」「臥竜山」の「臥竜」は、山の南に1493年(明応2年)開かれた曹洞宗の寺院・興国寺の山号が
臥龍山であった事に由来し、それまでは臥竜山の事を単に“小山(こやま)”と呼んでいたそうだ。ただ、小山の名はいつしか
須坂の町を示す固有地名に転化し、現在でも須坂市街地の町名になっている。一方、寺の山号である筈の「臥龍(臥竜)」も
伝説が作られ、昔々に長者の娘と恋仲となった若者がその長者に結婚を阻まれ竜の姿となって暴れまわるも、それを見た
娘が嘆き悲しんだ処、竜は静かに臥して山になったとか。伝説が先か山号が先か、今となっては探るだけ野暮な話である。



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は市指定史跡








信濃国 須坂藩陣屋

須坂藩陣屋跡石垣

 所在地:長野県須坂市須坂

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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主家は倒れ、名を受け継いだ奥田堀家の統治陣屋■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、上杉家の会津移封後にその旧領を治めるようになったのは堀家であった。堀家は上記の“名人久太郎”こと堀秀政に
始まるが、この時に入封したのは秀政の子・左衛門督秀治である。秀治は領内統治に家臣団を分散配置、須坂には奥田
直政を封ず。椎谷堀家の説明にある堀監物直政の事だ。直政は1608年(慶長13年)2月26日に没し、須坂領を継いだのは
その5男・淡路守直重。直重は1614年(慶長19年)大坂冬の陣で活躍し徳川将軍家からの褒賞目出度かったのだが、一方
主君である越後守忠俊(ただとし、秀治の後嗣)は御家騒動を引き起こした為に改易。■■■■■■■■■■■■■■■
これらの結果、須坂の直重は1615年(元和元年)独立大名として立藩する事となり1万2000石の所領を有した。だが、この
石高では城持大名にはなれなかったので統治実務の本拠として陣屋が設置された。■■■■■■■■■■■■■■■■
これが須坂藩陣屋(須坂陣屋)でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
所領1万2000石の内訳は高井郡須坂13ヶ村1万石と、飛地である香取郡矢作(千葉県佐原市)2000石とされ、1615年8月の
初入国の折には浄土真宗大岩山普厳寺に仮陣屋を定め、この陣屋の構築を命じたと言う。ところが藩祖の直重は1617年
(元和3年)6月17日に没する。跡は長男の淡路守直升(なおます)が継ぐも、この相続時に直升は次弟の直昭に1000石を、
3弟の直久と末弟の直秀に500石ずつを分知。合計2000石は飛地の矢作を分与したため須坂藩領は高井郡内のみ1万石と
なった。以降幕末までこの領地が確定、須坂藩政を確立したのは直升の代であると言え、須坂藩陣屋が実働し始めたのも
この頃からだろう。直升以後、須坂藩主の座は肥前守直輝(なおてる)―長門守直佑(なおすけ)―淡路守直英(なおひで)
―長門守直寛(なおひろ)―淡路守直堅(なおかた)―長門守直郷(なおさと)―内蔵頭直皓(なおてる)―淡路守直興
(なおおき)―内蔵頭直格(なおただ)―淡路守直武(なおたけ)―長門守直虎(なおとら)―長門守直明(なおあきら)と
継承されて明治維新に至る。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

名藩主が背負った赤誠の途■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
11代・直格は文人として知られると共に藩校の立成館を創立。その長男、直武は財政改革に取り組むも難航。藩主の座を
譲り受けた直虎が新たな藩政改革に着手して、古参の老臣と言えど功績なき者を処断、家老を含む41名を追放し藩政の
遅滞を改めた。当時、藩の役職者は賄賂が横行した上に領民へ重税を課したり法外な高利貸しを働いていた為、直虎は
詳細な調査の後、こうした悪行を慣習としていた者たちを処分。また、領民に対しては1年間の免税を行った上、藩による
金貸しを廃止した。それまでの貸付金も帳消しにしたと言う。さらには西洋列強への備えとして洋式兵制を導入し、藩兵を
オランダ式に再編している。こうした功績が評価され、大政奉還後の最幕末期ながら幕府若年寄に任じられ、外国総奉行の
役を勤めるようになった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが既に幕府は瓦解の一途を辿り、鳥羽伏見の戦いで敗れた事から徳川将軍家は朝敵の汚名を着せられてしまう。
幕府復権を目指した直虎は将軍・徳川慶喜に再起を促したと言うが、時流は徳川家に逆風であり、この進言は退けられて
しまった。進退窮まった直虎は即日、江戸城(東京都千代田区)中で切腹して果てる。■■■■■■■■■■■■■■■
ところが、この一件で逆に“徳川家は朝廷に恭順を貫く”事が鮮明になり、新政府軍による江戸総攻撃の回避、徳川宗家
(一大名家としての)存続が認められるようになったと言われている。直虎の行いは、「逆説的ながら」徳川家を守る事への
多大なる貢献をした事になろう。一方、直虎の死によって急遽藩主となった直明は、幕府の復活は望めない事が確定的と
なった情勢に鑑みて朝廷への積極的貢献を選択、須坂藩兵を新政府軍に協力させ戊辰戦争を戦う事となった。この結果
明治維新後、須坂藩には賞典禄5000石が下賜された。また、気骨の士である直虎に1924年(大正13年)1月、宮内省から
従4位が追贈され忠節が顕彰され申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
このように、有名ではないが須坂藩堀家は幕末の動乱に大きな影響力を及ぼしていた。■■■■■■■■■■■■■■

明治維新後、姿を消した陣屋と移築遺構■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
維新後、版籍奉還で堀直明は須坂知藩事になり陣屋は東京鎮台が管轄する事になる。さらに1871年(明治4年)7月14日の
廃藩置県により直明は知藩事の職を解かれ東京に移住。主を失った陣屋は1872年(明治5年)破却されたのだった。この後
陣屋跡地には須坂町役場庁舎が建設されたが1889年(明治22年)焼亡、程なく再建されるも1938年(昭和13年)別の場所に
新庁舎が建てられた為、役場機能は移転してござる。その後もこの建物は上高井教育会館として用いられていたが1996年
(平成8年)老朽化の為、取り壊されている。結果、現在の陣屋跡地は須坂小学校敷地や奥田神社の境内となっており申す。
この奥田神社は六川陣屋跡地のそれと同様、藩主・堀氏(旧姓は奥田氏)を讃えて創建されたもので、祭神は初代藩主の
直重(直重大明神)と幕末の名君・直虎(直虎大明神)だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
往時の陣屋敷地内には母屋の他、鐘楼や門・鎮守稲荷社・藩士長屋などの建物があった。現状、跡地に残る陣屋時代の
遺構は須坂小学校北側境界となっている石垣(写真)のみだが、こうした建物は移築されたり遷座する事で現在にまで
受け継がれているものがある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
まずは鐘楼。須坂藩8代藩主・直郷は民政に意を配り、城下に時刻を知らせる為1782年(天明2年)鐘を造り楼上に掲げた。
9代・直皓が鐘を鋳直して新装、以来昭和まで時鐘は鳴らされていた。大正時代になって街区整理に伴い鐘楼は常盤町に
移転、更に第2次世界大戦中の金属供出令で伝統ある鐘は滅失したが2000年(平成12年)10月、奥田神社が寄贈する形で
復刻され鐘楼上に戻された。これが今に至っている鐘楼で、1975年(昭和50年)4月1日に楼建物は市指定文化財となる。
続いては奥付門。陣屋統治時代、陣屋大手門から道沿いに続く屋敷列の中に開かれた長屋門(これを奥付門と言う)が、
廃藩後に払い下げられ須坂市内にある遠藤酒造店の店舗部分として現在活用されている。陣屋時代は10代藩主・直興の
夫人である寛寿院、さらに12代藩主・直武の夫人である寛栄院が居間として用いていた建物と伝わり、本瓦葺き切妻造り
鬼瓦や鎧瓦には堀家の家紋である亀甲卍が入っている。旧来の門では大扉が観音開きで取り付けられていたが、改造に
伴い1960年(昭和35年)撤去されている(現状、門扉の開口部分が店舗の玄関間口になっている)。■■■■■■■■■
お次は稲荷神社。陣屋創建以来、京都の伏見稲荷神社を分霊して陣屋の守護神とした社が敷地内にあった。この社の
燈籠には1802年(享和2年)の碑文が入っている。陣屋の破却後も社は残されていたが、明治時代の道路拡張で社殿の
向きが変更され、更に明治政府が国家神道政策に伴う神社合併令を布告した事で1910年(明治43年)に墨坂(すみさか)
神社(須坂市須坂芝宮)境内へ合祀移転させられた。されども地元住民の要望によって1919年(大正8年)旧地へと戻され、
現在では町の祭神として陣屋稲荷の名で維持されており申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
加えて藩士長屋についても記載しておく。陣屋敷地内外で須坂藩士の住居長屋は江戸時代を通じ建てられていた訳だが
特に江戸末期から明治初頭にかけて江戸詰めの藩士が帰国した事で長屋が新造された例が多く見られる。旧来からの
建物も含め、市内の各所にはこれら武士長屋が現存点在しているが、その中でも須坂市歴史的建物園(須坂市野辺)に
移築保存されている1棟は2012年(平成24年)2月29日、須坂市指定の有形文化財となってござる。陣屋を取り囲むように
配置された武家屋敷群は大半が石垣の上に築造されて、この長屋列そのものが城の多聞櫓さながらに陣屋外郭の防備
拠点として機能する造りとなっていた。歴史的建物園に移築された屋敷は11戸列の長屋を構成していたうちの1棟を切り
取ったもので、2階建てだが内向き(陣屋側)は大屋根を流して1階建ての様相になっている。藩主に対しては高層建築から
見下ろす不敬を避けたものであろう。反対側(外側)は2階建ての面構えで、戦時となれば重層多聞櫓の様に多重の火網を
形成して敵を撃ち取るようになっていた。内部は1階部分に6畳間が2室・土間・濡れ縁などが並び、2階は10畳一間になって
いる。これまた屋根瓦には堀家の亀甲卍が入っていて、武士個人の家とて藩主の為のものという忠勤報国の武士思想が
如実に現されている。なお、これ以外にも足軽長屋は現存しているものがあり、先に記した陣屋稲荷の並びにも古建築を
転用した一般住居が残存しているが、改装が激しい上に老朽化が著しく、保全の危機に瀕しているようだ。■■■■■■■
加えて、須田城の項で記した通り陣屋詰所の切妻屋根部分だけが臥竜公園内に設置されている。■■■■■■■■■■
須坂市内にはこれ以外にも多くの城砦跡が散在しており、城郭愛好家にとっては見所が多い。■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

足軽長屋・石垣
陣屋域内は市指定史跡

移築された遺構として
鐘楼・藩士長屋1棟《市指定文化財》・遠藤酒造場店舗(奥付門)・詰所屋根(部分)








信濃国 高梨氏館

高梨氏館跡

 所在地:長野県中野市小舘

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆
★★☆■■



「中野」の地に地盤を築いた「高梨」氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
高梨城・中野城・中野御館・中野小館(なかのおたて)とも。所在地の地名、中野市「小舘」も「おたて」と読む。■■■■
言うまでも無く、その名の通り高梨氏が戦国期に居館とした城館でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
高梨氏の起源は清和源氏井上流とされ、八幡太郎義家(源氏総領)の叔父・井上三郎頼季(よりすえ)を遠祖と称する
一族と言われる。そもそも「井上」は高井郡内にある地名で(現在の長野県須坂市井上)信濃国内に所領を得た頼季の
後裔が信濃源氏として派生していった中の1家が高梨氏という事だ。「高梨」の地名も同様に須坂市内にあって、そこが
高梨氏発祥の地なのだが、源平の戦い〜鎌倉幕府創設〜中先代の乱〜南北朝動乱(いずれも信濃は激戦地)という
一連の流れの中で高梨氏は勢力を拡大し、次第に北へと領土を広げていったのだった。その結果、戦国時代に入る頃
高梨摂津守政盛(まさもり)が高井郡中野(現在の中野市)に居館を築いた。これが高梨氏館である。ちなみに、中野の
地は元々中野氏の領土であった。遡れば平安時代、朝廷の官牧であった信濃国「中野御牧(なかのみまき)」が当地の
興りであり、そこへ入植した藤原秀郷(ひでさと、俵藤太(たわらのとうた)の名で東国武家の始祖に位置付けられる)の
後裔である藤原助広が、平氏政権(1170年(嘉応2年)2月7日付)〜木曽義仲(1180年(治承4年11月13日付)〜阿野全成
(あのぜんじょう、源頼朝の弟)(1183年(寿永2年12月7日付)〜鎌倉幕府(1192年(建久3年)12月10日付)の其々から
所領安堵状を受けた。中野西条(にしじょう)地頭職となった助広は中野と改姓、以後中野氏が代々ここを治めた訳だが
戦国期、高梨氏がこれを追って支配下に置いたのだ。館は永正年間(1504年〜1521年)?に築かれたとされ、政盛以後
澄頼―政頼と続き、館が完成したのは政頼の頃だと言われている。高梨氏は北信濃の有力者として重きを為していき、
村上氏に次ぐ実力者となっていった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

武田の攻略、上杉との縁戚、村上との共闘、揺れる高梨氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
高梨政盛の娘は越後守護代・長尾信濃守能景(よしかげ)に嫁ぎ信濃守為景(ためかげ)を産んだとされる。為景の子が
長尾景虎、即ち上杉謙信。つまり政盛の孫が謙信と言う事だ。また、澄頼の娘・於フ子(おふね)は村上佐渡守義清へと
嫁いでおり、高梨氏を橋渡しとして村上義清と上杉謙信は縁戚という繋がりを作っていた。高梨氏と村上氏は戦国初期
相争う関係にあったものの、甲斐武田氏が信濃への侵攻を開始すると共同して当たる事になっていく。村上義清は武田
大膳大夫晴信の攻勢を数度に渡って凌ぎ武勇を見せたが、1551年(天文20年)5月に要衝の砥石城(長野県上田市)を
落とされた後は防戦敵わず、1553年(天文22年)遂に所領を失って越後の長尾景虎を頼った。義清に追従していた高梨
政頼も危機を迎え、高梨領周辺の豪族も次々と武田方へとなびいていった為、本拠地・中野を維持するのが難しくなる。
政頼も長尾景虎を恃む外交戦術を繰り出し、景虎は以降数年に及ぶ川中島出兵を開始する中の1559年(永禄2年)3月
武田軍の名将・高坂弾正忠昌信(こうさかまさのぶ)の軍略により高梨氏館は陥落したと伝わる。これは江戸時代中期に
記された信濃の地誌「千曲之真砂(ちくまのまさご)」に記録されているものだが、実際の落城時期は不明である。■■■
武田家が接収した館は、武田方へと降った高梨家臣・小島氏が管理したとの事。■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、政頼が中野を退いたのは確かで、より北にある飯山城(長野県飯山市)に拠る事となった。既に単独で所領を
守り切れなくなった高梨氏は長尾景虎つまり上杉謙信の家臣たる位置付けとなり、1561年(永禄4年)9月の第4次川中島
合戦では政頼の子・弥五郎頼親(よりちか)が上杉軍の先鋒として参戦。飯山で雌伏の時を過ごし、1582年(天正10年)に
武田家が滅亡、続いて本能寺の変で織田家の脅威も去ると上杉家の影響力が信濃へと及ぶようになり、ようやく所領を
回復する事が出来たとされる。頼親は高梨氏館へ入ったものの、1598年(慶長3年)豊臣政権によって上杉氏が会津へと
国替えになると、高梨氏もそれに従って遠く陸奥の地へと移った。一方、異説もあって移封に先立つ1597年(慶長2年)、
頼親は突如上杉家から改易されて所領を失ったとする説もある。いずれにせよ、こうして高梨氏は中野から去る事になり
それに伴って高梨氏館は廃絶したのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

発掘調査で明らかとなった数々の遺物■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで、高梨氏の庶流に東海地方へ移住し江戸時代には尾張藩の家臣となった尾張高梨氏一族がいる。天和年間
(1681年〜1684年)高梨氏の旧臣である畦上(あぜがみ)六兵衛らがその尾張高梨家へ高梨氏館跡地を献上。館跡は
尾張高梨家が管理するようになり、1876年(明治9年)からは館跡に移住する。こうして館跡には一族の末裔が居住する
事となったが、1986年(昭和61年)に敷地が中野市へ寄贈され、1991年(平成3年)には居宅部分も寄贈となる。それに
前後して1986年から1992年(平成4年)にかけ発掘調査が実行され、敷地内から多数の土師器・陶器・古銭などが出土。
曲輪の中心部には礎石建物跡が5棟分、掘立柱建物の跡が7棟分、合計12棟の建物が確認され申した。虎口は東面の
南寄りに1箇所、西面には北側と南側にそれぞれ1箇所、合計3箇所開いていたようで、水を誘引する水路も整備されて
いたとの事。大手口は南西隅の虎口。現状では南面にも出入口や木橋が設けられているが、どうやらこれらは往時の
遺構とは異なるもののようだ。特筆すべきは敷地の南東隅部に庭園跡が検出された事で、創建当初は水を引き入れた
池泉回遊式庭園であったものが、時代を経て枯山水庭園に変更されたものらしい。発掘によって枯山水に必須の滝石や
池の中に島を模した石が検出され、現状その様子が再現されている。但し、国史跡指定(後記)の登録詳細に於いては
給排水に関する明確な構造物は検出されていない為、池泉式ではなく枯山水としての遺構であると記されてござる。
いずれにせよ、庭園遺構が確認されたのは長野県内の城郭遺跡では唯一のものとし貴重。と言うより、全国的に見ても
庭園を有する城館は「一定以上の格式・支配力・経済力」を有する大名の居館にしか見られないので、高梨氏が当時
北信の雄として絶大な力を持っていた証となる遺構でござる。その池に面した礎石建物が、検出された建物跡の中では
最も大きい為、これが主殿と考えられている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
曲輪内部に関しては最終遺構面より深い地層まで掘り進めなかったとの事だが、土塁に関しては完全な断面を分析。
その結果、元々は築地塀が建てられていた場所をそのまま(塀ごと)土で埋め固めて版築土塁とし、更にその上から
土砂を被せて大型化させたという3段階を経ていた事が分かった。この館が継続的に改修されていた事の証左である。
土塁は最も高い所で3.5m、低い所でも1mは残存。また、曲輪の四方を囲う堀は幅10m、深さ3mはあり、V字型の断面を
有する薬研堀を成していた。高梨氏館は単郭方形居館で、東西130m×南北100mほどの規模。その外周をぐるりと堀と
土塁が囲い、東西方向のほぼ中心部に折れを構えた横矢掛かりが存在する。この為、西側敷地よりも東側敷地の方が
少し広い面積となってござる。北信濃では最大級の武家居館であり、高度な水利設備や文化的な庭園を備える極めて
高尚な城館と言えるが、その反面、戦時の防備に向く構造ではない為、有事の際にはすぐ隣の山に構築した詰めの城
(鴨ヶ嶽(かもがたけ)城、中野市内)へ籠ったと想定されている。なお、出土遺物の年代を測定した所、14世紀後半から
16世紀末までの約250年間に及ぶため、永正期と伝承される創立年代よりも前からこの館が用いられていた可能性も
指摘されている。畦上氏(上記にある畦上六兵衛の一族、高梨家の家老)の記録「高梨由来記」には、南北朝時代の
1351年(正平6年/観応2年)築城との説が記されているが、果たして真相は?若しくは中野氏時代からあったのか?
それはさて置き、館跡は2001年(平成13年)11月2日から高梨館跡公園として一般開放されており申す。それに先立つ
1969年(昭和44年)7月3日、長野県史跡に指定されていたが、非常に優良な遺構が残存、整備保全も行われた事から
(元来の遺構は埋設保存、現状の公開遺構はその上に再現したもの)2007年(平成19年)2月6日に改めて国史跡として
指定された。とにかく美しい土塁・堀は圧巻!そして貴重な庭園遺構に、悠久の時の流れを体感して頂きたい名城だ。
桜の名所・高遠城(長野県伊那市)から寄贈植樹された高遠小彼岸桜の花も(その季節には)見ておきたいものである。



現存する遺構

井戸跡・池泉庭園・水路・堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡








信濃国 中野陣屋

中野陣屋址

 所在地:長野県中野市中央

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★■■■
★☆■■■



北信地域を統括する天領陣屋■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
上記、須坂藩陣屋の項目で堀忠俊の改易(取り潰し)について僅かに触れたが、堀久太郎家が除封された事で信越に跨る
領地を得たのが長沢松平左近衛権少将忠輝(まつだいらただてる)であった。忠輝は徳川家康の6男、そして彼の岳父は
奥羽の独眼竜、伊達陸奥守政宗である。何とも高貴な血筋であるが、それが災いしてか、忠輝は驕慢・粗暴の振る舞い多く
父の家康や兄の秀忠、つまり大御所や将軍に嫌われた。結果として1616年(元和2年)7月6日、これまた改易処分を受けて
流罪に処せられてしまう。忠輝領は分割され他の大名に宛がわれたり、天領(幕府直轄地)となった訳だが、この事件により
中野をはじめとする北信地域にも天領が発生する事となった。そのため設置されたのが中野陣屋、天領代官所である。■■
(戦国末期の上杉家統治時代にも支配陣屋が置かれており、それが継承されたとする説もある)■■■■■■■■■■■■
中野の地は1618年(元和4年)〜1643年(寛永20年)に旗本・河野(こうの)氏の所領、1682年(天和2年)〜1702年(元禄15年)
坂木藩(長野県埴科郡坂城町を所領とした藩)領となった時期があったものの、それ以外は天領として明治まで続き、その間
55代、延べ61人(同時期に2名が任命された事例があるため)の代官が赴任した。中野陣屋はその支配実務を担った訳だが
河野権兵衛氏勝(うじかつ)―藤左衛門氏利(うじとし)の河野氏時代を含め継続使用されたのみならず、1724年(享保9年)
北信濃の天領陣屋が統廃合された事により、この中野陣屋が他の天領も管轄するようになった。時代によって差はあるが、
概ね5万石〜6万石程度の幕府領を統治していたそうである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この陣屋は何度か火災で焼亡しているが、記録に残される1840年(天保11年)の大火以後、東西48間(約87m)×南北36間
(約65m)の敷地を有したとされる。陣屋の建築費や修繕費は管轄下にある村が負担したとか。現代でも市町村役場が損傷
したならばその自治体の公費が使われるであろうが、村民が直接的に補修費を実費供出させられるというのもなかなかに
大変だったと想像させられ申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

封建時代が終わった後も公共施設に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
大政奉還に伴い幕府が消滅した(天領廃止)後、1868年3月からこの陣屋は天朝御料の尾張藩取締所管轄となり、更に同年
8月には伊那郡中野分局として再編、1870年(明治3年)9月17日には中野県が発足しその県庁とされ、時代の大激変を示す
場所となった。そうした時代の動揺は中野騒動と呼ばれる事件に極まる。発足したばかりの中野県では国の意向で増税策が
採られ、隷下の村民は大いに困窮した。近隣の藩(まだ廃藩置県前なので、旧来の藩と政府直轄の県が混在していた)では
世直し一揆が続発し一部その要求が容れられた事から、中野県でも1870年12月19日に蜂起が発生し一揆勢およそ2000人が
県庁を襲撃する。庁舎は焼き討ちされ、役人も殺害された事から鎮圧の兵が出動する大騒動となってしまう。2日後の21日に
一揆勢は散開したが、この事件で県庁舎を失った中野県は政府に県庁移転を上申し、これが認められ翌1871年6月22日に
中野県は長野県へと変わり水内郡長野村(現在の長野県長野市)へと機能が移されたのでござる。■■■■■■■■■■■
この後、中野には1873年(明治6年)研智学校が開設され、それが1882年(明治15年)教育令の改正に伴い中野学校と改まり
それを機として陣屋跡地に校舎が建てられた。中野学校は運営団体が変わりつつ1889年4月1日に中野町(町制施行)発足で
中野尋常小学校となっていたが、1896(明治29)年に新校舎が建てられた事で移転している。学校が無くなった後には1936年
(昭和11年)に下高井郡中野町役場が建てられた。これが現在この場所に建つ建物(写真)だが、役場は1963年(昭和38年)
場所を移して新庁舎が出来た為、この建物は公民館、更に中野市立図書館へと転用されていく。最終的に1994年(平成6年)
中野陣屋・県庁記念館と言う観光資料館に改装されて現存。窓ガラスこそ入っているものの、唐破風を備えた式台を正面に
突き出した長屋建築は、ともすれば陣屋遺構建築にも見えてしまう程に立派で趣がある。■■■■■■■■■■■■■■■
明治以降、諸々の公共施設に転用されたため、陣屋本来の遺構はあまり残されていない。それどころか、敷地がどこまでの
範囲だったのかも判然としない状況。周囲一帯は完全に住宅地となっているからだ。ただ、よくよく見てみれば隠された遺物が
近隣に点在している。中野陣屋・県庁記念館の敷地隅にある石垣は(あまりそう見えないが)旧来の遺構だそうで、恐らくその
前を流れる細い水路も、堀の名残りであろう。また、記念館の真北80m程の場所にある小さな空き地には、陣屋で使用されて
いた井戸が残る。日蓮宗甘利山鈴泉寺参道の出入口から見て右斜向かい(寺の南西側)と言う実に説明し難い位置なのだが
市が設置した案内看板が道路沿いに立っているので、根気よく探せば見つかるだろう。なお、井戸の上屋は遺構保護のため
最近になって建てられたものなので、陣屋時代の建物ではない事に注意。井戸の深さは約12.6m、円筒形の井戸穴は側面が
切石で固められている。また、井戸枠の石組には「不忘井」との刻印が。忘れじの井戸、とは何とも切ない雅称である。■■■
こうした現況から1964年(昭和39年)11月26日、中野県庁跡(中野陣屋跡)の約9200uが長野県史跡となっており申す。■■
余談だが、古井戸の前にある鈴泉寺の山門は飯山城(長野県飯山市)からの移築門と伝承される立派なもの。中野陣屋跡を
訪れる際にはそちらもご覧あれ。中野陣屋・県庁記念館の目の前に大きな観光駐車場があるので、来訪は簡単だ。■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・石垣
陣屋域内は県指定史跡








信濃国 内堀館

内堀館跡 史跡標柱と解説板

 所在地:長野県中野市大字上今井
 (旧 長野県下水内郡豊田村上今井)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★★☆■■
■■■■



住宅街の中にある見事な土塁と堀■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
当頁は旧高井郡についての城館を記載してきたが、この内堀館は下水内郡豊田村の領域にあった城館である。されど、
豊田村は中野市(千曲川の対岸、元来は高井郡)と2005年(平成17年)4月1日に合併しその市域に含まれた為、便宜上
高梨氏館や中野陣屋と共にこの頁にて記載する。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
館の所在地はJR飯山線の上今井駅から真南に400m弱。上今井集落を構成する住宅街の南端に、四角く森で囲われた
1件の個人宅がある。この森が即ち土塁、その外周のおよそ半分には堀も付随する。これが内堀館跡だ。上今井の町は
千曲川が円弧を描いて流れる内周にあり、その中を国道117号線や飯山線の線路が縦貫している。内堀館跡はこれらの
住宅地から見て最も外側、往時は千曲川の流路(氾濫原)がもっと広かった為、川を背にした立地であった。敷地としては
典型的な中世方形居館の体であるが、堀が半分だけと言うのは、川側はそのまま千曲川が巨大な天然の濠となっていた
からで、川と反対側の面(西〜北〜東)だけに堀を掘削する必要があったと言う結果である。故に、南面に堀が無いのは
「後世の開発で埋められてしまった」のではなく「元々そちら側には堀を必要としなかった」事の現れだとか。これは2006年
(平成18年)3月に行われた中野市教育委員会による発掘調査によっても検証されてござる。なお、館の所在地は千曲川
支流の本沢川が作り出した扇状地であり、館の濠は湧水によって賄われていた。また、現状の千曲川の河道も幕末期に
瀬替えが行われた結果のものなので、当時はもっと複雑に蛇行を繰り返し、館の周囲は「1本の千曲川が多重の濠となる」
防備に適した環境を作り出していた。更に、こうした環境で生成される沖積地は豊穣な耕作地にもなっていた。開拓武士の
居館を置くにはうってつけの場所だったと想像できよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
館の大手は西面に開かれていた。現在でも、この場所は道路に面していて住居の長屋門が建てられている。但し、現状は
土橋のように地続きで出入口が構えられているものの伝承では濠に跳ね橋を架けていたとされる。方形の土塁は北西端と
南西端に一回り大きい高まりが構築されており、西面の大手口を堅く守るよう睨みを利かせていた。また、大手口より南の
濠は道路敷設により埋められてしまっているが、往時はそこまで濠が延びていた。堀に関して付け加えると、館の名称が
「内堀館」となっているからには、外堀もあったと想定されているようだが、現在は市街地化した周辺でそうした遺構は確認
されず、大規模な調査も出来ない事からそれを裏付ける証拠は見つかっていないとの話である。■■■■■■■■■■
現在の堀幅はおよそ10m、館の敷地は東西60m超×南北55m程。発掘から推定すると、当時の堀幅はもう少し広かったと
考えられている。出土品は中世の土師器・内耳土器・須恵器と言った焼物が大半であったが、五輪塔の部材も1点検出。
現地には石垣も存在しているが、これは後世になって新たに作られたものだ。その反面、現在も住居として使われている
建築である母屋・門・土蔵・稲荷社などはいずれも江戸時代から残るものとして貴重な建物である。この母屋は飯山藩が
参勤交代をする際に宿泊所として使われた本陣でござった。また、稲荷社も館の屋敷神として祀られてきたものだ。故に、
江戸時代には確実にこうした構造物(土塁や濠を含む)が存在していた事になる上、それは飯山藩が築いた訳では無い為
その以前(つまり中世)から連綿と使い続けられてきた豪族の館が本陣として取り立てられた歴史を物語る。さりとて、この
武家居館の来歴に関してそれ以上の史料が無いため、創始がいつなのか、誰の手に拠るものなのかは皆目分からない。
逆に、来歴不祥の館にも関わらずこれだけの遺構が残存するのは非常に見事と言えるだろう。よって、内堀館跡は1988年
(昭和63年)5月に当時の豊田村指定史跡となり、1997年(平成9年)8月14日には長野県指定史跡となっており申す。■■
写真は大手口付近の土塁とそこに掲出された史跡標柱ならびに解説板。堀と土塁の見事さには感心させられるが、先に
述べた通り現在は個人宅であるため勝手に中へ入る事は憚られる。周辺には駐車余地もなく、病院がすぐ近くにあるので
騒ぎ立てるような事も控えたい。あくまでも外からそっと眺めるだけの見学を。■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群
館域内は県指定史跡




荒砥城  安曇野市北部諸城郭