甲斐国 勝沼氏館

勝沼氏館跡 水路遺構と土塁・郭跡

 所在地:山梨県甲州市勝沼町勝沼字御所
 (旧 山梨県東山梨郡勝沼町勝沼字御所)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆
★★☆■■



武田一門衆の重鎮・勝沼氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
甲斐武田家の親族衆、勝沼氏の城館跡。武田陸奥守信虎(徳栄軒信玄の父)の同母弟である次郎五郎信友が1520年
(永正17年)頃この地に入部し、勝沼氏を称した事に始まるとされている。但し、館跡の発掘調査によればそれに先立つ
15世紀の時点で既にこの館は存在していたと思われるので、信友は旧来からあった勝沼氏の名跡と館を継承したものと
考えるのが妥当でござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、勝沼氏を名乗った信友は甲斐統一に執念を燃やす兄・信虎に忠節を誓い、抜群の働きを為していった。丁度
この頃、郡内(ぐんない)地方(甲斐東端部、現在の大月市〜都留市周辺)の小山田(おやまだ)氏が武田氏に服従して
おり、信友はその監視役として勝沼の地を領有したと言われる。また、1520年造営の岩殿七社権現や1526年(大永6年)
造営という境川村石橋八幡社の棟札にそれぞれ名前が記されており、信友が領国統治に大きな力を持っていた様子が
伺える(寺社への供託は統治者の威勢を示す意味があった)。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
何より、勝沼という場所は武蔵国(現在の東京都・埼玉県と神奈川県の一部)や相模国(神奈川県の残り部分)に対する
備えとなる拠点であり、そこを任された信友という人物は(とかく武力一辺倒と評される武田信虎の治世にあって)甲斐の
経営に文武両面から功績があったと推測できるのである。だが彼は1535年(天文4年)8月22日、山中湖畔における北条
左京大夫氏綱(相模国主)軍との戦いで惜しくも戦死してしまった。このため、勝沼氏の家督と館はその嫡子である五郎
(丹波守)信元が継承。6年後の1541年(天文10年)6月、武田信虎が甲斐国を追放され、主家である武田家も大膳大夫
晴信(後の信玄)に代替わりしたため信元は晴信の御親類衆として重きを成す事になり、250騎を率いる部将となった。
従兄弟にあたる晴信の命を受け信元は各地を転戦し、1542年(天文11年)10月の信濃大門峠合戦、1546年(天文15年)
10月の笛吹峠(上信国境)合戦、1547年(天文16年)10月に起きた海野平合戦、1550年(天文19年)8月の深志(松本)城
(長野県松本市)攻略戦、1553年(天文22年)5月における小笠原氏との戦い(信濃桔梗原合戦)、そして日本史上名高い
川中島合戦などに従軍している。その活躍は武田家の軍記である「甲陽軍艦」や「高白斎記」に記されていた。■■■■
されど1560年(永禄3年)11月3日、信元は謀反の疑いをかけられ信玄から命じられた山県三郎兵衛尉昌景に誅殺されて
しまう。武田家の宿敵・上杉氏に仕える武蔵国秩父の藤田氏へ内通した為と言われている。勝沼一族は殆どが討たれ、
勝沼氏は断絶。この後、勝沼氏館も廃され申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

発掘調査の結果、国史跡へ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以来400有余年、跡地は風雪に晒されていたものの、館の主体部は地誌「甲斐国志」や「甲斐国古城跡志」の記載により
“御所”の地に相当する事、それに加えて二重の堀や「太鼓櫓」と呼ばれる高台がある事が古くから知られていた。また、
1970年(昭和45年)には古銭250枚が出土していて、館跡は荒らされる事もなく地元で静かに放置されていたようだ。■■
ところが1973年(昭和48年)になると、この場所に山梨県立ワインセンターが建設される計画が持ち上がる。よって、工事
着工に先立ち山梨県教育委員会は5ヶ年7次に亘り発掘調査を行った。その結果、建物跡や門跡の他、水溜・溝・土塁・
小鍛冶状遺構等が検出された上、土器・陶磁器・硯・漆器・刀装具・鉄砲弾・箸・鎚・臼・毛抜・農具・六器台皿(宗教器具)
など多くの遺物が出土。館の改修は層序や溝、建物跡の重複関係によって約3期に及ぶ事が確認された。内郭拡張の際
土塁内側を削っており、それに対応して外側に土塁を設けた事が外側土塁下の生活面によって確認されてもいる。■■
内郭の構造の変遷のみならず、それが館の拡大と連携して把握することができる貴重な遺跡と明らかになり、結局、県立
ワインセンターは主郭部を避ける位置に建てられ、館跡は1981年(昭和56年)5月28日に国の史跡に指定され申した。
なお、史跡指定の範囲は発掘調査によって城館の構造や変遷を知る上で重要な遺構が残存している事の確認が取れた
内郭部御所を中心とし、東に隣接する水上屋敷及び鬼門鎮護に相当する尾崎名神までとされているが、御所北西には
御蔵屋敷・奥屋敷・加賀屋敷・御厩屋敷・工匠屋敷・長遠寺(信友の法名は長遠寺殿)等の地名や曹洞宗祐徳山泉勝院
(信友夫人開基)があり、広大な領域に遺構が広がっている可能性もあると言う。■■■■■■■■■■■■■■■■
勝沼氏館は日川の断崖を利用して築かれていて、対岸には東西に往時の街道(慶長以前の甲州街道)が、また館のすぐ
西を南北に鎌倉脇往還が通る当時の交通の要衝であり、武蔵・相模方面への警固・連絡的役割を担っていた。現在でも
日川の流路は変わらず、山梨県道34号線の新祝橋なる橋が架けられた脇に館跡があるので、それを目印に訪れるのが
良いだろう。主郭部の標高は418m、東西90m×南北60mの規模で、北側と東側に内堀が見られる。それを取り囲むように
外郭が構えられ、ワインセンターの建物が建てられた部分以外がほぼ完存し、大変良く整備された史跡公園になっている。
敷地内には礎石建物が23棟(そのうち、内郭に15棟)あったとされ、それらの場所には柱位置が分かるような平面展示が
されている他、堀・土塁・木橋・建物の礎石等が復元されている。中でも大変特徴的なのが水周りの施設であり、館址の
脇を流れる深沢用水から館敷地内に流水を引き込み、その水路に堰門や分水路、排泥処理溝などを置いた水路式浄化
施設が残されている。加えて、深沢用水からの流れを2槽の石組水槽(受水槽と沈殿槽)に溜め、飲料水の浄化を行った
水槽式浄化施設もある。発掘調査による編年観察によれば、勝沼氏館内においては一時期井戸が掘られていなかった
時代があったようで、これらの水質浄化施設が館の水利を確保する為の重要な役割を担っていた事が推測できる。■■
さらに注目すべきは、雨水処理も高度に計算されていて、汚濁の原因となる降雨排水はこうした水質浄化施設には流れ
込まないよう、敷地内に傾斜を設けて側溝から排出されるようになっていた。戦となった時に外部から水の手を断たれる
(水止めや毒物の流入)危険性もあろうが、これほど先進的な用水施設を戦国時代に使用していた事は注目に値しよう。
その他、敷地内では庭園遺構も検出されており、「武田家親族衆の城」として勝沼氏館が快適な居住空間を確保していた
事は間違いないようでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
余談ではあるが、勝沼氏滅亡に際して信元の妹は嫁ぎ先の雨宮家から離縁され真言宗柏尾山大善寺(甲州市内)に入り
尼となる事を余儀なくされた。理慶尼と称した彼女は余生を静かに暮らし「理慶尼記」と呼ばれる記録を書き残していたが、
勝沼氏滅亡から22年後、今度は武田家が滅亡する時がやってくる。織田信長に攻め立てられ安住の地を失った武田四郎
勝頼(信玄4男、武田家最後の当主)が東へ落ち延びて来るや、彼女は一夜の宿を提供したという。勝沼一族の仇敵として
武田家当主への怨みは如何ばかりであったか理慶尼の心中を察する術はもはや無いが、勝頼一行はこの夜の数日後に
自刃。甲斐源氏の名門・武田家は歴史の彼方に消え去ったのである。その記事を書き残している事から、「理慶尼記」は
「武田勝頼滅亡記」とも呼ばれている。諸行無常。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡








甲斐国 於曽屋敷

於曽屋敷跡 土塁

 所在地:山梨県甲州市塩山下於曽元旗板
 (旧 山梨県塩山市下於曽元旗板)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★■■■
★★☆■■■



分厚い土塁が囲む単郭居館■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「おぞやしき」と読む。於曽氏館とも。現地の豪族・於曽(於曾)氏の居館。見事な土塁が四方形に巡る事から、土手屋敷と
言う俗称も付けられている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「於曽」の地名は平安時代の辞書「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」の中に山梨郡の郷名として記されており、律令制
時代から於曽郷(現在の塩山市上於曽・下於曽)が朝廷に認知されていた様子が分かる。その朝廷に仕えた在庁官人の
三枝(さいぐさ)氏から於曽郷の支配を行う者が現れ、三枝守国の3男・守継(もりつぐ)が「隠曾ノ介(おぞのすけ)守継」を
名乗り於曽氏が成立したと見られている。ただし、この三枝系於曽氏は1162年(応保2年)近隣にある八代荘を巡る争いで
弱体化しており、この館を築いた家系となる於曽氏の流れはもっと後のもののようだ。甲斐国は源平合戦の時代から甲斐
源氏が支配する地となり、加賀美信濃守遠光(かがみとおみつ、甲斐源氏始祖・新羅三郎源義光(よしみつ)の孫)の4男・
四郎光経(みつつね)や5男の五郎光俊(みつとし)が於曽姓を名乗っている。恐らくは三枝系於曽氏が没落しその名跡を
襲ったものと見られる。この加賀美氏系於曽氏始祖である光経や、その子である四郎太郎遠経(とおつね)が居館にしたと
伝わるのが、ここ於曽屋敷の創始と考えられている。当然、年代的には鎌倉時代の事である。■■■■■■■■■■■■
現状の実測によれば、館の敷地は南辺82m/北辺96m×東辺109m/西辺121mと言う変形長方形を見せている。数値には
偏りがあるものの、所謂「方一町」つまり約100m四方の四角形をした典型的な鎌倉武士の館に当て嵌まるものだ。四周は
土塁で囲われ、その高さは約3m×褶(ひらみ、上底幅)1.6m/平面幅2.7m、敷(しき、基底部まで掘り下げた幅)は10.6mに
及ぶとか。現在では一部が崩され、周囲にあった堀も概ね埋められた状態だが、往時は堀が2重で取り囲んでいたとされ
外縁にも土塁が巡らされていた事になる。そこまで含めると館敷地は東西112m×南北153mにも達する大掛かりなもの。
内土手と外土手の間にある堀は川として流れていた。江戸期に作成された古絵図によれば、虎口は南と西に開いていた。
館の所在地である小字(あざ)名「旗板」は甲州弁で「はていた」と読むそうだが、つまりは「はた」「いた」、屋敷を取り囲む
土塁上には旗指物が並び、板塀が建てられていた様子を物語る。土壁や漆喰の塀でないあたりに、鎌倉武士の居館たる
素朴さと剛毅さを垣間見せる地名だと言う事が分かる。上記した勝沼氏館は内部を細かく区画分けしていたが、こちらの
於曽屋敷は単郭方形館と言うのも、鎌倉武家居館らしい特色だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

戦国の炎に焼かれ、それでも現代まで現役■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
山梨県甲府市にある時宗稲久山一蓮寺の点鬼簿「一蓮寺過去帳」・戦国時代の年代記「妙法寺記」・甲斐武田家の家臣で
ある駒井高白斎政武(こまいまさたけ)が記した日誌「高白斎記」などに於曽氏の名があるので、鎌倉時代から戦国期まで
この館が使われたのは確かなようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、その戦国時代に甲斐を治めたのが武田晴信(信玄)だが、彼の傅役にして武田家の宿老であった人物に板垣駿河守
信方(いたがきのぶかた)がいる。信方は晴信が独り立ちする頃に戦死してしまい、名門・板垣家の家督は嫡男の弥次郎
信憲(のぶのり)が継いだ。ところが信憲は不行状が多く、板垣の家督を晴信から剥奪され処分された。そのため、板垣の
家は信方の娘婿である於曽左京亮信安(のぶやす)に1558年(永禄元年)与えられた。よって、於曽氏と板垣氏は同族化し
信安は「於曽殿」とも「板垣殿」とも称されるようになる。また、於曽一族の中からも板垣姓を名乗る者が出た。■■■■■
後に信安は武田所領の各地を転戦し上野国箕輪城(群馬県高崎市)へ居を移している。信安の跡を継いだ嫡子の修理亮
(信形?)も彼の地に根付いた。一方、主家である武田家は信玄没後に四郎勝頼が継ぐも、1582年(天正10年)3月に織田
信長に攻められ滅亡する。この時、甲斐へ乱入した織田軍により於曽屋敷も落とされ、留守を預かっていたと見られる板垣
権兵衛(信安に繋がる者であろう)は館の傍らで自害した。館は焼け落ち、於曽一族は四散逃亡を余儀なくされている。なお
上州に赴いていた事が幸いしたか修理亮は武田家滅亡後に真田家へ仕え、後裔は加賀前田家の家臣に取り立てられた。
板垣権兵衛の切腹石と伝わる大岩がある事から、戦国時代まで於曽屋敷は板垣(於曽)一族が入っていたと考えられるが
肝心の主である板垣修理亮は上州へ赴き不在。一方で武田家が統治した戦国期の甲斐と言えば金山、金鉱衆の存在が
欠かせず、於曽周辺には彼らの邸宅が多く存在し、また金の精錬所もあった事から、於曽屋敷もこのような金山関係者の
役宅であったとも考えられている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ではその後の屋敷がどうなったかと言う話を。武田を滅ぼした信長も直後に本能寺で討たれ、甲斐は混乱の坩堝と化すが
生き残った於曽一族は難を逃れるべく、萩原山(現在の甲州市塩山上萩原近辺)に隠れ住んだと言う。やがて徳川幕府が
甲斐を直轄地として統治すると、その懐柔策に安心して元の屋敷に戻った。ただし、戦国乱世の頃に用いた於曽姓は憚り
母方の姓である廣瀬姓を用いるようになったそうだ。故に、現在も屋敷地には末裔の廣瀬家が御在住でござる。■■■■

発掘調査、そして美麗な公園へ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その廣瀬家は1974年(昭和49年)、31代目当主の廣瀬久忠氏が屋敷地の東半分を塩山市(当時)に寄贈して下さった。
これにより市有地となった館跡東半分は公園化される事になるが、それに伴って1985年(昭和60年)9月に県教育委員会が
発掘調査を行っている。現状、廣瀬家の出入口(土塁を割っているので虎口状になっている)は南面を向いているが、当時
南虎口(恐らく大手口であろう)はそこよりも12mほど東側に開かれ、その前には土橋があったと確認。また、土橋の対岸
(川となっていた内堀の外側)には柵列が並び、土橋を塞ぐ位置には掘立柱建物で間口3間(以上)×奥行2間の門建築と
思われる痕跡が検出された。この建物の南側には版築による幅5m余の土塁が東西に延びていた。これが外縁土塁であり
於曽屋敷の構造が江戸時代の絵図面とほぼ一致する事が判明している。出土物としては土師質土器があり、鎌倉時代を
創始とする館の歴史に矛盾しない。発掘は2016年(平成28年)公園駐車場造成時にも行われ、その折には土塁の外側でも
建築物の柱穴と見られるピットや石組遺構が発見された。この石組遺構は川原石である円礫を3〜4段に平積みしたもので
半地下式の貯蔵庫だったと考えられている。館の曲輪より「外側」にも、様々な施設が広がっていたのである。■■■■■
残存する土塁は東〜南〜西面は内側の土塁、北面は外土塁なので、微妙に繋ぎ目が判り難い。ただ、それを眺めるのも
なかなか楽しいものである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
公園造成時に館内部の平面が均され、往時は3段ほどの段差があったと言う構造が埋められ(削られ)てしまったようだが
それでも土塁は大半が綺麗な状態で残されており、一部は復元(当時の高さに戻した)され非常に見易い状態で良い。なお
屋敷跡は1963年(昭和38年)9月9日、山梨県の史跡に指定されており申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
場所はJR中央本線の塩山駅から南へ約250m。駅から歩いて行ける“駅近物件”であるが、細道を通り、民家の間を抜けて
行かねばならず、位置が分かり難い。塩山駅南口近辺には「塩山駅西」と言う山梨県道38号線と同34号線の交差点、また
「塩山駅前」と言う駅前ロータリーの出口交差点があるのだが、後者の「塩山駅前」交差点から南へ進むのが一番確実だ。
この道は入った途端に屈曲し劇的に細くなるので一抹の不安を抱かせるが、信じて道なりに進めば「下於曽のモミ」と言う
市の天然記念物に指定された大樹が現れ、その向こうに於曽公園(屋敷跡)がある。この目印を見落とさないよう注意。
公園化されているので、駐車場も用意されている。古い内容の城郭系紹介頁だと、屋敷の「南側」に数台の駐車場があると
書かれている事が多いのだが(それはそれで正しいのであるが)、そこへ入る道がこれまた非常に難解。実際の駐車場も
公園のものなのか、はたまた個人宅や月極駐車場なのか分からない箇所が混在しているので注意が必要なのだが、先に
記した「下於曽のモミ」の前に新しい公園駐車場が用意された(2016年の発掘はここの整備に伴うもの)ので、そちらを利用
する方が安全確実だろう。とは言え、そこへ行く道も(先述の通り)細道なので運転にはくれぐれも御注意を。付け加えると
これまた先に紹介した如く屋敷地の西半分は今も廣瀬家の私有地であるので、節度のある見学に配慮されたし。■■■■
何だか注意書きだらけになってしまったが、遺構そのものは非常に素晴らしいのでオススメの館跡である事は間違いない。



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は県指定史跡








甲斐国 小山城

小山城跡石碑

 所在地:山梨県笛吹市八代町高家
 (旧 山梨県東八代郡八代町高家)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★★■■■
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分厚い土塁が囲む単郭城郭■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
八代町高家(こうか)にある古城。読み方は「こやまじょう」。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
浅川扇状地北端を流れる天川(てかわ)に面した河岸段丘上にあり、城の北には鎌倉街道、西には若彦路(わかひこじ)が
通じているため、甲府盆地を睨むに適した位置である。周辺が傾斜地になっている中、方形館を思わせる地取りが為され、
分厚い土塁が築かれている。その大きさは1辺約100m、土塁の高さ3m〜5m、底辺の厚み約15m。概ね戦国期土豪居館の
典型例だ。縄張りとしては単郭、東面中央部分に平虎口を開いており出入口の幅は3.6mを数える。また、南面にも同様の
虎口を切っていて、こちらが大手と考えられており申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
土塁の外周、北面は急傾斜地で隔絶しており、東面には幅8m、西南面には幅15m、深さ2m〜3m程度の堀が掘られていた。
東隅以外の3方は堀に突き出るような形状となり、その上面が平坦に整地されていた事から(北隅には礎石も検出)櫓台と
考えられる。土塁の内部、すなわち曲輪内は現在公園化(運動場か?)され平らになっているが、かつては段差があり土塁
基底部には石積みもあった。また、土塁から10mほど北に位置する場所に物見塚と思われる隆起があり、地元の通称では
「ごんばち塚」と呼ばれていたそうな。現地案内板によれば、城跡の面積は1万2046uとの事。■■■■■■■■■■■■
現状、城の周囲は畑作が為され土塁は部分的に欠損。公園化で手を加えられてもいて、御世辞にも「保全されている」とは
呼べる状態ではなく「放置」と言った感じ。それでも、土塁ははっきりと見て取れ、堀の名残も見受けられる事から1973年2月
20日、当時の八代町(現在は笛吹市)史跡に指定されている。分厚い土塁の山はまさしく「小山」の城でござろう。■■■■

甲斐統一までの“火種”■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その歴史を遡ると、城の創建年代は不詳ながら1450年(宝徳2年)の時点で穴山伊豆守が居住しており、小石和にある武田
三郎信重(のぶしげ、甲斐武田氏11代目当主)の館を攻めたと伝わる。穴山氏は武田氏にごく近い縁戚衆であったが、家督
相続に関する仕置きに不満を持った伊豆守は主君にして甲斐守護職にある信重を襲ったのである。この攻撃で信重は敗退し
自害(討たれたとも)。以後、甲斐武田家は左京大夫信縄(のぶつな)・信虎親子の登場まで衰退期を味わう事になったので
ござる。しかし一方で武田宗家の館と小山城は密接した関係にあり、小山城の起源は武田氏の本城として使われたものだと
見る説もあるのが興味深い。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて小山城のその後だが、伊豆守の後裔である穴山伊予守信永(のぶなが)が1504年(永正元年)頃に居城としていたという。
その信永は1523年(大永3年)3月、鳥坂(とりさか)峠(旧芦川村から八代へ抜ける道)を越えてきた南部下野守宗秀の軍勢と
花鳥山(はなとりやま、小山城の南南東にある丘陵地帯)で交戦、更にこの城で防戦したものの衆寡敵せず敗北。二之宮の
臨済宗光明山常楽寺で自害した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その結果、小山城には宗秀が入る。当時の甲斐守護は武田信虎(晴信の父)だ。内憂外患で国内の基盤を固めたい信虎は、
宗秀を小山城代として認めこの争乱を決着した。が、宗秀という人物はとかく悪評の絶えぬ者であった為、晴信の代になった
後の1548年(天文17年)乱行を理由に甲斐国を追放された。宗秀は陸奥国会津まで流れ、そこで餓死したという。■■■■
この騒動で、小山城は廃城となる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

天正壬午の乱で再利用■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この城に再び脚光が当てられるのはそれから30余年後の事。信玄(晴信)は甲斐を強国に育て上げ、信濃や駿河までも併呑
したが病に没し、跡継ぎの勝頼は更なる進出に野望を燃やすも失敗、織田信長の兵に破れ遂に武田家は滅ぶ。その信長も
本能寺に斃れ、甲信が無主の国となった1582年(天正10年)甲斐国の領有を懸けて東海の太守・徳川家康と関東の雄・北条
左京大夫氏政が対立。いわゆる「天正壬午の乱」で甲斐国内各所に両者の軍が入り乱れる中、小山城跡には徳川の武将で
ある鳥居彦右衛門尉元忠と三宅惣右衛門康貞が布陣したのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
近隣の御坂(みさか)城(山梨県南都留郡富士河口湖町/笛吹市)には北条新九郎氏直(氏政の嫡男)が、都留郡には北条
左衛門佐氏忠(氏政の弟)が陣を敷いていた為、防備の増強を必要とした元忠は小山城を修築し、騎馬130・雑兵600を以って
守りに当たったのだった。現在に残る大がかりな土塁はこの時の遺構でござろう。新府城跡(山梨県韮崎市)に本陣を置いた
家康の背後を衝こうとした北条氏忠は甲府盆地へ進軍しようとしたが、これを察知した鳥居元忠が城を出て迎え討ち、同年8月
12日に黒駒(小山城の東方)で交戦する。結果、後北条軍は押し戻され、この後に両家の和議が成った為、以後に小山城が
用いられる事は無かった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は市指定史跡




若神子城周辺諸城館  笹尾塁周辺諸城館