信濃国 高島城

高島城復元天守

 所在地:長野県諏訪市高島

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★■■■
★★★☆



神宿る諏訪の地に現れた水城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「諏訪の浮城」として名高い高島城。島崎城の別名も。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
諏訪と言えば全国に多数の末社を抱える諏訪大社が有名であり、古代〜中世を通じて諏訪大社上社大祝(おおほうり)の諏訪氏が
統治者であった。しかし1542年(天文11年)甲斐の武田大膳大夫晴信(はるのぶ)がこの地へ侵攻、時の当主・諏訪刑部大輔頼重を
切腹に追い込んで占領し、諏訪惣領家は断絶の憂き目を見る。頼重の従兄弟にあたる安芸守頼忠(よりただ)が大祝を継承、武田
家臣の末席に加わる事で何とか諏訪氏の命脈は保たれたが、武田家滅亡後は徳川家康の家臣に鞍替え、その家康が豊臣秀吉の
天下統一により1590年(天正18年)関東へ移封となると頼忠も武蔵国奈良梨(ならなし、埼玉県比企郡小川町)1万2000石、さらに後
上野国惣社(群馬県前橋市)2万7000石へと移る事になる。斯くして、有史以来?という諏訪氏の諏訪支配は幕を引き、代わって秀吉
家臣の日根野織部正高吉(ひねのたかよし)がこの地の領主となり申した。石高は2万7000石とも3万8000石とも言われる。■■■■
彼は入府にあたり、それまで頼忠が用いていた金子城(諏訪市内)を廃し、1592年(文禄元年)から諏訪湖畔高島村の小島に新城を
築城する。用地となる高島村(この村は元々漁村であった)民は漁業権の付与や賦役免除と引き換えに強制退去させられた。これが
現在に伝わる高島城(近世高島城)となる訳なのだが、戦国時代に金子城の支城とされていた茶臼山城(同じく諏訪市内)も高島城
(旧高島城)と呼ばれていた為、区別に注意が必要であろう。それはさて置き、高吉の築城は7年間に及び1598年(慶長3年)に完成。
しかし築城費用の捻出や秀吉の朝鮮出兵などの経費で高吉は多額の税(一説には7公3民とも)や賦役を領民に課したという。石垣
造営には金子城の用材のみならず、民衆の墓石や石仏までも徴発したとか。そのため諏訪領内は疲弊を極めていき、無数の逃散
(ちょうさん、土地を棄てて逃げる事)農民を出したが、出来上がった高島城は諏訪湖に面し、湖の波が直接石垣を洗う水城の名城と
なった。諏訪湖とそこに流れ込むいくつもの河川を天然の濠としており、まるで水上に城が浮かぶように見えたので、冒頭に記した
通り“浮城”として称えられたのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そもそも高吉は織田信長・豊臣秀吉に仕え、安土城(滋賀県近江八幡市)や大坂城(大阪府大阪市中央区)の築城に携わった事で
築城理論を独自に研鑽した名築城家。湖畔に城を築くにあたっては、軟弱な地盤を補うべく木材を筏状に組み上げて埋設し、その
上に石垣を積む(これで不同沈下が防げる)など、当時最新の“織豊系(しょくほうけい)技術”を信濃国へと導入したのである。■■
城の縄張は南端の本丸から北へ一直線に二ノ丸・三ノ丸が並ぶ連郭式が基本。本丸の南東側に出丸的な南郭が加わり、三ノ丸の
北には馬出状の衣之渡郭が附属。これら曲輪群の南側〜西側〜北側は諏訪湖に面し、二ノ丸・三ノ丸間には中門川が流入、更に
三ノ丸・衣之渡郭間に衣之渡川が流れて天然の濠を成していた。結局、衣之渡郭東端の大手門虎口一点のみが城下と連結する
構造だったので、平城と言えど堅固な防備が為されるようになっている。戦国期、信州の城は山城が主流であったが、強力な統一
政権の樹立後、大規模城下町が発展させられる平城を構える事は時代の急務と言えた。総石垣造り、本丸には3重天守も揚げた
近世高島城は豊臣政権の威光を知らしめ、新たな時代の到来を諏訪に喧伝するものだったのだ。城内には櫓8基、門が6棟も構え
られたが、しかしこれは石高以上の防御性能であり、高吉が諏訪領民に犠牲を強いて堅城を作った様子の裏返しとも言えよう。
本丸内には藩主御殿や書院・一般政務の御用部屋・郡方役所・賄方役所などがあり、多くの建物で埋まっていた。更には能舞台と
言った風雅目的の建造物も。二ノ丸は御作事所・米蔵・金蔵・馬場、三ノ丸に御勘定所・常盈倉を設け、文字通り諏訪治世の本拠と
して機能した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

諏訪氏、父祖の地に還る■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
これだけの堅城を築いた高吉であったが、関ヶ原合戦直前の1600年(慶長5年)6月26日に病没する。跡を継いだ嫡男・織部正吉明
(よしあき、高吉の長男)は東軍に与したものの、以後の論功で下野国壬生(栃木県下都賀郡壬生町)1万2000石(石高諸説あり)へ
減封。1601年(慶長6年)の事である。徳川家康が天下を掌握しつつあったこの時期、代わって諏訪の領主となったのは諏訪因幡守
頼水(よりみず)、石高2万7000石。秀吉の国替により諏訪から去らざるを得なかった頼忠の嫡男である。武田氏に奪われて以来の
念願であった旧領回復を果たした頼水は同年10月の入府後、日根野時代に7公3民と極めて重い負担だった年貢を減じ、荒廃した
農村を復興するなど善政に努めた。高島城は以後10代、約270年間諏訪氏の居城となるが、過酷な収奪に晒された日根野期から
一転、名君の統治が続いた諏訪地方では明治維新まで一揆暴動が1回しか起きない平穏な生活が維持されたと言う。■■■■■
頼水の農政重視姿勢は筋金入りのもので、新田開発の為に高島城の西側、諏訪湖を惜し気も無く干拓している。徳川幕府が成立
したばかりの頃、大坂にはまだ豊臣氏が健在。時勢はどう転ぶか判らない上、戦国乱世の気風色濃く残り、全国の諸大名は一旗
上げて更なる領地拡大の機を狙っていた時代である。水城の要、高島城の防備は諏訪湖に包まれる事で維持されていた筈だが、
頼水はそれよりも城下町や農村の発展を重視し、領民の生活向上を最優先としたのだった。こうして確保された干拓地には田畑や
屋敷地が充てがわれ、城下は益々発展したが、高島城はもはや水城ではなく、防御力も著しく減退した形になった。それでもなお、
かつて“浮城”と称えられていた優美な姿は人々に強い印象を残し続け、江戸時代に刊行された中山道や甲州街道の道中記には
必ず載せられる名勝でござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
結局、関ヶ原戦後には戦乱など起こらなかったのだから軍事よりも民政を優先した頼水の慧眼に敬服すべきであろう。その頼水の
嫡男・出雲守忠恒(ただつね、頼水長男)は1615年(元和元年)大坂夏の陣で奮戦。戦功勇ましく諏訪家には1618年(元和4年)に
5000石が加増され、高島藩はさらに隆盛する事になる。ちなみに忠恒の「忠」の字は時の将軍・徳川秀忠から拝領したもの。元来
諏訪家は片諱として「頼」の字を使っていたが、忠恒以後は徳川将軍家への忠誠を示す為「忠」の字を用いた。■■■■■■■■
1626年(寛永3年)松平左近衛権少将忠輝(徳川家康の6男)が諏訪へ流されて来る。忠輝は豪気すぎる性格が災いし、徳川幕藩
体制が確立した平穏な世には騒動の種であると父・家康や兄・秀忠から見做されて、驕暴を理由に1616年(元和2年)に改易されて
いた。所領没収の上、流罪となった忠輝は幕命に基づいて配流先を転向、遂に諏訪へと押込められたのである。時の藩主・頼水と
嫡男・忠恒は家康の実子である忠輝に敬意を表しつつ、幕府に従って彼を軟禁する。忠輝の拘禁場所として、高島城内最奥部に
当たる南郭が提供され、1683年(天和3年)7月3日に92歳で没するまでここで閑居する事となった。現在、諏訪市役所駐車場裏手に
その碑が立っており申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、諏訪頼水は1640年(寛永17年)隠居し忠恒が正式な藩主に。その忠恒も1657年(明暦3年)に没し、忠恒長男の因幡守忠晴
(ただはる)が3代藩主となった。この時、忠晴は弟2人に合計2000石を分与したため、高島藩本領は3万石となる。4代藩主・安芸守
忠虎(ただとら、忠晴の3男)の頃になると、松平忠輝と同じように諏訪へ吉良左兵衛義周(よしまさ)が流刑にされてきた。義周は
“忠臣蔵”で有名な吉良上野介義央(よしひさ)の孫で、当時の吉良家当主。赤穂浪士に討ち入られた事で吉良家は業績不届きと
して改易されたのである。1703年(元禄16年)2月に江戸から高島城へ送られ、やはり南郭へと幽閉された義周だが高島藩士らは
高家(こうけ、幕府典礼儀式を掌る役職)名門の吉良家を尊重し厚遇したと言う。しかし、生来病弱であった義周は心労も重なって
1706年(宝永3年)1月20日、病没。わずか21歳であった。諏訪大社上社本宮の隣、臨済宗鷲峰山法華寺に葬られてござる。■■
その後、諏訪氏は因幡守忠林(ただとき)―安芸守忠厚(ただあつ)―因幡守忠粛(ただかた)―伊勢守忠恕(ただみち)―因幡守
忠誠(ただまさ)―伊勢守忠礼(ただあや)と家督を継承。忠晴・忠虎・忠林は学問の人として知られ、忠厚は愚君であったがその子
忠粛は父の悪政を挽回すべく殖産興業に務め、蘭学も奨励し藩内医療の整備を果たした。忠恕もまた、諏訪湖の治水事業や養蚕
業の振興など藩財政の好転に成功したが、この時期は凶作や江戸藩邸の焼失などの不幸が重なって1824年(文政7年)高島藩政
史上唯一の一揆が勃発してしまう。忠誠は幕末期の老中。激動する情勢下にあって、徒党を組み京都制圧を図った水戸天狗党の
軍勢が信州を通過するに及び、忠誠率いる高島藩兵はその迎撃の任に就いている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

維新で廃城、そして復興天守が建つ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1869年(明治2年)6月20日(高島藩の奉還日)、版籍奉還により忠礼は知藩事に。さらに1871年(明治4年)7月14日の廃藩置県で
高島県が成立、忠礼は高島県知事とされている。これに伴い、高島城も高島県庁舎となった。だが、直後に整理統合され高島県
そのものが廃止となる。任を解かれた忠礼は東京へ移住、城は廃城令に従って廃城決定が為された。■■■■■■■■■■■
1873年(明治6年)太政官布達第16号により高島城跡は公園とされ、無償で地方に貸与される事が内定。その一方、城内諸建築の
破却も進められ、1875年(明治8年)高島城天守も取り壊されたのである。この年、公園設置の稟議が為され、設置の許可指令が
出された。これらの経緯により、翌1876年(明治9年)5月、本丸跡が高島公園として一般開放された。しかし他方では二ノ丸以遠の
曲輪・堀などは悉く埋め立て・整地され市街地化されてしまう。1900年(明治33年)高島公園内に諏訪護国神社が建立された他は
近代化の波に流され、長らく城址を回顧する事がなかったようだが、太平洋戦争後の1956年(昭和31年)都市公園法の施行並びに
国有財産法により公園敷地が地方自治体に貸与となる。これを機に公園再整備の動きが出始め、破却された天守の再建機運が
盛り上がった。よって、文部省文化財専門委員である大岡実博士が設計し1970年(昭和45年)古の姿を偲んで天守が復元される。
同時に東隅櫓・櫓門やそれらを繋ぐ塀も再建し、公園の近代化改修が成し遂げられた。鉄筋コンクリート製で建てられたこの復興
天守は内部を資料館とし、外観は破却以前の姿をほぼ忠実に再現している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
(高島城天守は破却前に古写真が撮影されており外観は確認できていた)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
建物本体の高さは18.5m、鯱の高さ1.7m、天守台の高さ12.54m、延床面積は381u。独立式望楼型天守で5階建、南北面に大きな
入母屋破風、2階東西面と3階南北面に出窓を設けており眺望を確保している。破風が複雑に入り組んでいる為、実際は3重だが
5重に錯覚する巧みな構造美を醸し出す。寒冷地である諏訪地方では屋根瓦だと凍結破損するので江戸時代の天守は柿葺きと
なっていたが、復興天守では銅板葺きに改められているのが新旧最大の相違点である。惜しむらくは、下見板張りの外装までも
コンクリートで生成、それに“木の色”を塗付しているため如何にも“ニセモノ”感が出てしまっている点か。せめて下見板だけでも
本物の木材を貼り付ければ、かなり雰囲気が良くなると思うのだが…。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
とは言え、復興天守の形状そのものは決して悪い物ではない。濠越しに東隅櫓〜櫓門〜天守と続く景観(写真)は信州の古風な
佇まいに調和し、やはり郷愁をそそるものだ。松江城(島根県松江市)・膳所(ぜぜ)城(滋賀県大津市)と並び「日本三大湖城」に
数えられるだけの事はあろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
旧来の遺構として残された本丸の堀と石垣は1979年(昭和54年)2月15日、諏訪市の指定史跡となってござる。また、三ノ丸御殿
裏門であったという薬医門が1988年(昭和63年)高島公園西側出入口に移設保存されている。移設位置となるこの西側出入口は
かつての御川渡門(御川戸門)の跡。“川渡”の名称から判るように、築城当初(諏訪湖が干拓される前)この門には舟が乗り付け
られる水の手口となっており、そのまま川や諏訪湖へと漕ぎ出す事が出来た場所である。■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・石垣
城域内は市指定史跡

移築された遺構として
三ノ丸御殿裏門




小諸城・御影陣屋・富士見城  花岡城