信濃国 松代(海津)城

松代城戌亥櫓台

 所在地:長野県長野市松代町松代
 (旧 長野県埴科郡松代町松代)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆
★★★■■



現存する遺構

藩校文武学校《国指定史跡》・鐘楼・御船屋稲荷
堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡

移築された遺構として
成澤家住宅主屋(伝花の丸御殿局屋敷)《国登録有形文化財》
花丸院堂宇(伝花の丸御殿一部)・大御門の鯱・物見櫓ほか



信濃国 
松代城新御殿(真田邸)

松代城新御殿

 所在地:長野県長野市松代町松代
 (旧 長野県埴科郡松代町松代)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★★
★★★☆



現存する遺構

御殿本屋・土蔵7棟・付属家1棟
敷地内は国指定史跡





川中島、武田軍の出撃拠点■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国の二大巨頭、武田信玄と上杉謙信。甲斐の虎・信玄は信濃に領土を広げ、越後の龍・謙信はそれを阻止すべく戦った。
5回に渡って川中島周辺で大合戦が行なわれたが、遂に決着はつかなかった。こうした渦中において武田氏の最前線として
築かれた城が海津城。千曲川を挟んで上杉軍に睨みを利かせ、川中島合戦の武田軍出撃基地として厳重に守られた。■■
貝津城とも記されるこの城の創建は諸説あり定かでない。武田家の軍記書として有名な「甲陽軍鑑」には1553年(天文22年)
8月、あの山本勘助晴幸が縄張して築かれたとある。これは第1次川中島合戦の頃に当るが、この時点で武田家が川中島の
拠点城郭となるような大城を築けるほど地域制圧を成し遂げていたかは疑わしい限りである。文化庁の海津城に関する史跡
調査解説では1556年(弘治2年)、長野県の調査史誌「信濃史料」では1559年(永禄2年)の起工としており即断は出来ないが
いずれにせよ1561年(永禄4年)頃には完成していたようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ちなみに海津城の旧地には在地土豪・清野(きよの)氏の居館があり、これを武田軍が接収し大城郭へと変貌させたものとの
事。清野氏は北信濃の有力者・村上氏に属していた国人であるが、村上氏が武田氏に圧迫され領国を追われると武田方に
鞍替した一族。海津城築城工事には清野氏のように武田氏へ服属した北信濃4郡の国人衆、屋代氏・香坂(こうさか)氏らが
動員された。斯くして完成した城には、信玄配下の名将“鬼美濃”こと原美濃守虎胤(とらたね)をはじめ、小山田備中守虎満
(おやまだとらみつ)・原与惣左衛門・小幡山城守虎盛(おばたとらもり)・市川等長(ともなが)らが配されたのだが、最も有名な
人物は城主(正しくは城代)である高坂弾正忠昌信(こうさかまさのぶ)であろう。容姿端麗で知勇兼備の昌信は、勇猛な武田
軍の中でも随一の用兵で知られ、強引な攻めや無理押しをしない戦法は「逃げ弾正」と評された。その堅実さを買われて海津
城主に抜擢され謙信の動勢を監視。上杉軍に動きあるや直ちに防戦態勢を整え、付け入る隙を与えなかった。1561年9月に
行われた第4次川中島合戦は南進してきた上杉軍を昌信が素早く察知、即座に甲府へ連絡して信玄が主力軍を海津城へと
率いてきた事が端緒であるのは周知の通り。謙信が本陣を構えたという妻女山(下記)から当城までは僅か3km程の距離だ。
啄木鳥戦法、炊煙に気づく謙信、夜間行軍、朝霧の不期遭遇戦、典厩信繁戦死、そして伝説の両雄一騎討ちと、この戦いを
解説すれば枚挙に暇が無い。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

善光寺平の統治拠点へ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、第4次合戦の果てに武田方は善光寺平(長野市内平野部)の領有権を確定的にしたため、海津城は兵站拠点のみ
ならず統治拠点としても重きを為すようになり、高坂弾正は郡代としてこの地を支配する働きにも優れた能力を発揮し申した。
ところが信玄が病死し、昌信もまた後を追うように没した後、武田家は斜陽の時代を迎える。父に負けじと外征政策を採った
信玄後嗣・勝頼であったが逆に攻勢限界を超えて破綻、織田信長に西から攻め立てられ、遂に1582年(天正10年)3月、甲斐
源氏の名門・武田家は滅亡。その遺領はそのまま信長のものとなった。川中島を含む北信地域は信長家臣の森武蔵守長可
(ながよし)が治める事となり、海津城に入城したのである。この時、領内にはまだ旧武田家の遺風を偲ぶ者が多く、長可に
反抗的態度を取っていた。その為、逆らう者は撫で斬り(皆殺し)にし、残った者には服従の証として海津城への人質供出を
義務付けている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが直後の6月、信長もまた本能寺の業火に消える。これで領国支配体制が崩壊した織田家、特に東国では統治能力が
皆無となり長可は海津城を放棄し美濃国金山(かねやま、岐阜県可児市)へと撤退。結果、北信濃地域は越後から進出した
上杉家が領有する事になった。時の上杉家当主・弾正少弼景勝は北信支配の拠点城郭として引き続き海津城を重視、山浦
蔵人景国(やまうらかげくに)を城主に任じ統治に当たらせた。この景国、旧名を村上源吾国清(くにきよ)と言い、何を隠そう
武田信玄に追われる以前に北信濃の支配者として君臨していた村上左近衛少将義清の嫡男である。およそ30年の時を経て
景国は父の旧領に返り咲いた訳だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし時代の変革期、大大名の草刈場と化した信濃国は情勢が安定しない。景国配下に付けられていた屋代左衛門尉秀正
(やしろひでまさ)が荒砥城(長野県千曲市)で反旗を翻す事件が起き、景国は海津城主を罷免されてしまう。代わって新たな
城主となったのは上杉一門の上条山城守政繁(じょうじょうまさしげ)であり、更に1585年(天正13年)からは須田相模守満親
(すだみつちか)となった。須田氏は海津城より猶も北、高井郡須田郷(現在の須坂市)に根付いていた一族だが武田信玄の
北伐によって一族離散、満親の系統は上杉謙信を頼りその配下に収まっていた。これまた、約30年ぶりに北信濃の支配者に
復帰した事になる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
満親が海津城主となった頃は上田の真田一族が徳川家と対立し上杉家へ接近していた時期で、満親が取次の役を果たして
いる。また、第1次上田合戦(上田城の項を参照の事)時に上杉家から真田家への援軍を統率したのも満親だった。1588年
(天正16年)における上杉家中の軍役録において満親(海津城主)の知行高は1万2000石とされ、上杉家宿老・直江山城守
兼続に次ぐ大封。満親の豪腕ぶりは高く評価されていた。ところが豊臣秀吉の全国統一を経て1598年(慶長3年)上杉家は
越後・信濃から会津へと移封が命じられる。当然、海津城も手放す事になり、この年の2月、除封に憤懣やるせない満親は
城内で切腹して果てたと言う。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

縁起を担いだ城名に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
上杉家の支配から外れた後は、この地を含む9万石は豊臣家の蔵入地(直轄領)となり海津城には豊臣家臣・田丸中務大輔
直昌(たまるなおまさ)が派遣されている(直昌の統治領は4万石)。しかし関ヶ原合戦直前の1600年(慶長5年)2月に豊臣家
蔵入地から外され、城主は森右近大夫忠政(長可の弟)に交代。石高は13万7500石である。3月に入府した忠政は海津城の
名を待城(まつしろ)に改めた。彼はかねてより肥沃な川中島への移封を切望し、これが政権大老・徳川家康に認められての
国替えとなった訳で“待ちに待った城”という事であろうか。当然、親家康の忠政は関ヶ原の折に在国し、近隣の西軍真田家
上田城(長野県上田市)への備えに専心、戦後も所領は安堵され申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
このため忠政は城の改修に取り掛かり、二ノ丸・三ノ丸の整備や城内各所の石垣造成を行ったが、1603年(慶長8年)2月に
美作国津山(岡山県津山市)18万6500石へと加増転封。新たに下総国佐倉(千葉県佐倉市)5万石から国替えされたのは、
家康の6男・松平上総介忠輝だ。川中島12万石の太守となった忠輝は1610年(慶長15年)越後国高田(新潟県上越市)領も
加えられ、合計75万石の大封を有するように。岳父・伊達陸奥守政宗らの助役で高田に新たな城を構えて(高田城)、本拠を
そちらに移したので待城には家老・花井遠江守吉成(はないよしなり)が城代として入城した。吉成は城下の街道整備や治水
事業に多大なる功績を挙げ、彼を祭神とする花井神社が現在も残る。吉成の没後はその嫡子・主水正義雄が城代を継承して
いる。ちなみにこの時期、「待城」の名は「松城」に改められてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが大坂の陣での不手際を叱責されて1616年(元和2年)7月6日、忠輝は改易され流罪に。高田・川中島領は幕府により
分割され、松城には松平伊予守忠昌(ただまさ)が12万石で入府。忠昌は越前宰相こと結城三河守秀康(家康2男)の2男だ。
若年ながら大坂の陣において抜群の軍功を挙げ、川中島領を与えられたものである。だが1618年(元和4年)更に加増された
事で松城を離れ、25万石で高田藩主に。入替わりで高田から松城へ酒井宮内大輔忠勝が入府、1619年(元和5年)3月の事で
石高は10万石でござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

松代真田家の成立■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方、出羽国山形(山形県山形市)の太守・最上家が1622年(元和8年)改易に。これにより旧最上領は細分され、そのうちの
庄内(山形県鶴岡市)へ忠勝は6月7日に13万8000石で加増転封される事に。こうした曲折の後に松城へ配されたのは、真田
伊豆守信之。上田9万5000石から13万石への加増であった。後に飛地の3万石(上野国沼田(群馬県沼田市)領)は分割相続
された為10万石になるが、幕末まで信濃国内においては最大の石高を誇る藩となっている。以後、明治まで真田家が治める
事となり、信之は城内本丸に御殿を造営し申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
真田家と言えば“表裏比興”の安房守昌幸や“日本一の兵(つわもの)”幸村こと左衛門佐信繁で知られ徳川将軍家の天敵と
して有名であるが、だからこそ家を残した信之は幕藩体制において幕府への配慮に腐心、絶妙な政治感覚で藩政の基礎を
固めた。旧名「信幸」を棄て「信之」と名乗ったのも、父・昌幸から受け継いだ「幸」の字を改める事で徳川幕府への敵対心が
無い事を示したものだと言う。こうして継承された松代真田家は、信之の後に内記信政(のぶまさ)―伊豆守幸道(ゆきみち)
伊豆守信弘(のぶひろ)―伊豆守信安(のぶやす)―伊豆守幸弘(ゆきひろ)―弾正大弼幸専(ゆきたか)―右京大夫幸貫
(ゆきつら)―右京大夫幸教(ゆきのり)そして信濃守幸民(ゆきもと)と、10代247年に渡っている。3代・幸道の頃である1711年
(正徳元年)幕命により松城を松代と改めた。これにより地名の松代、城名の松代城が確定。現在、町名は市町村合併により
長野市内の松代町となり、城名は戦国時代の海津城と松代城が共に知られるようになっている。■■■■■■■■■■■
6代・幸弘の時代、1758年(宝暦8年)藩校の文学館を開校。幸専以降の代は養子入りによる相続であるが、その中でも8代
幸貫は寛政の改革を行った老中・松平左近衛権少将定信の子、つまり徳川8代将軍・吉宗の曾孫にあたる人物だ。一般的に
外様大名として認知されている真田家であるが、藩祖・信之は関ヶ原以前から徳川家康に臣従しているので実は譜代大名で
ある上、こうした血縁に基づいて幸貫は幕府の老中に任じられている。もちろん、藩政においても幸貫は有能な実績を挙げて
おり、西洋通の兵学家・政治家である佐久間象山を登用するなどして改革を断行、殖産興業に努む。次の幸教の代、1855年
(安政2年)には幸貫が計画していたと言う新藩校・文武学校が開校している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

堅固な構えだが、水害多し…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで松代城の縄張りであるが、基本的には海津城時代から踏襲されたもので、城域の北から本丸、その西〜南〜東側を
囲うように二ノ丸、その南面前衛として三ノ丸が並ぶ。二ノ丸と三ノ丸を繋ぐ虎口には武田流築城術で特徴的な丸馬出があり
巨大な三日月堀が穿たれている。この三ノ丸自体が二ノ丸南側を守る馬出状曲輪として構えられているため、縄張図上では
さながら2重馬出のようにも見える。更に三ノ丸の西側を塞ぐ形で広大な花の丸を置き、搦手側の緩衝地帯としていた。■■
これらの曲輪間はそれぞれ潤沢な水利によって保たれた水濠で分割されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■
本丸は北・東・南にそれぞれ虎口を開いていたが、北と東は不明門であった為、通常用いられていたのは南側の太鼓門だけ
だった。曲輪は四周を石垣で囲み、四隅には2重櫓を構えて防備。このうち、北西(戌亥)隅の櫓は城内最大の物で、名目上
天守の無かった松代城において実質的な天守であったと推測される。こうして守られた敷地内に、信之の建てた本丸御殿が
置かれていた他、二ノ丸の東側区域にも1759年(宝暦9年)まで二ノ丸御殿があったらしいが後に滅失し、土蔵が建てられる
ようになったそうだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
本丸の裏手、北側には帯曲輪状の細長い水ノ手曲輪が置かれている。築城当初より、このすぐ北側に千曲川が流れ天然の
外堀となっていた。これにより海津城時代は大河を背にした後堅固の城、まさに“背水の陣”となる強固な防備となっていたが
太平の時代となると度重なる氾濫を繰り返す大河こそが城にとって最大の敵となってしまう。江戸時代全般を通じ、度重なる
大火と千曲川の洪水により松代城は被害を受け、曲輪や建物の欠損に繋がっている。特に1742年(寛保2年)「戌の満水」と
呼ばれる水害は凄まじく、城内最高所の石垣までもが水没したと言う。真田信之は上田から移封の際に20万両とも言われる
蓄財を松代へ持ち込んで潤沢な藩財政を確立したが、こうした被害と幕府に命じられた江戸市中の手伝普請によって財源は
枯渇し、松代藩は多大な借財に苦しむ赤字藩へと転落した。元凶の一端である千曲川の改修に迫られた松代藩は、1752年
(宝暦3年)藩の執政・原八郎五郎が河川流路の変更工事を行う。これで千曲川は城から西へ1.5kmほど離れた位置を流れる
ようになり、旧流路は百間堀という形になってござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
数次の災害被害により本丸御殿は機能しなくなり、1770年(明和7年)花の丸に御殿が築かれた。従前、花の丸は山里曲輪で
あったが、これ以後は松代城の中枢となっている。既に天下泰平の時代、城の最も奥にある本丸よりも城下町に密接した外郭
曲輪の方が使い易くなったという証明であろう。しかし1853年(嘉永6年)、その花の丸御殿も火災で失われており(後に再建)
松代城が平穏無事であった訳ではない。他にも、記録に残るだけでこの城は二ノ丸を焼失した1625年(寛永2年)・城内全域を
焼いた1717年(享保2年)など数度の火災に見舞われている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

新御殿の造営■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
幕末混乱期に至り益々出費が嵩み藩財政が破綻寸前になる中、1862年(文久2年)幕政改革で参勤交代が免ぜられるように
なると江戸に在住していた藩主婦人や子息らが帰国する事になる。故に新たな御殿が必要とされ、三ノ丸の南側(既に城外)
文武学校の東隣に1864年(元治元年)新宅が完成した。これが松代城新御殿、通称真田邸である。普請奉行は家老の寺沢
蘭渓(らんけい)。木造瓦葺平家建て(一部2階建て)で、東に玄関を開く建物。創建当初は時の藩主・幸教の養母である貞子
(おていの方、落飾して貞松院と号す)の居所として使われたが、後に幸教自身の隠居所となる。花の丸御殿の副次的御殿で
あったが、明治維新後は真田家当主の邸宅となって現在に至っている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうした経緯の後、江戸時代が終焉を迎える。真田家は早期から朝廷に与し最後の藩主・幸民は戊辰戦争に新政府軍として
兵を出している。この為、維新後に賞典禄3万石を加増され1869年(明治2年)版籍奉還で松代知藩事に任じられたが1871年
(明治4年)廃藩置県で免官。松代城も廃城とされたので1872年(明治5年)破却され、払い下げられたいくつかの建物以外、
城内建造物は失われた。主郭部跡地は旧藩士に分与され桑畑になったと言う。残っていた花の丸御殿も1873年(明治6年)
放火によると言われる火災で焼失。なお、この火災に先立ち花の丸御殿の局屋敷部分は移築されていて難を逃れている。
局屋敷は城下成澤家住宅の主屋とされており、2007年(平成19年)12月5日に国登録有形文化財に。■■■■■■■■■■
農地として開墾された主郭部に対し、外郭部は宅地となったり鉄道線路の敷設地になっていく。堀も埋め立てられ、かつての
景観は失われてしまったが、新御殿と文武学校はかろうじて残された。また、1904年(明治37年)に旧城主・真田幸民の長男
幸正が桑畑となった跡地を買い戻し、公園として開放。1925年(大正14年) には公園内に噴水や番所を設置、園内清掃人が
常駐するようになった。この後、昭和期には旧二ノ丸に市民プールや運動場まで置かれるようになったが、太平洋戦争後の
1951年(昭和26年)真田家から旧城地が寄付されて公用地となり、徐々に史跡整備の機運が盛り上がっていく。本丸とその
周辺地が1964年(昭和39年)長野県史跡の指定を受け、1981年(昭和56年)4月11日には国史跡となってござる。■■■■■
国史跡指定の際には新御殿も松代城跡附として同時指定。平成に入ると城跡を史跡整備し、旧来の姿を復元しようとする
流れになり、数次にわたる発掘調査が行われている。それによれば太鼓門前の堀に橋脚遺構が検出された上、御殿や門
などの礎石、残存石垣の詳細、瓦・釘・木材・土器・陶磁器といった建材・生活用具が出土、かつての城がどのような状態で
あったかの手がかりとなった。史料やこれら調査結果を元にして1995年(平成7年)から復元整備工事が行われ、埋め立て
られた堀の再掘削・土塁や石垣の復元・埋門の開通・太鼓門と北不明門の再建が果たされた。特に太鼓門は総高11.8mの
櫓門と“橋詰門”と称された高麗門が建てられ、虎口を塞ぐ下見板張りの続塀も再現し大手門に相応しい威厳のある景観が
復活している。こうした整備事業は文化庁の指示に基づき江戸時代末期の姿を整えたものである。松代城は1717年の大火
以前の史料が乏しく、幕末期の状況が詳しく窺える為にこうした措置となり申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■
2004年(平成16年)整備工事が終了し、生まれ変わった松代城址が一般公開されている。2006年(平成18年)4月6日には
財団法人日本城郭協会により日本百名城の1つに選出された。さすが百名城だけあって知名度・整備度は抜群。■■■■
城好きの人間ならずとも、ここは長野市の観光名所として外せないだろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■







信濃国 妻女山陣所

妻女山陣所跡 招魂社

 所在地:長野県長野市松代町岩野
 (旧 長野県埴科郡松代町岩野)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★☆■■■
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海津城を見下ろす山■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
川中島合戦の中でも最激戦となった第4次会戦の際、武田軍の根拠地であった海津城を望むべく上杉軍が駐屯した陣城。
それまで3度の戦いを経て、それでも徐々に北への侵食を行ってきた武田徳栄軒信玄の動きに対して、1561年に関東管領
(室町体制において東国の統括を行う役職)職と上杉家の家督を正式に継承し名実共に「関東の管理者」を自負するように
なった長尾弾正少弼景虎あらため上杉政虎(まさとら、後の不識庵謙信)は、同年8月に居城・春日山城(新潟県上越市)を
進発、15日に長野の名刹・定額山(じょうがくさん)善光寺へ入った。ここに守備兵5000と小荷駄(兵站部隊)を残し、翌16日
海津城の眼前を横切るように川中島を南進し、海津城の南側にある小高い山へ登った。斯くして上杉軍が陣を構えたのが
この妻女山であると言われている。まるで武田方に対し自らの出陣を宣言し、今こそ雌雄を決せんと言い放つ如くの行軍に
信玄もまた本拠地の甲府を発し、妻女山の眼下を大きく回り込んで8月29日に海津城へ入った。お互い、今度こそは決着を
つけようと言う“宣戦布告”をしたような動きであった。しかしそれだけに以後は迂闊な行動を控え、相手の出方を探る日が
続いたのだが、武田方の軍師・山本勘助が別動隊を妻女山陣所の裏手へ攻め込ませ、山麓で待ち構える本隊と挟撃する
“啄木鳥作戦”を提案、それに基づいて武田軍は9月9日の深夜に動き出した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが、海津城内で普段より多くの炊煙が上がる様子を見た戦の天才・謙信は武田軍の出撃を察知、夜陰に紛れて山を
下り、一足早く武田本隊が布陣する所に先回りした。翌10日の朝は霧が深く、互いの位置に気づかぬまま予想外の遭遇を
果たした両軍は、統制の取れない大混戦にもつれこんでいく―――と言うのが第4次川中島合戦の顛末として有名だ。
こうした“川中島伝説”にて、上杉軍が合戦当日まで陣城としていたのが妻女山だ。この山は南側にある天城(てしろ)山の
最末端部に位置する半島状尾根で、北に(善光寺平に向かって)突き出した先端山頂が標高411mを示す。川中島一帯が
海抜350m程なので、比高差60m程度と言った具合か。この山頂部の細長い敷地が「陣場平」と言われる区画で、その南西
側に連なる副郭(これも細長い敷地)は千人窪と言うのだとか。妻女山から尾根を伝って南の山を登れば天城城、更には
鞍骨城(共に長野市・千曲市の境界線上)があり、川中島を囲む一連の城塞群と関連性は高い。ところが一方で、妻女山
内部は削平こそされているものの際立って堅固な構えは無く、軽く土塁の痕跡らしきものが見られるに過ぎない。そもそも
この削平地や土塁も陣城当時のものなのか、或いは後世の物なのかも判断が付かない。この山には近世になって招魂社
(写真)が建てられており、それに伴う遺構の可能性もあるのだ。更に、上杉軍の陣所と伝わる「妻女山」は「西条山」又は
「斎場山」の誤伝とする説もあり、それに拠るならば別の山となってしまい、戦記と一致しなくなってしまう。兎角、軍記物に
描かれる描写は誇張や虚構が入り混じっているので、それをそのまま鵜呑みにする訳にはいかないと言う事か。もっとも、
現在の妻女山には展望台が据え付けられており、そこからは川中島全域が手に取る如く見晴らせる。いわんや、海津城も
しっかり覗い知る事が出来るので、謙信が炊煙を見て敵の攻勢に気づく…という筋書きには「妻女山」でなくては成立せぬ
地勢的要因があるのは間違いない。1万3000と言われる上杉軍本隊が駐屯するにも手ごろな山容でござろう。■■■■■
上信越自動車道が千曲市と長野市の境を越える薬師山トンネルの長野市側出入口の直近に上記の招魂社が建っており
そこが陣城跡。高速道路の側道から妻女山へ登る道があるので、道沿いに進めば辿りつけるが、細く曲がりくねった道で
運転には注意が必要だ。それも、かなり路面の荒れた箇所があって難儀する。まぁ、山城へ至るのだから当然だが(笑)
ちなみに、薬師山トンネル出入口のすぐ隣には會津比売(あいづひめ)神社の小さな社があり、付近には清水が湧き出て
いる。普通に考えればこの水が妻女山に陣取る上杉軍の用水となっていたのであろうが、これまた謙信伝説においては
「神社を参拝した謙信が槍で突いたところ水が湧き出した」そうで“槍尻の泉”と呼ばれている。いくら何でも軍神・謙信を
超人的に持ち上げすぎな話なので、やっぱり“川中島伝説”をそのまま鵜呑みにする訳にはいかない…? (ー゙ー;■■■



現存する遺構

土塁・郭群








信濃国 霞城

霞城跡 虎口石垣

 所在地:長野県長野市松代町大室
 (旧 長野県埴科郡松代町大室)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★★★☆
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地方豪族の城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「かすみじょう」、或いは「かじょう」とも。敵が攻め来ると霞がかかって城を消し守られたと言う伝説に基づく名だが
地名から大室城とも。この地を領した大室氏の城とされる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
大室氏と言うのは室町時代に信濃守護家となる小笠原氏の始祖とされる小笠原左京大夫長清(ながきよ)の末裔、
時光が大室牧(官営牧場)の牧監(牧の管理役人)となり、大室姓を名乗った事に始まる。ただ、詳しい来歴は不明、
当然ながらこの城の築城年代や築城主も分からない。戦国期には北信の雄・村上氏に従っていたものの、1553年
村上義清が武田信玄によって国を追われると、時の大室氏当主と見られる大室助左衛門は武田家に降っている。
本領を安堵され、武田家中では50騎を率いる将として遇された大室氏であったが、1582年に武田家が滅ぶと織田
信長に従い織田家臣・森長可の配下に組み込まれ、同年その信長も本能寺に斃れると越後上杉家がこの地域を
支配、助左衛門の子である左衛門尉綱定(源二郎)は上杉景勝の家臣に加わるなど、上級大名の転変により振り
回された地方豪族の苦難が滲み出る。ただ、以後の北信地域は上杉家によって支配が固定されたため、大室氏は
その配下として服従し、海津城の留守役に「大室兵部」が(石高558石)、その同心に「大室伝次郎」(37石)がいたと
上杉家の「文禄三年定納員数目録」に記載されている。また、上杉家の支配下に入った荒砥城は清野・寺尾・西条・
保科・綱島・綿内それに大室の7氏が10日交代で在番する番城となっている。屋代秀正が荒砥城で反乱を起こした
際には、大室氏も関与を疑われたが上杉景勝に詫び状を出して事なきを得た。そんな上杉家が1598年に会津へと
移封されると、大室氏もそれに従い会津へ移っている。霞城もこれで廃城になったと見られており申す。■■■■■

総石垣作りの名城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
霞城の所在地は上信越自動車道の第一大室トンネルが貫通する山。この山は南にある奇妙山の末端部にあたり、
南から北へ延びる細長い尾根が千曲川河畔に突き出した地形である。現在はこの突端部から千曲川までは最短で
450m程の距離があり、その間が住宅地や国道403号線の用地になっているものの、当時は山の直前に川が流れて
「竜(たつ)ノ口」と呼ばれる岩場が岬のような地形になっていたそうだ。この尾根上の小ピーク、標高409.7mを示す
山頂部が主郭となり、ややいびつな長方形を為す。山の敷地は岬へ延びる三角形をしているので、主郭を取り巻き
下段に二郭、更に三郭が三角形の敷地で広がっている。その先にはなお下段の曲輪群が連なっており、東西54m×
南北180mとされる城域の中にいくつもの遺構が密集している。この城が名城たる所以は、これらの曲輪がほとんど
全域で石垣作りとなっている点だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
長野県、信濃国(から甲斐国にかけて)の山では、在地系技術と見られる平石を重ねて積み上げる石垣を有す城が
何箇所かある。ただ、往々にしてそれらの城は斜面の土留め程度に石垣が構築され、曲輪の形を明確に分割する
程の使われ方をしている例は少ないのだが、霞城ではそうした用途で石垣が組まれ、特に南側(主山塊に繋がる)
入口では複雑に屈曲した虎口を形成し、圧巻の光景を作り出している(写真)。石垣の連なりを見るにつけ、ここは
近世城郭ではないかと思えてくる程の見事さなのだが、ここはれっきとした中世城郭。山の直下に広がる住宅街は
標高345m程なので比高差は60m以上に及び、石垣の虎口と相俟って侵入者を阻止する構造になってござる。■■
ちなみに、この山域は古墳が多数築かれた古墳群(大室古墳群)でもある。数年前までは霞城址は森の中に埋もれ
遺構はハッキリせず、しかも登山路さえロクに整備されない自然の山だったそうだが、大室古墳群が国の史跡として
見学設備が整えられたのに合わせ、霞城でも史跡保全が進められるようになった。現状、城を南北に貫通する形で
登山路が用意され、登城できるようになっている。但し、登山口は周辺民家の合間を縫って入る事になるため、地域
住民の方々に御迷惑をお掛けせぬよう配慮すべし。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

石垣・郭群








信濃国 大堀館

大堀館跡

 所在地:長野県長野市青木島町大塚

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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在地豪族の館が信玄本陣に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
おおぼりやかた、と読む。大堀山館とも。地名から大塚城の名も。館の由来から町田氏屋敷あるいは綱島氏館と称される
事もござる。武田晴信(信玄)と長尾景虎(上杉謙信)が5度にわたって会戦した川中島の戦い、こちらの城館はそのうちの
第2次合戦において武田軍の本陣とされた事で知られている館。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
元来、ここには在地豪族の町田氏が館を築いていた。但し、異説では綱島豊後守保品(やすただ)の館であったとされる。
この両説によって町田氏屋敷、綱島氏館の名称が発生した訳だが、ここでは町田氏説とする。町田兵庫正之(まさゆき)は
1553年、南から進出してきた武田晴信に服従。これで千曲川北岸に拠点を得た武田方はさらに北進の度を極め、1555年
(弘治元年)善光寺別当職として名族を誇った栗田刑部丞寛久(くりたかんきゅう、号を鶴寿(かくじゅ))の懐柔に成功した。
晴信は寛久を旭山城(長野市内)に入れて長尾(上杉)方を圧迫する。これに対して景虎が4月に出陣、長尾方拠点として
葛山城や大峰城(共に長野市内)を固める一方、自身は横山城(こちらも長野市内)に入り武田軍を牽制した。その当時、
晴信は木曽に出陣中であったが景虎南下の報に接し軍を取って返し、ここ大堀館に本陣を構えたのである。これが両軍
対陣の始まりで、7月19日には横山城を出て犀川を渡った長尾勢が仕掛けるも決着せず睨み合いは猶も長引く事になる。
(これを以って第2次川中島合戦は犀川合戦とも呼ばれる)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
厭戦気分が蔓延する中、晴信は配下諸将の鼓舞に務め、景虎も規律引き締めに躍起となった。結果、対陣は200日に及び
両軍とも継戦不能となった時期、駿遠太守・今川治部大輔義元の仲介で和議が結ばれ10月15日に終戦となった。この折、
近隣の西寺尾村にある浄土真宗相澤山西法寺(さいほうじ)の住職・西順(さいじゅん)が晴信に贈った梅の小枝にまつわる
伝承が残る。それによれば対陣長引く中、故郷の田畑が荒れるのを憂慮した農兵たちを労うべく西順和尚は8月1日つまり
八朔(はっさく)の節句を祝おうと考えた。農繁期の八朔は近隣農家が互いに協力し農作業を手伝い、その返礼に贈り物を
贈る習慣があった。和尚は贈答品を選ぼうとしたが、貧しい農村の古寺には目ぼしい物がない。そこで西順は梅の小枝に
生った実を晴信に贈り、長陣に苦しむ兵士の救済を訴える書状を添えた。この文に感じ入った晴信は和議の道を模索して
早い決着を考え、きっかけとなった梅の木を八朔梅と名付けたと言う。晴信が諸将を慰撫したのも、西順和尚からの書状を
受け取ったのも、ここ大堀館での事でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦いの後も町田正之が館を守った。正之は1561年に安曇郡の小岩嶽城(長野県安曇野市)攻略で戦功を挙げ、信玄から
信濃国高井郡福島郷(長野県須坂市)200貫、駿河国有渡(うど)郡大内郷(静岡県静岡市清水区)に300貫を与えられたと
言う。信玄没後も武田勝頼に仕え、武田氏滅亡後は上杉景勝に従ったが、1598年に上杉家が会津へ移封されると武士を
辞めて帰農、ここ大塚で豪農となったのである。大堀館は町田氏の館であり続けたが、程なく火災に遭い焼失。町田氏は
改めて別の場所に家を建て、大堀館は廃絶し申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
江戸時代には松代藩領となり、1803年(享和3年)10月6日この地を視察した松代藩家老・鎌原貫忠(かんばらつらただ)が
大堀館跡地を記録している。それによれば、館の四方は土塁で囲まれて、またその外側に堀が掘られている。土塁上には
樹木が蔽い茂るが、その内部は東西約32m×南北約40m程の大きさがあり、畑となっているものの町田正之夫妻の墓が
置かれている、とある。正之の末裔は代々善左衛門と称し松代藩で12人扶持を有す富農だった。近代まで館跡はこうした
状態であったようだが、太平洋戦争後に更級郡の稲里村・真島村・小島田村・青木島村(当時)4カ村学校組合による更北
(こうほく)中学校の建設用地となり、土塁・堀は破壊され完全に整地されてしまった。■■■■■■■■■■■■■■■
現在は長野市立更北中学校敷地なので遺構は全くなく、写真にある石碑が校庭脇に建つのみでござる。■■■■■■■







信濃国 横田城

横田城跡

 所在地:長野県長野市篠ノ井会

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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源平合戦期以来の古城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
長野市中心街から南西へ約10km、篠ノ井(しののい)の会(あい)集落にあった古城館。これまた川中島合戦時の武田方に
関連した城郭だが、起源は古く平安時代末期にまで遡る。源平合戦期における信濃の武人と言えば朝日将軍・木曽義仲で
あるが、彼が挙兵した事に対して平氏方が北陸から追討軍を派遣してくる。越後国の城(じょう)氏が木曽へ向かう際に、
善光寺平を抜けて南下する途を選んだ。これに対して義仲軍が迎え撃つ。その折、攻防の舞台となったのがここ横田城で
あった。城長茂(ながもち)率いる平氏軍は1181年(養和元年)6月越後から信濃へ入り、横田城に入城。城のある会村は
千曲川を渡河する雨宮(あめのみや)の渡しに近い上、北国街道も管制する交通の要衝だ。平氏方1万の大軍に対して、
義仲方は3000の寡兵であったが、同月13日に義仲は旗指物を偽って城の直近まで迫り、平氏軍に奇襲攻撃を仕掛けた。
これにより城兵は壊滅。横田城を接収し自軍の根拠地とした義仲は逆に北陸へ進出、有名な倶利伽羅峠合戦に至るので
ござる。この戦いを横田河原の戦いと言う。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
時は移って室町時代。信濃の守護には小笠原氏が任じられたが、信州は在地国人が守護支配を嫌って独立する混沌の
状況が常であった。1400年(応永7年)土豪の村上氏を筆頭として井上氏・高梨氏・仁科氏・海野氏・根津氏らが結束して
小笠原氏に反抗。守護・小笠原修理大夫長秀(ながひで)は鎮圧の軍勢800騎、総兵力4000を善光寺から出して横田城に
入れたが、これを国人連合の軍1万が包囲する。歴然とした兵力差に形勢不利と悟った長秀は城を脱出し逃亡を図るが、
連合軍に攻め立てられ惨敗した。この戦いを大塔(おおとう)合戦と言い、以後も信濃は守護支配権が弱いままであった。
そして戦国時代、有名な川中島合戦が幕を開ける。川中島合戦にまつわる史書で横田城に関する明確な記載はないよう
だが、武田信玄の家臣・原大隅守虎吉が守備したと伝わる。最激戦と言われる第4次川中島合戦の折、上杉謙信が単騎
武田本陣に斬り込んで武田信玄に討ちかかったという“一騎打ち”譚が有名であり、この際に信玄の危急を救うべく謙信
座乗の馬を鑓で突き追い払ったというのが原大隅守。この功が評されて知行300貫を与えられ横田城主となったそうだ。
現地説明版によれば東西230m×南北180mの矩形を成す最外周を堀が巡り、内側は更に多重の堀が廻る環濠集落状に
なっていたと言う。現在も会集落一帯は細かい水路が縦横に走っているが、城域の西半分を宮内(みやうち)、東半分を
古町(ふるまち)呼んで分け、主郭部と言える内城は宮内にあり大きさ55m四方、殿屋敷と呼ばれていた。内城北西端に
東西12m・南北10m・高さ3mの土塁が残り、古殿稲荷社が祭られている。しかも昭和初期まで稲荷社の北側には幅6m〜
8mもの堀が残されていたそうだ。加えて城跡の南部は“馬出”、東部は“土居沢”の地名を称す。■■■■■■■■■■
農耕地・住宅地と化した平城ゆえに遺構らしいものはこれくらいだが、古くからの由緒は長野市における重要史跡として
認知され、また環濠集落というこの地域では稀有な形態から1984年(昭和59年)12月14日、市指定史跡とされた。■■■
住所に示す篠ノ井会集落の北西隅一帯がかつての城域。長野県道77号線「通明小学校東」交差点から東へ入る路地を
進み、行当たる可毛羽(かもは)神社近辺が城域南西端とされ、神社境内にある会区公民館の向かいには「横田城燈」と
書かれた巨大な石燈籠が置かれている。また、可毛羽神社の北200mほどの位置には古殿稲荷社があり、案内板と土塁
残欠が確認でき申す。特に観光地ではない上、一帯は完全な住宅街。駐車場所も無いので、見学時には配慮されたい。



現存する遺構

土塁
城域は市指定史跡




花岡城  大峰城・横山城