甲斐国 若神子城

若神子城跡 復元狼煙台

 所在地:山梨県北杜市須玉町若神子
 (旧 山梨県北巨摩郡須玉町若神子)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★☆■■■
★☆■■■



武田家軍事ネットワークの拠点■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
武田信玄が整備した有名な軍用道「棒道」の起点となっている城。とは言え、城の創建は棒道の整備より
遥か昔に遡る。平安時代末期、後三年の役の功により甲斐源氏の始祖・新羅三郎義光が甲斐守となって
館を構えたとされる。この説に確証はないが、周囲を眺望できる断崖と言う立地にあれば、古い時代から
城砦が構えられていたのは間違いないだろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国期になると、武田信玄が甲斐から信濃へと侵攻する際の軍事拠点として多用される事となる。■■■
山城としては比較的大規模な縄張りを有するようになり「古城」或いは「大城」と呼ばれる遺構を中心にし
東に北城、湯沢の西に南城の3箇所からなる連郭式城郭として整備された。城山の周囲は全体的に隔絶
した絶壁となっているため視界も良く開けており、狼煙台としての機能も併せ持っている。城の北向きに
狼煙台が置かれ、獅子吼(ししく)城(下記)への連絡が行われていた。これも有名な話だが、狼煙の伝達
速度は時速に換算して50km/h程度あったと言い、信玄が整備した狼煙中継路は信州からの軍事情報を
いち早く甲府へと伝える事ができた。その中継路の一端を担うのが、ここ若神子(わかみこ)城だった。
よって、この城は甲府から信濃・佐久口への軍事・情報・物資の集積拠点となり棒道の起点になったのだ。
武田軍が信州方面へ出陣する際、甲府を発った後に若神子城で陣立を行い進軍するのが通例となり、
1542年(天文11年)の伊那・高遠攻めや、翌1543年(天文12年)佐久・大井貞清攻め、1550年(天文19年)
林城(長野県松本市)攻め及び対村上義清戦、1551年(天文20年)戸石城(長野県上田市)の攻略・佐久
平定戦、1553年(天文22年)の塩田城(同じく上田市)攻撃などで若神子城が経由されている。■■■■■

後北条氏が改修?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
時代が下り、1582年(天正10年)になると甲斐国は激変を迎える。武田氏は織田信長により滅ぼされ、その
信長もまた本能寺で横死した為、甲信地方は治める者が居なくなる空白地になってしまったのだ。この隙を
衝き、駿遠に勢力を拡大していた徳川家康と関東の覇者・北条左京大夫氏直が甲信の領有を図って対立。
家康は新府城(山梨県韮崎市)に本陣を置き大軍を展開、一方で北条軍はこの若神子城に拠点を構えた。
地誌「甲斐国志」によれば「若神子、多麻庄ニ属セリ。天正壬午八月ヨリ北条氏直本陣ヲ居キシ処…」とある。
徳川と北条が睨み合ったこの対立を天正壬午の乱と呼び、80日間に及ぶが、その折に若神子城の防備を
増強すべく北条軍は城内に新たな空堀を掘削する。この堀は薬研堀(やげんぼり)の断面で、後北条流の
築城術に特徴的な直線構造だ。しかし構築途中で両軍に和議が成立。甲斐の領有権は家康の手に渡り、
後北条軍は若神子城を退去、薬研堀は完成せぬまま放棄されたのでござった。■■■■■■■■■■■
この後、若神子城は廃城となった為(薬研堀を含め)城跡は風化。現在は北杜市(旧須玉町)ふるさと公園と
なっており、発掘なども行われたが大がかりな遺構の復元などは行われておらず、「風化したままの保全」と
いった感じになってござる。そうした中、北条氏の薬研堀部分には解説の目印が置かれ、検出された遺構が
幅1m・深さ1.2m・長さ10m程度の規模だった事が分かるようになっている。また、この薬研堀には(後北条流
築城術に顕著な)畝の痕跡?と思われる隆起部分が見て取れるのが興味深い。この他、発掘調査に拠れば
主郭部東端から厚く焼土が堆積した跡が発見され、南端からは見張台跡と思われる柱穴も検出されている。
ともあれ、明瞭な復元こそされていないものの、城域は全体的に土塁や堀、曲輪の残骸と思われる起伏が
見て取れ「想像力に任せた」見学をする事になる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、公園整備に伴って狼煙台も再現されたが、これは江戸時代の絵図面を元にした「つるべ式狼煙台」と
呼ばれるもので(写真)戦国時代に武田氏が用いた物に合致するかは不明だ。しかも経年劣化により腐食し
現在、この狼煙台は撤去されてしまった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
国道141号線「西川橋西詰」交差点から西に向かい、山梨県道28号線のつづら折を登った先に城跡がある。
旧須玉町域内には1875年(明治8年)に建てられた擬洋風建築の旧津金学校(現在は須玉歴史資料館)や
獅子吼城があり、何かと歴史に関連した散策が楽しめる場所だ。なお、若神子城址は1988年(昭和63年)
3月18日に須玉町(当時)史跡に指定されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は市指定史跡








甲斐国 獅子吼城

獅子吼城址石垣

 所在地:山梨県北杜市須玉町江草
 (旧 山梨県北巨摩郡須玉町江草)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★★★■■
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この地域では珍しい石垣の城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ししくじょう、と読み申す。地名から江草(えぐさ)城とも。地元では城山と呼び習わされていると言う。■■■■
斑山(まだらやま)と金ヶ岳(茅ヶ岳支峰)に挟まれた塩川流域に屹立する比高80m程の小峰を利用した山城。
塩川沿いには増富へと通じる小尾街道(現在の山梨県道23号線)が走り、それは信州佐久へ繋がる裏街道と
なっている。この道と江草集落を監視・防衛し得るに適した標高788.4mの山頂からは結構な眺望が開けており
そこを主郭とした城は山を下るにつれていくつもの曲輪が段を成している。■■■■■■■■■■■■■■■
この城で何より圧巻なのは、こうした曲輪群を固める石垣の存在。写真にある通り、ひと目で石垣と分かる石の
列が幾重にも並んでおり、土の城が大半を占める甲斐の戦国期城郭の中で特に異彩を放っているのである。
これらの石垣は、ほとんどが平石を積み重ねた甲信地方特有の積み方となっていて、織豊系城郭の石垣とは
一線を画した在地系技術によって作られたものだと判断できよう。また、直近の山へと至る東側の尾根筋には
2箇所の堀切が切られており、そのまま竪堀となって両側の谷へ下ってござる。■■■■■■■■■■■■■
平安時代、この地方は馬の産地であり、勅旨牧(ちょくしまき)たる穂坂牧(ほさかまき)を擁していた。■■■■
勅旨牧とは、軍馬を育成する朝廷直轄の放牧場の事。こうした中で獅子吼城の起源を遡れば、牧を統括する
牧監(もくげん)の置かれた地とされている。さらに時代が進むと、城跡の北東、塩川の畔にある臨済宗集雲山
見性寺の寺記に「元応二年五月四日夜、獅子頭にて信田小右衛門実正・小太郎実高討死」とある。元応2年は
西暦で1320年、鎌倉幕府が滅亡する13年前だ。獅子頭と記されるのが獅子吼城を指しており、元寇以後統治
能力を衰退させた鎌倉幕府の混乱期にこの地では既に戦火が灯されていたと思われる。但し、後醍醐天皇が
倒幕計画を練るのが1324年(正中元年)の事なので、この戦いは幕府打倒に直結する戦いではないだろう。

武田一族が入るも…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そして武田系譜によると応永年間(1394年〜1428年)、武田安芸守信満の3男がこの地に入り地名から改姓し、
江草兵庫助信泰と名乗って居城とした、とある。信泰は25歳の若さで没し見性寺に位牌と木造が安置された為
新たな城主として逸見系の今井氏が入った。武田氏・逸見氏は始祖を同じくする同族(谷戸城の項を参照)だが
今井氏の起源を信泰の弟・左馬助信景に求める説もある。ともあれ、信泰の遺領を継ぐのは信景の子にあたる
信経(即ち、信泰の甥)の代であるが、以後今井氏は累代に渡って信泰の官途名である兵庫助を受け継いだ。
かくて今井氏の城となった獅子吼城。信経の後、信慶・信是・信元と代を重ねて国人領主化するが、その実力は
いつしか武田宗家を脅かすほどになるのである。群雄割拠の時代にあって武田宗家が同族内からの離反者を
出した為に自ら衰退した事も理由として挙げられるが、いつしか今井領は甲斐守護たる武田家からの不入権を
獲得し、自立できる程になっていた。だがそれでも今井氏は武田家に従属し続けてはおり申した。■■■■■■
そんな中、武田家の機運を盛り返す人物・左京大夫信虎(大膳大夫晴信(徳栄軒信玄入道)の父)が登場する。
信虎は抗争する同族や国人を次々打ち倒していき、それまでバラバラであった甲斐の統一を図っていく。当初、
今井氏もこれに従って勇戦していた。ところが信虎は隣国・相模の後北条氏を牽制する外交政策を採ったので
武蔵の扇谷(おうぎがやつ)上杉氏との同盟に傾く。されど戦国の機運醸成される中、新進気鋭の後北条氏を
敵に回し、没落傾向にある扇谷上杉氏との連携は“その場凌ぎ”的な政策であり、先行きに利の薄かろう事は
明らかである。これを見越した今井信是・信元父子は、他の甲斐国人衆らと図って一斉に反旗を翻した。この
叛乱に諏訪地方(長野県諏訪市)の領主・諏訪氏も同調し甲斐へ侵攻、信虎は窮地に立たされる。■■■■■
1530年(享禄3年)に始まったこの兵乱は当初、諏訪軍の攻勢によって反乱軍優位に事が進んでいたのだが、
翌1531年(享禄4年)2月2日と3月3日の合戦で信虎軍は反乱軍に大打撃を与え、形勢逆転する。遂に1532年
(天文元年)9月、獅子吼城に籠る今井信元は信虎率いる兵3000の攻撃を受けて開城降伏、叛乱は幕を閉じ
信虎悲願の甲斐統一が成った。この様子は河口湖地方を中心に編纂された甲斐の史記「妙法寺記」の中にも
「終二浦信本劣被食候而屋形へ降参申候。去間城ヲ屋形へ渡シ申候而、ヒサシタニ御ツメ被食候云々」とある。
浦は今井氏の別称、信本は信元の事で、要約すれば「遂に今井信元は屋形(君主の事、信虎を指す)に降参、
 居城を明け渡し退去、その被官として膝を屈した」という事だ。その一方、武田家の日誌「高白斎記」に拠れば
1509年(永正6年)10月23日「小尾弥十郎江草城ヲ乗取」とある。今井氏の統治時代から既にこの城は何度かの
争奪戦が繰り広げられていたのであろうか。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

武田氏の隆盛と滅亡■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、信虎の甲斐統一後に武田家の家督は晴信が奪取して諏訪氏を降す。後北条氏との関係も修復され、
いよいよ磐石の体勢で武田の軍勢は信濃攻略に乗り出していく。こうして棒道と烽火通信網が整備されたのは
上記(若神子城の項)の通りなれば、獅子吼城も近隣城郭との烽火中継点として大いに活用されるようになった。
現地案内板には、当城からは塩川上流にある大渡の烽火台・比志城・前の山烽火台、更に甲信国境の信州峠、
西には中尾城・若神子城、南に大豆生田(まみょうだ)砦(いずれも北杜市内)・能見城(山梨県韮崎市)・新府城
等まで遠望できると記されている。また、武田氏の財源を賄ったのが甲斐国内にある金山の鉱脈であったが、
上記した斑山もこうした金鉱を有する山であり、その防備拠点としても獅子吼城は重きを為していたようだ。■■
されど信玄の死後、長篠合戦に大敗した武田四郎勝頼の領国政策は瓦解。南信州から攻め上がる織田信長の
軍勢に対する防衛網は破綻を来たし1582年3月、武田家は滅亡した。その信長も同年6月に京都本能寺で落命、
無主の国となった甲斐は徳川家と後北条家による草刈場と化す。この「天正壬午の乱」において獅子吼城には
後北条軍が進駐し、新府城に本陣を置いた徳川家康と対峙した。両軍は3ヶ月の間、甲斐国内の各地で戦闘を
繰り返すが、この間に徳川方は旧武田遺臣を上手く取り込み、劣勢ながら優位に展開する。そして9月、獅子吼
城にはこれら武田家臣だった津金衆や小尾(おび)衆と家康の配下・服部半蔵正成率いる伊賀組が夜襲を掛け、
後北条軍から城を奪い取った。獅子吼城の落城により戦線の維持が困難になった後北条方は和議の道を選び、
10月に両者の間で不戦同盟が締結されるに至る。即ち、獅子吼城の戦いは戦国時代における甲斐国内最後の
戦いであった。よって、天正壬午の乱を以って廃城となった獅子吼城は、以後およそ400年に渡って眠りに就く。
長年の風雪により石垣はあらかた崩れ、曲輪や堀も形を変えたものの、残存状況は良く1988年3月18日当時の
須玉町(現在は北杜市)指定史跡となり申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
江草集落の中、根古屋神社(根古屋の名は城下集落の名残であろう)の裏手にある山が城跡。但し、登るには
神社から直登するのではなく、いったん城山の反対側(東側山麓)へと回り込む必要がある。かなり細い路地
沿いに獅子吼城の説明板が掲げられており、そこから登山道へ入れば比較的容易に山頂まで辿り着ける。だが
その説明板はかなり見つけ難い(困)そもそも、江草集落へ至るにはどうしても車が必要だが、集落内の路地は
どこも細く走行が困難な上、駐車場所がどこにもない(大困)無理を承知で路上駐車する事になるが、生活道路で
あるため訪城する際には周辺住民の方々に十分配慮したいものでござる。■■■■■■■■■■■■■■■
なお、登山道はそれほど急峻ではないので登攀自体に難儀は無いと思われるが、そこかしこに崩落した石垣の
石が転がっているので、転んだり挫いたりしないよう足場には気をつけたい。■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

石垣・郭群等
城域内は市指定史跡








甲斐国 中尾城

中尾城址説明板

 所在地:山梨県北杜市須玉町小倉
 (旧 山梨県北巨摩郡須玉町小倉字中尾)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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諸説入り乱れた来歴、地表に残らぬ遺構■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
中尾塁・中尾砦とも。旧須玉町の小倉(こごえ)地区、ガス供給機器製造会社の山梨工場敷地北側に写真の案内
板がある。八ヶ岳連山を望む広々とした田圃に面したこの看板の下に、かつてあった中尾城の堀が眠ってござる。
小倉地区は北に聳える斑山から南へ延びる細長い尾根がそのまま町域となっている。この尾根は東に塩川が流れ、
西には須玉川があり、2つの川に挟まれた(つまり川で削り残された)地形。尾根の中にある城なので中尾城と言う
由来だそうな。この尾根の東(塩川の対岸)にあるのが屋代氏居館(下記)、同じように西側(須玉川の向こう)には
冒頭に記した若神子城が、そして川を遡り斑山の直下にあるのが上記の獅子吼城や甲斐古宮城(下記)と言う位置
関係にある。川に面する両脇は急峻な崖となっているものの、尾根の頂部は比較的なだらかな平面が続いており、
東西の守りは川崖に依存し、南北正面には堀を切って(尾根平面を横断するので、大規模な堀切と言える)防御を
固めていたと見られている。古絵図を見ると、こうした曲輪は更に内部を細かく区切っていたようで、その図面上には
「本丸・二丸」等の記載がされた4つの区画に分割された主郭群と、その北に馬出状の別郭が附属していた縄張りが
分かる。発掘調査(詳細は下記)において城跡では大きく3本の堀切が認識されたようだが、古絵図に照合するなら
南側から主郭群の南端にある堀(1本目)、主郭群と別郭との間にある堀(2本目)、別郭とその北側城外を隔てる堀
(3本目)と言う事になろう。写真の案内板は3本目の堀上に立てられている事になり、正確に言うならばこの写真は
城域北端から城外を望んでいる構図になる。ただ、現在は後世の新田開発で堀は埋め立てられ、その上に上記の
工場が別郭部〜主郭北域を占位するように建設されており申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の来歴や築城者、城主は諸説入り乱れていて不明である。1915年(大正4年)山梨教育会北巨摩支会が発行した
地誌「北巨摩郡誌」では平安末期の将・武田伊豆守信光(甲斐武田氏2代目)の居城だったとし、戦国時代になると
武田信玄から小幡主計頭又兵衛(山城守虎盛の子)にこの城が与えられたと記述する。「よくみのほどをしれ」の
遺訓で有名な猛将・虎盛の後嗣は又兵衛昌盛だが、昌盛と中尾城主の又兵衛が同一人物の事を指しているかは
分からない。一方で「甲斐国志」巻之四十七に「中尾ノ塁蹟」の解説として「方三十二歩平坦ニ塁アリ高サ弐間許リ
 里人清光時代ノ塁ナリト云ウ」と記し、逸見清光(信光の祖父)が築いたとの伝承を記しているものの、その続きに
「昔シ屯倉ヲ置キシ処カ 又天正壬午ノ時ニ増築セシナラン」と、天正壬午の乱で再構築された可能性を指摘する。
また、先に記した中尾城の古絵図には「甲斐国志」に基づく註釈が入れられているのだが、そこには「丸茂弾正殿
御在城」とあり、丸茂弾正なる者が一時期この城を預かっていたと考えられよう。丸茂氏と言うのは、「甲斐国志」
巻之百十二に「丸茂右衛門尉小倉村、丸茂氏ハ小笠原長清ノ後ヨリ出ヅ 彼ノ譜中ニ見ユタリ 身延、過去帳二
妙道、逸見、小蔵丸茂右衛門尉トアル」とその出自が記され、信濃守護となる小笠原氏の分流と言う事になろう。
信濃守長清(清光の甥)が名乗り始めた「小笠原」の姓は甲斐国巨摩郡小笠原郷に由来し、それは現在の北杜市
明野町小笠原を指す為(山梨県南アルプス市小笠原との説もあり)、その分流が小蔵(小倉)へ伝播する事は十分
あり得る話だ。但し、弾正と言う人物の詳細は明らかで無い。更には、「妙法寺記」で記されている「浦ノ城」がこの
中尾城であるとし、城主は(浦の統治者であった)今井氏と考える説もある。浦ノ城については1519年(永正16年)
1月に浦ノ兵庫(今井兵庫助信是)が武田信虎と戦ったとの記録と、1532年の戦いで「浦ノ信本」つまり今井信元が
「浦ヘコモル」とされているものがある。但し、この「浦ノ城」は獅子吼城を指している可能性もあるので注意。■■■

発掘調査の結果を見てみれば■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
件の古絵図を見るに、別郭が北側に付属しているものの防御に厚い(縄張りが技巧的な)面は南側なので、戦闘
正面は南面と考えられている。故に、発掘調査を行った須玉町教育委員会(当時)は以下のような考察を推測して
ござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
南を敵対勢力として睨む(=北は後背地として味方勢力が押さえている)時代背景にあって、恐らくその敵は塩川
(須玉川はこの城のある尾根先端で塩川と合流している)の向こうから襲来する、そしてそれに備えてある程度の
兵力を軍事動員できる条件に当て嵌まるのは@「妙法寺記」にある今井氏が城主である場合、A「甲斐国志」47巻
天正壬午の乱における構築、の2例が中尾城の規模・構造に合致するものだ、と。天正壬午の乱での築造ならば、
後北条氏による造作であろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
然るに発掘の結果は如何に…と言えば、1983年(昭和58年)6月〜10月に行われた調査では堀の痕跡がいくつか
(写真の案内板にある位置の他、南端部の堀が数条)と平安時代後期の住居痕2軒、掘立柱建物遺構が9棟、竪穴
遺構3箇所、溝が7本、井戸3本が確認されている。出土品は壺・甕・羽釜・坏皿土器・石臼といった生活用具が主で
あったが、井戸底からは木片(栗製)が、北堀からは1つだけだが鉄砲弾も発見された。このうち、平安期の住居痕と
言うのは「甲斐国志」の「昔シ屯倉ヲ置キシ処カ」との一文に合致する。官牧とも何かしら関係があるかもしれない。
堀は圃場整理で完全に均されていたが、昔からの話で田圃の中で馬が足を取られる「ぬかる田」と言う所があると
され(人は埋まらないが馬の重さでは足が嵌まる土中強度という事だろう)、堀跡は見事にその場所と一致した。
ただ、そうした泥田ゆえに発掘中も出水が絶えず、安全確保のため完全な調査は出来なかったそうだ。確認できた
内容に限る話だが、北堀の長さは東西約75m×最大幅9m、現状の表土から堀底までは約2m〜4m程度の深さが
あった。出水があるという事は、城が現役であった当時も川の断崖上にあるこの地に水脈が走り、生活用水は確保
されていたのだろう。この他、主郭部のあたりで掘りかけ?と思しき薬研堀の痕跡を確認。若神子城にある薬研堀と
似た構造物なので、天正壬午の乱で後北条氏が改修したという説に一つの裏付けを与える物証にもなろう。■■■
ただ、発掘の検出物はいずれも時代背景や使用者を特定するに乏しいものばかりで、「ここに城があった」であろう
事は間違いないが、それ以上の決定的証拠は見受けられなかったそうだ。むしろ、新たな古文書などが発見されれば
調査が進展するかもしれない、それが中尾城の現状だと言えるだろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで、写真にある案内板は金属製で耐久性がありそうな物なのだが、表面は風化して何が書いてあるのか全く
分からない状態(かろうじて表題にある事から中尾城の案内板である事だけは分かる)。しかも車が激突でもしたのか
見事にひしゃげていて、実に荒れっぷりが酷い。どうやったらここまですさんだ看板になるんだと、中尾城にまた1つ
新しい謎を投げかけてござる… (ー゙ー; 全然修繕されないようですし■■■■■■■■■■■■■■■■■■■







甲斐国 甲斐古宮城

甲斐古宮城址

 所在地:山梨県北杜市須玉町下津金字御所
 (旧 山梨県北巨摩郡須玉町下津金字御所)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★■■■
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歴代学舎が並ぶ観光地なのだが■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
北杜市役所から真北へ須玉川を遡るように進み山梨県道605号線へ入ると、下津金の集落に辿り着く。津金郵便局の
西150mの位置には「津金学校」と呼ばれる明治時代の小学校校舎が保存され、その隣には大正期の校舎、更に再現
された昭和期の校舎も並び、「三代校舎ふれあいの里」と呼ばれる観光名所となっている。時代毎の雰囲気が感じられ
特に擬洋風建築の明治校舎はそれだけで十分立派な文化財として感銘を受けるのだが、その明治校舎の裏手にある
小山は諏訪神社の境内となっていて、そこがかつての甲斐古宮城跡でござる。なお、古宮城と言えば愛知県新城市に
ある続百名城の方があまりにも有名なので、区別の為にこちらの城には「甲斐」を附ける事が通例のようだ。■■■■
この他に古宮館、古宮屋敷という尊称もある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城主は津金氏と伝わる。津金氏の祖先は常陸の名族・佐竹氏だそうな。甲斐の国主と言えば甲斐源氏の武田氏だが
佐竹氏も甲斐源氏と繋がる血脈で、そもそも武田氏は常陸国武田(茨城県ひたちなか市武田)に在住していた事から
武田姓を名乗り、その後に甲斐へやってきた経緯がある。文明年間(1469年〜1487年)、その甲斐武田家の16代当主・
武田刑部大輔信昌を慕って佐竹流村上源氏の佐竹薩摩守胤義・美濃守胤秀父子が信州佐久から甲斐へやって来た。
信昌は彼らに津金の地を与えたため、津金姓を名乗るようになった。これが津金氏の創始である。甲斐古宮城がいつ
築かれたのかは不明だが、歴代津金氏が本拠としたのは間違いないようだ。彼らはこの地の国人として武士団を形成、
それは津金衆と呼ばれるようになる。古宮城下には佐久街道(現在の県道605号線)が走り、甲斐から北へ通ずる佐久
方面への交通を管掌。また、西に目を転じれば諏訪へも程近く、津金衆は白州(はくしゅう、釜無川南岸部)の武士団で
ある武川(むかわ)衆と共に甲信国境周辺を掌握する重要な地位を確立していき申した。1501年(文亀元年)3月には
信濃で戦い凱旋する武田信虎がこの地に宿を取り、国主の仮泊を祝し「御所」と呼ばれるようになったと、近隣にある
曹洞宗箕輪山養福寺の寺伝にある。故に当地の小字(あざ)名は「御所」である。■■■■■■■■■■■■■■■■

徳川家臣となり八面六臂の活躍!■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし主家である武田家は信虎―晴信―勝頼と代を経た後に滅亡。それを倒した織田信長も直後に本能寺の変で死し
甲斐は近隣大名の草刈り場となってしまった。斯くして天正壬午の乱となり、南から徳川家が、北から後北条家が軍を
進め、両軍は新府城と若神子城を本陣として睨み合ったのは上記の通りだ。戦線膠着となる中で、徳川方が武川衆と
津金衆の調略に手を伸ばし、彼らはこぞって徳川陣営への帰属を表明する。そのため、若神子の周辺に展開していた
後北条軍は背後を突かれる危険性が生じ、対立から一転して徳川との和議に傾いて行くのである。後北条軍は本拠の
関東から信濃を経由して軍勢を回していた事から、甲信国境に通じた武川衆・津金衆が敵対行動を取れば補給が途絶
するだけでなく、撤退の途も閉ざされる危機に陥ると云う訳だ。戦の流れを一変させた武川衆や津金衆は徳川家中で
加増を受け、その後も重用されるようになる。時の津金氏当主・修理亮胤久(たねひさ)は徳川家の戦歴に名を連ね、
第1次上田城攻防戦・小田原征伐・九戸政実の乱平定・第2次上田城攻防戦と、数々の戦に勇戦。徳川幕藩体制が確立
する頃になると、御三家筆頭・尾張徳川家の家臣に編入されている。ただ、それに伴って古宮城を去る事になり、この
城は廃された。以来、跡地は諏訪八幡神社が勧請されその境内として現在に至っている。■■■■■■■■■■■■

類例の少ない「学校と共存する」城址史跡■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
神社のある小山は直径50m程の丸い敷地を有し、北から東へ回り込み南へ向かってススメ久保川(須玉川の支流)が
流れている。川の削り残しといった感じの山は、川面からの比高差20m程。当然、川で隔絶した北東側は自然の守りに
委ねる状態なので、必然的に城の防御遺構は南西側に見る事が出来る。山頂の神社境内を囲うように横堀があった
らしく、現在も特に西面の空堀はハッキリと目にする事が可能。写真にある「古宮の城迹」の石碑の向こうに、明瞭な
堀があって“城マニア目線なら”感激できるだろう。この他、山を下りた(と言う程の高さでは無いのだが)平面上にある
「大正校舎」の地下にも発掘出土した堀が見学できるように展示されている。石碑裏面に記されている説明書きには
城の規模を縦118間(212m)×横65間(117m)、2重の堀を有すと記しているが、恐らくこの大正校舎の下にある堀が
それを指しているのだろう。1997年(平成9年)には発掘調査も行われたそうで、神社に残存する堀の南側延長線上に
それと直交する堀跡が確認されている。この規模からは国人層の居館と言うに相応しい城郭が想定され、津金氏の
本拠城郭とする来歴にも合致する。しかし一方で「甲斐国志」には「烽火台ニ用ユベシ」との記載もあるので、なお詳しい
検証も必要であろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
学校の敷地に転用され(てしまっ)た跡地…と聞くと、ついつい「遺構全滅か」と諦めてしまう例が多いのだが、この甲斐
古宮城は良い意味でその期待を裏切ってくれる(少しだけだがw)。また、城には興味の無い方にも、この「津金学校」は
なかなか可愛らしい古建築なので“山里ののどかさ”を味わうにオススメの観光名所と言える。津金学校があるおかげで
駐車場も完備しているので、むしろこの学校には感謝すべきか?(笑)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は市指定史跡








甲斐国 屋代氏居館

発掘調査時の屋代氏居館址

 所在地:山梨県北杜市明野町上神取
 (旧 山梨県北巨摩郡明野村上神取)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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北信濃の豪族、流浪の苦難■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
屋代左衛門尉勝永こと屋代越中守秀正の居館址。形態としては中世以来の伝統的な方形居館の姿だが、
創建されたのは江戸時代に入ってからの1614年(慶長19年)の事でござる。江戸期に入ってからの構築で
旧態の武家居館を踏襲したものなのは何故か、それにはまず屋代秀正なる人物の来歴から説明致す。
屋代氏は元来、信濃国埴科郡屋代郷に勢力を張る地方豪族である。戦国時代、武田信玄に苦杯を舐め
させた北信濃の雄・村上左衛門尉義清の縁者であった一族で、その所領から屋代姓を名乗ったものだ。
義清に従って武田家の信濃侵攻に抵抗していた屋代氏であったが、精強な武田軍に劣勢となった義清は
遂に国を捨てて越後の上杉家を頼る。一方、屋代氏は国に留まり、領地を守るため主家である村上氏に
見切りを付け武田家の軍門に降った。ところが信玄亡き後、今度は武田家が国を失って滅亡。村上氏の
旧領には義清の子・山浦蔵人景国(やまうらかげくに)が帰参し、再び屋代氏を従えた統治を開始した。
この頃から屋代氏の総領として登場するのが秀正であるが、景国と秀正の仲はあまり芳しくなかったらしい。
一度は国を捨てておきながら、上杉氏という強大な戦国大名が背後にあったというだけで復帰できた景国
(景国の「景」の字は上杉景勝の「景」を与えられたもの)に対し、主家を変え、時代に翻弄され、辛酸を舐め
ながらも自分の領地にかじりついていた屋代氏の待遇は、必ずしも厚遇されたものではなかったからだ。
北信濃を自力で守り続けたという自負があったのに、景国は秀正に臣従の証となる人質を要求。更には
屋代氏の持城であった荒砥城(長野県千曲市)も取り上げられている。■■■■■■■■■■■■■■
そんな折、南から勢力を伸ばしてきた徳川家康の存在は、景国と秀正の間に大きな亀裂を生じさせた。
景国、ひいては上杉氏の支配を快く思わなかった秀正は、彼らに叛旗を翻して徳川方へと鞍替え。だが、
北信濃の支配権は景国が保持し続けた為、結果として秀正は累代の郷里・屋代郷から逃れる事になって
しまったのだ。これが1583年(天正11年)の事とされ、秀正は徳川四天王の1人・酒井左衛門督忠次の下で
働くようになった。1590年(天正18年)徳川家は豊臣秀吉の全国統一に伴い東海地方の領地を手放したが
1600年(慶長5年)9月15日の関ヶ原合戦で大勝、天下を握って以後は再び甲斐国を直轄領に組み込んだ。

屋代氏が甲斐を任されるが、その後…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
斯くして1614年、屋代秀正は甲斐国巨摩郡(近代以降の行政区分では北・中・南巨摩郡に分割)に所領を
与えられる。これは同様に武田旧臣から徳川家に主を替えた真田隠岐守信尹(のぶただ、信昌とも)・三枝
平右衛門尉昌吉(さいぐさまさよし)と共通の措置で、3名合わせた所領として1万5000石が与えられ、3名共
巨摩郡内に居館を構えた。当時、大坂に居座る豊臣家を滅ぼす最終段階に入っていた徳川家であったが
その大坂で軍事的才幹を発揮した真田左衛門佐信繁(元来は信濃国人衆)が旧領たる甲信地方において
陽動の争乱を起こす事を危惧した幕府が、現地情勢に強い武田家臣団出身の3名を用いてそれに備えたと
考えられている。秀正は上神取(かみかんどり)村に居館を構え、これが屋代氏館の創始となった。■■■
一説に、巨摩郡における屋代氏の所領は三之蔵村・上神取村・下神取村・若神子村・日野村・小田川村など
6000石程とされる。また、これとは別に秀正の嫡男・越中守忠正(ただまさ)は1615年(元和元年)巨摩郡に
4000石の所領を与えられた。大坂の陣において秀正は徳川軍の旗奉行を務め、1622年(元和8年)からは
徳川秀忠の子・駿河大納言忠長の附家老に任じられてござるが、翌1623年(元和9年)に没している。■■■
このため忠正が父の職務と遺領を相続。屋代家は6000石(秀正遺領)+4000石(忠正の領地)で合計1万石、
大名に列する事になったのであるが、1632年(寛永9年)10月20日に徳川忠長が乱行の嫌疑で改易されると
連座で改易、越後国高田(新潟県上越市)藩主・松平越後守光長預かりの処分を受けてしまう。恐らくこの時
屋代氏居館も廃されたと考えられている。この後、忠長は自刃させられた一方で忠正は1636年(寛永13年)
9月に赦免され、1638年(寛永15年)2月8日に1万石の大名として返り咲くも安房国北条(千葉県館山市)が
新たな所領であった為、甲斐国巨摩郡に戻る事は無かったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■

館の存在価値と、地中に消えた見事な遺構■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
屋敷地の大きさは縦横それぞれ約140m程のほぼ正方形。まさしく“方形居館”そのものである。この館の
来歴を考えれば、徳川将軍家直轄領である甲斐国の中で、しかも天下静謐が完成する時期の構築なれば
大々的な城砦を構える必要はなく、所領に応じた慎ましい館を構えれば十分だという事だったのだろう。
仮に豊臣方が戦を仕掛けて来たとしても、甲斐府中にある甲府城(山梨県甲府市)で事に当たれば良い。
むしろ分不相応に大掛かりな城館を置いては、逆に幕府からあらぬ疑いを掛けられかねない。時流に聡い
屋代秀正ならばそう考え、敢えて“旧態然とした方形居館”を用意したと思われる。しかし立地そのものは
塩川東岸の河岸段丘上にあり、河原との比高は40mもある。さらに塩川の西にはもう1本、須玉川も流れ
信濃方面から来るであろう真田信繁の攻勢(を当初の仮想敵としている)を多重防御できる位置にある上
この当時は廃城となっていた若神子城も程近く、応急の砦として再利用する事も可能だっただろう。即ち、
甲府城を詰めの城として確保しながらも(何せ「徳川直轄地を守る」のである)初動対応では現地の地形や
旧跡を最大限に利用しつつ、平時は方形居館として平穏な生活を営むよう作られたのが屋代氏館なのだ。
それに加え、流石は1万石の大名だと言うべきは屋敷地内に見事な敷石が並べられ、池泉も備えた優雅な
庭園も構えられていたという点。農業開発により、跡地は西端の土塁が南北50mほど残されているだけで
一帯は全面に渡って耕作地と化しているが、この農耕土の下には身震いする位に見事な敷石列が埋没して
いる。2011年(平成23年)〜2012年(平成24年)にかけて、耕作地整備に先立つ発掘調査が行われており
その際には写真にあるような多数の庭石・敷石などが露出したのだが、惜しくも現在は埋め戻されている。
地元の農業振興はもちろん最優先すべきものであろうが、個人的には「何もここを田圃にしなくても…」と
残念に思う所でもある。ともあれ、素晴らしい埋設遺構が確認されている事から1993年(平成5年)10月1日
当時の明野村(現在は北杜市が継承)指定文化財となってござる。■■■■■■■■■■■■■■■■
場所は北杜市明野町上神取、上神取婦人の家(上神取公民館)から北東に300mほどの位置。上記の通り
僅かに土塁が残存し、その手前に史跡案内板が設置されているが見逃しやすいので注意。地図を見ると
居館址に合わせて道路が歪んでおり、そこが跡地と判るので事前に情報を頭に入れておくと良いだろう。
車がないと来訪しにくい場所なのだが、周辺に駐車場などはない。また、耕作地(私有地)であるため節度を
持った見学が必要。なお、秀正(勝永)の菩提寺である臨済宗龍樹山勝永(しょうえい)寺も上神取公民館の
すぐ傍にある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

土塁・郭群等
城域内は市指定史跡





韮崎市内諸城館  勝沼氏館・小山城