信濃国 上田城

上田城西櫓

 所在地:長野県上田市

二ノ丸・大手・常磐城
中央・中央西・天神
駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★■■
★★★★



現存する遺構

北櫓・南櫓・西櫓《以上長野県宝》
井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡



信濃国 
上田藩主屋敷

上田藩主屋敷薬医門

 所在地:長野県上田市大手

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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現存する遺構

薬医門・土塀《以上市指定文化財》・堀・土塁





真田昌幸の上田進出■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
昨今の歴史ブームで「上田と言えば六文銭の旗印で有名な真田氏」との印象が定着。真田氏は信濃の名族・滋野(しげの)氏を
祖とする豪族で、源平合戦の時代から信濃に土着したとされている。真田の名が歴史上に出るのは戦国期、真田弾正忠幸隆の
頃から。幸隆は戸石城(同じく上田市内)の村上左近衛少将義清らに国を追われていたため、甲斐の武田信玄に服属。強大な
武田の軍勢を味方につけた上、その鬼謀で村上軍を返り討ちにし旧領を奪還したのである。以後は信玄の絶大な信頼を受け、
北信濃運営を一手に任された。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
上田城を築いたのは幸隆の後を継いだ3男・安房守昌幸。上田の北東約6kmにある真田郷からここへ本拠を移した。築城開始は
1583年(天正11年)の事である。既に前年、真田家の主家である甲斐武田氏は織田信長の手によって滅亡しており、その信長も
本能寺で横死した事から、昌幸は独立自衛の道を歩まねばならない状況になっていた。真田の領地は東信濃の上田〜北上野
沼田(群馬県沼田市)にまたがる細長い形で、北に越後の雄・上杉氏、南に東海一の弓取り・徳川氏、東には関東の太守である
後北条氏が隣接。武田家亡き後、織田家の庇護を求めんとした昌幸であったが信長も斃れた為、代わりに織田勢力を駆逐した
後北条氏を頼りにする。ところが後北条氏は関東全域制圧を標榜しており、真田領だった沼田地域の割譲を迫った。父祖以来、
腐心して領地を広げた真田家にとって、領土の譲渡など認められない。この為、昌幸は早々に主家を鞍替えし徳川家康へ従う
事としたのでござる。家康もまた、領土北辺の守りとして真田家の存在は有効であると考え、従属を許した。■■■■■■■■
上田城の築城開始時期は丁度この頃で、当初この城は昌幸の新たな本拠とする為だけでなく、徳川家が上杉家や後北条家の
侵攻に備える目的で構えられたのである。それ故、上田築城に当たっては真田家独力ではなく少なからず徳川家からの援助が
行われていた。また、新城の構築を警戒した上杉弾正少弼景勝は、築城を妨害すべく配下の将・岩井備中守信能(のぶよし)に
兵を率いさせ上田近辺で示威行動を取らせている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

侵攻路を極限させる縄張り■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが、織田領消滅後の去就を巡って徳川氏と後北条氏は領土分配の取り決めを行っていた。それによると、甲信地方では
徳川家の勢力を優先させる代わりに関東の領土は後北条氏のものとする事になっていた。この約定では、真田家が徳川家に
臣従した以上、領地のうち北上野は後北条氏の領土とする必要がある。結局、真田家は後北条に与しようと徳川に与しようと
沼田を手放す事になってしまうのだ。これを承服できない昌幸は、またも主家を代える選択を採り、徳川と縁を切って上杉との
接近を図った。上田城の築城工事がほぼ終了する少し前、1585年(天正13年)7月の話である。■■■■■■■■■■■■■
面目を潰された家康は激怒し、上田城への攻撃部隊を派遣する。8月に出陣したのは大久保七郎右衛門忠世(おおくぼただよ)
鳥居彦右衛門尉元忠(とりいもとただ)・平岩主計頭親吉(ひらいわちかよし)ら家康股肱の勇将揃いで兵力は7000余り。一方、
城の普請がまだ完了しない上、動員できる兵力も限られていた昌幸は2男の源二郎信繁(のぶしげ)を上杉景勝の人質に出して
援軍を請うた。しかしそれでも徳川軍の到来が早いのは明白で、真田軍は独力での防衛を余儀なくされたのである。■■■■■
ここで城の縄張りについて説明する。上田にはかつて在地の国人・小泉氏が館を構えた事があり、上田城はその古館の敷地を
取り込む形で築城されている。東西に長い小ぶりな長方形をした本丸を中心に、西〜北〜東を覆う形で輪郭式の二ノ丸を構成。
二ノ丸の西側が以前の小泉館である小泉曲輪、反対に東側は大きめの面積を有する三ノ丸となっていた。これら曲輪群全体を
囲むように幅の広い堀が穿たれ、また各曲輪間も巧妙に横矢が掛かる屈曲を施した堀と土塁で隔絶している。虎口はいずれも
枡形や食違いになっており、防備は万全。唯一、二ノ丸から本丸東面へ至る虎口のみ平虎口となっていたが、この門は両横に
2重櫓が建てられる事で相横矢を成し、濃密な火力網を施せるようになっていた事から、防御力に劣る事はなかった。■■■■
そして何よりも上田城の防備を完璧にしているのが城の南面。城が築かれた場所は“尼ヶ淵”と呼ばれた千曲川の河岸段丘で、
現在は埋立てられて陸続きであるが、当時上田城の南は川に面した断崖絶壁となっており、こちら側からは敵兵が近づく事すら
出来なかったのである。一見、上田城の縄張りは平城に見えるが、尼ヶ淵の高低差を勘案すれば山城に匹敵する防御性を兼ね
備えていたのである。川の断崖、城全体を囲む幅広の堀、これらに守られた上田城を攻めるには大手口から城内へ至る登城路
沿いに進撃するしか方法は無かったと言える。この城に、徳川の大軍が攻め寄せんとしていた。徳川家が北方の備えとした城は
皮肉にも徳川軍によって攻撃される運命になったのだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

第1次上田城合戦:敵を誘引し殲滅す■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
閏8月2日、上田城下に徳川軍が到来。昌幸は上田城内に籠城して指揮を執り、長男・源三郎信幸は支城となる戸石城に兵を
潜めた。上田市街地の東には千曲川支流の神川(かんがわ)が流れている。徳川軍はこの川を越えて上田へ進軍する必要が
あったのだが、予測される伏兵は居なかった。通常、敵が川を渡る際は動きを鈍らせるので、待ち伏せ攻撃する絶好の機会と
言えるのだが、真田軍は看過したのである。これに気を良くした徳川軍は、真田家恐れるに足らずと勢い勇んで上田城下町へ
殺到。このあたりからようやく真田軍の抵抗が始まるが、いずれも散発的なもので徳川軍に有効な打撃を与える程ではない。
無駄な衝突に苛立つ徳川方は早く勝負をつけようと更に進撃速度を増し、一目散に城内へ入ろうとした。■■■■■■■■■
と、ここで待機していた真田軍が一斉に攻撃を開始。急いた行軍で間延びした徳川軍は大軍の利を活かせず、前方部隊から
順番に討ち取られていった。城下町全体を利用した狡猾な罠にやっと気づいたが万事休す、部隊の統制が取れなくなった所に
戸石城から出陣した信幸の軍が側面攻撃を開始、徳川軍は撤退せざるを得なかった。ようやく逃げ延びた徳川軍が神川まで
引き返してきた時点で、川の上流を堰き止めていた真田軍が意図的な決壊を起こして人為的な洪水を発生させる。この濁流に
徳川敗残兵は呑み込まれ、多数の兵が溺死したのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
後年にも上田城を巡り徳川・真田両者の戦いが再発する為、この戦いは一般に第1次上田合戦と言われる。徳川軍7000余り、
真田軍2000以下という大差であったが死者は徳川軍1300以上、真田軍は41名のみであった。その直後、上杉の援軍が到来し
戦線を維持出来なくなった徳川方は豊臣秀吉の仲介により真田家と和睦した。当時、上杉家は豊臣政権との結束を強めており
真田家の動向は逐一秀吉の耳に届けられていたのである。この結果、形の上では真田家が徳川家臣として復帰、和議の証と
して信幸に家康の養女(実父は徳川四天王の1人・本多平八郎忠勝)の小松姫が嫁ぐ事になったが、実質的には昌幸が豊臣
政権の一角に入る事を意味し、上田城は秀吉の威光に沿った城郭として完成を迎えたのである。よって、城内の櫓には金箔
瓦が用いられて、東信地方の一大拠点として認知された。当時、金箔瓦は秀吉が自らの城の証明として使用を広めたものだ。
秀吉は“表裏比興の者(“卑怯”の揶揄も含め、変り身に長けた切れ者という賞賛)”と昌幸を重用、上田城は豊臣政権東端の
城として重視された。天下統一後、秀吉の命により関東へ移封された家康は豊臣政権五大老に迎えられたが、その実、秀吉と
家康の間に絶対的な信頼関係は希薄と見られ、関東を牽制する真田家の存在は重要だったのでござる。■■■■■■■■■

第2次上田城合戦:のらりくらりと敵を躱し時間稼ぎ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
然るに秀吉没後、家康は五大老筆頭として政務を執行していくものの、秀吉遺臣らの目にはこれが「家康の天下盗り」と映り、
両者の軋轢は急激に増していく。1600年(慶長5年)会津太守となっていた上杉景勝を謀反人と断じて征伐に赴いた家康に対し
大坂城(大阪府大阪市中央区)の留守を預かる石田治部少輔三成らが反旗を掲げ挙兵、家康方と三成方とに全国の諸大名は
2分された。天下分け目、関ヶ原合戦の開幕でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
当初、(形式上の)徳川家臣として上杉討伐に加わっていた真田昌幸・信幸・信繁は去就を巡り分裂する。即ち、家康の娘婿の
信幸は徳川方に残ったが、実質的に秀吉の配下だった昌幸と信繁は石田方へ与する事に方針転換。この為、上杉討伐軍から
離脱した昌幸・信繁は上田城に引き籠る。会津攻めから上方への転向を決した徳川軍は、家康が味方の将を束ねて東海道を
西に向かい、嫡子・秀忠は徳川直轄軍を率い中山道から西へ進む事となった。この時、秀忠の進路を阻む位置にあったのが
上田城でござる。当然の成り行きで、秀忠は上田城の攻略を行う事となった。これが第2次上田合戦である。■■■■■■■
9月2日、近隣の小諸城(長野県小諸市)に入った徳川秀忠は上田城に対して降伏勧告の使者を送る。その使者となったのは
誰あろう信幸であった。これに対し昌幸はあっさりと受諾を告げる。但し、城内を整えた後に城を引き渡すと回答。秀忠率いる
4万近い兵に対し城方はごく僅かに2000、当たり前の結果だと誰もが思った。ところがこの返答自体が秀忠の兵を引き止めて
西へ向かわせないための策略だったのである。いつまで経っても開城しない昌幸に、騙されたと悟った秀忠は激怒し盲目的に
攻撃を命令。忠誠無比な徳川の将兵はこれに従い上田城を攻め立てるものの、やはり老獪な昌幸の策でとうとう城は陥落しな
かった。上田に逗留し続けては三成との決戦が果たせないとようやく気づいた秀忠は城を落とす事を諦めて西へ向かったが、
時既に遅し。関ヶ原本戦の9月15日に間に合わず、秀忠軍は何ら活躍の機会無きまま終わったのだ。また、家康は徳川の直属
軍を用いる事が出来なかったため、関ヶ原では豊臣恩顧の大名を頼って戦わざるを得なかった。それにより、戦後の論功では
これらの大名の所領を大幅に加増させなくてはならず、江戸幕府は“徳川独裁”ではなく外様大名の勢力を維持した状態で開く
事になった。これが250年後に討幕運動の原動力となったのだから上田城の攻防戦は明治維新まで間接的な影響を与えたと
言っても過言ではない。徳川家は親子2代、いや15代に渡って堅城・上田城に破れたのでござる。■■■■■■■■■■■

上田城破却と藩主屋敷の造営■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
家康は真田一族の剛勇を恐れて関ヶ原合戦後に昌幸と信繁を高野山へ追放。真田の家は信幸改め信之が継承した。なお、
信繁は大坂の陣でも徳川軍に大打撃を与えて「真田日本一の兵(つわもの)」の武名を残した。講談などで英雄視される真田
幸村とはこの信繁の事である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
後日談はさて置き、上田城に苦杯を飲まされた徳川家は昌幸追放後の領土継承を信之に認めたものの、城の破却を命じた。
信之もまた昌幸に負けず劣らず時流を見るに長けた名将であり、忠実にこの命令を守った。斯くして上田城は築城から20年と
経たずに廃城となった。堀は埋められ、建物は取り壊される。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
上田城に代わり、信之が統治の拠点として新たに構えたのが上田藩主屋敷である。旧城での三ノ丸に位置した居館で、陣屋
程度の造り。いわゆる方形館で、館の周囲を堀で囲んではいるが、1重のみで幅も旧城に比べれば格段に狭いものであった。
幕末期の1863年(文久3年)に土塀とされたが、創築当初の土塁上は矢来(竹垣)だけで防備していたとの事。徳川幕藩体制が
整ったとは言え、未だ大坂に豊臣秀頼が健在な時代。天下の動きは定かならず、戦国の気風もまだまだ残っていた頃である。
全国の諸大名は次なる戦乱を予測して居城を大きく強く改修していた時期だが、信之は敢えて城に頼らずに、徳川幕府からの
危険視を回避する方策を第一としたのだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
信之は徳川への服従を徹底し、幕命に基づく賦役を積極的に買って出たりもしたが、それでも幕府は真田家+上田という組み
合わせを忌み嫌ったのだろう、1622年(元和8年)遂に信濃国松代(長野県長野市)へ転封させられた。上田9万5000石に比べ
松代では13万石の待遇、数字上では加増であるが“父祖の地”から切り離される事に普段は温厚な信之も激怒、上田藩政の
帳簿や資料を悉く焼却した上、邸内の樹木や燈籠を松代へと抜き去ったという逸話が残っている。■■■■■■■■■■■

仙石氏による上田城再興■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
無念の信之に代わり、9月25日に上田へ封じられたのは仙石兵部大輔忠政(せんごくただまさ)。前任地は小諸5万石、上田の
石高は6万石とされた。信之が去った事により真田家の上田支配は40年弱で終了する。以後、上田城主に真田家が戻る事は
無く、上田の歴史と言うのは、実は真田家以外の統治期間が圧倒的に長い事になる。それでもなお、上田と言えば真田という
印象が強いのだから“表裏比興”真田家の知名度たるや恐るべし。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
話が逸れたので戻す。忠政も上田藩主屋敷に居を構えたものの、幕府の許可を得て1626年(寛永3年)から上田城の再建に
着手。埋められた堀を再度掘り返し、城内各所の建造物を再築していく。しかし1628年(寛永5年)4月20日、忠政が死去。その
長男・越前守政俊(まさとし)が跡を継いだものの、築城工事は縮小を余儀なくされて未完成のまま終了とされた。この時点で
再建成った上田城内の建造物は本丸に2重櫓が7基、櫓門2棟だけであった。真田期の上田城には3重天守があった?という
説もあるが、江戸時代の再建上田城には天守が揚げられていない。同様に、御殿は本丸にも二ノ丸にも再建されず終いだ。
要するに「本丸の櫓だけ」の城が再建上田城だったのである。しかし基本的な縄張りは旧城と同様であったと見られ、徳川の
大軍を2度も翻弄した城の敷地は堅持されていた。また、かつての上田城は土塁造りの城であったが、再建上田城は城内の
要所が石垣で固められた。江戸時代の再建ゆえ、切込接ぎで作られたこの石垣は近隣の太郎山(たろうさん)から産出された
緑色凝灰岩を主に使用している。このような状況から、上田藩政の中心たる藩主の居所は相変わらず藩主屋敷にあったが、
その背後に一朝有事の際の軍事拠点となる城塞が控える事になった。以後、明治維新まで上田城の統治体制はこの状態が
続いている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
政俊の治世は40年近くに及んだが、1669年(寛文9年)2月25日に家督を孫の越前守政明(まさあきら)に譲って隠居した。■■
この折、政明の叔父・和泉守政勝(まさかつ)に2000石が知行分けされた為、上田藩の石高は5万8000石に減じている。■■■
ところで、移封された真田信之の領地は松代が本拠となったのだが、因縁の地・沼田はそのまま維持が許されていた。松代と
沼田、飛び地を抱える形になった真田家は信之の死後、血統を2つに分けそれぞれ独立した藩として認められるようになる。
されど分家となる沼田真田家は宗家の松代真田家に反抗的態度を取り続けた上、虚飾を張る為の財源として領内で苛烈な
重税を課した。このため、治世不行届きと幕府から裁定され沼田真田家は改易処分となる。時の沼田藩主・真田伊賀守信利
(のぶとし)の一族は流罪に処せられ、信利の3男・栗本外記直堅(くりもとなおかた)と4男・真田辰之助が1681年(天和元年)
上田藩の預かりに。両名は上田城内に押込とされた(1688年(元禄元年)赦免)。戦国時代の華々しい戦果が名高いだけに、
斯くも不名誉な縁が真田家と上田城にあった事は意外と知られていない。この後に、仙石政明は1686年(貞享3年)と1702年
(元禄15年)上田城の改修工事を行ったが、1706年(宝永3年)1月28日に但馬国出石(兵庫県豊岡市)5万8000石への転封を
命じられ申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

藤井松平家による城主継承■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
入れ替わりで出石から藤井松平伊賀守忠周(ただちか)が入府、石高は同じく5万8000石。藤井松平家は、徳川家康の祖父
松平次郎三郎清康(きよやす)の叔父である松平彦四郎利長(としなが)を祖とする家系、徳川将軍家の縁戚である。上田へ
移される迄は諸国を転々と国替えされていたが、これ以後は明治維新まで定着していく。才幹に優れた忠周は徳川8代将軍
吉宗に重用され京都所司代や老中を歴任した人物である。1728年(享保13年)5月1日に忠周が没すると、3男の伊賀守忠愛
(ただざね)が家督を継承。この時、忠愛は弟で旗本の民部少輔忠容(ただやす)に5000石を分知したため、上田藩の石高は
5万3000石になる。1730年(享保15年)には上田の町に大火が発生、藩主屋敷も全焼している。さらに1742年(寛保2年)には
洪水も起きたため、尼ヶ淵の護岸補強として城の南面に新たな石垣を構築している。このように出費が嵩んだ忠愛の時代で
あったが、これに対する有効な手立てはなく領民からの税を重くするしか対処法がなかった。結果、忠愛の次代となる伊賀守
忠順(ただより)の治世下、1761年(宝暦11年)12月に「上田騒動」と呼ばれる大規模な一揆・打ちこわしが発生し、上田城に
農民が大挙して押し寄せる事になる。城門を突破して乱入しようとする勢いの一揆軍に対して、城代家老・岡部九郎兵衛が
単身で対応(当時、忠順は江戸参勤で在国していなかった)、農民の待遇改善を約束した事で難を逃れた。この後、一揆の
首謀者は捕らえられ処刑されたものの、税制の改善・悪徳役人の追放処分が為され、とりあえず一揆の目的は果たされた。
父・忠愛と異なって忠順自身も有能な政治家であり、儒学による政治刷新などが進み、上田藩政は幾許か改善されたようで
ござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところがその子・左衛門佐忠済(ただまさ)の代になると、またもや藩政が傾く。武芸稽古所を置き藩士の育成に励んだのは
良いが、幕府の手伝い普請などで財政が悪化、しかも1789年(寛政元年)再び上田城下に火災が起き藩主屋敷が炎上して
しまう。翌1790年(寛政2年)に屋敷の表門や御殿が再建されたものの、忠済は子息にも先立たれ後継者不在という不運の
藩主であった。結局、分家出身(忠容の後裔)の伊賀守忠学(たださと)が養子に入り1812年(文化9年)5月6日に家督継承。
忠学は翌1813年(文化10年)藩校の明倫堂を創設し、藩士に学問を奨励したのでござる。■■■■■■■■■■■■■■
1830年(文政13年)4月20日藩主となった伊賀守忠固(ただかた)は幕府寺社奉行や大坂城代を歴任、黒船来航時に老中と
して国の難局を舵取りした人物。外国脅威に対する日本の国力不足を即座に見抜いたというのだから賢君だったのだろう。
しかし1859年(安政6年)9月14日に急死し、跡を継いだ伊賀守忠礼(ただなり)が上田城最後の城主となる。明治新政府の
成立に伴って忠礼は早くから恭順し戊辰戦役における長岡戦争や会津戦争に出兵、戦後に恩典として3000石が加増されて
いるが、1869年(明治2年)5月13日の版籍奉還で上田知藩事とされ、1871年(明治4年)7月14日の廃藩置県にてその職を
解かれる事になる。上田城も廃城令により破却の運命を辿り、1874年(明治7年)に敷地売却、城内建造物は西櫓(写真)を
除いて移築や解体された。藩主屋敷も、1790年再建の表門と1863年構築の塀を除いて廃されている。翌1875年(明治8年)
藩主屋敷の敷地をそのまま活用して上田予科学校(現在の長野県立上田高校)が開校、屋敷表門が学校の正門(写真)に
なっており申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

明治以降の上田城跡■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
廃城後、めまぐるしい変化を遂げていく上田城跡であるが、本丸跡地を購入した材木商・丸山平八郎直養(丸山家11代)は
その土地を松平神社(現在の真田神社)用地として提供し、1879年(明治12年)旧城本丸内に社が建てられた。この神社は
上田城の歴代城主を祀るものだ。さらに1893年(明治26年)丸山家12代の平八郎直義が本丸の残り敷地も当時の上田町に
寄贈、上田城跡が公園化される元となった。1925年(大正14年)に本丸全域が市有地となって、上田城址公園が開園する。
されどその一方、二ノ丸以遠では近代化も抗えず、1927年(昭和2年)二ノ丸堀底を縦貫する上田交通真田傍陽(そえひ)線
線路が敷設された。かつて真田軍が守り徳川軍が攻めた城は、公園化と都市化でせめぎ合ったのだ。■■■■■■■■
ところで払い下げられた櫓のうち、本丸大手虎口の両脇を守っていた南櫓と北櫓は6両の金額で城下の常磐城(ときわぎ)
新地にある遊郭として移築されていた。2つの櫓を1棟の建物として合体させ金州楼・万豊楼と名付けられていたが1943年
(昭和18年)市民運動により復興される運びとなり、元来の南櫓・北櫓として再移築され申した。この再移築工事は1949年
(昭和24年)までかかっている。廃城以来、元のまま維持されていた西櫓を含めこの3棟は同じ大きさで、1階平面9.85m×
7.88m、2階は8.64m×6.67mという寸法。上田城内の他の櫓も同様だったらしい。内部は1階2階を貫く通し柱がない構造で
2階壁面は1階の梁上に柱を差し込んでいる状態。屋根は本瓦葺入母屋造り、外壁は下部3分の2程が柿渋塗りの下見板
張り、その上部(軒下部)は白漆喰塗込大壁。内壁は白漆喰真壁で、そこに突上戸で開閉する窓が東西南北4面、1階2階
共に開くようになっている。仙石期の再建建築であるが、武家諸法度に基づいて「城郭復興は旧来の形式のまま」行ったと
想像されるために、真田期の櫓も同様のものだったのではないかと思われている。上田城の櫓は飾り破風を一切持たない
質素なものであったが、堅城に装飾は不要という実戦重視の思想に基いたものだろう。■■■■■■■■■■■■■■■
古建築としてもう1つ残るのが藩主屋敷の表門なのでこれも紹介すると、4本の親柱が支える所謂「四脚門(しきゃくもん)」
形式の薬医門で、中央の大扉の両脇に潜り戸を備えて格式を高めている。3基の櫓は1959年(昭和34年)11月9日に長野
県宝に指定、藩主屋敷表門は1969年(昭和44年)5月9日に市指定文化財に。城跡自体は一足早く1934年(昭和9年)12月
28日、国の史跡に指定されてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

歴史ブームの中心地として■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
近年、真田の戦績や知名度が向上するに連れて上田城址の注目度も上昇。城内を貫通していた上田交通真田傍陽線が
1972年(昭和47年)2月20日に廃線とされ、線路を撤去し遊歩道化されて以来、城址公園の整備拡充は加速され、1994年
(平成6年)南櫓・北櫓に挟まれた位置にある大手櫓門と袖塀が再建された。この櫓門は明治の古写真が残されていた為、
精巧な復元が実現したのである。大手櫓門を支える石垣に置かれた鏡石(敵を威圧するほどの巨石)は通称“真田石”と
呼ばれ、真田昌幸が据え付けた、或いは信之が転封時に松代へ持ち去ろうとしたが動かせなかったとの伝承まである上、
本丸内にある井戸は城外へと通じる“真田の抜け穴”だという噂もある。石垣は仙石時代のものだし、古井戸が城の外まで
通じる筈もないのだが、真田一族に纏わるこうした俗説が上田城の魅力をより一層深いものにしているのは間違いない。
本丸の北東隅は切り欠きを有し、いわゆる“鬼門除け”とされていて、これまた上田城の必見箇所。真田の城を守ったのは
神仏の加護もあっての事か?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
どれもこれも“真田さまさま”といった上田城ではあるが、後付けの粉飾を抜きにしても名城である事は間違いなく、2006年
(平成18年)4月6日、財団法人日本城郭協会から日本百名城の1つに数えられている。真田氏の活躍を描いた小説として
有名なものが「真田太平記」であるが、その作者・池波正太郎は上田城下の蕎麦屋「刀屋」を行きつけにしていた。■■■
“信州の鎌倉”と評される別所温泉にも近く、昔ながらの古風な佇まいを見せている上田の町と城は東信濃でも第一級の
観光名所と申せよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
尼ヶ淵城、真田城、伊勢崎城、松尾城などの別名がある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■





松本城  小諸城・御影陣屋・富士見城