俗に「穴城」と称される特殊な縄張り■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
小諸なる古城のほとり―――。島崎藤村の作品で有名な小諸界隈は、浅間山堆積層の河岸段丘は谷を深くえぐって絶壁を
作り出している。小諸城も御多分に漏れずこの絶壁を利用した城郭でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
平安末期、朝日将軍こと木曽伊予守義仲に与した将・小室太郎光兼が小諸に宇頭坂城を構えたとの伝承が残る。現在の
小諸城址の東側にその城館はあったと言われるが、確証は無い。言い伝えには小室氏が鎌倉期に代を重ねて小諸を統治
したとされるも、南北朝期に南朝方へ付き没落。代わって北朝方の国人・大井氏が勢力を得るに至り、1487年(長亨元年)
大井伊賀守光忠が鍋蓋城を築いたのが小諸の城の起源であった。もっとも、この城も現在の小諸市街地の中、しなの鉄道
小諸駅から北へ向かった位置(本町交差点付近)にあったとされるので、現状の小諸城とは異なる場所という事になろう。
その光忠の子、伊賀守光為が支城として乙女坂城を構築。これが小諸城二ノ丸に相当する所だった。■■■■■■■■
信濃守護・小笠原氏の一族という大井氏は鍋蓋城と乙女坂城、さらに周辺の砦群でこの地の防備を果たしていたようだが
戦国期になると甲斐国から北進した武田大膳大夫晴信(信玄)に攻略される。圧倒的な武田軍の勢いの前に、鍋蓋城は
自焼自落したとも。小諸は中山道・北国街道の中継地で、北信・南信・上州を繋ぐ交通の要所。北信の勇・村上氏を攻略
するための橋頭堡として信玄はこの地を必要としたのだった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
小諸を一大根拠地とすべく、彼は重臣の馬場美濃守信房と軍師・山本勘助晴幸に築城を命令。城造りの名手と謳われる
両者の手により、鍋蓋城と乙女坂城を合わせて1つとした新たな城が完成する。これが小諸城の原型である。時に1554年
(天文23年)の事と伝わり、その基本的な縄張りは近世までそのまま踏襲されている。俗に「穴城」と称される独特の縄張を
有する小諸城は城下町から城内奥部へ至るにつれ、標高が下がってゆく特異なものとして有名。通常、城郭と言うものは
中心部ほど周囲よりも高く占位して寄せ来る敵に地形効果を発揮させるものだが、小諸城は城下町から城へ降りるのだ。
これでは防御力が減衰するように思われるが、そこは武田流の粋を集めた城郭、心配は無用。城の敷地は大まかに見て
細長い二等辺三角形を成し、頂角のみが城下と連結。入口から中へ進むに従い、下り坂になりつつ敷地が両脇へ広がる
状況だが、両端、更に突当たりは千曲川河岸の断崖絶壁(その名も“地獄谷”!)へと真っ逆さまに叩き落される。言わば
小諸城は千曲川断崖に浮かぶ“空中要塞”の如きもので、下り坂と急き込んで進軍すればする程、勢いを止められぬまま
奈落の底に放り込まれる構造なのだ。また、空堀となる両脇の谷を挟んだ外縁は屹立する崖壁。さながら城を覆う天然の
城壁であり、谷を挟んで城郭の中央部へ直接的に侵攻するのは不可能である。つまり、城下と連結する虎口一点のみを
防御すれば絶対に守り切れると言えよう。万が一その虎口を突破されても城内は二ノ丸・南丸・本丸と細分化されていて
迷路のような構造。各曲輪の周囲は横矢が上手く掛かる塁壁で囲われている為、侵入者は容易く討ち取られる事になる
だろう。穴城と侮るなかれ、さすがは名築城家が策を練った縄張りなのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国末期の大争奪戦■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
信玄は城主として甥の武田六郎次郎信豊(のぶとよ、典厩信繁の後嗣)を入れたとされるが、その他に飯富兵部少輔虎昌
(おぶとらまさ)や高坂弾正忠昌信、小山田伊賀守虎満(とらみつ)・備中守昌成(まさゆき)父子など、武田家中の重臣も
名を連ねており、小諸城が如何に重視されていたかが窺える。この城の構築をきっかけとし、上田周辺の土豪・真田氏を
味方にひき入れ、長年の悲願であった武田の村上攻めはようやく成功する。以後、当代きっての名将・信玄の差配により
武田領は甲斐から信濃、駿河、それに三河や美濃の一部までも吸収するほどに拡大したが、彼の没後は周辺諸勢力の
攻略に勢力を減退させていく。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1582年(天正10年)防戦一方となった武田四郎勝頼(信玄後嗣)に対し織田信長・徳川家康の連合軍が一大攻勢を仕掛け
武田領国は崩壊。被支配地だった信濃国内各所では武田家への反旗が一斉に揚がり、国人衆らは続々と織田・徳川方へ
寝返ったのである。情勢に望みが無くなった小諸城代・下曽根覚雲斎(しもそねかくうんさい、出羽守信恒?)は、主である
筈の城主・武田信豊を殺害して首級を信長に献上、保身を図った。しかし信長は覚雲斎の不忠に激怒、織田方への降伏を
認めず追放(処刑とも)したのである。斯くして城主・城代を失った小諸城は織田家のものとなり、織田宿将・滝川左近将監
一益(たきがわかずます)に与えられた。武田家滅亡に伴い織田家関東方面軍の総帥となったため、上野国まで進出した
一益は2万石で甥の道家彦八郎正栄(どうけまさひで)を小諸に入れて防備に当たらせる。ところが、直後に本能寺の変で
信長が落命し、これを契機に東国では織田家への反抗作戦が随所で展開される。関東の太守・小田原後北条家が一益の
本拠である上野国へと侵攻、甲斐や信濃では武田旧臣らによる国一揆が発生し、もはや統治できない状態に陥ったのだ。
上野を放棄した一益は6月21日に小諸城へと逃れてきたが、安住の地ではないため正栄共々26日に退去、旧領の伊勢まで
退却した。にわかに空白地となった甲信地域は小田原後北条氏と東海の弓取り・徳川家康が軍を進め、領有権を争う事に
なった。この時、小諸城を占拠したのは武田旧臣・依田常陸介信蕃(よだのぶしげ)であった。■■■■■■■■■■■■
家康の内意を受けていた信蕃は後北条方の補給線を寸断するゲリラ戦を展開、この功績により後北条氏は継戦困難となり
和議が結ばれ甲信地方から撤退するに至る。それにより、武田・織田滅亡後の甲信2国は徳川家康領となる事が確定した。
しかし、後北条領と約定された上野国との境界に近い小諸周辺はすぐに情勢が安定せず、後北条氏重臣の大道寺駿河守
政繁(だいどうじまさしげ)に与する勢力が岩尾城(長野県佐久市)に結集、小諸城との係争を繰り返す。1583年(天正11年)
2月、これに決着をつけんとした信蕃が岩尾城への攻撃を展開した。数日の戦闘後、岩尾城は落城し、遂に大道寺一派は
信州から駆逐されるが、この戦で信蕃も戦死してしまう。家康は信蕃の遺勲を評し、信蕃の嫡男・源十郎康国(やすくに)に
松平姓を許すと共に家督を継がせ、6万石で小諸城主に任じた。康国は小諸城に2年をかけて3層の天守を築いたと言う。
これ以後、家康は東海甲信に覇業を進めるも天下の趨勢は豊臣秀吉に帰した。小牧・長久手合戦の後、秀吉への臣従を
余儀なくされた家康は、さらに1590年(天正18年)小田原後北条氏の滅亡と共に関東への国替えまでも命令される。■■■
関ヶ原前後の情勢■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
小田原戦役にて松平(依田)康国は戦死しており、小諸城主を継承していた依田右衛門大夫康勝(やすかつ、康国の弟)は
藤岡城(群馬県藤岡市)3万石へ移封。小諸城には秀吉家臣・仙石権兵衛秀久が5万石で入った。彼は1586年(天正14年)
秀吉の九州征伐時に失策を犯し、緒戦における豊臣軍大敗の原因を作ったため改易されていたが、小田原征伐において
功を挙げ復権し、小諸城主となったのだ。後に秀吉の伏見城(京都府京都市伏見区)築城工事における功績も加味されて
7000石の加増、5万7000石になる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
秀吉没後、天下の覇権を争った1600年(慶長5年)の関ヶ原合戦で秀久は東軍に与して中山道を往く徳川秀忠隊に従軍、
上田城(長野県上田市)攻めの本陣として小諸城が用いられた。この為、戦後も小諸の所領は安堵され、小諸藩の始祖と
なっている。統治を継続する秀久は小諸城の近世改修を行い、新たな3層天守の創建をはじめとする城内各所の改変を
為したと言うが、天守には桐紋の金箔瓦が葺かれていたという話なので、この改修工事は秀吉存命の頃から継続された
ものであろう。秀久の改修は豊臣政権の威光を知らしめるものとして始められながら、徳川の時代となる関ヶ原以後まで
続いたのだ。石垣など、現在に残る小諸城内の遺構は殆どがこの時のもの。特に大手門は1612年(慶長17年)の創建で
大工は江戸から招いたと伝わる。当時の信州で瓦葺の城門は珍しかったので「瓦門」と呼ばれたと記録されている。■■
城の改修を為す傍ら、秀久は小諸城下の拡充・用水開削・街道網の整備などに着手。時は徳川幕藩体制草創期、時代の
変革に合わせて小諸城下の再編が必要とされた時期である。しかし、秀久はその財源を農民への過酷な年貢課税にのみ
求めたため、城下振興の諸政策に反し農村は疲弊荒廃する一方であったと言われている。佐久郡内で多くの農民が逃散
(ちょうさん、土地を棄てて逃亡する事)する中、秀久は江戸から小諸へ帰国する途上の武蔵国鴻巣(埼玉県鴻巣市)で
1614年(慶長19年)5月6日に病没する。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
跡継ぎの嫡子・兵部大輔忠政(ただまさ、秀久3男)は、直後に起きた大坂の陣に参陣する傍ら農村復興が急務となり、
農民に帰農を働きかけている。このように難題を抱えながらも仙石氏の小諸城主時代は過ぎていったが、忠政は1622年
(元和8年)9月25日に上田6万石へ加増転封された。仙石家が去った後、小諸領は時の甲府城(山梨県甲府市)主だった
徳川左近衛中将忠長(3代将軍・家光の弟)の領地として併合される。この為、小諸城には城代として屋代越中守秀正が
入る。秀正は直後に病没したので、その任は三枝土佐守昌吉(さいぐさまさよし)に引き継がれるが、その昌吉も1624年
(寛永元年)6月9日に没し、依田五兵衛守直へと交代。屋代・三枝・依田氏はいずれも甲斐武田旧臣の家柄だ。■■■
同年7月、忠長は駿府城(静岡県静岡市葵区)へ国替えとなったため小諸はその支配地から外される。9月、美濃国大垣
(岐阜県大垣市)5万石から新たに小諸城主となったのは譜代大名の久松松平因幡守憲良(のりなが)、分知を行ったため
小諸の石高は4万5000石。1626年(寛永3年)落雷で天守が焼失する一方、憲良は本丸御殿の造営を行う。また、検地に
よる石高の把握・新田開発など農村復興に努めたが、嗣子無きまま28歳の若さで1647年(正保4年)8月13日に死去。■■
この為、一時的に小諸藩は取り潰されて松本藩の預かる地となった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
江戸時代の小諸統治■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
明けて1648年(慶安元年)閏1月19日、改めて3万石にて小諸城主となったのは同じく徳川譜代家臣の青山因幡守宗俊。
彼は農業用水や新田開拓工事に民衆を動員、民は賦役に苦しみつつも収益増大に成功した。1662年(寛文2年)3月29日
大坂城代となった事で青山家は2万石加増の上、転封。同年6月4日、上野国伊勢崎(群馬県伊勢崎市)から酒井日向守
忠能(ただよし)が3万石で入封した。忠能は“下馬将軍”と評された時の大老・酒井左近衛権少将忠清の弟である。兄の
権威を笠に着た忠能は、青山時代の新田開発を良い事に過酷な税を小諸の民から徴収。仙石期以来、虐げられ続けた
小諸の農民は遂に蜂起して、1678年(延宝6年)芦田騒動と呼ばれる大一揆が発生した。対応に苦慮した幕府は、一揆の
首謀者を処刑する一方で忠能も小諸から追放、1679年(延宝7年)9月6日に駿河国田中(静岡県藤枝市)へと転封させて
いる。田中から入れ替わりで小諸城主となったのは西尾隠岐守忠成で、石高2万5000石。この城主交代劇を小諸の民は
「地獄極楽さかい(酒井)にて 日向(日向守忠能)出てゆく おき(隠岐守忠成)は極楽」と喜んだ。■■■■■■■■■■
だが西尾氏の統治時代は短く終わり、1682年(天和2年)3月9日に忠成は遠江国横須賀(静岡県掛川市)へ移封される。
この結果、同月22日に常陸国小張(茨城県つくばみらい市)から大給(おぎゅう)松平美作守乗政(のりまさ)が2万石で
小諸へ入る。これは乗政が奏者番(幕府の取次・典礼職)に就任した事に伴う加増昇進の移封だった。乗政は入府間も
ない7月、領内統制として17条から成る領内法度を制定、細かく農民の支配を行う。また、これまでの藩主同様に新田の
開発も為している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1684年(貞享元年)10月16日、小諸城内で乗政が死去。跡を長男の兵庫頭乗紀(のりただ)が継ぎ、1702年(元禄15年)
9月7日に美濃国岩村(岐阜県恵那市岩村町)へと転封していく。こうして江戸幕府成立よりほぼ100年にして小諸城主と
なったのが牧野周防守康重。石高は1万5000石、越後国与板(新潟県長岡市)からの移封だ。牧野宗家は長岡藩主の
座にあり、康重はその分家に当たる流れである。牧野家もまた徳川譜代の家柄。このように、当城は仙石氏以外は全て
幕府譜代家臣が拝領しており、交通の要所たる小諸の守備にあたったのである。以後、明治維新まで牧野家が小諸城
主の座を継承していく。康重以後、内膳正康周(やすちか)―遠江守康満(やすみつ)―周防守康陛(やすより)―内膳正
康儔(やすとも)―内膳正康長―周防守康明(やすあきら)―遠江守康命(やすのり)―遠江守康哉(やすとし)―遠江守
康済(やすまさ)の順。2代・康周の時代に当たる1742年(寛保2年)8月1日、小諸市街地を襲う鉄砲水が発生し町が壊滅
すると同時に、小諸城も三ノ門を流される被害を受ける。この大洪水は「寛保の戌の満水」と言い、1615年(元和元年)に
建てられていた三ノ門は改めて1765年(明和2年)〜1766年(明和3年)頃、再建される事になった。■■■■■■■■
18世紀の小諸ではこの他にも幾度の洪水が起き、あるいは大火にも見舞われ、極めつけは1783年(天明3年)の浅間山
大噴火ならびにそれを起因とする天明の大飢饉が発生した事であろう。この災害は3代・康満の時代であり、浅間山の
噴火は時の城代家老・牧野八郎左衛門が詳細な記録絵図を残している。19世紀、6代・康長は1805年(文化2年)藩校
明倫堂を開校。9代・康哉は幕末期に殖産興業・綱紀粛正に努め、商人の保護や怠慢家臣の大量解雇を断行し収益の
改善に望んだ。加えて康哉は天然痘対策として西洋医学を導入、藩内領民に種痘を広めた事も特筆すべき事象だ。■
これにより、小諸藩は他藩に比べて格段に種痘率の高い藩となっている。最後の藩主となった康済の代では、幕末の
動乱に関連し小諸城下でも様々な混乱が発生している。家老同士の対立に困窮農民の反乱が結びついた、いわゆる
“小諸騒動”と呼ばれる騒乱が起き、これに対応するため牧野本家の越後長岡藩が介入し、長岡の宰相として有名な
河井継之助秋義が調停を行ったりしている。そうした最中、戊辰戦争が勃発。小諸藩は当初、新政府に敵対し進軍して
来た赤報隊(せきほうたい、新政府軍の最先鋒を務めた部隊)と交戦したが、後に恭順。1869年(明治2年)版籍奉還に
より康済は小諸知藩事となるものの1871年(明治4年)7月14日の廃藩置県によりその座を追われ、小諸藩領は小諸県
次いで長野県に統合された。この為、1873年(明治6年)1月の廃城令を受け小諸城は廃城、破却の命が下された。■■
高名な城址公園「懐古園」に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「穴城」故に城下町と隔絶した敷地を有す小諸城は城域こそ手付かずで残されたが、城内各所における建物は軒並み
消失した。1880年(明治13年)に城跡敷地が公有地から払下げ処分を受けると、旧小諸藩士らが本丸跡に神社を祀り
「懐古園」と名付ける。1926年(大正15年)造園の大家である本多静六林学博士の手により近代公園へ改修された事で
懐古園は全国でも屈指の城址公園として名が知られるようになった。しなの鉄道小諸駅のすぐ南側にあり、訪れる人も
数多い観光名所でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その懐古園の正門となっているのが三ノ門。水害後の明和期に再建された2階建楼門は、現在瓦葺となっており城門
建築としては珍しい寄棟造である。しかし、宝暦年間(1751年〜1764年)に描かれた絵図では柿葺の入母屋造とされて
いる。従前、寄棟造の特徴的な形状は城門建築の稀有な例として注目を浴びていたのだが、絵図の再検証によって
これは明治時代の改築によるものと推測されるようになり、むしろ瓦葺ではなく柿葺だった点こそが注視すべき処だと
考えられる。ともあれ、「穴城」としての縄張りを扼す位置にある三ノ門は城の防衛において最重要地点となっており、
城門に連なる土塀が横矢をかけつつ狭間を並べる様式は厳重な防備を構えていた状況を今に伝えている。この門の
城外側に「懐古園」の扁額が掲げられているが、その揮毫は徳川家達(いえさと)の筆によるものだ。家達は徳川宗家
16代当主(15代将軍・慶喜の後継者になる)、第4代貴族院議長や第6代日本赤十字社社長などの要職にあった人物。
威風堂々として懐古園の入口を守る門となった三ノ門は、1993年(平成5年)12月9日に国の重要文化財と指定されて
いる。それと同日、国の重文に指定されたのが大手門。三ノ門からなおも市街地へ突き出した位置にある大手門は、
明治以降、町中に取り残された巨大建築であったが為に転用される運命を辿り、小諸義塾の仮塾舎、更に料亭として
用いられた事から、長らく1階の門扉部分が改造されて部屋となり、門として通行できない形状にされていた。1991年
(平成3年)4月、民有だったこの建物が小諸市に寄贈された事で復旧工事が計画され、2004年(平成16年)12月1日〜
2008年(平成20年)3月31日にかけて作業が行われた(竣工は2007年(平成19年)11月)。これにより往時の姿に甦り
高さ6間あまり、奥行2間半、下層の間口6間半、入母屋造2階瓦葺の威容を取り戻した。■■■■■■■■■■■■
この復旧工事ではいったん建物を全面解体し調査・補修も行われたが、大棟の西端に揚げられていた鬼瓦の面には
「三州藤井 藤原氏十人 文化九申八月吉日」とあり、江戸時代後期の1812年(文化9年)に三河国(三州)の瓦職工を
用いた瓦の葺替えが行われた事が判明している。また、1720年(享保5年)にも桟梁と出梁を組む補修工事が行われて
いた。特筆すべきは2階部分で、室内に畳が敷かれ(通常、戦時の詰所でしかない城門上階は板敷き)居室風の作りに
なっている。大手門の創建は慶長年間(1596年〜1615年)、桃山文化の色合が強い年代である為、城門にも装飾性を
持たせていた事が推察される。外装も白木作りの長押(なげし)造りとなっており、格調を保つ意図があったのだろう。
この大手門を中心とした一帯1万2000uは小諸市により都市緑地公園とされ、1996年(平成8年)3月31日の一般公開
以来、順次整備が進められている。小諸駅前から大手門公園にかけて、明治・大正期の商家や旧小諸本陣の建物が
移設されており、懐古園だけでなくこの空間も観光で楽しめるだろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
懐かしい情緒を感じられる町■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
移築された城郭建築物としては銭蔵が挙げられる。1726年(享保11年)牧野康周が城主であった時代の建物で木造
2階建瓦葺、間口3間×奥行2間の土蔵である。板張りの床下には石室(いしむろ)があり、深さは2尺6寸5分(80cm)、
4尺6寸5分(141cm)に3尺1寸2分(95cm)の矩形を為す。石室の蓋は車付の一枚石で、この平石を滑らせて開閉して
いたようである。廃藩後の1872年(明治5年)他の建築物と同様に入札払い下げとなり、小諸市内与良町(よらまち)の
民家に移築された。2002年(平成14年)街並環境整備事業として市が取得。2010年(平成22年)1月15日、小諸市指定
有形文化財となっている。この他、移築現存する建物は足柄門が小諸市内にある浄土宗天機山傳通院光岳寺山門、
一ノ門(黒門)が同じく市内の曹洞宗法隆山正眼院(しょうげんいん)の山門となっている上、本丸御殿の書院だったと
される建物が東御市(旧北御牧村)の民家にあるという。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方、復元された建物も城内天守台裏手にある。武器庫とされる土蔵がそれで、1817年(文化14年)牧野康長時代の
建物が廃藩後に旧八幡村の依田仙右衛門宅へ払い下げられ、さらに東京へと移築されたが、それを再現したものだと
いう。猶も付け加えると、小諸城内建築物の詳細記録である「小諸城建物絵図」も1973年(昭和48年)12月11日、市の
重要文化財となっている。これは甲良門葉大匠棟梁・石倉芳隣(いしくらほうりん)が1753年(宝暦3年)頃に描き記した
精密記録で(三ノ門の旧態を知る手がかりとなった文書である)現在は小諸市教育委員会が保管。城内二ノ丸御殿を
中心として玄関・座敷・書院・御台所・二之門・番所・水矢倉・籾倉(米蔵)・太鼓矢倉・中仕切門・それらの附属塀などが
立面図・平面図に起されており、中でも注目されるのが「御氷餅晒所」とされる所。御氷餅とは寒中に晒した餅、つまり
かき餅の事で小諸藩の特産品。徳川将軍家への献上品ともなっていたが、それが城内で作られていたというのだから
江戸時代の習俗慣習を知る上でも貴重な記録となろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
北陸新幹線が小諸市は通らず(古い町並を保存する気概から、過剰な観光客を呼ぶ新幹線は市民が拒否したと言う)
東信の観光拠点からやや外れ、寂れつつある風潮になってしまった感があるものの、だからこそ“古き良き味わい”が
小諸には残されている。懐古園や大手門公園、それに小諸の伝統的町並などはどれも魅力的な観光資源である事は
間違いなく、城郭愛好家ならずとも是非訪れて欲しい文化都市であろう。小諸城の別名も酔月城、あるいは白鶴城と
いう雅なもので、郷愁をかきたててくれる。懐古園は2019年(平成31年)4月8日、市指定名勝になってござる。■■■■■■
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