台地上の居館址@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
武田家の軍記「甲陽軍鑑」において、武田四郎勝頼の佞臣として描かれる長坂長閑斎光堅(ながさかちょうかんさいみつかた)の
屋敷跡。長閑斎の号は釣閑斎の字を当てる事もある。長坂氏は信濃守護である小笠原氏の傍流とされるが、甲斐武田氏の支流・
栗原氏からの流れとする説もござる。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
江戸時代には「長閑原(ちょうかんばら)」、現在は「長閑山」と呼ばれる屋敷地は周囲の平野よりも10m程度高い小山で、上部は
ほぼ平坦な敷地になっており、まさに「台地」の字を当てるに相応しい場所である。大きさは東西60m×南北80mを数え、北東側が
斜めに削れた台形平面。敷地の北側は沼地であったとみられ、それを除いた東~南~西面は幅2~3m・深さ1m程度の水堀で
守られていた。虎口は南面に1箇所のみ開き外部と土橋で連結、四周は全て土塁で囲まれた単郭方形館なのだが、発掘調査は
行われていないため、正確な状況は不明とされている。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
甲州逸見郡長坂郷の地に長坂氏が居を構えたのは16世紀頃と言われ、周囲に広がる長坂上条(ながさかかみじょう)の集落を
支配した。光堅は騎馬40騎・足軽45人を率いる足軽大将として武田大膳大夫晴信(信玄)に仕え、武田家宿老・板垣駿河守信方
(いたがきのぶかた)配下として信濃国諏訪郡の経営に当たっていた。郡代に任じられていた信方が1548年(天文17年)2月14日
上田原合戦で戦死した後は光堅が後任とされ、翌1549年(天文18年)諏訪統治の為に高島城(長野県諏訪市)へと入った。以後、
諏訪施政や武田家の北信濃侵攻作戦に従事するようになり、これが元で光堅は後に武田家後嗣となる諏訪四郎神勝頼つまり
武田勝頼との縁を深めていく(信玄4男である勝頼は誕生当初、諏訪家の嗣子とされ現地で養育されていた)。@@@@@@@
「勝頼の奸臣」という評価だけが先行するため、この頃の光堅はあまり取り沙汰されないが、実は武田家臣団の中でも家老級と
位置づけられる高級官僚であり、光堅の嫡男・筑後守昌国(源五郎)は真田弾正忠幸隆の息女と縁組するなど、家中での勢力は
大きかったようである。能吏であるため信玄に重用されたとか、切れ者ゆえ逆に信玄から嫌われていたとか、史書によって評価は
分かれるものの、共通して言える事は有能だったという点であり、外交に於いては遠江国(現在の静岡県西部)の将・天野氏への
使者を務めたり本願寺勢力との交渉役に任じられている。また、軍事では武田家と長尾(上杉)家が戦闘の舞台とした北信地域に
おける諜報や索敵活動を行うなど、戦争に先立つ事前工作を担当していた。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
武田信玄と上杉謙信が一大決戦を挑んだと言われる第4回川中島合戦では、上杉本隊が武田本陣へ斬り込んだ後、撤収しようと
した謙信から放生栗毛(ほうしょうくりげ、謙信の愛馬)を奪い取って乗り回し、とうとう謙信が諦めてしまったという逸話が残されて
いる。この為、長閑斎は “捨て馬拾いの長閑” とあだ名され申した。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
悪評ばかり押し付けられた人物@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
一方、息子の昌国は義信事件(信玄長男の太郎義信が謀反を企て露見、自刃)に連座し落命している。私見だが信玄に嫌われて
いたという評価はここから来ているのではないだろうか。「甲陽軍鑑」をはじめとする武田関連の史書は、往々にして信玄を偉大な
指導者として崇拝し、勝頼を武田家滅亡に導いた暗君として描くことが多いため、 “義信事件で信玄に弓引いた者の縁者” にして
“勝頼の近臣” であった長閑斎はまさに悪役としてうってつけの人物という事になろう。@@@@@@@@@@@@@@@@@@
信玄没後、武田家の家督を継いで織田信長との勢力競争に臨んだ勝頼は確かに信玄以来の旧臣を疎み、気心知れた長閑斎を
傍に置くようになった。そして長篠の合戦において、歴戦の旧臣が唱える慎重論を斥け、血気に逸った主戦論者の長閑斎ら勝頼
寵愛の近臣に惑わされ無謀な突撃を行い、壊滅的被害を出したというのが通説でござる。@@@@@@@@@@@@@@@@
しかし長篠合戦当時、長閑斎は63歳。思慮に欠けた若造が戦の駆け引きも知らずに愚策を推したという年齢でもない。実際の所、
長閑斎には北信地方での戦歴もある訳だから「甲陽軍鑑」は結果論的に「 “暗君” 勝頼に賛同した者=愚将」としているだけなの
だろう。恐らく、長篠合戦の軍議においては攻守両論入り乱れていたが勝頼が負けに繋がる決定をしたが故、それに従っていた
家臣を悪とし反対派を善と結論付けたのだと思われる。当時の武田軍の力からすれば信長との対決を採用しても無理な話では
ないし、勝頼という大将はそれほど愚鈍な人物ではなかった筈である。それに合わせて悪人にされてしまった長閑斎の評価も、
著しく不当なものがあったのではなかろうか。もし長篠で勝利していたならば、こんな描かれ様にはならなかった筈である。@@@
そもそも長閑斎は諏訪以来の功臣なのであり、勝頼に取り入った新参者という訳でもない。こんにち知られている歴史的な通念と
現実の流れとはかなりの乖離が見受けられる。このあたり、源頼朝・頼家に近侍し “鎌倉本體(ほんたい)の武士” と評されつつも
権力独占を図った執権北条氏と対立した事で反逆者の烙印を捺された梶原平三景時の姿に重ね合わせられる。歴史は強い者が
作り上げていくのである。長閑斎は長篠合戦に参戦していなかったと言うのが近年の考察でもあり、だとすれば彼はますます信玄
崇拝論者の被害者だ。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
この後、勝頼は上杉家の家督騒動に乗じた外交を展開、上杉弾正少弼景勝から同盟の謝礼として2万両という大量の金を得た。
これまた「甲陽軍鑑」には長閑斎がそのうちの5000両を着服したと記載されているが、近年の研究でこの説は信憑性に乏しいと
否定的な見解が成されている。武田家に関する話と言えば何かと「軍鑑」が引用されるが、必ずしも全てが正しい訳ではないのだ。
結局、勝頼は信長に追い込まれ1582年(天正10年)に落命、名門を誇った甲斐源氏の嫡流・武田家は滅亡するのだが、 “奸臣” と
された長閑斎は勝頼に殉じて命を絶っている。もし本当に長閑斎が奸臣ならば、勝頼を見限って逃亡するなり織田家への鞍替えを
していた事だろう。ちなみに「甲陽軍鑑」ではこれまた長閑斎は勝頼を見捨てて甲府市内の屋敷に潜伏していた所を織田の軍勢に
捕らわれて討たれたとされているが、他の文書との整合性が乏しく、否定すべき説との事でござる。@@@@@@@@@@@@@
ともあれ、長閑斎が没した為この屋敷も廃絶したようだが、本能寺の変後に東海の徳川家康と関東の北条左京大夫氏直が甲斐の
領有権を争った、いわゆる “天正壬午の乱” にて、後北条軍がこの屋敷地を占拠し、陣地として手を加えたと地誌「甲斐国志」には
記載がある。いずれにせよ1582年以降、この屋敷は元の山林に帰化して現代へ続いたが特に大きな手が加えられた痕跡はない為
1970年(昭和45年)10月1日に屋敷跡は長坂町(当時)の指定史跡になってござる。但し、特に史跡整備が行われた訳でもないので
現状では風化も著しい。敷地内に立ち入っても藪化が激しく、うっすらと残る堀や土塁の痕跡を見つけるのはかなり難しい事だろう。
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