川中島、武田軍の出撃拠点■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国の二大巨頭、武田信玄と上杉謙信。甲斐の虎・信玄は信濃に領土を広げ、越後の龍・謙信はそれを阻止すべく戦った。
5回に渡って川中島周辺で大合戦が行なわれたが、遂に決着はつかなかった。こうした渦中において武田氏の最前線として
築かれた城が海津城。千曲川を挟んで上杉軍に睨みを利かせ、川中島合戦の武田軍出撃基地として厳重に守られた。■■
貝津城とも記されるこの城の創建は諸説あり定かでない。武田家の軍記書として有名な「甲陽軍鑑」には1553年(天文22年)
8月、あの山本勘助晴幸が縄張して築かれたとある。これは第1次川中島合戦の頃に当るが、この時点で武田家が川中島の
拠点城郭となるような大城を築けるほど地域制圧を成し遂げていたかは疑わしい限りである。文化庁の海津城に関する史跡
調査解説では1556年(弘治2年)、長野県の調査史誌「信濃史料」では1559年(永禄2年)の起工としており即断は出来ないが
いずれにせよ1561年(永禄4年)頃には完成していたようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ちなみに海津城の旧地には在地土豪・清野(きよの)氏の居館があり、これを武田軍が接収し大城郭へと変貌させたものとの
事。清野氏は北信濃の有力者・村上氏に属していた国人であるが、村上氏が武田氏に圧迫され領国を追われると武田方に
鞍替した一族。海津城築城工事には清野氏のように武田氏へ服属した北信濃4郡の国人衆、屋代氏・香坂(こうさか)氏らが
動員された。斯くして完成した城には、信玄配下の名将“鬼美濃”こと原美濃守虎胤(とらたね)をはじめ、小山田備中守虎満
(おやまだとらみつ)・原与惣左衛門・小幡山城守虎盛(おばたとらもり)・市川等長(ともなが)らが配されたのだが、最も有名な
人物は城主(正しくは城代)である高坂弾正忠昌信(こうさかまさのぶ)であろう。容姿端麗で知勇兼備の昌信は、勇猛な武田
軍の中でも随一の用兵で知られ、強引な攻めや無理押しをしない戦法は「逃げ弾正」と評された。その堅実さを買われて海津
城主に抜擢され謙信の動勢を監視。上杉軍に動きあるや直ちに防戦態勢を整え、付け入る隙を与えなかった。1561年9月に
行われた第4次川中島合戦は南進してきた上杉軍を昌信が素早く察知、即座に甲府へ連絡して信玄が主力軍を海津城へと
率いてきた事が端緒であるのは周知の通り。謙信が本陣を構えたという妻女山(下記)から当城までは僅か3km程の距離だ。
啄木鳥戦法、炊煙に気づく謙信、夜間行軍、朝霧の不期遭遇戦、典厩信繁戦死、そして伝説の両雄一騎討ちと、この戦いを
解説すれば枚挙に暇が無い。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
善光寺平の統治拠点へ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、第4次合戦の果てに武田方は善光寺平(長野市内平野部)の領有権を確定的にしたため、海津城は兵站拠点のみ
ならず統治拠点としても重きを為すようになり、高坂弾正は郡代としてこの地を支配する働きにも優れた能力を発揮し申した。
ところが信玄が病死し、昌信もまた後を追うように没した後、武田家は斜陽の時代を迎える。父に負けじと外征政策を採った
信玄後嗣・勝頼であったが逆に攻勢限界を超えて破綻、織田信長に西から攻め立てられ、遂に1582年(天正10年)3月、甲斐
源氏の名門・武田家は滅亡。その遺領はそのまま信長のものとなった。川中島を含む北信地域は信長家臣の森武蔵守長可
(ながよし)が治める事となり、海津城に入城したのである。この時、領内にはまだ旧武田家の遺風を偲ぶ者が多く、長可に
反抗的態度を取っていた。その為、逆らう者は撫で斬り(皆殺し)にし、残った者には服従の証として海津城への人質供出を
義務付けている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが直後の6月、信長もまた本能寺の業火に消える。これで領国支配体制が崩壊した織田家、特に東国では統治能力が
皆無となり長可は海津城を放棄し美濃国金山(かねやま、岐阜県可児市)へと撤退。結果、北信濃地域は越後から進出した
上杉家が領有する事になった。時の上杉家当主・弾正少弼景勝は北信支配の拠点城郭として引き続き海津城を重視、山浦
蔵人景国(やまうらかげくに)を城主に任じ統治に当たらせた。この景国、旧名を村上源吾国清(くにきよ)と言い、何を隠そう
武田信玄に追われる以前に北信濃の支配者として君臨していた村上左近衛少将義清の嫡男である。およそ30年の時を経て
景国は父の旧領に返り咲いた訳だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし時代の変革期、大大名の草刈場と化した信濃国は情勢が安定しない。景国配下に付けられていた屋代左衛門尉秀正
(やしろひでまさ)が荒砥城(長野県千曲市)で反旗を翻す事件が起き、景国は海津城主を罷免されてしまう。代わって新たな
城主となったのは上杉一門の上条山城守政繁(じょうじょうまさしげ)であり、更に1585年(天正13年)からは須田相模守満親
(すだみつちか)となった。須田氏は海津城より猶も北、高井郡須田郷(現在の須坂市)に根付いていた一族だが武田信玄の
北伐によって一族離散、満親の系統は上杉謙信を頼りその配下に収まっていた。これまた、約30年ぶりに北信濃の支配者に
復帰した事になる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
満親が海津城主となった頃は上田の真田一族が徳川家と対立し上杉家へ接近していた時期で、満親が取次の役を果たして
いる。また、第1次上田合戦(上田城の項を参照の事)時に上杉家から真田家への援軍を統率したのも満親だった。1588年
(天正16年)における上杉家中の軍役録において満親(海津城主)の知行高は1万2000石とされ、上杉家宿老・直江山城守
兼続に次ぐ大封。満親の豪腕ぶりは高く評価されていた。ところが豊臣秀吉の全国統一を経て1598年(慶長3年)上杉家は
越後・信濃から会津へと移封が命じられる。当然、海津城も手放す事になり、この年の2月、除封に憤懣やるせない満親は
城内で切腹して果てたと言う。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
縁起を担いだ城名に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
上杉家の支配から外れた後は、この地を含む9万石は豊臣家の蔵入地(直轄領)となり海津城には豊臣家臣・田丸中務大輔
直昌(たまるなおまさ)が派遣されている(直昌の統治領は4万石)。しかし関ヶ原合戦直前の1600年(慶長5年)2月に豊臣家
蔵入地から外され、城主は森右近大夫忠政(長可の弟)に交代。石高は13万7500石である。3月に入府した忠政は海津城の
名を待城(まつしろ)に改めた。彼はかねてより肥沃な川中島への移封を切望し、これが政権大老・徳川家康に認められての
国替えとなった訳で“待ちに待った城”という事であろうか。当然、親家康の忠政は関ヶ原の折に在国し、近隣の西軍真田家
上田城(長野県上田市)への備えに専心、戦後も所領は安堵され申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
このため忠政は城の改修に取り掛かり、二ノ丸・三ノ丸の整備や城内各所の石垣造成を行ったが、1603年(慶長8年)2月に
美作国津山(岡山県津山市)18万6500石へと加増転封。新たに下総国佐倉(千葉県佐倉市)5万石から国替えされたのは、
家康の6男・松平上総介忠輝だ。川中島12万石の太守となった忠輝は1610年(慶長15年)越後国高田(新潟県上越市)領も
加えられ、合計75万石の大封を有するように。岳父・伊達陸奥守政宗らの助役で高田に新たな城を構えて(高田城)、本拠を
そちらに移したので待城には家老・花井遠江守吉成(はないよしなり)が城代として入城した。吉成は城下の街道整備や治水
事業に多大なる功績を挙げ、彼を祭神とする花井神社が現在も残る。吉成の没後はその嫡子・主水正義雄が城代を継承して
いる。ちなみにこの時期、「待城」の名は「松城」に改められてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが大坂の陣での不手際を叱責されて1616年(元和2年)7月6日、忠輝は改易され流罪に。高田・川中島領は幕府により
分割され、松城には松平伊予守忠昌(ただまさ)が12万石で入府。忠昌は越前宰相こと結城三河守秀康(家康2男)の2男だ。
若年ながら大坂の陣において抜群の軍功を挙げ、川中島領を与えられたものである。だが1618年(元和4年)更に加増された
事で松城を離れ、25万石で高田藩主に。入替わりで高田から松城へ酒井宮内大輔忠勝が入府、1619年(元和5年)3月の事で
石高は10万石でござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
松代真田家の成立■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方、出羽国山形(山形県山形市)の太守・最上家が1622年(元和8年)改易に。これにより旧最上領は細分され、そのうちの
庄内(山形県鶴岡市)へ忠勝は6月7日に13万8000石で加増転封される事に。こうした曲折の後に松城へ配されたのは、真田
伊豆守信之。上田9万5000石から13万石への加増であった。後に飛地の3万石(上野国沼田(群馬県沼田市)領)は分割相続
された為10万石になるが、幕末まで信濃国内においては最大の石高を誇る藩となっている。以後、明治まで真田家が治める
事となり、信之は城内本丸に御殿を造営し申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
真田家と言えば“表裏比興”の安房守昌幸や“日本一の兵(つわもの)”幸村こと左衛門佐信繁で知られ徳川将軍家の天敵と
して有名であるが、だからこそ家を残した信之は幕藩体制において幕府への配慮に腐心、絶妙な政治感覚で藩政の基礎を
固めた。旧名「信幸」を棄て「信之」と名乗ったのも、父・昌幸から受け継いだ「幸」の字を改める事で徳川幕府への敵対心が
無い事を示したものだと言う。こうして継承された松代真田家は、信之の後に内記信政(のぶまさ)―伊豆守幸道(ゆきみち)
伊豆守信弘(のぶひろ)―伊豆守信安(のぶやす)―伊豆守幸弘(ゆきひろ)―弾正大弼幸専(ゆきたか)―右京大夫幸貫
(ゆきつら)―右京大夫幸教(ゆきのり)そして信濃守幸民(ゆきもと)と、10代247年に渡っている。3代・幸道の頃である1711年
(正徳元年)幕命により松城を松代と改めた。これにより地名の松代、城名の松代城が確定。現在、町名は市町村合併により
長野市内の松代町となり、城名は戦国時代の海津城と松代城が共に知られるようになっている。■■■■■■■■■■■
6代・幸弘の時代、1758年(宝暦8年)藩校の文学館を開校。幸専以降の代は養子入りによる相続であるが、その中でも8代
幸貫は寛政の改革を行った老中・松平左近衛権少将定信の子、つまり徳川8代将軍・吉宗の曾孫にあたる人物だ。一般的に
外様大名として認知されている真田家であるが、藩祖・信之は関ヶ原以前から徳川家康に臣従しているので実は譜代大名で
ある上、こうした血縁に基づいて幸貫は幕府の老中に任じられている。もちろん、藩政においても幸貫は有能な実績を挙げて
おり、西洋通の兵学家・政治家である佐久間象山を登用するなどして改革を断行、殖産興業に努む。次の幸教の代、1855年
(安政2年)には幸貫が計画していたと言う新藩校・文武学校が開校している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
堅固な構えだが、水害多し…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで松代城の縄張りであるが、基本的には海津城時代から踏襲されたもので、城域の北から本丸、その西〜南〜東側を
囲うように二ノ丸、その南面前衛として三ノ丸が並ぶ。二ノ丸と三ノ丸を繋ぐ虎口には武田流築城術で特徴的な丸馬出があり
巨大な三日月堀が穿たれている。この三ノ丸自体が二ノ丸南側を守る馬出状曲輪として構えられているため、縄張図上では
さながら2重馬出のようにも見える。更に三ノ丸の西側を塞ぐ形で広大な花の丸を置き、搦手側の緩衝地帯としていた。■■
これらの曲輪間はそれぞれ潤沢な水利によって保たれた水濠で分割されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■
本丸は北・東・南にそれぞれ虎口を開いていたが、北と東は不明門であった為、通常用いられていたのは南側の太鼓門だけ
だった。曲輪は四周を石垣で囲み、四隅には2重櫓を構えて防備。このうち、北西(戌亥)隅の櫓は城内最大の物で、名目上
天守の無かった松代城において実質的な天守であったと推測される。こうして守られた敷地内に、信之の建てた本丸御殿が
置かれていた他、二ノ丸の東側区域にも1759年(宝暦9年)まで二ノ丸御殿があったらしいが後に滅失し、土蔵が建てられる
ようになったそうだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
本丸の裏手、北側には帯曲輪状の細長い水ノ手曲輪が置かれている。築城当初より、このすぐ北側に千曲川が流れ天然の
外堀となっていた。これにより海津城時代は大河を背にした後堅固の城、まさに“背水の陣”となる強固な防備となっていたが
太平の時代となると度重なる氾濫を繰り返す大河こそが城にとって最大の敵となってしまう。江戸時代全般を通じ、度重なる
大火と千曲川の洪水により松代城は被害を受け、曲輪や建物の欠損に繋がっている。特に1742年(寛保2年)「戌の満水」と
呼ばれる水害は凄まじく、城内最高所の石垣までもが水没したと言う。真田信之は上田から移封の際に20万両とも言われる
蓄財を松代へ持ち込んで潤沢な藩財政を確立したが、こうした被害と幕府に命じられた江戸市中の手伝普請によって財源は
枯渇し、松代藩は多大な借財に苦しむ赤字藩へと転落した。元凶の一端である千曲川の改修に迫られた松代藩は、1752年
(宝暦3年)藩の執政・原八郎五郎が河川流路の変更工事を行う。これで千曲川は城から西へ1.5kmほど離れた位置を流れる
ようになり、旧流路は百間堀という形になってござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
数次の災害被害により本丸御殿は機能しなくなり、1770年(明和7年)花の丸に御殿が築かれた。従前、花の丸は山里曲輪で
あったが、これ以後は松代城の中枢となっている。既に天下泰平の時代、城の最も奥にある本丸よりも城下町に密接した外郭
曲輪の方が使い易くなったという証明であろう。しかし1853年(嘉永6年)、その花の丸御殿も火災で失われており(後に再建)
松代城が平穏無事であった訳ではない。他にも、記録に残るだけでこの城は二ノ丸を焼失した1625年(寛永2年)・城内全域を
焼いた1717年(享保2年)など数度の火災に見舞われている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
新御殿の造営■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
幕末混乱期に至り益々出費が嵩み藩財政が破綻寸前になる中、1862年(文久2年)幕政改革で参勤交代が免ぜられるように
なると江戸に在住していた藩主婦人や子息らが帰国する事になる。故に新たな御殿が必要とされ、三ノ丸の南側(既に城外)
文武学校の東隣に1864年(元治元年)新宅が完成した。これが松代城新御殿、通称真田邸である。普請奉行は家老の寺沢
蘭渓(らんけい)。木造瓦葺平家建て(一部2階建て)で、東に玄関を開く建物。創建当初は時の藩主・幸教の養母である貞子
(おていの方、落飾して貞松院と号す)の居所として使われたが、後に幸教自身の隠居所となる。花の丸御殿の副次的御殿で
あったが、明治維新後は真田家当主の邸宅となって現在に至っている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうした経緯の後、江戸時代が終焉を迎える。真田家は早期から朝廷に与し最後の藩主・幸民は戊辰戦争に新政府軍として
兵を出している。この為、維新後に賞典禄3万石を加増され1869年(明治2年)版籍奉還で松代知藩事に任じられたが1871年
(明治4年)廃藩置県で免官。松代城も廃城とされたので1872年(明治5年)破却され、払い下げられたいくつかの建物以外、
城内建造物は失われた。主郭部跡地は旧藩士に分与され桑畑になったと言う。残っていた花の丸御殿も1873年(明治6年)
放火によると言われる火災で焼失。なお、この火災に先立ち花の丸御殿の局屋敷部分は移築されていて難を逃れている。
局屋敷は城下成澤家住宅の主屋とされており、2007年(平成19年)12月5日に国登録有形文化財に。■■■■■■■■■■
農地として開墾された主郭部に対し、外郭部は宅地となったり鉄道線路の敷設地になっていく。堀も埋め立てられ、かつての
景観は失われてしまったが、新御殿と文武学校はかろうじて残された。また、1904年(明治37年)に旧城主・真田幸民の長男
幸正が桑畑となった跡地を買い戻し、公園として開放。1925年(大正14年) には公園内に噴水や番所を設置、園内清掃人が
常駐するようになった。この後、昭和期には旧二ノ丸に市民プールや運動場まで置かれるようになったが、太平洋戦争後の
1951年(昭和26年)真田家から旧城地が寄付されて公用地となり、徐々に史跡整備の機運が盛り上がっていく。本丸とその
周辺地が1964年(昭和39年)長野県史跡の指定を受け、1981年(昭和56年)4月11日には国史跡となってござる。■■■■■
国史跡指定の際には新御殿も松代城跡附として同時指定。平成に入ると城跡を史跡整備し、旧来の姿を復元しようとする
流れになり、数次にわたる発掘調査が行われている。それによれば太鼓門前の堀に橋脚遺構が検出された上、御殿や門
などの礎石、残存石垣の詳細、瓦・釘・木材・土器・陶磁器といった建材・生活用具が出土、かつての城がどのような状態で
あったかの手がかりとなった。史料やこれら調査結果を元にして1995年(平成7年)から復元整備工事が行われ、埋め立て
られた堀の再掘削・土塁や石垣の復元・埋門の開通・太鼓門と北不明門の再建が果たされた。特に太鼓門は総高11.8mの
櫓門と“橋詰門”と称された高麗門が建てられ、虎口を塞ぐ下見板張りの続塀も再現し大手門に相応しい威厳のある景観が
復活している。こうした整備事業は文化庁の指示に基づき江戸時代末期の姿を整えたものである。松代城は1717年の大火
以前の史料が乏しく、幕末期の状況が詳しく窺える為にこうした措置となり申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■
2004年(平成16年)整備工事が終了し、生まれ変わった松代城址が一般公開されている。2006年(平成18年)4月6日には
財団法人日本城郭協会により日本百名城の1つに選出された。さすが百名城だけあって知名度・整備度は抜群。■■■■
城好きの人間ならずとも、ここは長野市の観光名所として外せないだろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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