信濃国 花岡城

花岡城本丸跡

 所在地:長野県岡谷市湊

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

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諏訪湖を見渡す小山に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
諏訪湖を挟んで高島城(長野県諏訪市)の反対側、岡谷市にあるのが花岡城。場所は諏訪湖の一番西側、天竜川の起点である
釜口水門のすぐ脇の山。即ち、伊那谷の首元を扼し天竜川水運を掌握する交通の要衝である。この城の別名を湖尻城・池尻城
尾尻城・小尻城などとするが、諏訪湖から水が溢れ出る湖尻の立地を表現したものだろう。住宅の間を縫って細い道を登りきった
小山が花岡城址である。現在はささやかな駐車場を設けた小さな公園となっている。訪れる人はほとんどいない静かな山だが、
眼下に諏訪湖を一望できる隠れた名所。この城より諏訪湖の眺望が利く場所は滅多にないだろう。■■■■■■■■■■■■
小丘陵の頂部は標高810.9mを示し、平坦に開けた空間がかつての主郭であったと見られ、東西38m×南北20mの広さ。この他、
東西18m×南北36mの二ノ郭があり、近辺にはごく僅かな土塁の痕跡と思しき縁取が残されている。山頂部と諏訪湖面は比高差
50m程、山の北〜東面(天竜川〜諏訪湖側)は急傾斜で落ち込む。この斜面に腰曲輪のような段差がいくつか見受けられるが、
旧来の遺構なのか、山林整備・農地化による構造物なのかは不明である。現地案内板では花岡城を「五陵郭形式(原文ママ)」と
記すが、これら腰曲輪の広がりを全方向に広がる縄張として五稜郭(北海道函館市)になぞらえたのだろうか。一方、西〜南面は
完全に宅地化しているので、訪れる際には配慮が必要でござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の創始は鎌倉時代に遡ると言う。在地の土豪・花岡氏の城とされるが、花岡氏と言うのは諏訪氏の分流・有賀氏の流れを汲む
家だと言う。承久年間(1219年〜1222年)には有賀四郎なる人物が在城したとされ、戦国時代になると諏訪地方の総領・諏訪氏に
従属するようになっていく。その諏訪氏は甲斐の武田大膳大夫晴信(信玄)に滅ぼされ、晴信はさらに信州全土を征服せんと領土
拡大抗争を展開する。これに対し信濃守護・小笠原信濃守長時(ながとき)は果敢に抗戦、武田軍の隙を見た1548年(天文17年)
4月、長時は信濃国内の諸将を味方につけ諏訪郡へ侵攻した。諏訪氏滅亡以来、武田家に服従していた花岡(有賀)氏もこれに
呼応し同年7月に晴信へ反旗を翻す。この大規模兵乱に武田家は窮地に陥り、いったんは諏訪の支配権を失いかけたが、すぐに
態勢を立て直して反撃し、諏訪郡は鎮定されたのだった。この折、花岡氏は討たれたと見られ、花岡城も廃城となり申した。■■
一方で武田家が占領し、天文年間(1532年〜1555年)信玄の弟である武田左馬助信繁が500程度の兵で守っていたとも伝わるが
それも典厩信繁が戦死し、武田家が滅亡した歴史の後には廃されただろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以来、自然の山林に戻った城山であるが、江戸時代中期の1781年(天明元年)民間信仰の三山講がこの山を拠代とした。その為
城山は祭礼の山へと変化し1825年(文政8年)に登山用の石段が作られる。幕末の1864年(元治元年)には山麓に常夜燈が設置
された。この燈籠は石工の山田平蔵・金左衛門父子が製作したもので、高さ2.6m。左右2基のうち左側は高島藩主・諏訪家、右は
家老・茅野家の家紋が刻まれている。現在もこの燈籠は残されており、1989年(平成元年)7月13日に岡谷市の指定有形文化財と
なっている。花岡城址も1967年(昭和42年)3月6日、岡谷市指定史跡に。こうした経緯から、今でも花岡城址では1年に1回、護摩
法要の祭礼が営まれ、普段は静かな山がこの日だけは大勢の参拝客で賑わうと言う。■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群
城域は市指定史跡




高島城  松代(海津)城・同新御殿(真田邸)・妻女山陣所・大堀館・横田城