信濃国 真田氏居館

真田氏居館跡 土塁俯瞰

所在地:長野県上田市真田町本原字御屋敷
(旧 長野県小県郡真田町本原字御屋敷)

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★☆■■
公園整備度:★☆■■■


現存する遺構

堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は県指定史跡



信濃国 
真田氏本城

真田氏本城跡

所在地:長野県上田市真田町長字十林寺
(旧 長野県小県郡真田町長字十林寺)

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★■■■
公園整備度:★☆■■■


現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は市指定史跡



現在、市町村合併で上田市になっているが2006年(平成18年)3月6日以前は
小県(ちいさがた)郡真田町であった領域にある真田氏創始時の城館。真田と言えば
上田、という表現がすっかり一般的になったが、厳密に言えば真田氏発祥の地は
この旧真田町であり、上田の町は勢力拡大の後に移ってきた場所という事になろう。
昨今の戦国ブームでは真田人気たるや凄まじいものがある。大坂の陣における
真田信繁(幸村)の活躍が神格化され、その父・昌幸の鬼謀もまた深なるものあり、
そして真田3代の祖・真田幸隆(昌幸の父)は武田信玄に仕えた智将として名を馳せる。
ところがその前は?となると、全くと言って良いほど伝来不詳の一族でござる。
系譜を信頼するならば、清和源氏滋野姓海野(うんの)氏の流れを汲むとされ
宗家・滋野家から分流した海野・禰津(根津)・望月らの各家が信濃国北東部
小県郡一帯に所領を得ていた中、新たに興った家が真田家という事になろう。
真田弾正忠幸隆は海野小太郎棟綱(むねつな)の子と言われるが、娘婿であるとか、
棟綱の娘婿は真田右馬介頼昌(よりまさ)であり、その子(養子とも)が幸隆だと
する説など諸説紛々、結局のところハッキリとした事はわからない。そもそも
真田家の系譜は、江戸時代になった後まで大名として家名を存続させた真田家が
元来、同族一門の中の1家に過ぎなかった自家の格を際立たせんとする為に
(滋野・海野・根津・望月といった家は軒並み真田家臣として再編されている)
かなりの創作をした可能性が指摘されている為、信頼度は低い。となると、
歴史上の事象から真田家の勃興を読み解くしかなくなるが、確実に幸隆の存在が
明らかになる最初の事件は、1541年(天文10年)に武田信虎(甲斐守護、信玄の父)
諏訪頼重(よりしげ、諏訪大社大祝(おおほうり)・諏訪地方の太守)や
村上義清(小県郡・埴科郡の土豪、北信濃の実質的支配者)の連合軍が小県郡へ
侵攻した戦績でござる。圧倒的大軍に攻められた海野一族は大敗し離散、国を追われ
棟綱と幸隆は揃って上野国へと脱出、箕輪城(群馬県高崎市箕郷町)主
長野業政(なりまさ、業正とも)の下に身を寄せた。何と、戦国の覇者とされる真田家は
敗者として最初の名を残したのである。この後、幸隆の旧領は村上義清の勢力下に
置かれ、幸隆は亡命先から帰還の機を窺って時節を耐える事になった。然るに、
武田家では粗暴の振る舞い際立つ信虎が嫡男・晴信(信玄)によって追放され
代が替わり、諏訪頼重はその晴信によって討ち滅ぼされる。幸隆の仇敵は
村上義清を残すだけとなり、合理的計算に長けた幸隆は成長著しい武田晴信の
助力を得て旧領回復を果たさんと目論んだ。晴信もまた、村上領への侵攻を
企図していた頃であり、小県郡の地勢に明るい幸隆を自陣に加える事は有益と考える。
斯くして、武田信虎への怨讐を乗り越えて幸隆は晴信の配下に加わり、晴信もまた
村上家攻略の暁には幸隆の旧領を安堵する約束をした。所領回復の目処が立った
幸隆は謀略の限りを尽くして村上家を攻略、1551年(天文20年)義清の城である
戸石(砥石)城(同じく上田市内)を落とし真田郷に凱旋、晴信も約束通りその統治を
認めたのでござる。前年、晴信は力攻めで戸石城を攻めたが返り討ちに遭い大敗。
戦国屈指の名将・武田信玄をして落とせなかった城を幸隆は調略だけで奪ったのである。
これにより幸隆は信玄から全幅の信頼を置かれ北信濃統治を任される。幸隆もまた、
武田家に仕える事で真田家隆盛の途を信じ、その期待に応えていく。こうして幸隆が
村上家から奪還した領地がここ、真田の里だったのでござる。
前置きが随分と長くなったが、真田氏居館が築かれたのはこの後の時代となる。
幸隆は長男・源太左衛門尉信綱(のぶつな)、2男・兵部少輔昌輝(まさてる)
そして3男・源五郎昌幸といった子を成し(他数名あり)、家督を継いだのは嫡男の
信綱であった。それまで、真田家は同じ真田郷にある内小屋館(真田町長(おさ))を
用いていたとされるが、信綱の代になって新たに築いたのがこの真田氏居館だと言う。
ただし、幸隆晩年の頃に築いていたという説もあり詳細は不明。いずれにせよ、
永禄年間(1558年〜1570年)末あるいは元亀年間(1570年〜1573年)、もしくは
天正年間(1573年〜1592年)初頭の構築と見られる。真田郷は東西を山々に囲まれた
小さな盆地。平坦地の西端には神川(かんがわ)が流れているが、居館が築かれた
本原は神川へと下る扇状地の上端部分にあたる。つまり、緩やかに東から西へと
傾斜する台地にあり、館の敷地は東西150m〜160m×南北130mの台形を成している。
この中が東西2つの郭に分けられているが、土塁や堀で隔てるのではなく上段・下段の
高低差で東郭・西郭と分別されてござる(東郭の方が高い)。防備として両郭を囲うべく
屋敷地の全周に土石混合土塁が構築されているが、この土塁は高さ4m〜5mを数え、
かなり立派なもの。外周の一部には腰巻石垣も用いられているが、近年の改変ではなく
当時からのものだと言う。大手口は南面、敷地のほぼ中央部に開口。入口の東西両脇は
土塁が内側に向かって湾曲した形状になっており(逆向きの丸馬出と言った感じ)
相横矢を掛けて防備していたであろうと推測できる。搦手口は北面、同様に中央部で
こちらは平虎口。守りが薄いように感じられるが、北側には大沢川が流れて堀となり
そうした弱点を補っていたのだろう。また、敷地の南東隅が入隅の屈曲を成し
そこに東門が開かれていた。後に築かれる事になる真田の城、上田城の本丸が
鬼門除けの意味で北東隅を同じような屈曲にしているため、これを同様の
鬼門除けと理由付ける論もあるが、果たして真偽は如何に?
この屋敷地で最も特徴的なのが敷地北西隅、西郭の内側に土塁を使って10m四方の
小さな正方形の小郭を構成している部分(写真)。ここは厩跡と言われ、見事な造形だ。
真田家の統治時代、この館を中心とした商業町が形成されていたと見られてござる。
さて、真田郷は山に囲まれた盆地と記したが、これらの山並みには要所要所に砦や
城が築かれ、盆地全体を防備するようになっていた。鎌倉幕府の首府・鎌倉よろしく
真田郷は盆地を囲む山々全てを以って一つの城郭都市と考えられるのである。
村上義清の城であった戸石城も然り、他にも松尾古城や天白(てんぱく)城など
真田郷一帯には名の知られた城が多い。こうした城砦の一つに数えられるのが
真田氏本城でござる。別名で真田山城、松尾(新)城、住蓮寺城(十林寺城)など。
松尾城、という名は真田関連の城郭に多く用いられている。3行上に記した松尾古城が
真田郷を守る険峻な山城として最も知名度があるようだが、この他に上田城も
別名で松尾城の名があり、その上、真田氏本城までもが松尾城と呼ぶとなると
実にややこしい事になる。要するに、真田の城に代々引き継がれた雅称なのだろう。
この城の創建は真田氏居館よりも古く、天文年間(1532年〜1555年)と見られている。
松尾古城の存在に対してこちらが新城とされるの(が本当に正しいの)であれば、
当然、こちらの方が新しい時代のものとなる。となれば、真田幸隆が武田晴信に従い
村上氏を駆逐する頃に築かれたと考えるべきか?この当時、平時の居館が
内小屋館とされていたようなので、戦時に籠もる詰めの城として用意されたのだろう。
真田氏の本営となる城、という意味で真田氏本城と呼ばれてはいるが、史料上
このような名では登場しておらず後世、便宜的に名付けられた城名でござる。
さらに言うならば、城の創建は鎌倉時代に遡り、当時の土豪・横尾氏が築いたものだと
する説もある。松尾古城がこの城より本当に古いのかも疑問であり、
真田氏発祥期の事象はやはり色々と謎が多いようでござる。
さて、真田氏本城最高所の標高は895m、麓からの比高はおよそ150mにも達する。
城の縄張りは本郭・二郭・三郭が階段状に連なる典型的な梯郭式。それぞれの曲輪は
細長く、これが一直線に繋がっている為に城全体が長細い構造になっている。
現地案内板によれば、本郭の大きさは東西8.6m×南北37mというのだから兎に角長い。
城の南側が緩斜面になっていて、こちらが真田郷から繋がる登城口。現在、ここは
駐車場になっているために車で来訪できる。ここから城域へ進んでいくと、城内
最高所となる櫓台土塁にぶつかり、その先が上記の通り本郭・二郭・三郭と下る。
三郭の向こう側、つまり城域北端は急な崖となっておりこちらからの接近は難しい。
山城に必須の水利については、近隣の熊久保集落上方の山地から尾根伝いに
水を引き、この城の本郭近くまで達するようになっていた。真田郷を取り囲む
他の山城に比べると大きめな城だと言われ、これが“本城”と呼ばれる所以であろう。
そうは言っても、戦国中期(横尾氏の由来が正しければ鎌倉時代?)に築かれた
山城であるため、形態としては古いものである様子は否めない。南から敵軍勢が
攻めて来た場合、いきなり最高所の櫓台が最前線となる訳で、本郭を守るはずの
二郭・三郭は敵正面からみて裏側になってしまっているからだ。それでもなおこの城が
本営とされる理由は何かと言えば、兎にも角にもその眺望の素晴らしさに尽きよう。
真田氏本城からは真田郷全体を望む事ができ、遥か彼方には上田までも見晴らせる。
真田郷へ迫る敵があらば、接近する段階から監視できる上に真田の里の中が
どのようになっているかも一目瞭然。況や、真田郷の周囲を取り囲む城砦群も
逐一確認が取れよう。城の弱点となる登城口、つまり南側の緩斜面については
その更に南側の山に天白城が置かれている為、敵勢を牽制できるようになっており
万が一、敵がこの城に押し寄せたならば天白城の味方と共に挟撃できたのだ。
やはり真田郷は鎌倉同様、集落全体で防御体制を構築していたのだと納得の作りである。
武田氏の庇護の下、真田郷で実力を蓄えた真田氏は北信濃から上野国に至る
大きな版図を手に入れ申した。幸隆亡き後、信綱や昌輝もよく主家に仕え
有名な武田二十四将に数えられてござる。ところが1575年(天正3年)5月
世に言う長篠の合戦で武田軍は大敗。信綱・昌輝兄弟は2人とも鉄砲の弾に斃れ
帰らぬ人となってしまった。彼らの弟・源五郎は武藤家へ養子に出され
武藤喜兵衛(むとうきへえ)を名乗っていたが、2人の死で生家の家督を継ぐ事となり
真田に復姓、ここに“表裏比興の者”真田安房守昌幸が誕生するのである。
斜陽の武田家が遂に滅びた後、昌幸は独立大名として歩む事になり
山深い真田郷から広大な城下町を形成できる上田の町へと本拠を移す。
斯くして上田城が築城される訳だが、昌幸の手により真田郷の商業町は町ごと
上田城下へ移転させられ申した。これにより真田郷は防備の必要を解かれ
真田氏本城・真田氏居館ともに廃されたのでござる。上田築城が1583年(天正11年)
開始であるから、それとほぼ同じ頃の事であろう。しかし昌幸は居を移すにあたり
父兄所縁の館である真田氏居館の跡地が後々荒廃するであろう事を憂い、ここに
神社を勧進し、祀らせる事にした。これが現在、館跡に鎮座する皇太神宮である。
この他、真田氏居館跡の隣には真田氏歴史館が建てられて一族の功績を標している。
これにより居館一帯は、その名も「御屋敷公園」として整備開放されてござる。
当然、駐車場もあるので来訪するのは簡単だ。一方、真田氏本城は廃城後
耕作地としての改変を受けたようであるが、土塁や郭群といった遺構は
綺麗に残されている。何より、上に記した通りここからの眺望は絶景!
真田の町を訪れるならば、是非ともこの眺めを目に焼き付けて欲しいものである。
真田氏居館は1967年(昭和42年)10月23日、長野県指定の史跡に。真田氏本城は
1972年(昭和47年)4月1日、当時の真田町(現在は上田市)指定史跡になっている。




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