武田家“最期”の城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
甲斐源氏の名門・武田家最後の城郭。「新府中韮崎城」が正式名称。釜無川に面した段丘を利用した立地は堅固そのもの。■■■
1575年(天正3年)5月21日、長篠・設楽ヶ原(愛知県新城市)の合戦で織田信長・徳川家康連合軍の鉄砲戦術によって大敗を喫した
武田四郎勝頼。以後、武田家は勢力を回復する事がならぬまま急激に衰退していく。長篠合戦までに武田家が獲得した東海地方の
領土は徳川家の手に落ちていき、越後上杉氏の家督騒動に端を発した外交問題では、背後の盟友たる小田原後北条氏との関係が
断絶。西の織田、南の徳川、東の北条と、3方が敵に回ってしまった勝頼は領国防衛に新たな手を打たねばならなくなり、それまでの
平易な館造りであった居城・躑躅ヶ崎館(山梨県甲府市)では敵軍の来襲に備えきれないと判断する。斯くして、一門衆の重鎮である
穴山玄蕃頭信君(あなやまのぶただ)の進言に基いて1581年(天正9年)春、ここ韮崎の地に新城を築く事を決定。配下の智将・真田
安房守昌幸を普請奉行にし2月に起工、昼夜を問わぬ突貫工事で城の完成を急がせたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■
城が築かれた場所は南西側に釜無川が流れ、その川岸には河川侵食によって出来た七里岩と呼ばれる絶壁の岩肌が屹立、天険の
要害を為している。この七里岩は比高差約130mにも及び、とても登れるものではない。一方、城の北東側には七里岩上面から延びる
平野部が広がり、その平面の中、城の部分だけが独立した小山になっている。しかも、小山の頂部は比較的広い曲輪を取れる敷地と
なっており、ここを本丸としている。本丸の大きさは東西90m、南北120mのほぼ長方形。そこから段を下るようにしていくつかの曲輪が
用意され、この小山全体を要塞化する事で厳重な防備を図ろうとする意図が汲み取れよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の南東隅、大手口に当たる位置には武田流築城術お得意の丸馬出しと三日月堀の組み合わせ。反面、山麓北西側の2箇所には
「出構え」と称される突起状の小陣地を設置している点が興味深い。この出構えは主に鉄砲銃座として用いる事を念頭に置いた先進
的なもので、騎馬戦術を信奉していた武田軍にあって鉄砲の有効性に開明した新たなる構造物として評価できよう。これを北西側に
置いたのは、不倶戴天の敵である織田の軍が西から来襲するであろう事を見越しての事か。時計回りに城山の西〜北〜東には堀も
掘削され、やはり北西側の守りを重視している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
本城域は東西550m×南北600m。外周部と本丸の比高差約80mで、大きすぎず小さすぎず、実戦を最重視した規模でござろう。■■■
使われぬまま放棄■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
春に始まった工事は急ピッチで進められ、同年12月には本丸居館が完成。早速に勝頼は躑躅ヶ崎館を引き払って入城する。城域の
工事はまだ途中であったがここを甲斐の新たな府中に定めた彼は、城名を新府とし新都市の成立を計画。武田の家を護る新たなる
首府を急いで創り出し、劣勢を挽回する為の戦略を練ろうとしたのでござる。しかし焦る勝頼の思いは裏目裏目に出る。■■■■■
新府城築城の為の資材供出を命じられた勝頼配下の将・木曽左馬頭義昌は苛烈な要求に業を煮やすと共に、勝頼の器量に疑問を
抱き翌1582年(天正10年)2月、武田家を見限って織田信長への鞍替えを決意した。義昌が領した木曽の地は武田領西端にして織田
家との境界であり、信長は戦わずしてこの要地を手にしたのである。一方、義昌の裏切りに激怒した勝頼は木曽追討軍の派遣を決し
配下諸将に急遽出陣を命じた。ところが、この出陣命令は火に油を注ぐ結果になる。勝頼率いる武田家に「もはや昔日の勢い無し」と
思わせる事になり、部将らは次々に離反した。その情勢を見た信長は、今こそ武田家殲滅の好機と捉え、同盟者である家康と共同し
武田領への全面侵攻に踏み切ったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
当然、武田領各地の武将は勝頼の命令を無視し織田・徳川軍に降伏していき、勝頼は木曽追討どころか自国防衛すら叶わぬ状況に
なってしまった。織田軍が西から迫る中、新府の勝頼は止むを得ず東へ逃亡する道を選び、城を自焼して落ち延びた。未完成の城で
ある新府城では満足に戦えないとの判断によるもので、着工から僅か1年ほどで、戦いらしい戦いもないまま、この城は主の手により
放棄される悲しい結末を迎えたのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
新府を離れた勝頼もまた、織田軍の追撃から逃れきれず3月11日、甲斐東端に近い天目山(山梨県甲州市)にて自刃し、一族全滅と
相成った。新府城が滅した時、甲斐武田氏も滅亡を迎えたのである。勝頼の父・徳栄軒信玄が躑躅ヶ崎館で国を治めていた頃には
「人は堀、人は石垣、人は城」として大城を構えず、人心掌握を第一としていたのが武田の家風だったが、勝頼の強引な築城と無理な
出陣命令は家臣の心を離してしまい、国家の根幹を崩壊させた。躑躅ヶ崎から新府へ移り、大城に頼った時から武田家滅亡の序曲は
始まっていたと言えるのかもしれない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
天正壬午の乱で再利用?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうして廃城となった新府城。然る後、同年6月には本能寺の変で織田信長まで死亡。甲斐・信濃をはじめとする旧武田領は空白地と
なり、この混乱を収拾するべく遠江・駿河から徳川家康が、武蔵・上野からは北条氏直が進入する。互いに甲信の領土を手にしようと
対決した両者はここ新府城近辺で対陣し、かつての城跡には家康が入って本陣とした。廃城後とは言えども、堅固な新府城の構えに
後北条氏はなかなか手が出せない。皮肉にも、勝頼が戦った相手である家康が新府城を有効活用する事になり、結果、後北条軍は
撤退する。これにて甲信の領土は徳川氏のものとなった。なお、この戦いに於いて徳川家が新府城の改造を行った可能性もある。■
(搦手口付近、水戸違いを備えた濠と土塁の重なりは後の徳川将軍家居城の江戸城(東京都千代田区)と共通するものがある)■■
ともあれ、歴史上で新府城が用いられたのはこれだけであり、以後は完全に廃絶。そのため城跡の旧態はほぼ手付かずで放置され
遺構は残される事になり、1973年(昭和48年)7月21日に国の史跡と指定され、現在は史跡公園として一般開放されている。■■■■
ちなみに、2016年(平成28年)の大河ドラマ「真田丸」では、冒頭の新府城シーンが実際にこの城で撮影された事でも話題になった。■
史跡公園整備も着々と進み、城内の見学通路なども順次開通している。二ノ丸辺りはまだ手付かずだが、今後の整備に期待したい。
城の周辺は一面の桃畑になっており、春になって花が咲くと山頂の本丸跡から桃花の絨毯を望む事になり、それはもう見事な光景!
読んで字の如く、まさに桃源郷でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
また、本丸の片隅には長篠合戦で戦死した名将たちの慰霊碑があり、武田家滅亡までの一連の悲劇がまさにこの場所に集約された
かのようであるのも、感慨深い。戦国後期の遺構を残す優良な史跡として、甲斐武田家の終焉を物語る城として、そして観光の名所と
して、この城は一見の価値がござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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