城を築くためにある山■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在は北杜市役所大泉総合支所になっている旧大泉村役場からほぼ真南の方角600m程の小山が城跡。
地元では流れ山とか城山と呼ばれるこの山は、山頂の標高862m。敷地の大きさは東西300m×南北260m、
麓との比高は20m程度で決して大きいとは言えないが他の山と連接せず、独立丘陵となっている築城好地。
茶臼の形になぞらえ別名で茶臼山城とも名づけられた谷戸城の城山は、まるで御椀を伏せたような、見事に
丸い小山の内部が堀や土塁で区切られ、非常に秀逸な景観を成している。■■■■■■■■■■■■■
城の起源は平安末期に遡り、「甲斐国志(江戸期に編纂された甲斐地誌)」では逸見冠者(へみかじゃ)こと
逸見清光の城とされ、1199年(正治元年)この城で彼は没したとある。甲斐源氏の始祖・新羅三郎義光の
孫として生まれ、“黒源太”と称した清光は常陸国武田郷の出身。よって、父の源義清は武田冠者とされる。
若き日の清光は常陸国で領地争いや濫行を起こし、罪を得た事で父・義清ともども常陸国司に追放されて
(「長秋記」に記載)、甲斐国市河(市川)庄へと流された(「尊碑分脈」より)。このため、武田義清は甲斐国
中部で新たな領地を得て土着、清光は甲斐国北部へ転出し逸見庄(八ヶ岳南麓)で独立する。故に清光は
逸見姓・逸見冠者なのでござる。斯くして清光が構えた城館こそがこの谷戸城だと言うのだ。■■■■■■
源義光を始祖とし、義清・清光父子が甲斐一帯に勢力基盤を固めた事から、以後の子孫一族が甲斐源氏と
称される。清光の長子・光長は逸見家を継ぎ、次子・信義は祖父・義清の姓を受け継いで武田の名を名乗り、
甲斐武田氏の祖となった。このように谷戸城は、常陸から流れ着いた清光が、甲斐の支配者へと勇躍する
基盤となった城なのである。ただし、清光の没年は通説で1168年(仁安3年)とされているので「甲斐国志」の
記載が必ずしも全て正しいとは言い切れない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
文献上には謎多く…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その一方、「吾妻鑑(あづまかがみ、鎌倉幕府の正式史書)」において源頼朝が平氏打倒の挙兵をした直後の
1180年(治承4年)、東国の兵を募る頼朝の呼びかけに応じた武田信義は甲斐国内の諸勢力を糾合し9月15日
「逸見山」の館で頼朝の使者・北条四郎時政に謁見したとある。更には同月24日と10月13日にも「逸見山」から
駿河へと出陣したとの事。この功績により、甲斐源氏の総領は武田氏とされ、以降戦国時代まで連綿とした
血脈が受け継がれていくのでござる。さてそうなると「逸見山」とはどこなのかが問題となってくる。■■■■■
現在では「逸見山」と呼ばれる山がないため、その比定地は北杜市内にいくつか考えられているが、最有力
候補とされているのがここ谷戸城の城山。「甲斐叢記」なる文書が谷戸城山を「又逸見山とも云ふ」と記して
いる為である。即ち、谷戸城は武田氏が甲斐の国主として認められるようになった非常に重要な史跡であると
言える。加えて申し述べれば、南北朝動乱期の1351年(正平6年/観応2年)「醍醐寺報恩院文書」でも同様に
「甲斐国逸見城」との表記があり、谷戸城を指していると思われる。■■■■■■■■■■■■■■■■
そして甲斐国の名主と言えば武田信玄。法名で徳栄軒信玄こと大膳大夫晴信の時代に谷戸城は武田軍の
信濃進出路を固める拠点になっていたようで、晴信の家臣・駒井高白斎政武(こまいまさたけ)が記した武田
家中の日誌「高白斎記」には「谷戸御陣所」の記載が散見される。この地は武田家の軍道「棒道」の南端にあり
兵員・物資の集積拠点として利用されていた事が考えられよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
発掘調査で明らかになる城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
更に、武田家滅亡後の1582年(天正10年)甲信の地を巡り徳川・後北条の両家が争った“天正壬午の乱”では
後北条軍が入り防備を固めたと「甲斐国志」にある。平安末期に始まり、戦国後期に至るまで実に4世紀の間、
武田家の発祥から終焉まで実用にあった城郭が谷戸城なのである。天正壬午の乱以後廃城となったようだが、
その実績は現地に語り継がれ、江戸時代を通じて城郭だったという認識が残されていた。江戸時代の地誌
「甲斐名勝志」に「矢谷村に城の腰と伝所あり。逸見黒源太清光住給いし館の跡なり」とあり1825年(文政8年)の
村方明細帳にも、こうした記録が残されている。その結果、1976年(昭和51年)山梨大学考古学研究会が測量
調査を実施。1982年(昭和57年)、さらに1989年(平成元年)に当時の大泉村教育委員会が発掘調査を城内
各所で行い、礎石遺構や土塁に沿った横堀などを検出。洪武通宝などの銭貨、内耳土器、蓮弁文青磁碗の
破片が出土している。こうした出土品は14世紀~15世紀のものと見られるが、谷戸城の南1km弱の所にある
国史跡・金生(きんせい)遺跡は縄文時代の集落痕であり、他にも周辺に平安期などの居住遺構が確認されて
いる為、谷戸城を囲む場所は古代から人々の営みがあったのは間違いなく、年代が進んで武士による権力
集積が行われていく過程に於いて、この城が中心となっていた事が容易に想像できる。■■■■■■■■■■
城の縄張りは山頂部を東西30m×南北40mの面積を有す一ノ郭とし、その下段を二ノ郭と三ノ郭がぐるりと囲む。
さらにその下段が帯郭となっており、比高差を考えなければ完全に輪郭式の縄張りに見える。帯郭の下には
地山の形状に基づくものか、北側と東側に突出部がある為それぞれほぼ方形の四ノ郭・五ノ郭とされている。
このうち、二ノ郭では正方形の建物1棟と長方形の建物3棟が建てられていた痕跡があった。これら曲輪間は
随所が土塁と空堀によって隔てられ、念入りに作りこまれている事が見て取れる。特異な点としては、通常
城の守りは曲輪の外辺を土塁で囲みその外側に堀を掘るものなのに対し、谷戸城では曲輪の外辺に堀を掘り
その外側に土塁を用意している場所が随所に見受けられる事でござろう。古代環濠集落などでは用いられる
手法だが、戦国期まで実戦状態にあった城郭でこの方法は稀有な例である。■■■■■■■■■■■■■■
土塁は低い部分で0.5mほど、高い部分で2mを数える。年代的に見ると一ノ郭~帯郭までは武田時代のものと
見られているが、四ノ郭については天正壬午の乱で後北条氏が拡張した部分と考察される。この為、四ノ郭の
南端部は後北条流の特徴か?と思しき二重土塁となっている。城山の西側山麓は六ノ郭と呼ばれ、かつての
居館区域だったようだ。城山の最外部には東衣川と西衣川が流れ、天然の濠となっている。■■■■■■■
兎にも角にも、遺構の残存状態は非常に良好だ。さすが、江戸時代を通じて地元の方々が城跡を守り通して
下さっていただけの事はある。この様な点が評価され、1993年(平成5年)11月29日に国の史跡として指定され
申した。史跡指定の理由として、中世を通じてこの地域の拠点であった事のみならず、甲斐源氏の成立伝承を
裏付け、武田氏発祥から発展へと至る過程を具体的に知る事が出来る為としている。こうした史跡整備に伴い
1999年(平成11年)迄に城跡は公有地化され、2007年(平成19年)に城跡北西山麓に谷戸城ふるさと歴史館が
開館。逸見氏・武田氏の隆盛や谷戸城の構造などをパネル展示している。ここからは北に名峰・八ヶ岳を望む
事が出来、景色も抜群!北杜市を訪れた際には、ぜひとも見学したい城跡でござろう (^-^)v■■■■■■■
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