信濃国 手塚城

手塚城跡 手塚盛澄像

所在地:長野県諏訪郡下諏訪町上久保
■■■■(諏訪大社下社秋宮境内)

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:☆■■■■



全国に1万以上の末社を持つ信濃の名社、諏訪大社。
その諏訪大社秋宮境内にある山王閣ホテル駐車場が手塚城跡でござる。
別名は霞ヶ城。平安時代末期の手塚別当金刺光盛(みつもり)の城館跡。
光盛は源平合戦で活躍した勇将で、1183年(寿永2年)5月の
倶利伽羅(くりから)峠合戦に木曽源氏義仲の配下として参戦。
この合戦は松明を角に付けた牛の群れを平氏軍に襲わせて
牛もろとも谷底に叩き落す「火牛攻め」の奇襲で源氏の圧勝。
続く加賀篠原の合戦では敗走する平氏の殿軍(しんがり)であった
斉藤別当実盛と光盛が一騎討ちを組み合った。
古式に則った一騎討ちは武士道の鑑とされ、
能「実盛」の題材となって後世に伝えられるようになったのでござる。
木曽義仲は勢いに乗って京都へ進軍、平氏の勢力を追い落としたが
粗暴な振る舞いは公家衆や後白河法皇の反感を買い
義仲追討令を受けた源頼朝によって逆に京を追われてしまった。
1184年(寿永3年)1月、木曽義仲は粟津で敗死。
手塚光盛と共に戦った兄・金刺盛澄(かなさしもりずみ)は捕らえられ
頼朝の引見を受け斬首される事となったが、盛澄の武芸を惜しむ声が上がり
処刑前に流鏑馬の披露を行った。弓の名手であった盛澄は
見事に全ての矢を的に命中させたため、頼朝はその腕前を賞賛し
斬首を取りやめ、手塚(金刺)氏の本領を安堵したという。
この城がいつまで用いられていたのかは定かでない。手塚氏は
諏訪大社下宮の別当として権勢を振るったが、一方で諏訪地方は
諏訪大社上宮の大祝(おおほうり)諏訪氏も宗教権威に根差し
強固な勢力基盤を有していた。手塚氏も諏訪氏も元来は同族で
いずれも諏訪大社神職の地位にある事で領主権を行使した武士団だが
鎌倉期〜室町期を経て武士による支配力が重きを為していくにつれ
互いに争うようになっていく。最終的にこの戦いは諏訪氏が勝利を収め
諏訪地方の大名として君臨していった為、手塚(金刺)氏は没落
歴史の彼方に消え去ってござる。その城館跡であった手塚城址も
近代の観光開発ですっかり様相を変え、旧来の遺構は見受けられない。
城跡である駐車場へと通じる道がさながら堀切のように見えるが
これも駐車場整備時に掘削された道なので、旧来は平坦な地平面が続き
このような堀切状ではなかったとの事。城跡に残る盛澄の像(写真)だけが
城の歴史を証言しているのみでござろう。




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