甲斐国 岩殿山城

岩殿山城全景

 所在地:山梨県大月市

賑岡町強瀬・賑岡町畑倉
賑岡町岩殿(岩殿山)
駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★■■
★★☆■■



郡内領主・小山田氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
甲斐東部最大の都市である大月は古くから交通の要所。武蔵へ通じる道は勿論、富士五湖方面を経て相模・駿河へも抜ける場所として
重要であった。現在も中央高速の河口湖支線が分岐し、国道20号線と同139号線が交差する。この大月を領した国人が小山田氏である。
岩殿山城は小山田氏が詰の城として用いたと伝わる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
小山田氏は平安時代に坂東八平氏の末裔として勢力を広げたが、鎌倉幕府成立期の権力闘争において旧領の武蔵を追われ、ここ郡内
地方(甲斐国東部)へ逃れた。以来、郡内にて独立を保ち室町時代には甲斐守護・武田氏に抗していたが、16世紀始めに従属。とは言え
これについては家臣となった訳ではなく従属同盟に近い形態と考える向きもある。いずれにせよ以後は武田氏の重臣として活躍し、戦国
時代の武田徳栄軒信玄幕下では「武田二十四将」にも数えられた。当時、小山田氏の本拠は都留の谷村(やむら)城(山梨県都留市)に
置かれていたが、こうした中で大月(郡内北部)まで勢力を伸ばしていったのである。投石戦法を得意とする勇猛な小山田隊は常に先陣を
担い、三方ヶ原合戦など数々の激戦に名を連ね「武田の戦は小山田の投石に始まる」と謳われた。■■■■■■■■■■■■■■■■
また、愛民の情深き名君としても慕われている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
信玄死後の1582年(天正10年)、織田信長に追われた武田四郎勝頼(信玄後嗣)は僅かな主従で居城の新府城(山梨県韮崎市)を脱し、
天険を誇るこの城を目指した。新府を出る前、勝頼は岩殿山へ向かうと取り決めた上での逃避行であった。が、城主・小山田出羽守信茂
(のぶしげ)は土壇場で武田氏を裏切り受け入れを拒否。行く当てを失った勝頼は絶望し、大月手前の天目山で自害する。■■■■■■
この裏切りで信茂は不義理な武将として貶められる事となったが、冷酷な織田軍の災厄から領民を守る為の止むを得ない行動であった。
結果、信長は信茂の変心を許さず処刑されるも、城下の民が被害を蒙る事は無かったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■

城としての来歴と構造■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
岩殿山城は大月市街を見下ろす急斜面の山に築かれている。ほとんど垂直の絶壁は見るからに天然の要害。■■■■■■■■■■■
9世紀末、岩殿山は天台宗の岩殿山円通寺として開山。元来、この山は山岳信仰の霊場だったのである。10世紀になると三重塔・観音堂・
僧房などの建物が並び岩殿は門前町を形成した。さらに13世紀、円通寺は天台系聖護院修験道の山として隆盛を極め、影響は甲斐国内
のみならず駿河などの隣国にまで及んだと言う。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そんな岩殿山が城郭化したのは1530年代と見られる。正確な築城年は不明だが、山岳信仰の険阻な山は往々にして城へと変貌する事が
あり、その立地に目をつけた小山田氏が、戦時における“詰めの城”とした事は想像に難くない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
本丸、即ち山頂の標高は634m。下から見上げる様相とは異なり、山頂部一帯は比較的平坦な敷地が確保されているため、これを利用して
梯郭式に本丸・二ノ丸・馬場・三ノ丸といった曲輪が連接している。二ノ丸・三ノ丸などの曲輪は倉庫や兵舎として使われていたようだ。■■
また、見るからに岩盤質な山だが二ノ丸の下付近の小平場には井戸が(しかも2つ)用意され、滾々と水が湧いている。奇跡的な光景では
あるが、これが故に岩殿山は山城としての生命線を維持していたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
曲輪群の末端にあるのが揚城戸と呼ばれる城門跡。この門自体、その場にある巨石を利用した堅固な関門となっており、ここから下へは
一直線に山麓へ下りる(落ちる?)道が続くのみである。また、揚城戸の上には山頂部の西端に突き刺さったような縦長の岩が立ち、物見
台として活用されていたとの事。さらに、本丸の裏手は切り込んだ数条の堀切があり、搦手からの侵入を阻止している。■■■■■■■■
この城を力攻めで落とすことはまず不可能だと言ってよい。本丸から下を眺めると、まるで吸いこまれていくような雰囲気である。■■■■
現在は登山道が整備されているので1時間弱で登れるが、高所恐怖症の方は登らないほうが賢明か?拙者と一緒に登った友人は、高さに
怯えきってござった(苦笑)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
小山田氏の滅亡と共にこの城の歴史は終わりを告げたようだが、明確に廃城とされたのは1615年(元和元年)江戸幕府の一国一城令に
拠るものだと言われている。その一方、幕府は甲斐国を江戸を防衛するための最重要地と見做していたので廃城とはしたものの、密かに
要塞として活用できるようにしていたとの説もある。真偽の程は定かでないが、険峻な山上の古城址は遺構が良く残り、1995年(平成7年)
6月22日に山梨県指定史跡となっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
写真は麓に作られた模擬櫓と岩殿山の絶壁。この絶壁の上が城跡でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群等
城域内は県指定史跡




甲府城・(八代郡)勝山城  谷村城・(都留郡)勝山城・谷村陣屋