甲斐国 新府城

新府城跡

 所在地:山梨県韮崎市中田町中條上野

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆
★☆■■■



武田家“最期”の城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
甲斐源氏の名門・武田家最後の城郭。「新府中韮崎城」が正式名称。釜無川に面した段丘を利用した立地は堅固そのもの。■■■
1575年(天正3年)5月21日、長篠・設楽ヶ原(愛知県新城市)の合戦で織田信長・徳川家康連合軍の鉄砲戦術によって大敗を喫した
武田四郎勝頼。以後、武田家は勢力を回復する事がならぬまま急激に衰退していく。長篠合戦までに武田家が獲得した東海地方の
領土は徳川家の手に落ちていき、越後上杉氏の家督騒動に端を発した外交問題では、背後の盟友たる小田原後北条氏との関係が
断絶。西の織田、南の徳川、東の北条と、3方が敵に回ってしまった勝頼は領国防衛に新たな手を打たねばならなくなり、それまでの
平易な館造りであった居城・躑躅ヶ崎館(山梨県甲府市)では敵軍の来襲に備えきれないと判断する。斯くして、一門衆の重鎮である
穴山玄蕃頭信君(あなやまのぶただ)の進言に基いて1581年(天正9年)春、ここ韮崎の地に新城を築く事を決定。配下の智将・真田
安房守昌幸を普請奉行にし2月に起工、昼夜を問わぬ突貫工事で城の完成を急がせたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■
城が築かれた場所は南西側に釜無川が流れ、その川岸には河川侵食によって出来た七里岩と呼ばれる絶壁の岩肌が屹立、天険の
要害を為している。この七里岩は比高差約130mにも及び、とても登れるものではない。一方、城の北東側には七里岩上面から延びる
平野部が広がり、その平面の中、城の部分だけが独立した小山になっている。しかも、小山の頂部は比較的広い曲輪を取れる敷地と
なっており、ここを本丸としている。本丸の大きさは東西90m、南北120mのほぼ長方形。そこから段を下るようにしていくつかの曲輪が
用意され、この小山全体を要塞化する事で厳重な防備を図ろうとする意図が汲み取れよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の南東隅、大手口に当たる位置には武田流築城術お得意の丸馬出しと三日月堀の組み合わせ。反面、山麓北西側の2箇所には
「出構え」と称される突起状の小陣地を設置している点が興味深い。この出構えは主に鉄砲銃座として用いる事を念頭に置いた先進
的なもので、騎馬戦術を信奉していた武田軍にあって鉄砲の有効性に開明した新たなる構造物として評価できよう。これを北西側に
置いたのは、不倶戴天の敵である織田の軍が西から来襲するであろう事を見越しての事か。時計回りに城山の西〜北〜東には堀も
掘削され、やはり北西側の守りを重視している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
本城域は東西550m×南北600m。外周部と本丸の比高差約80mで、大きすぎず小さすぎず、実戦を最重視した規模でござろう。■■■

使われぬまま放棄■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
春に始まった工事は急ピッチで進められ、同年12月には本丸居館が完成。早速に勝頼は躑躅ヶ崎館を引き払って入城する。城域の
工事はまだ途中であったがここを甲斐の新たな府中に定めた彼は、城名を新府とし新都市の成立を計画。武田の家を護る新たなる
首府を急いで創り出し、劣勢を挽回する為の戦略を練ろうとしたのでござる。しかし焦る勝頼の思いは裏目裏目に出る。■■■■■
新府城築城の為の資材供出を命じられた勝頼配下の将・木曽左馬頭義昌は苛烈な要求に業を煮やすと共に、勝頼の器量に疑問を
抱き翌1582年(天正10年)2月、武田家を見限って織田信長への鞍替えを決意した。義昌が領した木曽の地は武田領西端にして織田
家との境界であり、信長は戦わずしてこの要地を手にしたのである。一方、義昌の裏切りに激怒した勝頼は木曽追討軍の派遣を決し
配下諸将に急遽出陣を命じた。ところが、この出陣命令は火に油を注ぐ結果になる。勝頼率いる武田家に「もはや昔日の勢い無し」と
思わせる事になり、部将らは次々に離反した。その情勢を見た信長は、今こそ武田家殲滅の好機と捉え、同盟者である家康と共同し
武田領への全面侵攻に踏み切ったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
当然、武田領各地の武将は勝頼の命令を無視し織田・徳川軍に降伏していき、勝頼は木曽追討どころか自国防衛すら叶わぬ状況に
なってしまった。織田軍が西から迫る中、新府の勝頼は止むを得ず東へ逃亡する道を選び、城を自焼して落ち延びた。未完成の城で
ある新府城では満足に戦えないとの判断によるもので、着工から僅か1年ほどで、戦いらしい戦いもないまま、この城は主の手により
放棄される悲しい結末を迎えたのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
新府を離れた勝頼もまた、織田軍の追撃から逃れきれず3月11日、甲斐東端に近い天目山(山梨県甲州市)にて自刃し、一族全滅と
相成った。新府城が滅した時、甲斐武田氏も滅亡を迎えたのである。勝頼の父・徳栄軒信玄が躑躅ヶ崎館で国を治めていた頃には
「人は堀、人は石垣、人は城」として大城を構えず、人心掌握を第一としていたのが武田の家風だったが、勝頼の強引な築城と無理な
出陣命令は家臣の心を離してしまい、国家の根幹を崩壊させた。躑躅ヶ崎から新府へ移り、大城に頼った時から武田家滅亡の序曲は
始まっていたと言えるのかもしれない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

天正壬午の乱で再利用?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうして廃城となった新府城。然る後、同年6月には本能寺の変で織田信長まで死亡。甲斐・信濃をはじめとする旧武田領は空白地と
なり、この混乱を収拾するべく遠江・駿河から徳川家康が、武蔵・上野からは北条氏直が進入する。互いに甲信の領土を手にしようと
対決した両者はここ新府城近辺で対陣し、かつての城跡には家康が入って本陣とした。廃城後とは言えども、堅固な新府城の構えに
後北条氏はなかなか手が出せない。皮肉にも、勝頼が戦った相手である家康が新府城を有効活用する事になり、結果、後北条軍は
撤退する。これにて甲信の領土は徳川氏のものとなった。なお、この戦いに於いて徳川家が新府城の改造を行った可能性もある。
(搦手口付近、水戸違いを備えた濠と土塁の重なりは後の徳川将軍家居城の江戸城(東京都千代田区)と共通するものがある)■■
ともあれ、歴史上で新府城が用いられたのはこれだけであり、以後は完全に廃絶。そのため城跡の旧態はほぼ手付かずで放置され
遺構は残される事になり、1973年(昭和48年)7月21日に国の史跡と指定され、現在は史跡公園として一般開放されている。■■■■
ちなみに、2016年(平成28年)の大河ドラマ「真田丸」では、冒頭の新府城シーンが実際にこの城で撮影された事でも話題になった。
史跡公園整備も着々と進み、城内の見学通路なども順次開通している。二ノ丸辺りはまだ手付かずだが、今後の整備に期待したい。
城の周辺は一面の桃畑になっており、春になって花が咲くと山頂の本丸跡から桃花の絨毯を望む事になり、それはもう見事な光景!
読んで字の如く、まさに桃源郷でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
また、本丸の片隅には長篠合戦で戦死した名将たちの慰霊碑があり、武田家滅亡までの一連の悲劇がまさにこの場所に集約された
かのようであるのも、感慨深い。戦国後期の遺構を残す優良な史跡として、甲斐武田家の終焉を物語る城として、そして観光の名所と
して、この城は一見の価値がござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡








甲斐国 隠岐殿遺跡

隠岐殿遺跡(真田隠岐守信尹屋敷伝承地)

 所在地:山梨県韮崎市中田町中條

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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新府城下の武家居館址?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
新府城のすぐ北側、JR中央本線の線路が新府駅を出て穴山トンネルへの上下線分岐に差し掛かる一帯で大きく弧を描く内側は
「隠岐殿遺跡」の名で遺跡台帳に登録されている。この付近の古い字(あざ)名に「オキドノ」とある事から名付けられた遺跡だが
七里岩上面の平地が緩やかに西から東へ向かって傾斜しているこの場所は、中央線特急を撮影する鉄道写真の名所…もとい、
一面の桃畑となっていて、花の季節には写真の如く鮮やかな色合いが広がる長閑な風景。ここが遺跡?と、にわかには信じられ
ない所なのだが、隠岐殿遺跡を含む周囲一帯には縄文時代から中世まで様々な時代の遺跡が散らばっており、大河に近接した
台地という地形ならば、古くから人類が居住していたのも頷けよう。では改めて「オキドノ」隠岐殿とは何なのかと言えば、すぐに
連想されるのが真田隠岐守信尹(のぶただ)、あの“徳川家の天敵”真田昌幸の弟であろう。■■■■■■■■■■■■■■■
即ち、隠岐殿遺跡と言うのは新府城下に構えられた武田勝頼の家臣団屋敷、その中でも真田信尹の屋敷地であった――― と推測
されるのが順当である。韮崎市内(特に新府城近辺)には他にも武田家臣の屋敷地とされる場所があり、新府に集住した家臣の
館があっても当然だろう。当時の信尹は甲斐の名族・加津野(かづの)家の家督を継いでおり、加津野市右衛門尉信昌と名乗って
いた。隠岐守は自称で、1580年(天正8年)には使用していた事が文書上で確認されている。隠岐守殿が住んでいた場所だから
字名が「オキドノ」になった所、故に真田信尹の居館址、と繋がる訳だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そんな「オキドノ」の伝承に基づいて2008年(平成20年)12月から翌2009年(平成21年)10月にかけて発掘調査が行われた。これは
現地の畑作(桃園)整備事業に先立って行われたもので、2008年8月の試掘を経た本調査で現地からは縄文時代以来の竪穴式
住居痕、土器・石器・鉄器などの各種生活用品類を確認。中でも中世の遺構・遺物と考えられるのが礎石建物跡2棟・掘立柱建物
1棟、土坑、中国製の青磁・白磁、国産天目茶碗・棗(なつめ、茶入れ器)・香炉と言った茶道具、硯・擂鉢・碁石・かわらけ等の品が
確認された。これらはまさに戦国期、新府城が用いられていた年代と近い(完全に一致ではない)遺物なので「真田隠岐守居館」の
伝承にはさほど矛盾しない事になる。この場から出た古銭も「永楽通宝」即ち室町時代(戦国時代)の通貨である。また、ここでは
焼土層や焼失遺物(炭化した種子類)も確認されているが、その回数も1回だけだった(建て直された痕跡が無い)と見られるため
これも新府城自落(武田勝頼の退去)と共に廃絶した経歴に合致するだろう。江戸時代以降の遺物は確認されなかった。■■■
なお、隠岐殿遺跡の範囲全体は東西900m×南北400mにも及ぶが、発掘されたのはその中で東端部に近い僅かな区域に限定
される。JA梨北の新府共選場から東に300m程の場所で、写真はそこで撮影したものだが、もしかすると他の区域には何か新しい
知見が得られる品も眠っている可能性がある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

館の主は真田信尹…なのか?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ただ、これだけの遺物から「館の主は真田信尹」と断定する事は出来ない。それどころか、必ずしもここが武家居館址とは限らない。
出土したかわらけの性格から(かわらけは地域性が色濃く反映された作風になるため)、恐らく信濃佐久地域に関連する人物が
用いていたと言う推測までは立つとされるが、果たして?出土品が新府城の時代とは微妙にずれている(半世紀ほど)事もあって、
むしろ館の主は真田信尹「ではない」と考える向きもあるようだが…。肝心なのは当時の信尹の動向であるが、兄の昌幸が新府城
普請奉行となっていたものの、織田軍の攻勢がいよいよ激化した事で彼は所領の岩櫃(いわびつ)城(群馬県吾妻郡東吾妻町)で
守りを固める事となった。良く言われるのが、岩櫃に落ち延びる勝頼を迎え入れる算段を整えるつもりだったと言う説だが、これで
新府を離れた昌幸に代わり、普請の役を信尹が引き継いだとも考えられよう。だとすれば、信尹が新府城下に在住していたとする
可能性は「無くもない」と言った感じだろうか。地域伝承も馬鹿にならぬもので、隠岐殿の字名が残るくらいなのだからこの遺跡が
「真田隠岐守信尹居館趾」であって欲しいと願って、いや期待してしまうのは城好きの勝手な妄想か(苦笑)■■■■■■■■■
発掘後、現地は埋め戻されたので地表に見える遺構は何も残っていない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで「加津野信昌」が真田に復姓し信尹と名乗るようになったのは武田家滅亡後の話。数々の大名家を渡り歩き、最終的に
徳川幕府の旗本として所領を得た。それは現在の地名で山梨県北杜市須玉町大蔵(すたまちょうおおくら)、この韮崎市中田町
中條(なかだまちなかじょう)から真北に5.5km程の位置である。よって、北杜市須玉町にも「真田隠岐守信尹屋敷」が存在しており
彼の来歴からすれば、この新府城下の居館址は「加津野隠岐守信昌屋敷」と称して区別するべきなのかもしれないが…それだと
「加津野信昌って誰?」と、全く理解されないかも(爆) と言うか、兄の真田昌幸は天下人・豊臣秀吉をして「表裏比興の者」つまり
「表と裏がある卑怯者」と、半分皮肉・半分褒め言葉で智謀を讃えられているが、弟の信尹はその昌幸が生涯敵対した徳川家の
臣にちゃっかり入り込み、しかもその家系は明治まで存続しているのだから、彼こそが真の「表裏比興の者」と言えるだろう。勿論、
これは純粋に“対応力に長けた切れ者”との褒め言葉。そんな信尹が居た(かもしれない)館跡、ちょっと気になりませんか?■■







甲斐国 能見城

能見城跡石碑

 所在地:山梨県韮崎市穴山町夏目

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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現存する遺構

堀・土塁・郭群等




甲斐国 能見長塁(能見城防塁)

能見長塁跡

 所在地:山梨県韮崎市穴山町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★★■■■
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現存する遺構

堀・土塁・郭群等






新府城の北側にある城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
新府城の北方、JR中央本線穴山駅のすぐ東側にある小山が城跡。その立地から、新府城の出城として構えられたものと言う説が
有力で、江戸時代に編纂された甲斐の地誌「甲斐国志」に「新府中ノ墟(中略)穴山ハ外郭ノ内ナリ能見城と云ウ。孤山高爽ニシテ
 四望開ケ看楼ヲ置ベシ」と、この能見(のうけん)城が新府城址の外郭(出城)となり高所から四方を望む為の物見が置かれていた
状況が記録されている。だが、詳細は不明瞭で、近隣に居館を有する穴山氏による独自の城との説もある。穴山氏は室町時代から
戦国時代にかけて当地を領有した氏族で、系図を遡れば甲斐武田家からの分流である。故に、武田氏から見れば一門衆と呼べる
地位にあり、特に信玄・勝頼の臣であった穴山信君は信玄の娘を妻に娶っていた事から家門筆頭格とされていた。■■■■■■■
重鎮の役にある信君はよく武田宗家を補佐したが武田家滅亡の折、遂に勝頼を見限って織田信長に降伏し本領を安堵される。が、
これには裏があり、早期から勝頼の将器に疑いを持っていた信君は武田宗家の衰弱をわざと早めるために無理のある新府築城を
進言したとも。その狙い通りに武田家は滅亡したのだから、信君の謀略や見事であろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかしその信君も本能寺の変後に起きた争乱で落命。甲斐は空白地となり、上に記したように徳川氏と後北条氏が対陣し、領土の
切り取り合戦が勃発するようになったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
能見城が実戦に用いられたのはこの事変の時である。新府城跡に本陣を置いた家康は、外郭防衛線である能見城の大改修を行い
累々とした土塁を能見城本体の東西に張り巡らせた。能見長塁と呼ばれるこの土堤は、現在の穴山駅南側あたりから能見城山に
繋がり、更に反対側にも延ばされ、さながら近代戦の塹壕のような構造を現出させたという。■■■■■■■■■■■■■■■■
兵力的に優勢であった後北条方は、この長塁の成立により手出しができなくなり、結果、徳川家と和睦交渉せざるを得なくなった。
能見城、そして能見長塁の存在は家康が甲信東海5ヶ国の太守へと登りつめる決定打となり、ひいてはその後の江戸幕府開設に
繋がる重要なものだったのであろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

地山が削り取られてしまった能見城址■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
このように、史書にも残り日本の歴史に大きく関わる遺跡として地元で存在が認識され続けてきた城跡だったが、太平洋戦争後の
昭和30年代、高度成長期の宅地開発により城山は大規模な開削が行われ、等高線に沿った階段状の地均しがあり城址の遺構は
大幅に湮滅する事となってしまう。結局、この宅地開発は途中で頓挫したため何も活用されず、単に城山を破壊しただけの結果に
終わり、無計画・無秩序な開発計画に批判の声が上がったそうだ。こうした経過から現状の能見城跡は元の原野に帰し、目立った
遺構は残らない。曲輪の削平なども不明瞭で(何せ宅地造成された後なので)あり、どこまでが城なのか、どういう構造だったのか
見た目ではあまり良く分からぬ状態となっている(長塁部を除く)。穴山駅から望む城山の斜面には「能見城跡」の大きな看板が取り
付けられているものの、山頂には上水道施設が設置され、その脇に小さな標柱が立つのみである(写真)。この標柱の前に置かれた
三角点が指すのは標高591.89m。山麓の穴山駅は標高530m程なので、この小山だけで比高差60m(宅地開発されなければもっと?)
ある事になる。況してや七里岩の断崖下は標高420m程度で、そこから見れば能見城の山頂は170mも高い位置にあり、甲斐国志に
ある「孤山高爽ニシテ四望開ケ」と言うのも納得であろう。つくづく遺構破壊が惜しまれる話でござる。■■■■■■■■■■■■■
ちなみに写真にある黒い石碑は、この地が守屋氏の発祥の地ということで立てられた顕彰碑だ。守屋氏もまた甲斐武田家に仕える
重臣で守屋新兵衛尉定知なる武将が能見城を守ったと言う史料も残っている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

草木に埋もれた遺構が見え隠れする長塁址■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方、城山の中腹北側からは堀と土塁の列が突出している。この塁線は複雑に屈曲しながら概ね東西に延び、七里岩上面の台地を
横断。この付近の台地上面は幅1.4km程で、それを完全に貫いた構造だった長塁ではあるが、現状では後世の耕作地化や宅地化で
塁壕の残存部分は断片的でしかない。結果的に能見城の城山山腹にある堀や土塁が最も残存状況が良いと言えるだろう。■■■
(但し、よく見れば穴山駅の西側などにも土塁の残欠は確認できる)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
山腹に延びる長塁は、山の北面で東西方向の直線で進んだかと思えば、山の東端付近で直角に北へと折れていく。ここから山麓へ
下るようになるのだが、その背面には枡形?のような小曲輪がいくつか隠されている。敵兵が襲来した場合、ここから伏兵を出して
逆襲する事が出来るように見えるのだが、実際はどうだったのであろうか。能見城そのものはあまり見どころが無いのだが、この
長塁部の土塁と堀、それに小曲輪はなかなかに見応えがあろう。と言っても、特に保全もされず風化した遺構だし、何より見学路が
整備されている訳でも無いので、熱狂的な城マニアでもなければわざわざ見に行く程のものでもないだろう。写真は長塁が北麓へ
落ちていく部分の土塁と堀跡だが一見では何の写真か分からないので、普段は出来るだけ人が入らない写真を選ぶものの今回は
"人尺”となるよう城友の某氏を入れた写真で(笑) なお、もっと土塁や堀らしい情景も山中にはあるのだが、逆に藪や木の枝が
邪魔で写真にすると「何が写っているのか分からない」感じになってしまったため却下した。このように長塁部への立入りは足場が
悪く、また入口も分かり難い(城山の登山道の途中から目星を付けて山林へ分け入る)ので、来訪はあくまでも自己責任で。なお、
城跡へ登る道は真言宗長靖寺の私道らしいので、車での進入は禁止。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
恐らくこの山自体が私有地なので、無闇に荒らさぬよう気をつけるべし。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■







甲斐国 穴山氏館

穴山氏館跡

 所在地:山梨県韮崎市穴山町次第窪

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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穴山氏発祥時の居館址■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
甲斐武田家親族衆筆頭、穴山氏発祥の史跡。穴山氏は甲斐源氏10代である武田伊豆三郎信武(のぶたけ)の5男・修理大夫義武が
巨摩郡逸見郷穴山村、すなわち現在の山梨県韮崎市穴山町に領地を得た事に始まるとされる。地名から穴山に改姓したというのが
一般的だが、元々この地には穴山姓を有する氏族が居り、そこに養子として入ったと言う説もある。南北朝期、14世紀頃の話だ。■■
この時、居館として構えられたのが穴山氏館であるが、ほぼ平坦な地を敷地としていたため、有事の際の詰城として能見城(上記)が
用いられたとされている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現地案内板に拠れば、江戸期に編纂された甲斐の地誌「甲斐国志」に「次第窪・重久ノ間、桟敷場ト言処ニ東西四町・南北三町ノ地」
「穴山村重久組ニアリ、除地百三拾ニ坪、旅所、桟敷ノ地名アリ」と、穴山氏館に関する記載があるそうな。次第窪・重久はそれぞれ
周辺の小字名。要するに、周囲一帯に広がる台地が館の敷地だった訳だ。また、館の山を挟んだ北側にある曹洞宗大龍山満福寺は
穴山氏の菩提寺。この寺も、穴山義武の入部と同時に建立されたのであろう。ちなみに満福寺は韮崎市指定史跡になっており申す。
義武には子がいなかったため、甥・武田兵庫助信春(のぶはる)の子である信濃守信元(満春)を養子に迎えて家督を継がせた。■■
信元の頃、1416年(応永23年)鎌倉公方(室町幕府体制における東国支配機関)において内訌が発生する。上杉禅秀(ぜんしゅう)の
乱である。この戦いに於いて武田氏一門は軒並み反乱軍である禅秀に味方した。信元も然りである。■■■■■■■■■■■■■
しかし禅秀は敗死し、武田一門も逃亡や戦死の憂き目を見る。これにより穴山信元は悶死(逃亡説もあり)。信元も子が無かったため
武田宗家から信介を迎え入れ、穴山家3代目とした。この時、穴山氏は乱の敗者として本貫地・穴山村から落延びた事により、かつて
南部氏(甲斐源氏一門、奥羽へ移った南部氏の事)が領有していた河内地方(南巨摩郡)へ居を移した。以後、穴山氏は甲斐南部で
生活を営み、穴山の地に戻る事はなかった。これにより穴山氏館は廃絶。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
後、近隣に新府城が築かれて武田勝頼の城となるも、その勝頼は古に巨摩郡を治めた穴山氏の後裔・穴山信君(梅雪)に見捨てられ
甲斐源氏の名門・武田宗家がいったん断絶したのは歴史の皮肉でござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
穴山家は武田家からの分家であり、代々当主を武田宗家から養子として迎え入れていた経歴もあって武田親族衆筆頭とされていた。
信君としては、国を傾けた勝頼は見放し、栄誉ある穴山氏が新たな武田家を興すべきだと計算したのかもしれない。結果として信君は
本能寺の変の巻き添えを食って落命、その野望は潰えたが穴山氏の血統は徳川家康から尊重され、江戸幕府草創期に家康の5男・
七郎信吉(のぶよし)が名目的とは言え甲斐武田家を再興して家督を継承したのは、穴山氏の縁を頼ったからであった。これは信吉の
母が信君の娘だった(諸説あり)事によるもので、穴山家の家臣団は一部が信吉配下に編入され、常陸国水戸(信吉の封地)で安住
している。勝頼を見限った信君もまた不運な死を遂げたが、その血筋は武田家遺臣の救済と武田家復活に一役買い、信君の望みは
形を変えて実ったのである。信君の武田家継承工作は己の野心の為か、それとも甲斐の領民を保護する為か今となっては定かでは
ないが、少なくとも天下人・徳川家康からはそれなりに評価されていたと言えよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
穴山家のその後はさて置き、現在の館跡は完全な荒れ野原になっている。一応、史跡として標柱と案内板(写真)だけは立っているが
特に城址としての整備が行われているわけでもなく、遺構の風化が激しい。この写真の奥の藪の中に堀跡と思しき窪みや、そこから
盛り上がって曲輪を為していたような敷地があるのだが、全然形状は分からない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
場所も分かりにくく、余程の城好きでなければ立入る事もないだろう。穴山駅〜日野春駅間は国鉄時代の線路が付け替えられ、旧線
跡が砂利道となって残されているが、その道と諏訪神社〜巌宮諏訪神社を結ぶ農道が交差する地点(かつては踏切?)の脇に、この
案内板が立っている。城跡よりも、廃線鉄道マニアの方が喜びそうな場所かも?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・曲輪








甲斐国 武田信義館

武田信義館跡

 所在地:山梨県韮崎市神山町武田

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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武田氏発祥時の居館址■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
韮崎市役所から釜無川を渡った真西の方角、住所にして韮崎市神山町武田にあるのが武田信義館の跡地でござる。先般より記載して
いる甲斐源氏嫡流の武田家はこの信義を始祖とする武家の名門なれば、当館跡こそ武田家発祥の地と言えよう。■■■■■■■■■
そもそも武田家の系図を遡ると、八幡太郎こと源義家、その弟の新羅三郎義光に辿り着く。平安時代後期に起きた兵乱、後三年の役で
勇猛な戦いぶりを示した義光は東国に封を与えられて、主に常陸国(現在の茨城県)と甲斐国(山梨県)に勢力を張った。義光の曾孫に
あたる人物が信義で、父・源清光(義光の孫)から武田庄の庄官を任じられ、これが故に武田太郎と称し武田の家を興したのでござる。
斯くて甲斐源氏を率いる立場となった武田太郎信義。丁度この頃に源平の争乱が生じ、1180年(治承4年)4月には以仁王(もちひとおう、
後白河法皇の子)から平氏追討の令旨が発せられている。武田氏はこの令旨に従い挙兵、信濃国(長野県)や駿河国(静岡県東部)へと
縦横無尽の活躍を果たした。その功により信義は駿河守護に任じられたが、源氏の棟梁である源頼朝は甲斐源氏の伸張を必ずしも快く
思わず、翌1181年(養和元年)頼朝に対する謀反の風評が立ち失脚。その後は復権ならぬまま、1186年(文治2年)に没した信義であるが
悠久の時を越え、戦国時代になると武田信玄率いる武田軍が“無敵の甲州騎馬軍団”の武威を轟かせ、天下に覇を唱える勢いで見事に
武田家の家名高揚を成し遂げたのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その始まりの地たる武田信義館は、神山町武田区の東端に位置し、約250uの大きさを有する典型的方形館。館から南西へ1.3km下った
位置にある神山町鍋山の山中に白山城(下記)を構築し、詰めの要害としている。ちなみに、この白山城は平安・鎌倉期よりも後の時代、
室町・戦国期も継続使用され江戸時代の寛文年間(1661年〜1673年)にようやく廃城にされたという実に長い歴史を有している。■■■
その一方、信義の館は主がいなくなった後に早い段階で滅したらしく、現在に残る遺構は全くといって良いほど無い。韮崎市設置の案内
看板には土塁が一部残存すると記されているが、果たしてどの程度のものか疑問であり、とりあえず拙者が見学した際には、それらしい
ものは見受けられなかった。館跡の現状は殆どが宅地や耕地で、写真にある記念碑が僅かながらに古の名跡を今に伝えるのみである。
されど、この近辺の小字名には「お屋敷」「お庭」「的場」「お堀」「み酒部屋」「お旗部屋」「具足沢」といったものがあり、武士の館が確かに
そこにあった事を物語っている。目に付かぬ土塁よりも、生活に根差す地名の方が時として城跡の名残りを明確に示すと言う事があるの
だろう。昨今は市町村合併やらで由緒ある地名が惜しげもなく消え去っているが、もう少し、その名の意義や伝統を大切にしてもらいたい
ものでござるな。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、韮崎市には武田家創始の記念たる地である武田信義館と、武田家滅亡の証しとなってしまった新府城が共存している。■■■
武田家は韮崎に始まり、韮崎に終わったと言えよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1978年(昭和53年)3月18日、韮崎市指定の文化財(史跡)となっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

館跡は市指定史跡








甲斐国 白山城

白山城 主郭跡

 所在地:山梨県韮崎市神山町鍋山・神山町北宮地

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★★■■
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武田信義館の詰めの城と言うが…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
所在地から「鍋山城」「鍋山砦」とも。詰めの城としての性格から「要害城」の名も。「白山城」と言う名は山の中腹に白山権現を祀っていた
事に由来するとか。現在でも、その白山神社の裏手から山へ登るのが一番手っ取り早い登城路だ。また、「鍋山」という地名もこの城山が
鍋を伏せたような形状である事から付けられた地名だそうな。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
武田信義館の項で記した通り、伝承では信義の居館構築と前後してその詰めの城として築かれたと言う。また、別の伝聞ではこの地に
豪腕の荒武者として知られる源為朝(頼朝の叔父)が築いたとする説(江戸中期の甲府勤番士・野田成方の見聞帳「裏見寒話」所収)や
更に時代が遡って日本神話の世界における武田王(たけだのきみ、日本武尊の子)が築いたとする話(「口碑傳説集」)などもあるものの、
これらは勿論“日本武尊伝説”“為朝伝説”に仮託するもので信を置けるものでは無い。ただ、武田信義の時代にこの山城を築いたかと
言う点にも疑問は残る。現状に見える山中の遺構はいずれも戦国期のものと考えられ、平安末期〜鎌倉期の技巧では無いからだ。■■
武田信義は源平合戦期に各地を転戦し武功を挙げ、一時は源頼朝の対抗馬(源氏棟梁の格を争う)ともなったが、一連の合戦を経過し
坂東武者の惣領となった(祭り上げられた)のは頼朝の方で、次第に信義は「頼朝に抗う者」として排斥される途を辿る。成立しつつある
鎌倉幕府から追討を受ける可能性もあった中で信義が詰城たる白山城を必要とした可能性はあるが、武田一門衆の粛清こそあれども、
信義は“一御家人”の地位に凋落した為、結果として甲斐への幕府軍派遣と言う事態には至らず、白山城の出番は無かったのだ。■■■

武川衆・山寺氏の山城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
話を端折る形になるが、武田家は甲斐各地に庶流を広げる一方で宗家も次第に石和(いさわ)や甲府など甲府盆地へ拠点を移していき
戦国期、韮崎の山間部を守備していたのは「武川(むかわ)衆」と呼ばれる武田傍流の諸家であった。白山城にはそうした武川衆の1家・
青木氏が入っていたと、江戸中期に編纂された家譜「寛政重修諸家譜」では記録している。武田陸奥守信虎〜大膳大夫晴信(信玄)の
時代には青木尾張守信種(信定)が「鍋山城」の城将として入っていたが、彼は1541年(天文10年)12月20日に没したと記され、その後は
信種の2男・甚左衛門信明(のぶあきら)が山寺氏を興し青木家から分家、鍋山郷を領した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、勝頼の代になると織田信長・徳川家康の連合軍に攻められ武田氏は滅亡、その遺領は信長と家康が分割する事になる。甲斐国を
手中にした信長は河尻肥前守秀隆(かわじりひでたか)を統治に当たらせた。この時、武川衆の大半は武田・織田との戦いに不参戦で
その戦力は維持されたままであったが、秀隆は武川衆を召し抱えるような事はしなかった(信長がそう命じたとも)。それ故に、武川衆は
行き場を失くす事になったが、これに救済の手を差し伸べたのが家康であった。家康は武川衆の各家へ積極的に降誘の遣り取りを行い
そうした動議があった事から、天正壬午の乱(徳川・後北条による甲信地域争奪戦)が勃発すると、武川衆はこぞって徳川家へ従った。
青木尾張守信時・柳沢兵部丞信俊・曲淵(まがりぶち)彦助と言った面々がそうで、もちろん白山城周辺(鍋倉郷)を領した山寺甚左衛門
信昌(のぶまさ、信明の子)も同じである。その為、白山城も徳川軍が天正壬午の乱において利用(改修)した可能性も考えられている。
しかしこの乱の後は甲斐で戦いが起きる事は無く、白山城も用済みとなったらしい。但し、徳川幕府は甲斐一国を江戸の守備に必要な
要地と捉えており、正式な廃城は寛文年間になってからの事とされており申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで地元の民間伝承では、「鍋山の砦」は新府城が築かれた折に烽火台として使われ、新府城が廃絶した後は山寺氏が用いたもの
(つまり、甲斐守護・武田氏による正規城郭としての性格は有さない)と言われている。この内容の真偽は不明であるが、仮にそうだとして
現状では武田氏による山城というのが通説となっている経緯を考察するならば、多分に柳沢氏が関わっているのであろう。武川衆柳沢氏
(徳川家康から所領安堵を受けた柳沢兵部丞信俊の後裔)は、山寺氏と同じく青木家の分流であり、後に甲府城(山梨県甲府市)主となる
幕府老中・柳沢出羽守吉保を輩出している。時の権力者となった吉保が、甲府城主として箔をつける為、同じ血縁である青木(山寺)氏の
白山城を「名門・甲斐武田氏の城を守った」事にしたならば…と推測する説もござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

遺構の見応えは十分■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、白山城は武田八幡神社のすぐ南側にある標高567.1mの山に築かれている。主城域はおよそ東西150m×南北180mの範囲に及び、
中心の山頂部を一辺25m程の歪んだ四方形に成形、それが主郭となっている。主郭の周囲には帯曲輪が取り巻き、そこから堀切を隔て
南に二郭、北に三郭が連結する連郭式の縄張りだ。二郭と三郭はそれぞれ馬出状の曲輪で、二郭の西面には一段高い土塁が付属し、
他方、三郭の東面には枡形虎口のような凹みが作られている。こうした城域全体を、山の斜面を巡るように放射状の畝状竪堀が囲んで
おり、三郭の北側へ続く尾根は堀切で遮断して城域の終端部を作り出している。この堀切を越えて北へ山を降れば武田八幡神社に至り、
逆に二郭の南から九十九折に山を下りれば白山神社社殿の裏手に出る。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
主郭を囲繞する帯曲輪を横堀と考えるならば(そう見えなくもない)、武田流築城術の山城に良く見られる「横堀」「山を囲む竪堀」「馬出」と
云った組み合わせが成立する。丸子(まりこ)城(静岡県静岡市駿河区)や的場城(長野県伊那市)に共通性が垣間見えよう。その一方で
白山城は武田流に感じられる“丸さ”が無いのだ。地形的制約もあろうが、主郭は角ばっているし、馬出も丸くない。ここが武田の城だと
言われても、あまりそう思えず違和感すら感じる。曲輪を繋ぐ土橋も直線的で(僅かに斜めに入り組む程度の防備のみ)単調だ。もっとも、
武田氏の築城と言っても“古い時期のもの”だと考えるならば、そこまで神経質になる必要は無いのかもしれない。強いて言うならば、この
白山城に一番近い雰囲気の城は?と訊かれたら、武田信玄の詰め城・要害山城(山梨県甲府市)だと思えるからだ。■■■■■■■■
ともあれ、白山城には北と南に出城も付随している。武田八幡宮社殿の真裏に聳える山の頂部が北烽火台、甘利沢川に架かる水神橋の
直上(橋の北側にある山)がムク台烽火台で、それぞれ白山城本体よりも高い位置にある。北と南で城山を挟み込み、敵の監視や伏兵を
出し入れする目的があったのだろう。白山城は1992年(平成4年)に県史跡の指定を受け、次いで2001年(平成13年)1月29日に国の史跡
指定を受けているが、これら南北の烽火台もその範囲に含まれている。白山城跡の保護と学術調査が行われるようになったのは1983年
(昭和58年)ムク台烽火台一帯が土砂採掘で消滅する危機に瀕した事を契機として地元の保存会が活動を始めた為で、城郭愛好家として
敬意と感謝を表したい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城内には土塁・堀と言った遺構が明瞭に残り、見学するのが楽しい城跡である。上記の通り、武田八幡宮か白山神社から登る事になるが
武田八幡宮側には駐車場がある(八幡宮の駐車場)ものの、道が分かり難く遠回りである。一方、白山神社からはほぼ直登のキツい坂を
ひたすら登る事になるが、距離的には近い。但し、白山神社周辺は駐車場が無く(小型車ならば入口付近に路駐できなくもない)、そこへと
至る道も狭くて難解。この道で本当に合っているのか分からないような路地を突き進む事になるので、近隣住民の方の御迷惑にならぬよう
気を付けて頂きたい。どちらの道から登るにせよ、獣除けの電流柵を越えて行く点にも御注意あれ。■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡








甲斐国 甘利氏館

甘利氏館跡 大輪寺

 所在地:山梨県韮崎市旭町上條北割

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

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武田家臣・甘利氏の誕生■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
白山城の登り口となる白山神社から南東へ約2.1kmの地点に日蓮宗甘利山大輪寺がある。この寺の境内を中心とした一帯が、かつて
甘利氏館であった敷地だ。甘利氏と言うのは、元を辿れば武田信義の嫡男・一条武蔵守忠頼(ただより)、その忠頼の子・二郎行忠が
甘利庄を与えられ、甘利の苗字を名乗った事に始まる。但しこの時期、上記の通り武田信義は頼朝(幕府)から排除される傾向にあり
一条忠頼は謀を以って暗殺され、行忠にも累が及び常陸国へと流罪にされた。しかも、流された地で父同様に命を奪われている。■■
幸いにもそれ以上の罪科は問われず、行忠の長子・二郎行義は甘利氏を継ぎ、次子の頼安は上条氏を興した。行義の系譜は頼高―
頼行―宗信と続き、武田宗家(忠頼の末弟・五郎信光(のぶみつ)の系統)の家臣として組み込まれる事となる。■■■■■■■■■■
戦国時代になると、武田晴信の宿老として名高い甘利備前守虎泰(とらやす)が登場する。信虎時代から武田家臣の中で重きを為し、
晴信が父を追放する事件の際には同じく宿老の板垣駿河守信方(のぶかた)と共に晴信側に就き、家督奪取を成功させた。これ以後、
虎泰と信方は武田家中の「両職(2人を家中最高職位とするもの)」とされ、家臣統制や軍事指揮などに絶大な力を発揮する。虎泰の
活躍は数々の軍記や小説に描かれるので詳細は省くが、「両職」は駆け出しの頃の晴信にとってまさしく「両腕」と呼べる存在だった。
ところが1548年(天文17年)2月14日、武田家と北信濃の雄・村上家が激突した上田原の戦いにおいて両職は2人とも戦死してしまう。
晴信にとっては“育ての父”と呼べる武将が2人同時に失われたのだから、痛恨の極みであっただろう。ただ、それを糧として彼は将器を
磨き、後に戦国最強を謳われる武田信玄へと成長していくのである。ともあれ、甘利氏の家督は虎泰の子・左衛門尉昌忠が継承。彼も
父と同様に武田家中の重鎮として活動したが、恐らく1567年(永禄10年)頃(諸説あり、正確には不明)には没したと見られている。■■
昌忠が没した時、彼の嫡男である左衛門尉信頼は幼少であったため甘利氏は名代を立てて経営されるが、一門は長篠合戦で戦死して
以後の活動は振るわなくなっていく。武田家滅亡時にはこの信頼が勝頼から離反したとも。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

発掘調査によると■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、ここまで長く甘利氏の経歴を記したが、居館の創建や来歴は不明。甘利氏の創立時代(行忠の頃)に作られたとする説もあれば、
それを否定する向きもある。「甲斐国志」では「甘利氏居跡 上条北割村 大輪寺ノ境内是レナリト云フ塁隍ノ形今尚キ然タリ 東西百間
 南北二百間余ナルベシ 南ヲ大庭北ヲ北門ト云東ニ矢立・的場西ニ大堀ト呼ブ地名アリ 皆隴畝トナレリ」と記し、江戸時代には大輪寺
境内に土塁や堀の形が見受けられるが、周囲は城の名残を示す地名だけが残り、皆田畑として均されてしまった様子が書かれている。
ただ、近代まで堀の名残りとされる溜池があったとも言うが、現状ではそれすら残らない。大輪寺内部も然りでござる。■■■■■■■■
それはさて置き、大輪寺の目の前には山梨県道12号線「旭バイパス」が走っており、その建設に先立って「大輪寺東遺跡」の発掘調査が
山梨県教育委員会によって1989年(平成元年)6月〜9月に行われた。敷地一帯を掘った訳では無く断片だけの調査だったが、その結果
礎石建物遺構(!)や雨垂れを受ける石列、掘立柱建物跡、土器・陶器・自在鈎・鍋蓋・木工品と言った生活遺物、炭化米・果実などの
糧食品、北宋銭「皇宋通宝」「紹定通宝」など、多岐に亘る発見があった。掘立柱建物跡では、柱穴に埋まったままの木材まで出ており
「甘利氏の館」と言う確証は無いものの、生活感に満ちた武家居館があった事は確実であろう。使用年代は15世紀〜16世紀と推定され
甘利氏居館という伝承と一致する施設ならば、戦国時代つまり甘利虎泰や昌忠の頃に使われた館だったと言う事になる。■■■■■■
ところで大輪寺はもともと真言宗の寺院で、場所も別の所にあったそうだ。これが現在地に移転したのは1590年(天正18年)甘利昌忠の
2男・三郎次郎(信頼の弟か)の手に拠るものと言われている。開山の慶受院日國聖人も昌忠の3男。甲斐の戦乱が終わった頃、父祖の
菩提を弔う寺を自身の居館址に持って来た、という話は十分あり得るものだと思うのだが、如何でござろうか?■■■■■■■■■■■







甲斐国 一橋陣屋 [宇津谷村]

一橋陣屋跡()

 所在地:山梨県甲斐市宇津谷
 (旧 山梨県北巨摩郡双葉町宇津谷)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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現存する遺構

陣屋跡は市指定史跡




甲斐国 一橋陣屋 [河原部村]

一橋陣屋跡(河原部村)

 所在地:山梨県韮崎市本町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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御三卿・一橋家の采地陣屋■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
(宇津谷(うつや)村陣屋は韮崎市ではなく甲斐市に所在するが、韮崎市に近接する位置と一連の歴史に鑑み本頁で併記する)
さてここまでは中世の城館を列記してきたが、こちらは近世の采地陣屋。しかも徳川将軍家の一門・御三卿の一橋家のものだ。
そこで簡単に一橋徳川家に関して記すところから話を始めよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
紀州徳川家から8代将軍となった徳川吉宗は江戸幕府中興の祖とされ尚武の気風を好み、折に触れ権現様(初代将軍・家康)の
政への“原点回帰”を志向した。その為、家康が将軍家断絶の危機に備えて用意した御三家の制に倣い、自身の血脈から新たに
将軍継嗣を出す家柄を整える。これが田安・清水・一橋の御三卿制度である。御三卿は「将軍家の家族」として独立した大名には
ならず、江戸城内に屋敷を与えられたのだが、それぞれ田安門・清水門・一ツ橋門の近くにその邸があった事から家名が採られた。
吉宗の4男である左近衛権中将宗尹(むねただ)が一橋家の始祖となり、彼の血筋から後に11代将軍・家斉〜14代将軍・家茂が
輩出される事になるが、その宗尹は1746年(延享3年)9月15日に10万石の所領を得た。ちなみに、御三卿の他2家も同様の石高。
先述した通り、御三卿は独立大名ではないため10万石を得ても「藩」にはならず、そうした所領は代官支配に任される事となる。
その10万石は全国各地に分散する形で与えられ、一橋家の封は甲斐・武蔵・和泉などに設定された。このうち甲斐国での所領は
巨摩郡において3万44石6斗9升2合を数えた。それを統治する為に築かれた陣屋が宇津谷村字田畑(たばた)の一橋陣屋である。
宇津谷村は甲府から信濃佐久へ抜ける穂坂路(ほさかみち、川上路とも呼ばれる)と言う幹線道路が通った街道の要衝で、時を
遡れば戦国真っ只中の1538年(天文7年)7月18日、信濃守護・小笠原氏と諏訪大社神官・諏訪氏の連合軍が甲斐へと攻め寄せ、
それを武田信虎配下の将・原加賀守昌俊(まさとし)が迎撃して敗走させた戦いが起きている。原昌俊は武田二十四将の1人に
数えられる原隼人佑昌胤(まさたね)の父で、昌俊自身も信虎〜信玄期に武田家の陣馬奉行(戦場選定や戦況報告を務める)を
務めた名将であった。昌俊が戦場に選んだとあればそれなりに険要な地だった事が想像できるが、実際宇津谷の眼前で甲斐の
大河である釜無川に塩川という大きな支流が合流しており(ちなみに先般から名の挙がる七里岩台地を作ったのはこの2つの川)
大河川とその隣に広がる肥沃な耕作地という地形も、陣屋の選地に少なからず影響したのではなかろうか。■■■■■■■■■
宇津谷村陣屋は臨済宗天香山妙善寺の向かいにあった郷士・久保寺平右衛門の屋敷を用いて運営された。この屋敷は穂坂路に
面しており、敷地の裏には六反川(釜無川の小さな支流)が蛇行している。即ち、陸路と水路の両方を管制する好適地でござった。
代官所の主な任務である年貢の収納・搬出などにはうってつけの場所であろう。当時、この陣屋には代官2名が派遣されていた。

場所を遷していく陣屋■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし宇津谷村の陣屋設置から7年、1753年(宝暦3年)に河原部(かわらべ)村へと一橋家の陣屋は移転した。河原部村は現在の
韮崎市街地、つまり甲州街道の韮崎宿を擁する地である。韮崎宿からは北へ向かう佐久往還、南への駿信往還が分岐する陸路の
一大結節点であった。と同時に釜無川の川湊(河原部河岸(舟山河岸))も使え、それは富士川舟運流通物資を陸路と載せ替える
“物流集積地”である事も意味した。信州へ運ばれる海産物や塩、逆に信州からもたらされた米などが河原部で中継され、単なる
宿場町ではなく商業都市としても栄えていた町なれば、商品経済が発展しつつあった江戸中期ここに陣屋が移るのも必然であろう。
租税管理のほか訴訟・司法執行などの民政を行った陣屋であるが、河原部村陣屋の敷地規模は東西が約33m×南北およそ52mと
それほど大きな規模では無い。この面積の中に主屋・長屋・土蔵・同心役宅の建物が収まっていたと言うのだから、かなり建物が
密集していたのではなかろうか。なお、河原部村に移って以降、派遣される代官は1名に減員されており申す。■■■■■■■■■
商都の中にある小ぢんまりした陣屋ではかなり慌ただしく仕事に追われていたと想像できるのだが、一橋宗尹が1764年(明和元年)
12月22日に没し、2代目当主として民部卿治済(はるさだ、宗尹の4男)が家督を継いだ後の1794年(寛政6年)領地替えが行われ、
一橋家の統治実務は遠江国榛原郡相良(静岡県牧之原市)で行われる事となった。一橋家の陣屋は相良の隣村・波津(はづ)村に
置かれ(波津陣屋)河原部村は天領となったため、河原部村陣屋は廃されるのだが、この時に河原部村は陣屋の存続を願い出た
そうだ。一橋時代はよほど善政が行われていたのでござろうか?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
(波津陣屋への移転は1801年(寛政13年)とする説もある)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
余談だが波津陣屋に派遣された代官(波津代官)は歴代数人が悪政を行ったとして名が残り、波津の村民が暴動や直訴を起こし
代官の罷免が相次いだと言うのだが…(例外として領民から尊敬されたのは小島源一焦園(こじましょうえん)と言う旗本のみ)。
河原部と波津、同じ一橋家の陣屋なのにエラい違いである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
各陣屋の現状であるが、宇津谷村つまり甲斐市宇津谷の一橋陣屋は写真の通り田圃となっている。国道20号線に並走する山梨
県道6号線が六反川を渡る地点にある小さな交差点をJR中央本線の線路方面へ曲がると、線路を潜るガードの手前にこの田圃が
あるのだが、正直分かり難い道筋である。しかも細道な上、地域住民の生活道路となっているので案外交通量も多い。来訪するに
色々と難儀する場所なので、くれぐれも交通安全や住民の方への配慮を忘れずに。妙善寺は今なお同じ場所にあるので、それを
目印にするのが良いだろう…と云っても結局は田圃を見に行くだけになる訳だが(苦笑)田圃の傍らに案内看板が立っているだけ
有り難いと言うもの。ここは1975年(昭和50年)10月7日に双葉町(当時)指定史跡となっており、現在は甲斐市指定史跡として継承
されている。どうやら地下の遺構は手付かずのまま?なのやも。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方、河原部村の陣屋址は全く市街地化されており、何の痕跡も残らない。JR韮崎駅の南側、韮崎市商工会館が建つ敷地と、その
隣にある本町ふれあい公園と言う小公園が陣屋跡地。説明にあった敷地規模はこの面積に完全一致するので、この一角だけが
陣屋として使われていた場所なのであろう。遺構が無い分、写真の如く石碑と解説板は実に立派だ。公園には御手洗も完備され、
時間貸し駐車場も目の前にある。もちろん駅からも徒歩圏内。商業地のド真ん中にあった陣屋、という雰囲気だけは充分味わえよう。





谷村城・勝山城 [都留郡]・谷村陣屋  若神子城周辺諸城館