信濃国 松本城

松本城天守群

 所在地:長野県松本市丸の内

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★★
★★★★★



松本平野を押さえる城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
古来「深志(ふかし)」と呼ばれた松本の地は信濃の府中であり、室町時代の信濃守護・小笠原氏は松本市街地の東、
里山辺・入山辺地区の山上に林城を築き、本拠としていた。戦国争乱期、天険の要害を守りに取り込む山城は必須で
あったが、麓の深志平野の備えも必要であり、そこには小笠原一族の島立右近貞永(しまだちさだなが)が築城する。
貞永の深志城構築は永正年間(1504年〜1520年)の事と言われるが、それ以前には国衙官人の犬甘(いぬかい)氏が
構えた館があったとも。正確な所は不明だが、小笠原氏は山城の林城と平城の深志城で二段構えの統治を行った。
後に小笠原家臣の坂西氏が深志城代を務めるようになったとも伝わる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし天文年間(1532年〜1555年)甲斐から侵攻した武田大膳大夫晴信は数度に渡り小笠原氏と交戦、遂に1548年
(天文17年)7月の塩尻峠合戦で帰趨が決し、1550年(天文19年)7月15日に林城と深志城は陥落。時の守護・小笠原
信濃守長時(ながとき)は信濃を追われた。この地を入手した晴信は統治に不便な林城を廃し深志城を拡張、筑摩郡
統治の本拠とする。深志城の拡張工事を手掛けたのは晴信股肱の臣にして名築城家に数えられる馬場美濃守信房。
平城として地形の険峻さを防備に使えない一方、土木工事が容易な地勢を活かし、信房は“武田流築城術”の粋である
丸馬出を多用する複雑な縄張を施したのだった。武田軍は宿敵・上杉不識庵謙信との戦いである川中島の戦いにも
この深志城を後方基地に用いるなど、一大軍備拠点として重きを成していく。信房(信春とも)は城代として城を預って
中信濃地域の経営を担っており、信房没後は嫡子・民部少輔昌房がその責務を受け継いでいる。■■■■■■■■■
晴信改め徳栄軒信玄の没後、四郎勝頼が継承した武田家は織田信長・徳川家康によって1582年(天正10年)3月に
滅ぼされた。この折に、昌房は信長の弟・源五郎長益(ながます、後の有楽斎)へ深志城を明け渡す。その後、信長は
木曽左馬頭義昌に城を与えた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
いったんは織田領となった信濃国だが、信長も同年6月2日に本能寺の変で落命。紆余曲折の結果、徳川家康が領有。
信長横死の混乱中、深志城は越後の上杉家から送り込まれた小笠原洞雪斎(どうせつさい、長時の弟)が義昌から奪うも
徳川方が進出すると、家康の臣となっていた小笠原右近大夫貞慶(さだよし、長時の3男)が旧領・深志を与えられた。
上杉氏の傀儡に過ぎない事を見抜かれていた洞雪斎は小笠原旧臣の糾合に失敗し孤立化しており、この年の7月16日
行われた徳川方の攻勢であっさりと城を失った。貞慶は深志を松本と改称、城と城下町の整備を行っていくが、徳川への
忠誠を明らかにする為、嫡男の秀正を人質に出していた。秀正は家康の家老・石川伯耆守数正に預けられていたのだが
1585年(天正13年)11月13日、その数正が突如豊臣秀吉の下に出奔してしまう。この時、上野介秀正も共に連れ出されて
しまった為、進退窮まった貞慶もまた徳川を離反し豊臣方に与せんとする。最終的に小笠原秀正は徳川家への帰参を
許されたものの、そうこうしている間の1590年(天正18年)秀吉が天下を統一し、徳川家は東海甲信の所領を手放され
関東に移封されてしまう。小笠原氏は下総国古河(茨城県古河市)3万石に移り、替わって秀吉から10万石で松本城を
与えられたのは、誰あろう石川数正その人であった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

改造に改造を重ねていき■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
斯くして数正は松本城の近世城郭化改修に着手。1592年(文禄元年)に数正が死去(1593年(文禄2年)説もあり)すると
その遺領のうち8万石が嫡子・玄蕃頭康長に相続された(残りの所領は康長の兄弟で分割)。現在に至る松本城の姿は、
概ねこの数正〜康長の時代に完成されたものでござる。そして石川康長は関ヶ原の戦いにおいて東軍へと付いたため、
江戸幕府の成立後も松本城主にあり続けたが、父・数正の裏切りを徳川家は許さなかった。1613年(慶長18年)10月19日
突如として領地隠匿の罪に問われ、石川家は改易。康長は豊後国佐伯(大分県佐伯市)に配流され、彼の地で没した。
そして11月、改めて松本城主になったのは小笠原秀正である。関ヶ原の後、古河3万石から信濃国飯田(長野県飯田市)
5万石に移封されていた小笠原家は再加増で8万石となり松本城主に返り咲いた訳だが、秀正は1615年(元和元年)の
大坂夏の陣で大奮闘の上に戦死。末期の言葉は「信濃は…」というものであった。秀正の長男・信濃守忠脩(ただなが)も
同じく大坂で戦死、親子2名ともが命を賭した忠義に感じ入った将軍・徳川秀忠は左近将監忠真(ただざね、秀正3男)に
家督継承を認めた上、1617年(元和3年)に播磨国明石(兵庫県明石市)10万石へと加増転封させている。小笠原家は
松本城主時代に善政を敷き家臣領民に慕われたとされ、明石への移封の際には多くの藩士が随行を望んだと言う。のち、
小笠原家は更に加増を受け豊前国小倉(福岡県北九州市小倉区)へ移っていく。■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、小笠原忠真が去った松本城主になったのは5万石で上野国高崎城(群馬県高崎市)主だった戸田松平康長である。
2万石加増され松本7万石の領主となった丹波守康長は3代将軍・家光の信任篤い名君で、江戸幕藩体制確立期にあった
松本藩政を完成させた名君として賞されている。1632年(寛永9年)12月12日、松本城内で病死した康長の跡は嫡男である
丹波守庸直(やすなお、康長3男)に継がれたものの、代替わりに伴い翌1633年(寛永10年)4月に播磨国明石へ移封。
同月22日から松本城主を命じられたのは松平出羽守直政でござった。越前大野(福井県大野市)5万石から2万石を
加増されての入封だ。家康の2男・結城秀康の3男が直政。結城家は越前国福井(福井県福井市)を所領としていたので
越前松平家と呼ばれるが、本家を相続した兄・忠直(秀康長男)が乱行で改易されたのに対し、直政は堅忍篤実な人物で
知られている。3代将軍・徳川家光の従兄弟にあたる直政は、その家光が上洛の帰路に松本へ立ち寄ると予定された為
将軍を饗する為の月見櫓と辰巳附櫓を増築(詳細は後記)、城門も改修して威儀を整えた。結果的に家光が松本城に
寄る事はなかったが、この修繕工事で松本城の最終形態が完成する。直政は忠勤に励み、1638年(寛永15年)2月11日
出雲国松江(島根県松江市)18万6000石(加えて隠岐国1万4000石の統治委任)へと大加増の移封を受け申した。■■

過酷な松本藩政の時代■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
3月8日、武蔵国川越(埼玉県川越市)3万5000石から6万5000石の大幅加増で10万石の太守となった堀田加賀守正盛が
松本城主になる。しかし正盛は幕府老中の重責にあり、ほとんど江戸に詰めていたため松本城に入ったのは1度きりで
1642年(寛永19年)7月16日に下総国佐倉(千葉県佐倉市)11万石へと転任して行く。正盛が統治した4年間、松本では
凶作が続き年貢の収納も未成のままだった。7万石で新たな松本城主になったのは水野隼人正忠清、前任地は三河国
吉田(愛知県豊橋市)4万石。忠清の後、水野家は出羽守忠職(ただもと)―中務少輔忠直―出羽守忠周(ただちか)―
日向守忠幹(ただもと)―隼人正忠恒(ただつね)と続くが、前任の堀田正盛時代に未収納であった年貢を取り立てた
のみならず、検地のやり直しで更に厳しい課税を領民に行うなど苛烈な悪政を尽くした。この間、忠直統治期の1686年
(貞享3年)には安曇郡中萱村の多田加助を首謀者とする「加助騒動」と呼ばれる大一揆が発生するなど、領内治世は
混乱を極めているが、加助騒動に於いては首謀者一族郎党男女を問わず28名も処刑し、行いを顧みる事はなかった。
暗愚の君主を怨んだ多田加助は、磔で絶命する際に松本城天守を睨み上げたと云われ、後に天守が傾き加助の怨念と
囁かれるようになった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
鋭才を期待されながら早世してしまった5代・忠幹を除き、愚君続きだった水野家であるが遂に忠恒は1725年(享保10年)
7月29日、江戸城中において抜刀する騒ぎまで引き起こす。乱心した忠恒に幕府は改易処分を下し、水野家中の藩士は
9月26日までに松本城を引き払った。そして10月18日、志摩国鳥羽(三重県鳥羽市)7万石から松本に移封されたのが
戸田松平光慈(みつちか)、かつて松本城を預かっていた松平康長の後裔でござる。6万石に減封での入府であったが
同年12月18日に丹波守に叙任されるなど時の将軍・徳川吉宗の信任篤く、英名の才を買われての松本帰還であった。
1727年(享保12年)閏1月、松本城の本丸御殿が火災で焼失。藩の財政難を受け止めた光慈は、御殿再建を行わず、
以降、城主の居館および藩政庁舎として二ノ丸御殿を使うようになっている。以後、戸田家は丹波守光雄(みつお)―
近江守光徳(みつやす)―伊勢守光和(みつまさ)―若狭守光悌(みつよし)―弾正少弼光行(みつゆき)―河内守光年
(みつつら)―丹波守光庸(みつつね)―弾正少弼光則(みつひさ)と代を重ねて明治維新を迎えた。このうち、光悌の
時代である1777年(安永6年)2月8日に松本城が火災で炎上、幕府から再建資金6000両を借り受けている。■■■■
光行期の1793年(寛政5年)には藩校の崇教館(そうきょうかん)を開設。1834年(天保5年)光年は将軍・徳川家斉から
松の木を下賜され松本城内に植樹したという逸話もある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

荒廃を極めた城の救世主■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
幕末の混乱期に尊王攘夷を叫んだ水戸天狗党が蜂起し上洛を目指した「天狗党の乱」において、その追討命令を受けた
松本藩と高島藩(長野県諏訪市)の連合軍は、和田峠(長野県小県郡長和町・諏訪郡下諏訪町境界)にて大規模な
交戦を行った。1864年(元治元年)11月20日の事である。天狗党の乱については、その西上経路に当たる諸藩が軒並み
尻込みする中、松本藩兵は果敢に戦った数少ない例でござった。結果として松本藩兵は敗れ天狗党の通過を許したが、
これ以後、松本藩は幕末争乱に数多参戦、蛤御門の変や長州征伐に幕府方として加わっている。鳥羽・伏見の戦いで
15代将軍・徳川慶喜が江戸に逃げ帰った後は幕府から碓氷峠(長野・群馬県境)の守備を命じられるも、新政府軍が
現地に到着する直前、藩主・光則の決断で朝廷側に服従。ここからは新政府側として戊辰戦争を転戦した。そのため
松本藩は維新以後も安堵されたが、版籍奉還のち廃藩置県により戸田氏は松本を去る。松本藩は松本県に改称、更に
周辺県を統合して1871年(明治4年)11月20日からは筑摩県になっている。この際、松本城二ノ丸御殿が筑摩県庁として
使われるようになったが、城そのものは1873年(明治6年)1月14日の廃城令で廃城処分になっている。よって、これに
先立つ1872年(明治5年)天守が競売され235両1分150文(附合物を合わせると合計309両)で売却されてしまった。■■
買主は天守を解体しようと計画するが、地元有志の市川量造(いちかわりょうぞう)がこれを憂い、松本で博覧会を5回に
渡って開くなどして資金調達に奔走、天守群を買い戻して滅失の危機を救った。一方で1876年(明治9年)6月19日の夜、
不審火によって筑摩県庁であった二ノ丸御殿が焼失。ちょうど府県再統合の時期であった為、筑摩県は同年8月21日
長野県に合併し消滅している。廃城により多数の櫓や城門も解体されていき、残されたのは天守群と二ノ丸土蔵だけ。
この土蔵は御金蔵として使われていたものだとか。移築された建築物としては、大手二ノ門として使われていた薬医門が
安曇野市堀金の青柳家に残る(2008年(平成20年)10月29日安曇野市有形文化財に指定)など、数点確認されている。
だがかつての名城は加速度的に荒廃、市内に広がる堀跡や馬出跡は埋立て・整地され、本丸敷地は学校の校庭となり
荒れ果てた天守の前で運動会が開かれている古写真が残っているなどおよそ“史跡””文化財”としての保全は為されて
いなかった。明治30年代になると予てからの地盤沈下が悪化し、江戸時代から徐々に傾いていた大天守が大きく傾斜、
いつ倒壊してもおかしくない程の状況になる(これが“加助の怨念”と伝説される)が、地元の貴重な歴史遺産が再び
滅失する危難を憂いた長野県尋常中学校の小林有也(うなり)校長が、1901年(明治34年)に松本城天守閣保存会を
組織し全国から約2万円の寄付金を集め、1903年(明治36年)〜1913年(大正2年)にかけて明治の大修理を行っている。
古材売却の為に取り壊されたりした城もある中、敬服すべき話だ。斯くして松本の宝は蘇り、市川量造・小林有也の
両氏は松本城天守の恩人として現在も讃えられている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

国宝城郭としての整備保全■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
これ以後、全国的に史跡・文化財保護の知見が広がりを見せ、城址は1930年(昭和5年)11月19日、国史跡に指定された。
翌1936年(昭和11年)4月20日には天守群(大天守・乾小天守・渡櫓・辰巳附櫓・月見櫓)が当時の国宝(旧国宝)となり
太平洋戦争後の1952年(昭和27年)3月29日にはこの5棟がまとめて文化財保護法による国宝に再指定されてござる。
それに並行して1950年(昭和25年)〜1955年(昭和30年)天守群の解体修理が行われ(昭和の大修理)、これが国による
国宝保存事業の第1号とされる。旧城内に置かれていた学校・裁判所などの公共建築も順次城外へと移転、1960年
(昭和35年)本丸入口の黒門一ノ門(櫓門部分)を復元。この時、昭和の大修理で外された天守の瓦が再利用されている。
1990年(平成2年)には黒門二ノ門となる高麗門と袖塀も復元、枡形形状が再現された。1999年(平成11年)太鼓門も
再建されているが、この工事を行う為に1991年(平成3年)に発掘調査、1992年(平成4年)に石垣の構築が行われている。
なお、太鼓門の櫓門(太鼓楼)を支える玄蕃石という巨石が松本城内最大の石材だという。近世松本城の基礎を築いた
石川玄蕃頭康長がその名の由来とか。松本市はその後も松本城復元を考慮した都市計画を策定。2000年(平成12年)
松本城周辺市街化区域が都市景観100選に選ばれ、明治以降の近代都市化で失われた外堀・総堀も含めた復元事業を
推進し各所の堀や土塁が再現されてきている。このうち、松本市大手2丁目にある土井尻土塁は史跡展示を完成させ
2007年(平成19年)2月6日、松本城史跡地域に追加指定された。現在この土塁展示は西堀公園として公開されている。
松本城址の史跡範囲はその後も順次追加されており、2013年(平成25年)3月27日、2014年(平成26年)3月18日、2015年
(平成27年)3月10日、2016年(平成28年)3月1日と毎年に及んでいる。長野県を代表する大都市となった松本市街地の
中で堀や土塁の再現を図るのは容易ではないが、かつての市川・小林両先生が市井から城の保全を訴えた如く、市民の
協力を得た素晴らしい復元が推進されるのを期待したいものである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
松本城は北辺167m・南辺137m×南北およそ120mの台形(これに黒門枡形が南面東隅に附随する)をした本丸に対し、
その西〜南〜東側を取り囲む凹形の二ノ丸が連接し、更にそれらをまとめて囲い込んだ大規模な三ノ丸で構成される
連郭・輪郭複合式の縄張り。三ノ丸の北辺には東西2箇所、西辺の北部と東面の南端にそれぞれ、合計4箇所の虎口が
開き、その全てに丸馬出が張り出していた。三ノ丸の塁線上に置かれた城塀は随所に邪(ひずみ)と呼ばれる屈曲が
備えられていたという。邪は有事の際に敵軍を狙撃する銃眼として守りを固る施設で、松本城が戦国城郭から受け継ぐ
実戦防備を重視していた証でござろう。この他、城の総構として東〜南を流れる女鳥羽川も使われていた。■■■■■
堀は本丸の全周と二ノ丸の東半分、三ノ丸東面の北半分(松本市役所付近)が現在に残っているが、江戸時代は当然
もっと全体的に張り巡らされていた。埋め立てられた堀跡は、しかし松本市の市街地図に照らし合わせてみれば現在の
幹線道路や連続する家並に符合し、松本の都市化が旧城の縄張りを踏襲して進められた様子を物語っている。この為、
市ではこうした堀跡の住宅地を退避させる方向性を含めた堀の復元計画を策定しており、差し当たって直近では二ノ丸
西半分の堀を復元する予定としている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

国宝天守の考察■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、最後に紹介するのは松本城の象徴・天守群についてである。上記の通り国宝指定された5棟で構成されるものだが
月見櫓とそれに連接する辰巳附櫓は松平直政の増築である事は判明している。月見櫓は地下1階付の平櫓、本瓦葺で
建物の北・東・南の3方向が舞良戸(まいらど)を組み込んだ開口部になっている。この開口部の周囲は朱塗りの高欄で
囲まれており、まさしく月見をするに相応しい構造となっているが、軍事要塞としての城郭建築物としては相応しくなく、
明らかに平和な時代の構築物と言える物だ。辰巳附櫓は2重2階、本瓦葺。東西3間×南北4間の間取りで、2重目には
装飾用の花頭窓を開くも、武備となる狭間や石落としは作られていない。これまた太平の時代の建築物だ。■■■■■
残る大天守・乾小天守と渡櫓が石川氏時代に建てられた“戦国期の建築”という事になるが、その創建年代は諸説あり
はっきりとは分かっていない。主なものに1592年・1593年・1594年(文禄3年)・1597年(慶長2年)・1600年(慶長5年)・
1601年(慶長6年)等の説がある。近年の研究では、最初に建てられたのは乾小天守のみで、その後から大天守を構え、
それを渡櫓で繋いだと考えられるようになってきている。この為、大天守と渡櫓の創建を小笠原期の1615年とする考えも。
文化庁の国宝指定要件においても、乾小天守は1597年、大天守・渡櫓は1615年とされている。■■■■■■■■■■
大天守は5重6階の本瓦葺、構造的には旧式の望楼型天守でありながら、外観上は中間の大入母屋破風がなく新式の
層塔型天守に見える形状。この為、望楼型〜層塔型の過渡期形態と認識されている。屋根裏階となる3階の存在により
重階不一致となるのは望楼型の名残だ。入母屋破風を廃したのは松平直政の月見櫓増築時とする説もあり、それが
正しいのであれば、それまでは外観上も望楼型になっていた可能性がある。4階は御座所、戦時に城主が作戦指揮を
采る場と言われ、最上階の6階屋根裏には二十六夜神という戸田氏の信仰する神が祀られ、城の守り神とされていた。
乾小天守は3重4階、本瓦葺。これも重階不一致の古態建築で、3階が屋根裏階になっている。4階の北面・西面には
花頭窓。渡櫓は2重2階+地下1階、この地下部分が天守群への入口になっている。本瓦葺建築で、明治の改修時には
改造を受け大きな窓を開くように改変されたものの、昭和大修理時に復されている。大天守・乾小天守・渡櫓の3棟には
窓が少ない分、無数の狭間や石落としを開き、戦闘性能を重視した重防備の建築物であった。また、天守群から水濠を
隔てた対岸へは約60mの距離があり、これは攻城側の小火器では有効射程に達しない反面、天守側からは据え置きの
重火器で敵を狙撃できる射界が確保され、防御側にのみ有利な計算が為されている。■■■■■■■■■■■■■
月見櫓を除く4棟はいずれも下見板張りの黒い外壁。この下見板は明治以後、墨を塗って外観を整えていたが、昭和の
大修理時に科学的考察が行われ、往時は漆を用いていた事が判明。これ以来、修繕には本漆を使用するよう変更されて
いる(天守群の漆は毎年定期的に塗り替えられている)。黒板を貼った素朴重厚な外観から、松本城は古武士の姿に
例えられ、白漆喰の姫路城(兵庫県姫路市)が“白鷺城”と称せられるのに対し、黒漆の松本城には“烏城”という雅称が
付けられている。大天守+小天守に附櫓類が結合する天守形態は複合連結式と言われ、類例の少ない希少なものだ。
日本アルプスを背景とする国宝天守は松本市の象徴。重要文化財から国宝に替わった旧開智学校も近く、両者そろって
松本の歴史と文化を伝えている。城内は公園として整備され、大勢の観光客が訪れる一大観光地。2006年(平成18年)
4月6日に財団法人日本城郭協会から日本百名城と選出され、貴重な現存12天守を擁する城の1つとしても必見の城だ。
なお、余談であるが二ノ丸馬出と考えられる敷地に建っていた若宮八幡宮は、松本城の城内鎮守であった。時の城主・
水野忠直は、城下・筑摩の三才にあった神社の社殿が壊れた折、若宮八幡の社をそこに移築。この若宮八幡社本殿は
現存しており、国の重要文化財になっている。加えて申し上げれば、若宮八幡の創建は深志城築城主である島立貞永が
1517年(永正14年)病没した後、その嫡子・島立七蔵が亡父を弔う為に勧進したものとされており、遡れば深志城築城の
由緒から連綿と繋がる貴重な建築物が今の世にまで残っている事になる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

天守群(大天守・乾小天守・渡櫓・辰巳附櫓・月見櫓)《いずれも国宝》
堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡

移築された遺構として
若宮八幡社本殿(旧城内鎮守)《国指定重文》
青柳家屋敷門(旧大手二ノ門薬医門)《安曇野市指定有形文化財》




(南部町)南部氏館  上田城・上田藩主屋敷