高井郡の歴史に見え隠れする荻野氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
長野県北東端部、現在の栄村〜須坂市にかけての一帯はかつて高井郡とされており、明治維新後の郡区町村編制法にて
1879年(明治12年)1月14日に上高井郡と下高井郡に分割された。この頁では、郷土の歴史に沿いつつ、高井郡内の城館に
ついていくつか説明いたしたく候。なお、栄村は現在の行政区分で下水内(しもみのち)郡となっているが、近世までは大半が
高井郡であった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
今や北信濃有数の観光地となった小布施町、それに隣接する高山村。小布施といえば葛飾北斎所縁の町、或いは特産品の
栗やリンゴを使った郷土色豊かな銘菓で人気が高く、昔からの町並みが見事に残されている。当然ながらその歴史は古く、
遡れば平安期から開発領主が開墾に勤しみ、それに伴う領地争いなど紛争も多発していた。小布施付近の土豪・荻野氏は
険峻な山稜を背にした雁田(苅田)の地に館を構え支配拠点にしていたと言い、この館は後世、岩松(がんしょう)院なる寺へ
変貌する。これが荻野氏居館であり、背後の山には尾根の段毎に雁田小城・雁田大城・滝ノ入城・二十端城という城砦群が
構えられていた。これら山上の城砦群は包括して雁田城と呼ばれ、当然、居館の詰城として機能していたものと見られるが
城ごとの構造や特徴が異なっているため、築城年代や築城主がどのようなものであったかは不明である。荻野氏以前には
狩田(雁田)氏なる氏族が居たという説もあり、雁田城はその手によるものであるとか、若しくは古代山城に類するものとする
考察もある。荻野氏の台頭がいつの頃かというのも不明確で、後に岩松院となる荻野氏居館の成立年代も詳しくは判らない。
戦国時代になると、信越国境付近に勢力を築いたのが高梨氏であるが、荻野氏も高梨氏の勢力に統合されていき、居館の
廃絶年代もまた不明としか言いようがない。曹洞宗梅洞山岩松院の開基は1472年(文明4年)雁田城主・荻野備後守常倫の
手によるものとされているので、それ以前だろう。但し、山上の雁田城は廃城とせず継続使用されていたのは確実と言える。
高梨氏をも超越する勢力となる甲斐武田氏・越後上杉氏が北信の覇権を手にした折に用いられたと見られ、川中島合戦の
年代には武田氏が、その滅亡後は上杉氏がそれぞれ時代ごとに入れ替わりで改修・使用していたと考えられるからだ。■■
川中島藩主に“凋落した”福島正則■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
川中島合戦の話が出たので、ここで補記を入れておく。武田信玄が甲斐即ち山梨県から北進政策に出て信濃各地を併呑、
残すは越後との国境近辺のみとなり、これを阻止せんとして上杉謙信が南下し、川中島で数度の合戦に及んだというのは
誰もが知っている話である。武田家は信濃のほぼ全域を手中にしたが、上杉軍の阻止により善光寺以北の信濃領は完全
掌握するには至らなかった。こうした経緯から、川中島以北の4郡、つまり甲斐から見た“奥四郡”は次第に“川中島四郡”と
呼称されるようになった。高井郡はこの4郡に含まれる為、江戸時代以降、高井郡域を含む藩を川中島藩と呼ぶ事がある。
だが実際には高井郡と川中島は相当な距離があり(例えば、高山村役場と川中島古戦場址は直線距離で18km以上もある)
川中島藩と言いつつも、川中島そのものは藩領に含まれていない場合があった。これを踏まえて話を進めると、江戸幕府が
成立し大坂の豊臣氏も滅んだ後の1619年(元和5年)、安芸国広島城(広島県広島市中区)主・49万石の太守であった福島
左衛門大夫正則が高井郡へと転封されて来た。正則と言えば賤ヶ岳の七本槍の1人、関ヶ原合戦では石田治部少輔三成へ
猛攻を加えて東軍勝利の原動力となった武将である。高井郡内で彼に与えられた封は2万石、これに捨て扶持として越後国
魚沼郡に2万5000石が加えられていたとは言え合計でたった4万5000石、49万石からは比較にならない減封であった。■■
理由として挙げられるのは広島城の無断修築、武家諸法度違反であるが、裏に“豊臣家創業の功臣”たる福島家への圧力が
あった事は当然であろう。徳川幕藩体制が確立した中、豊臣大事を掲げた戦巧者である正則に西国の大封を与え続けては
あらぬ火種となりかねないからだ。広島城の件は幕府にとって格好の処分材料となり、この地に左遷されてきたのであった。
斯くして正則は高井郡内に居館を構える。その規模は約100m×70mの単郭方形館。敷地周囲を土塁と堀で囲うのみであり
石高や経緯からして当然であるが城とは呼べない陣屋政庁であった。これが高井野陣屋、通称は福島正則屋敷でござる。
正則屋敷、と言うものの広島からの移封時に正則は家督を2男の備後守忠勝へ譲った為、正式な高井野藩主は福島忠勝と
いう事になる。この高井野藩をして川中島藩と記載する事もあるが、先に記した通りその領地に川中島は含まれていない。
然るに忠勝、何と1620年(元和6年)には病死してしまう。子に先立たれた正則は藩主不在となった事で魚沼郡2万5000石を
幕府に返上、所領は高井郡2万石のみとなった。しかし彼は領内の検地を行って新田開発や治水整備を施すなど所領の
発展に功を成している。正則と言えば兎角“猪武者”という印象が強いが、その実、豊臣政権内での優秀な官僚でもあり、
治世の才がない訳ではなかった。主家である豊臣家滅亡、大減封、さらに息子の死と続いた正則の晩年は不運であったが
高井野藩内の治績は優良なものであり、地元では現在も遺徳が讃えられてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■
1624年(寛永元年)7月13日、福島正則死去。享年64歳。遺体は岩松院に葬られたが、この折幕府の検死を待たず荼毘に
付してしまった為、その不手際を責められ高井野藩は取り潰しとなってしまった。つくづく福島家は不運な末路である。夏の
暑い盛りであったため、遺体の維持が困難であった事から検死を待たなかったと言われるが、実は憤懣やるせない正則は
自害しており、死因をごまかすべく火葬してしまったとの俗説もある。ともあれ、江戸時代初期の城館主が中世城館の跡地
だった寺に葬られたと言うのも何かの因縁であろうか?岩松院に残る正則の霊廟は極めて質素なもので、過去は黙して
語らない。この霊廟は1973年(昭和48年)2月20日、小布施町の史跡とされている。■■■■■■■■■■■■■■■■■
高井野藩改易後、遺領の大半は幕府に収公され天領となった。正則の遺児(忠勝の弟)・市之丞正利に3112石が残された
ものの、彼もまた1637年(寛永14年)12月8日に死去。正利に子は無かったのでこれを以って福島家は断絶、高井野陣屋も
廃止された。(後年、忠勝の孫である伊豆守政勝が2000石の旗本として福島家を再興した)■■■■■■■■■■■■■■
高山村の記録によれば1785年(天明5年)陣屋跡地に浄土真宗高井山高井寺(たかいさんこうせいじ)が移転して来ている。
寺の整備に伴い、幕末の安政年間(1854年〜1860年)陣屋遺構の土塁を崩して堀を埋め立て、現在は敷地東北隅部に高さ
2m・長さ19m程度の土塁断片が残されるのみだが、正則の治績を鑑み屋敷跡は1966年(昭和41年)3月31日、長野県史跡に
指定されてござる。なお、寺の周囲を囲う石垣はこの安政期構築のものなので陣屋遺構ではない。■■■■■■■■■■■
天領支配を行った小布施の陣屋と、堀家の出張陣屋である六川陣屋■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、天領となった高井郡を治めるべく築かれたのが小布施陣屋だ。1701年(元禄14年)に設置されたこの陣屋は、高井郡
周辺の諸村を統治。管轄地域は小布施・雁田・六川(ろくがわ)・清水・中子塚・松村新田・福原新田・大島(以上小布施町内)
駒場・中山田・奥山田・牧・黒部(以上高山村内)・塩野・亀倉・栃倉・村山・米子・井上・中島・相之島(以上須坂市内)・桜沢
(中野市内)の高井郡内22村に水内(みのち)郡(現在の長野市〜飯山市一帯)16村を加えた合計38村、1万9121石である。
代官に任じられたのは市川孫右衛門で、年貢徴収・司法・行政の職制に当たっていた。100m四方の敷地を有したと言う
陣屋は46坪の本屋に加え役人武士や下働の小者を抱える長屋、鎮守の稲荷社などで構成されていたが1715年(正徳5年)
廃止、その機能は中野陣屋(長野県中野市、下記)に統合された。稼動時期僅か15年、今は小布施町内の街並みに埋もれ
遺構らしい遺構は何もない。観光名所「日本のあかり博物館」北側の細い路地(人ひとりがようやくすれ違える程度の細さ)を
入ると、陣屋跡標柱と稲荷社の名残りである小さな石祠があるのみ(写真)だが、小布施町の史跡として1979年(昭和54年)
3月30日に指定されてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
時は移り、小布施陣屋の廃止から約80年後の1792年(寛政4年)、高井郡・水内郡のうち4982石は越後国椎谷(しいや)藩
(現在の新潟県柏崎市椎谷)堀家が領有する事になった。これに伴って、椎谷藩の出張陣屋が六川村に設置され申した。
六川陣屋である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
椎谷堀家については多少の説明が必要であろう。豊臣秀吉旗下“名人久太郎”と称された名将・堀左衛門督秀政には奥田
直政なる従兄弟がおり、主君である秀政を良く支えた。直政の活躍は誰もが一目置くようになり、功を讃えて堀姓の名乗りを
許される。奥田改め堀監物直政の子等も父に違わぬ名将となり、特に4男・式部少輔直之(なおゆき)は徳川秀忠の直臣に
取り立てられ、大坂の陣で奮戦、江戸町奉行や寺社奉行の要職を任せられるようになった。直之の石高は1万石に満たず
大名ではなかったが、後嗣の代に加増されて大名に列し(ただし江戸定府)、越後国椎谷を本領とした。これが椎谷堀家で、
元来の主家である秀政の家系は没落し改易となっているため、宗家よりも繁栄した事になる。しかし、椎谷堀家も江戸時代
中期になると藩政に緩みが生じる。財政の立ち行かなくなった椎谷藩では領内に重税を課したが、逆に巨大一揆が発生し
藩政はなお混乱。遂に幕府が裁定するに及び、椎谷藩領のうち半分を召上げ、それに相当する新たな替地を与えて藩政の
刷新を図ったのでござる。1792年、こうして椎谷堀家に与えられた新領が高井郡9村・水内郡2村で、六川陣屋は椎谷藩から
役人を迎えて統治実務に当たるも、現地の大庄屋・寺島家の者が代官に取立てられる事もあった。所領内訳は高井郡内が
六川・清水・中子塚・中条・羽場(以上小布施町内)・中山田・奥山田(以上高山村内)草間・大熊(以上中野市内)の各村、
水内郡では中御所・問御所(以上長野市内)村にて候。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
陣屋の敷地は六川通りに面しており、東西35間(63.7m)×南北70間(127.4m)。敷地そのものが雁行の矩形となっていて、
東側に正門、南側に裏門を開いた。この中に陣屋庁舎役宅の他、御蔵・馬屋・藩士長屋・砥石蔵・稲荷社などが建てられ、
1868年(明治元年)には藩校の六川修道館が設置され申した。この修道館は明治の学制によって邇言小学校、後の都住
(つすみ)小学校へと改組されている。さらに同年、陣屋敷地の拡張計画もあったと言われるが、明治維新により沙汰止みと
なっているようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こちらも小布施陣屋跡地と同様、現在殆どが宅地化されて遺構らしい遺構は見受けられない。現地案内板によれば石垣や
用水堰が残るというが良くわからない。ただ、稲荷社を改めた奥田神社(堀直政の旧姓に由来)が鎮座し、地図上にも神社の
表記がされているので目印にはし易いだろう。また、陣屋の高札場(写真)が復元されているが、これは旧遺構の屋根部分が
町内共同井戸の庇として使われていたのを戻したものだという話がある。兎に角、こちらも小布施陣屋と同じく1979年3月30日
小布施町史跡に指定されてござる。場所は長野電鉄都住駅の南西側。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
|