信濃国 荒砥城

荒砥城跡

 所在地:長野県千曲市上山田字城山
 (旧 長野県更級郡上山田町上山田字城山)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★☆■■
★★★☆



北信の雄・村上家における“守りの要”■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「あらとじょう」と読む。新砥城との表記も。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この地を治める山田氏は平安時代から続く土豪であったが、戦国争乱期においては北信の雄・村上左衛門尉義清
(よしきよ)に従うようになっていた。義清の本拠となっていた葛尾(かつらお)城は現在の地名で言う長野県埴科郡
坂城町坂城、千曲川東岸の険峻な山上にあり北国(ほっこく)街道(現在の国道18号線やしなの鉄道)を睥睨した。
荒砥城はこの葛尾城と川を挟み相対する位置にあり、千曲川西岸を守る山城である。2つの城の間は直線距離で
3.4kmほど。もちろん、互いを望める近さだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
伝承に拠れば山田越中守二郎?なる人物が1524年(大永4年)頃に築いたと言う。当然、葛尾城の支城として成立
した城である事は言うまでもない。山田氏は義清によく仕えたが、時おりしも甲斐の武田大膳大夫晴信が信濃北部
まで進出する頃。村上軍と武田軍は数度にわたり干戈を交える状況にあった。それでも義清は、後世“戦国最強”と
まで称えられる武田軍相手に善戦し、1548年(天文17年)に起きた上田原合戦と、1550年(天文19年)「戸石崩れ」の
2度にわたり武田軍を撃退している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし1551年(天文20年)5月、武田方に与した謀将・真田弾正忠幸隆の攻略により村上軍の橋頭堡であった戸石
(砥石)城(長野県上田市)が落城。この折、戸石城に詰めていた荒砥城主の山田越中守国政が討死してござる。
戸石城の欠落を機に村上義清は領国防衛が困難となっていく。葛尾城・荒砥城近辺も両勢力が入り乱れる戦場と
化した上、村上勢の支援として越後国の長尾景虎(後の上杉不識庵謙信)までが来攻するようになった。■■■■
1552年(天文21年)に景虎が荒砥城を攻略したとする記録もある中、1553年(天文22年)遂に村上義清は国を捨て
脱出せざるを得なくなる。詳細を記すと、武田軍の攻撃が間近となった状況下の4月5日に村上家の重臣である屋代
越中守政国(やしろまさくに)や塩崎六郎次郎、大須賀久兵衛らがこぞって武田方へ離反。村上追討の機が熟したと
判断した武田軍は葛尾城への攻撃を準備するが、戦況に利在らずと解した義清は4月9日、葛尾城を脱出して長尾
景虎に援軍を求めたのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
葛尾城の無血開城を果たした晴信は葛尾城代として於曾(おぞ)源八郎を入れて一帯を守らせたが、今度は義清の
救援要請に応じた長尾軍が来襲し葛尾城や荒砥城を攻め立てた。この戦闘で4月22日には村上方が旧領を回復、
於曾源八郎は討死し義清は塩田城(長野県上田市)に拠点を構えたのだった。いったん兵を退かざるを得なくなった
晴信は深志城(松本城、長野県松本市)、更に甲府まで後退したが8月、再攻勢に転じて更級郡・埴科郡へと進出。
村上方の城は1日で16箇所も落とされたと言われ、今度こそ継戦不能となった義清は長尾景虎の居城・春日山城
(新潟県上越市)へ落ち延びた。ここに北信の雄・村上義清は所領を無くし長尾家の客将となり、武田家の北信濃
支配が成立したのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

大大名の迫間で生きる屋代氏の動向と荒砥城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
もっとも、葛尾城・荒砥城の攻防戦をきっかけとして同年の秋、第1次川中島合戦が勃発している。春日山を出陣した
長尾軍は9月1日、荒砥城を落城させこの周囲に布陣展開。一方、武田軍も逆襲に転じ同月13日に夜襲で荒砥城を
奪還している。結局両軍は戦線膠着、晴信が決戦を忌避し長尾軍を翻弄し続けたために景虎もこれ以上の戦果は
期待できないとして撤退した。長尾方に痛烈な一撃を受けたが北信支配を確実なものとした晴信改め徳栄軒信玄は
以後4度(合計5度)にわたる川中島合戦で長尾景虎転じた上杉謙信と鎬を削るようになり申した。両陣営の最前線と
なる川中島近辺に本領を持っていた屋代政国は1559年(永禄2年)信玄の命により領地替えとなり、荒砥城主に任じ
られる(年代については諸説あり)。これは信玄が戦略的要所である川中島を直轄管理する必要に迫られた為だ。
その政国は1561年(永禄4年)9月、一連の対陣の中で最も激戦であったと言われる第4次川中島合戦にて戦死した
(武田家滅亡時まで存命であったという説もあり)。甥の室賀秀正(むろがひでまさ)が養嗣子に入り、屋代の家督と
荒砥城主の座を継承する。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この後、転機となるのは1582年(天正10年)の事。信玄後継の武田四郎勝頼は武運拙く2月、織田信長に攻められ
3月11日に敗死。甲信の新たな主となった信長に従った屋代秀正は織田家臣・森武蔵守長可(もりながよし)配下に
組み入れられるも、直後の6月に本能寺の変が起こって信長も横死する。この機に乗じて越後の上杉弾正少弼景勝
(謙信後嗣)が北信支配に乗り出した為、今度はそちらに従属した。その結果、海津城(長野県長野市)代・山浦源五
景国(やまうらかげくに)の副将とされたのでござる。景国の旧名は村上国清(くにきよ)、誰あろう村上義清の嫡男で
ある。信玄の攻略により袂を分かった村上・屋代主従は上杉景勝の下で復縁したと言えよう。■■■■■■■■■
これに伴い、荒砥城は在番制とされ清野・寺尾・西条・大室・保科・綱島・綿内の7氏による10日交代在番とされた。
他方、景勝は長らく武田方にあった秀正を信用せず稲荷山城(千曲市内)を築き監視の目を光らせた。これに不満を
募らせた秀正は、東海の弓取り・徳川家康が甲信地方に確たる勢力を打ち立てると同年8月頃から通じるようになる。
翌1583年(天正11年)3月、家康が屋代家の領地安堵を密書で約束すると上杉家に反旗を翻し、4月(これは1584年
(天正12年)とする説もある)海津城を退去し荒砥城を奪取する。一方、秀正の裏切りを予見していたかのように上杉
景勝は攻撃を下知、荒砥城は猛攻に晒されたのである。結果、城下もろとも火を掛けられた荒砥城は陥落、秀正は
家康の下に逃亡し以後は徳川旗本として家を永らえたが、荒廃を極めた城はこれを以って廃城とされ申した。■■■

まるで“山城テーマパーク”のような再現城跡■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城山の麓は戸倉上山田温泉。近代の観光開発で、城跡は温泉街の目玉になるよう動物園(なぜ動物園?www)に
されていた。このため、城の敷地はかなり改変されてしまった訳だが、無意味な動物園ではなく史跡として観光活用
する事に路線変更され城跡公園として再整備、1995年(平成7年)6月に千曲市城山史跡公園として開園した。■■
これに先立つ1987年(昭和62年)1月27日、千曲市(当時は上山田町)史跡に指定されている。この山には荒砥城の
他、荒砥證城・若宮入山城・證(正)城という合計4つの城が築かれていた。市史跡の指定範囲はこれらの4城を総括
しており、指定名称も「荒砥城跡群」となっている。東端にある荒砥城が最も低い位置にあり、そこから西へ、標高を
上げるに従って荒砥證城、若宮入山城が並び最高所が證城になる。この3城はほぼ手付かずのまま風化しており、
荒砥證城は2つの曲輪から成る複郭式構造で土塁が残存、若宮入山城は4つの曲輪群、證城は烽火台程度だが
2つの曲輪を連郭式に接続、土塁が残ると言う。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方、動物園から改まった荒砥城は実に見事な中世城郭が再現され申した。あまりに見事すぎて、どこまで旧来の
遺構を復元しているのか…と疑問の声が上がるほどで、実際のところ“新規築城”と言っても過言ではない感じでは
あるが、兎にも角にも立派な城址である。再現された縄張りはT郭(本郭)〜X郭までが階段状に並んだ梯郭式で、
X郭が駐車場、W郭が管理設備となっているがU郭には井楼櫓や兵舎、T郭には城主の館などが全て木造で建て
られている。X郭から上へと九十九折の登城路を上がっていくにつれ見事な石垣や門が眼前に現れ、戦国時代の
中世城郭に来た!という期待感が増していく。特に石垣は信州在地系技術の平石積みを再現しており、地域性にも
配慮した復元で好感が持てる。もっとも、旧来の城址遺構ではここまで“総石垣造り”というほど全面を固めていた
訳ではなく、ごく限られた部分部分だけに用いられていたようであるが… (^ ^;■■■■■■■■■■■■■■■
(そもそもこの縄張り自体、どこまで旧態に沿ったものなのかも分からないようであるw)■■■■■■■■■■■■
何だかまぁ、褒めれば褒める程それに応じた疑問点が出てきてしまい、城郭愛好家の中でも賛否が分かれる城址
公園ではあるが、個人的には「実に素晴らしいもの」だと言いたい。どこの城とは言わないが、「中世城郭なのに」
白漆喰塗込の櫓や城門が林立、挙句の果てに御大層な天守まで(しかも鉄筋コンクリで)揚げてしまい史実を捻じ
曲げる史跡公園(←完全に矛盾)にしてしまった場所が多い中で、「本物」ではないまでも「本物志向」での再現を
目指した事は大いに評価したい。“観光地の城郭=(本物偽物とりまぜて)近世城郭”という観念が一般的であるが
逆に“中世城郭の面白さ”を示している好例が荒砥城址なのではないだろうか。■■■■■■■■■■■■■■■
こうした背景から、近年では大河ドラマなどでの撮影もここで頻繁に行われている。■■■■■■■■■■■■■■
何より、城址から展望する千曲川流域の眺めは絶景(写真)!公園は入城料がかかるが、自動車があれば簡単に
来訪できる城郭なので、一度はこの雰囲気を味わって貰いとうござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

城域内は市指定史跡




真田氏居館・真田氏本城  高井郡内諸城館