善光寺の“(かなり離れた)裏山”■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国大名の中でも群を抜く有力者・甲斐の武田信玄は、領土を北に拡張し信濃を攻略。これに対して信州諸豪族の復権と自らの
勢力圏を防衛する事を目的とし、毘沙門天の生まれ変わりを自認する上杉謙信が阻止行動に動き有名な川中島合戦が勃発した
―――というのは小中学校の日本史授業でも出てくる事柄で、義務教育を履修した日本人であれば誰しも知っている筈である。
さらに歴史好きならば、川中島合戦とは足かけ12年・5度にわたる連戦の総称で、海津城(長野市内)を拠点として北信濃制圧を
図ろうとする武田軍に対し、上杉軍が南進攻勢をかけて会戦に及んだという話も知る事になろう。しかし、川中島合戦に登場する
城は海津城だけではない。善光寺平を中心に、武田・上杉両軍は互いに相手を牽制し得る場所を選んで多数の城を構築しており
これらの城砦群が作ったり作られたり、獲ったり獲られたり…という情勢が積み重なる事で、5度に及ぶ戦闘の端緒となっている。
こうした城郭群のうち、上杉軍が用いた城の中で特に有名なのが旭山城・葛山城、それにこの大峰城だろう。いずれも長野市内、
定額山(じょうがくさん)善光寺の北西側に位置するこれらの山城群は武田方から奪取した城(旭山城)であったり、逆に武田方に
奪われた城(葛山城)との経緯があるものの、どれも急峻な山岳の頂を利用したもので眼下に善光寺平(川中島)を望む戦略上の
要衝だと言える。中でも最も標高の高い山にあるのが大峰城だ。(旭山山頂は785m、葛山山頂は812m、大峰山山頂は835m)■■
川中島周辺城砦群の一つという事で一緒くたにされてしまう陣城ゆえ、城の詳細な歴史は明らかでない。葛山城の支城との事で、
葛山城主・落合二郎左衛門尉(備中守)の家臣である大峰蔵人なる人物が天文年間(1532年〜1555年)に築城したとだけ伝わる。
この頃、旭山城は武田方の手にあった。即ち、川中島の南から東を勢力圏としていた武田軍が善光寺の西側に橋頭堡を確保した
事になる。これに脅威を感じた上杉軍が旭山城に対する付城として築いたのが葛山城ならびに大峰城という訳でござる。■■■■
旭山城と葛山城・大峰城の対立が第2次川中島合戦の発端であり、両軍の対陣は200日近くに及ぶ長期戦となった。疲弊の著しい
両軍は和睦するしかなくなり、特に本拠地・甲府から長征して兵力の維持に困難をきたしていた武田軍は、上杉方に対して大幅な
譲歩をする窮地に追いやられていた。結果、旭山城は武田方自らの手で破却する事になり一時的ながら北信濃国人衆の帰郷が
叶う事になる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが、第3次川中島合戦の段になると葛山城が武田軍により落とされ、反撃として上杉軍が破却されていた旭山城を占領して
復興する。大峰城は上杉方の手に残り、旭山城と大峰城で葛山城を挟撃する形となったのであるが、或いは葛山城は落城直後に
武田軍が破城して滅失していたとの説もある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、こうした戦歴の後に最激戦となる第4次の川中島合戦が発生。1度の会戦としては戦国史上で最多の死傷者を出したと
言われるこの合戦の後に、善光寺平周辺の領有権は武田方のものとして確定する。これに伴い上杉軍は大峰城から手を引いて
廃城になったと見られている。しかし一方で5回に及ぶ川中島合戦の末これ以上の北伐が不可能と悟った信玄は謙信との決着を
諦め、南の駿河へ矛先を移す事になる。龍虎両雄の戦いは大峰城ほかこの地域の諸城に始まり、そして終わっていったのだ。■
昭和の観光開発も、今や廃墟に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以来、自然の山林と化していた大峰山であるが、太平洋戦争後は観光開発の攻防が行われるようになる。1960年(昭和35年)6月
2日、山の麓から山頂へ至る産業観光道路(後の戸隠バードラインの一部)の工事起工。何とこの工事は陸上自衛隊古河(こが)
駐屯部隊の手によって行われ、早くも同年の9月1日に竣工している。これに伴い9月16日、大峰城址に関する史跡調査委員会が
発足した。委員会は史跡の観光活用として翌1961年(昭和36年)3月18日、天守を模した観光展望台の建設を了承。勿論往時の
大峰城は中世山城、天守など在ろう筈も無く、現代の感覚で言えば「誤った観光開発」になってしまう訳だが、昭和の高度成長期
「城跡には天守が当然」であった時代なのだから致し方ない。結果、同年11月10日に起工式が行われている。一方で、大峰山は
長野市の上水道給水地点としても使われるようになり、これは1962年(昭和37年)1月23日に着工し5月25日に工事完了となった。
前後する5月17日に大峰山展望台が上棟。起工から丁度1年の11月10日、竣工式が執り行われた。斯くして誕生した大峰城址の
天守型展望台は4階建て鉄筋コンクリート製、1981年(昭和56年)からは「大峰城チョウと自然の博物館」となっている。長野市は
この施策において観光収入の増大を見込んだようだが、1985年(昭和60年)7月25日、その月に降り続いていた豪雨によって土砂
崩れが発生、戸隠バードラインの大峰山より東側部分が欠損するに至った。結局、この部分は復旧不可能で廃道になり大峰山へ
登る道は制限されるようになる。そのためチョウと自然の博物館は来訪客が激減し、とうとう2007年(平成19年)12月に閉鎖となり
申した。(そもそも何でここが「チョウと自然の博物館」なの?という感じだったがw)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
博物館の閉鎖に伴い、現在は大峰山への入山そのものが不能となっているようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、こうした経緯を踏まえた上で縄張りを解説してみよう。大峰城の主郭、博物館が建設された位置は大峰山頂から南東側へと
120m位せり出した第2の頂点。標高828.2mの三角点が設置されているこの地点は山頂より7.5m程低い位置にあたるが、山頂から
連なる尾根以外は急峻な崖となって落ち込んでいるので守りに堅い上に、周囲の眺望が素晴らしく、特に善光寺平(長野市街地)
方面への見晴らしは抜群と言える。必然的に主郭への侵入路は山頂からの尾根道のみとなり、後堅固の様相を呈す。然るにその
尾根をいくつもの堀切で分断し防御を固め、堀切と堀切の間に出来た空間を削平する事で前衛の曲輪群を構成。これが大峰城の
基本的な縄張りでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方、主郭より高い位置になる山頂、ここが現在は水道配水地下貯水槽となっている訳だが、それはそれで削平地として一つの
大きな曲輪とされていた。築城当初はここが主郭とされていたようだが(長野市史による)山頂部は比較的周囲の傾斜が緩やかで
あるため防備に不適切と判断され、新たな主郭を設けた上で山頂の曲輪は最前衛の別郭へと格下げされたと考えられる。しかし
一方でこの別郭は造成が甘いため、臨時造成したものではないかと見る向きもある。大峰城もまた、武田軍に奪われた事があり
その際、武田方が自らに使い易いような改造を行ったとするのがこの説の論拠であるものの、果たして大峰城にそのような事象が
あったかは定かではない。ともあれ、現状で大峰城址近辺は道路整備や博物館建設にて、見かけ上は中世城郭の名残を残さぬ
状態になってしまっているが、博物館の裏手など、山林となっている部分に目を凝らすと竪堀の跡などが部分的に残存している。
写真の模擬天守は「如何にも」というニセモノで、もはや苦笑するしかないが、隠れた遺構を探す事こそが城郭愛好家にとっての
真骨頂ではなかろうか?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
|