信濃国 龍岡城

龍岡城跡 本塁石垣と大台所櫓

 所在地:長野県佐久市田口
 (旧 長野県南佐久郡臼田町大字田口)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆
★★★■■



謳い文句は「日本に二つの五稜郭」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
“五稜郭”と言えば北海道函館市のそれが非常に有名だが、日本にはもう一つ、信州の静かな農村にも築かれている。
それがここ、龍岡城(たつおかじょう)五稜郭でござる。星型の城を花に例えて「桔梗城」の別名も。■■■■■■■■■
時は幕末、西洋列強が極東へ盛んに進出し、清(当時の中国正統王朝)がアヘン戦争で英国に破れても、徳川幕府は
頑なに鎖国政策をとり続け欧米諸国の動向を把握せず、海防や軍備増強に大きな遅れをきたしていた。しかし、この
状況を憂い、日本にもたらされる僅かな蘭学の知識を吸収し優れた西洋技術を有効活用して国防や科学技術向上に
活かそうとする者も少なからずいたのも事実である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
龍岡城の築城者、松平兵部少輔乗謨(のりかた)もその一人。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
三河国額田郡奥殿(現在の愛知県岡崎市奥殿町)4000石を本領としていた彼は、徳川家康の4代前から分家した大給
(おぎゅう)松平氏の当主で、徳川親藩の中でも重要な地位を占めていたにも関わらず保守的な幕府とは異なる開明的
思想の持ち主で、若い頃から蘭学に目覚めると共に西洋軍学も熱心に習得したのだった。日本近海に出没するように
なった西洋各国の軍船は長射程の大砲で重武装しており、日本古来の軍学ではとうてい太刀打ちできないほど強力で
あった。当然、西洋の軍勢と戦うとなれば西洋軍学の知識と設備が必要となる訳で、早くからこの点に注目した乗謨は
西洋式城郭の築城を志すようになっていた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
丁度この頃、ペリーが日本に来航し開国せざるを得なくなった幕府はようやく西欧式軍備の必要性に気付き、急拵えで
要塞の設営に着手。江戸湾に台場(砲台用の人工島)、蝦夷の要地・函館に五稜郭を建造した。■■■■■■■■■
1863年(文久3年)正月、幕府大番頭に就任した乗謨は、本領の三河国奥殿が4000石と手狭であった為、飛び領として
有していた信濃国佐久郡田野口1万2000石への本領移転を幕府に願い出る。同時に、信濃国内での統治拠点になる
新陣屋建造も申請、これが認められ乗謨は田野口へ居を移し陣屋建設に向けて動き出した。田野口藩の新たな陣屋、
即ち城郭はもちろん西洋軍学に基づいた稜堡式(りょうほしき)城郭である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
幕府としても、西洋式城郭の有効性を確かめるために建造を許可したのだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
稜堡式城郭は、火砲による攻防を主眼とした西洋式城郭。日本古来の城郭が櫓を林立させて敵兵の漸減を狙うのとは
異なり、稜堡式城郭の場合ははじめから大砲の打ち合いが目的なので櫓のような高層建築物は極力廃し、高い土塁や
石垣で城内を遮蔽するようになっている。高層建築物は敵の砲撃目標になるだけでなく、城内でも大砲や弾薬の運搬に
邪魔になるからだ。同様の理由で、日本の城郭が“丸”と呼ばれる曲輪に分割されているのに対し稜堡式城郭は単一の
大きな郭で構成され、その内部は平坦な空間に保たれている。砲撃範囲を効果的にする(死角を無くす)ため、星型に
縄張りするのが通例。星型の平面=五稜郭と呼ばれる理由である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
幕府に陣屋絵図面を提出し許可を得た6月以降、7月に家老の出井勘之進を普請奉行に任命、9月には模型を完成させ
翌1864年(元治元年)3月より築城を開始した。1867年(慶応4年)4月から使用が始まったとされる。■■■■■■■■■
稜堡式城郭の要となるのが石垣だ。砲撃の着弾や地震などでは崩れない強度が必要で、ほぼ垂直に切り立つ稜堡式
城郭の石垣断面を形成するには高度な技術を要した。このため、当時西洋築城法を習得していた伊那高遠藩から石工
技術者を招いて石垣造りを依頼。この工事には3年もの時間を費やしたのである。石垣の上には芝を敷き詰めた土塁を
巡らせて、より強固な防衛力を発揮するようになっている。また、塁内には御殿や大台所などの建築が建てられ政庁と
しての機能も整えられた。この時、乗謨の雅号から城は龍岡城と名付けられ申した。■■■■■■■■■■■■■■■
星型の北東側入隅が大手、そこから時計回りに常用門・穴門、ひとつ置いて黒門が入隅毎に開いていた。函館五稜郭に
ある半月堡は作られていない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

正式名称は「田野口陣屋」 その存在価値は?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ただし、ここはあくまでも陣屋なので「田野口陣屋」が正式名称である。そのため、石垣は低く、堀幅は狭く、敷地もさほど
広くはない。函館五稜郭の長辺が490m程なのに対し、龍岡城は半分程度の約250mだ。そもそも、周囲を山に囲まれた
小盆地の田野口では、砲撃戦になるとしたら山の上から砲弾を撃ち込まれるのがオチで、城側から反撃の余地はない。
では白兵戦で、となれば石垣が低く堀幅が狭くてはそれすら叶わない。正直、この場所でこの規模の稜堡式城郭には
何らの有用性も見出だせないので、それを実現しようとした松平乗謨は単なる新し物好き…と酷評する論も聞かれるが
むしろ、この龍岡城は五稜郭(稜堡式城郭)の大量生産を見越した“テストベッド”と考えるべきなのではなかろうか。■■
これからの海防(西洋列強との軍事衝突を懸念しての稜堡式城郭であるから、水際での戦いが最重要課題)に必須の
五稜郭を、幕府要職にある乗謨が自らの陣屋で試作してみて、必要な技術や工法、予算などを実践して割り出したのが
龍岡城だとしたら?幕府もそれを期待しての構築承認だったのでは?乗謨とて、西洋城郭の長所短所は弁えた上での
築城であっただろうから、そうでなくては「山国にある海防の城」の存在価値は図れない。■■■■■■■■■■■■■
築城工事中、時代は急変を遂げて乗謨は幕府老中格・陸軍総裁の職を歴任。和漢の学問や蘭学に通暁する英明さを
買われての躍進であったが、時すでに徳川幕府の衰退を迎え、乗謨自身も病に倒れたため数年で政界を退いた。■■
1868年(明治元年)2月に江戸から田野口へ隠棲した乗謨は、徳川一門に通じる「松平」の姓を大給と改める。■■■■
明治新政府による徳川氏追討の軍が発せられていたため、新政府への恭順を示したのだ。■■■■■■■■■■■
この頃、まだ工事中であった龍岡城の築城を中止。よって、稜堡南西側約200mは濠がないままの未完でござる。■■
同年4月に江戸幕府が滅亡し、明治新政府による統治が始まると5月28日に田野口藩は龍岡藩と改名。この後、乗謨も
名前を恒(ゆずる)に変え新生龍岡藩の施政が開始されたが、しかしそれも束の間で、1871年(明治4年)に廃藩となり
龍岡城も廃城になってしまった。龍岡城が藩政の拠点として機能していたのは、事実上たった4年間だけだった。■■■
なお、松平乗謨改め大給恒は明治時代に日本博愛社の設立に尽力した。これが現在の日本赤十字社である。西欧の
開明的文化を重んじた恒だからこそ、博愛思想を育む事が出来たのであろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■

長らく学舎であった城跡は、史跡整備の時代へ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城内の建築物は売却され順次破却されたが、大台所の建物は大規模だったため取り壊しの手を付けられず、そのまま
放置される状態が続いた。この後、学制発布により1875年(明治8年)陣屋の跡地が学校用地として活用される事となり
大台所が龍岡藩旧藩士から寄付される。その為、大台所は改築され尚友学校(龍岡藩の藩校「尚友館」に因む命名)の
校舎として利用された。尚友学校は1886年(明治19年)に田口学校と改名し、これが1890年(明治23年)さらに田口尋常
小学校となり、1894年(明治27年)から順次新校舎が増築されていった。学舎が充足した事で、今度は大台所が用途を
外され、1929年(昭和4年)それが敷地内の片隅に再移築・修繕保存されるようになる。この頃から城跡の史跡保全が
考えられるようになり、函館五稜郭と並ぶ龍岡城五稜郭は貴重な歴史遺産として地元で「龍岡城保存会」が組織された。
1932年(昭和7年)〜1933年(昭和8年)にかけて補修が行われた。廃藩時に埋められた部分の堀を掘り起こし、石垣と
土塁の修復が主なものであったが、陸軍の築城本部から専門家を招いて指導を仰いだと言う。これを受けて翌1934年
(昭和9年)5月1日、国の史跡に指定される。1958年(昭和33年)・1959年(昭和34年)の2年連続で台風の被害を受けた
大台所は、翌1960年(昭和35年)〜1961年(昭和36年)に再度の修復が行われた。今も水堀・石垣・土塁などは殆んど
完全な姿で残され、上記の通り大台所櫓も現存。信州の片田舎と侮るなかれ、素晴らしい史跡でござる。■■■■■■
2017年(平成29年)4月6日には財団法人日本城郭協会から続日本百名城の1つに選出されている。■■■■■■■■
田口尋常小学校は戦後に佐久市立(当時は臼田町立)田口小学校となったが、少子化にて統廃合されてしまい2023年
(令和5年)3月末で閉校した。小学生が通う城跡と言う光景も長閑で良かったのだが、今後は国史跡としての龍岡城が
本格的に整備される時代を迎える。差し当たって佐久市では大手門の復元を目指しているとの事だ。■■■■■■■■
もちろん、駐車場や案内施設も完備され観光客にとって訪れ易いように整備されているのも有り難い。今後10年、20年を
経て“信州の五稜郭”がどのように変貌・発展していくのか楽しみでござる。JR小海線にその名も龍岡城駅があるので、
駅から南東方向へ進んで行けば辿り着けようが、どちらかと言えば1つ隣の臼田駅の方が近い。車利用ならば中部横断
自動車道の佐久臼田IC(これが出来たおかげで便利になった!)から千曲川を渡った先になるが、城址の周辺は静かな
農村地であるため、安全運転を心掛けて頂きたい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
移築現存する建物は大台所の他にも何棟かある。まず陣屋大広間だった建物が曹洞宗佛谷山時宗寺(落合時宗寺)の
本堂に。同様に陣屋の小書院部分が佐久市内の民家(小池氏宅)にあり、そのすぐ近くにある真言宗野沢成田山薬師寺
山門がかつての龍岡城常用門(東通用門)。星型稜堡の東面に開いていた門である。門はもう1つ、薬医門が龍岡城址
東側近郊、龍岡藩の高札場から東へ延びる道沿いの民家(丸山氏宅)に移築されて現存する。いずれも建造物としては
文化財指定を受けていないが、龍岡城跡の復元整備計画に伴って詳細調査が行われる予定である。なお、龍岡藩の
高札場については3段の切石積み、その間口は4.3m×奥行2.27m×高さ0.9mとなっており、その上に間口4.2m×高さが
3.33mの屋根付き木造掲示柵列が建っている。龍岡城(田野口陣屋)が築かれるより前から領地支配の御触れが掲出
されてきた遺構と見られ、1975年(昭和50年)の大修理を受けて1997年(平成9年)4月1日に臼田町(当時)指定の有形
文化財になっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・石垣・土塁・郭群
城域内は国指定史跡

移築された遺構として
大台所櫓(現地保存)・落合時宗寺本堂(大広間建築)・小池家住居(小書院建築)
薬師寺山門(常用門)・丸山家住宅門(薬医門)




手塚城  真田氏居館・真田氏本城