甲斐国 甲府城

甲府城本丸跡

 所在地:山梨県甲府市丸の内・中央

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆
★★★★



戦国最末期での誕生■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名は舞鶴城。JR甲府駅南口のすぐ目前にある総石垣造りの勇壮な城郭。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国時代の甲斐国(現在の山梨県)を治めた武田氏は1582年(天正12年)3月に滅亡し、それに代わって甲斐国を得た織田信長も
同年6月に本能寺で討死、国主不在の空白地となった甲斐を手にしたのは、結果的に徳川家康であった。家康は甲斐統治の為に
とりあえず武田氏の居館であった躑躅ヶ崎館(甲府市内)を利用して武田氏の旧臣らを慰撫、民心の安定を最優先に図ったのだが
躑躅ヶ崎館は手狭な上に強固な防衛設備がなかったので、同時に新城郭の建築を開始した。候補地となったのは躑躅ヶ崎館から
南南西およそ2.4kmに位置する一条小山で、甲府盆地に隆起する独立丘陵。甲斐国の要となる甲府を押さえる為には戦国争乱に
対応し、かつ広大な城下町を形成しやすい平山城が最適とされたのだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
築城は1583年(天正13年)から始まり、家康譜代の家臣である平岩主計頭親吉(ひらいわちかよし)が工事を指揮。一条小山には
平安末期に甲斐武田氏一門衆の一条武蔵守忠頼(いちじょうただより)が居館を置いたと伝わるが、忠頼没後は寺となっていた。
そこに築城した親吉はそのまま城代に任じられ、武田遺臣の登用、武田旧法の尊重、人心掌握など、行政全般に辣腕を振るった。
こうして完成した甲府城は躑躅ヶ崎館に代わる新たな甲府の中枢となるが、徳川期における城郭構造等の詳細は伝わっていない。
恐らくこの当時はまだ土塁造りの城で、大規模な城郭工事を行うよりも、戦国最強を謳われた武田軍団を統制する事が優先された
のであろう。但し、平岩親吉が石垣職人を手配したとする記録もある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、徳川家の治世は1590年(天正18年)に幕を閉じる。豊臣秀吉の天下統一で、家康は関東に国替えとなり甲斐を手放したのだ。
その関東に接する甲府へは7月に豊臣一族の羽柴左近衛権少将秀勝(ひでかつ)が入り、強大な力を持つ家康を監視する城として
大規模な改造工事が開始された。秀勝の在城はわずか1年に満たなかったが、加藤遠江守光泰(みつやす)・浅野弾正少弼長政と
城主が代わってもその工事は継続され、近世甲府城の完成を迎えたのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
光泰・長政はいずれも秀吉子飼いの武将で、徳川を牽制する為に配された武功の者。彼ら武略に通じた城主の指揮により工事が
行われた近世甲府城は文禄年間(1592年〜1596年)に工事が完了したとされ、地形を利用した総石垣造り、複数の曲輪を巧みに
配した梯郭式の城郭となった。本丸内には天守台も築かれている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

江戸幕府枢要の城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが、秀吉死後の覇権を争った1600年(慶長5年)9月15日の関ヶ原合戦によって天下の主は徳川家康に決まった。家康の大名
仕置により甲府は再び徳川領とされ、甲府城は江戸の西を守る重要な城郭として位置付けられる。江戸と甲府を結ぶ甲州街道が
五街道(江戸と各地を結ぶ主要5街道)の一つとされた事からも、甲府の町と城が関東を守る防衛拠点であった事実が伺え申そう。
徳川氏によって甲府城はさらに改良を重ね、江戸幕府が開かれた1603年(慶長8年)には家康の9男・五郎太丸(後の徳川右兵衛督
義直(よしなお))が25万石で甲府城主となる。ただし、この時に五郎太丸はまだ2歳。実際に甲府へと入る事は無く、4年後の1607年
(慶長12年)、彼は尾張国名古屋(愛知県名古屋市)へ移封となり、御三家筆頭・尾張徳川家の開祖となった。■■■■■■■■■
その後は幕府直轄の城となり、城主に据えられたのが23万8000石で松平左近衛権中将忠長(3代将軍・徳川家光の弟)や、15万石
(後に25万石に加増)で徳川左近衛権中将綱重(4代将軍・家綱の弟)等、徳川一門の城として重視される。かつて戦国最強の武田
軍団を擁した甲府の城を預るという事は、それだけ重大な任務であったのだ。歴史に名高い義直・忠長らが城主を歴任した事で、
その事実が証明されている。5代将軍・徳川綱吉の時代には、彼の側近として幕府老中に上り詰めた柳沢出羽守吉保(よしやす)が
15万1200石で甲府に封じられ申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
吉保の入封は1704年(宝永元年)12月21日。柳沢時代に甲府城では破損箇所を修復したり建造物の増築などが行われ、城下町の
整備も成された。幕政で辣腕を振るう吉保は入国する事がなかったものの、家老の薮田重守を介して甲府の城と市井にも積極的に
施策を行い、近世城下町としての甲府を大成させたのだ。江戸時代において城郭の整備は法令で固く制限されていたが、そのような
状況でも甲府城が再整備されたという事は、吉保が如何に権力を握っていたか、そして甲府という町が如何に幕府から重要視されて
いたか、という事実を物語る。舞鶴城という別称も、甲府城がこれらの改修工事により白壁が重なり合う優美な姿に再生し、さながら
鶴が舞う情景を思わせる事から名付けられたようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
入府から20年後の1724年(享保9年)3月11日に柳沢甲斐守吉里(よしさと、吉保の後嗣)は大和国郡山(奈良県大和郡山市)へ移され
甲府を去るが、吉保に整備された甲府城は櫓5基、大型の櫓門を3棟も有する大城郭となり、その後も徳川幕府を鎮護するものとして
重用された。このため吉保以後、甲府領は明治維新まで誰にも与えられず、幕府の天領とされたのだった。ただ、平穏無事な訳では
なく、1727年(享保12年)には大火で焼失、1734年(享保19年)には盗賊が城に侵入し1400両もの大金が盗まれる事件が起きている。
幕末の1866年(慶応2年)からは勤番制ではなく城代が置かれるようになり、高崎藩主・大河内松平右京亮輝照(てるあき)―小田原
藩主・大久保加賀守忠礼(ただのり)―松代藩主・真田信濃守幸民(ゆきもと)―佐倉藩主・堀田相模守正倫(まさとも)が歴任している。

明治以降の荒廃と復興■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戊辰戦争時、甲府城を確保するため新撰組の近藤勇らが進軍するも、それに先んじて薩長軍が甲府を占領し、近藤らを退却せしめた
という事実も有名。これにて江戸幕府方は組織的防衛が困難となり、降伏へと傾く。甲府城の存在が、江戸防衛の鍵とされてきた事が
これで実証されよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
とは言え、1727年の火事で被災して以来、本丸御殿や銅門など城内建物の一部が欠損した状態のまま明治維新を迎えており、甲府
城が幕府と共に衰退していった事もうかがえる。江戸幕府が終焉を迎え、時代が明治になると幕府にとって重要だった甲府城は一応
存城の扱いとされたが建築物は順次破却され、1877年(明治10年)にはほぼ全ての建物が消滅した。■■■■■■■■■■■■■
この後、城域は勧業試験場へ転用されたのに加えて、山梨県庁舎の建築や中央本線の線路敷設に伴い、城の外郭部は完全に切り
崩されてしまった。しかし主郭部の縄張り・石垣は奇跡的に完存したため、その部分が1904年(明治37年)舞鶴城公園として一般解放
された。開園時は県借用地であった園地も1917年(大正6年)に正式な払い下げを受けて県有地となり、更には昭和以後、甲府城は
史跡としての評価が高まり、数次に渡り発掘調査が行われてきた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
従来、甲府城にあるのは天守台のみで、実際に天守は建てられなかったとするのが通説であったが、この発掘調査により天守台の
周辺から金箔瓦が多数出土。これらの金箔瓦は通常の瓦だけでなく、鬼瓦や鯱鉾といったものまで見うけられており、豊臣時代に
天守が存在したのでは?という問題提議が為されるようになった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1964年(昭和39年)舞鶴城公園は都市計画の対象に含まれ、1990年(平成2年)から都市公園事業としての公園再整備工事事業が
開始された。これに伴い園内各所は改修工事を受け、2004年(平成16年)3月に稲荷櫓の再建が成った。この再建稲荷櫓は展望舎と
名付けられ、木造入母屋造りの2重2階構造。城の北東、つまり鬼門を護る櫓として建てられた事から艮(うしとら)櫓の別称を持ち、
武具庫として用いられ1874年(明治7年)頃に撤去された旧稲荷櫓を130年ぶりに伝統工法で復活させたもので、延床面積169.912u
(1階123.341u:2階46.571u)、高さ10.865mの大規模なもの。建材は全て山梨県内で産出されたものを利用している。■■■■■
甲府城跡では稲荷櫓の他に内松陰門(うちまつかげもん)・鍛冶曲輪門・稲荷門・鉄(くろがね)門(南門)・山手御門が再建されている。
城の縄張りは山の頂点に天守台、その西側一帯を大規模な本丸として啓開し、そこから山腹ごとにいくつもの曲輪を重ねるもの。城山
全体が石垣で固められ、更にその外部には堀や馬出曲輪などが配置されて強固な防備となっていた。■■■■■■■■■■■■
現在の甲府城址は、上記の通り城山の西側が山梨県庁舎・県警本部・県会議事堂となり、北側にはJR中央本線・身延線の線路が
走って、それらの部分が損なわれたものの主郭部はほぼ完全な状態で残されている。よって、JR甲府駅ホームから城の高石垣を
望めば、圧巻というしかないほどに見事な景観である。同じく甲府市内にある躑躅ヶ崎館が欝蒼とした森に囲まれた神社となって
いるのに対し、甲府城址は広々とした開放的な舞鶴城公園として市民の憩いの場となっている。城内最高所である天守台から見る
風景は、遠くアルプスの山並みから、近くは甲府の町を隅々まで、しかも全周に亘って目に入れられて感動。春先には桜の名所としても
名高うござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
このように見事な遺構が残り、また更なる整備計画も進行する甲府城は2006年(平成18年)4月6日に財団法人日本城郭協会から
日本百名城の1つに選定された。1968年(昭和43年)12月12日に山梨県史跡指定を受け、2019年(平成31年)2月26日に国史跡にも
指定された上、2022年(令和4年)3月15日には追加指定も受けている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡








甲斐国 勝山城

勝山城址

 所在地:山梨県甲府市上曽根町字勝山
(旧 山梨県東八代郡中道町上曽根字勝山)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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津々浦々に勝山城あれど■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「勝山城」という名前の城は全国各地にあり、甲斐国内でも有名な所では都留郡(現在の山梨県都留市)に勝山城(谷村(やむら)郷)が
あるが、こちらは八代郡(現在の甲府市、旧東八代郡中道町)の勝山城でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国時代中期、甲斐守護・武田氏から分家し油川(あぶらかわ)氏を称した油川彦八郎信恵(のぶしげ)の城。武田家は戦国時代前期、
国内諸豪族や諸流分家からの反乱が絶えず、守護としての力は強くなかった。反乱の都度に戦い、或いは政略結婚や外交戦術を用い
何とか命脈を保っていた中で武田氏16代当主・武田刑部大輔信昌(のぶまさ、大膳大夫晴信の曽祖父)は、対立していた守護代である
跡部家から息女を押し付けられた。この娘が信昌の嫡男である五郎信縄(のぶつな)を産むのだが、他方、側室との間に産まれた2男が
信恵であり、当初は山梨郡油川(現在の甲府市〜笛吹市にまたがる地域)の地に館を得た事から油川姓を有した。■■■■■■■■
長幼の序に従い武田家の家督は信縄が継承したものの、跡部家の血を引く者に怨嗟の念を持つ信昌はこれを廃嫡し信恵を擁立せんと
した。そのため、信縄と信昌・信恵の間には断絶が生じていく。両者は何度と無く対立し、こうした過程に於いて信恵は油川の館から移り
ここ、勝山に城を構えたと見られる。1492年(明応元年)の事だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
勝山城は甲府から駿河へと抜ける「中道往還」と呼ばれる道沿いにあり、主要街道を押さえ、甲府の町を南から睥睨するに適した小山で
あった。信恵とその弟・松尾次郎信賢(のぶかた)はこの城に拠り、当時は石和(いさわ)館(甲府市内)に居た(異説あり)信縄との抗争を
繰り返す。ちなみに信賢は信昌の4男。油川氏付きの家臣・松尾家の養子とされて信恵と共に信縄と戦った人物であり、為に勝山城へと
入っていた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

武田信虎の戦い■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1505年(永正2年)に信昌が、1507年(永正4年)に信縄が病没すると、この抗争は信縄の嫡男・陸奥守信虎に継承される。武田の家督を
継いだ信虎はこの時わずか14歳。そんな信虎を、対立した兄・信縄の後継ぎにして若輩者と侮った信恵は本格的に宗家への反旗を掲げ
信賢と共に5000もの兵を集めるに至る。防戦に努める信虎は苦戦を強いられるが、1508年(永正5年)10月4日に坊ヶ峰(山梨県笛吹市、
旧東八代郡境川村)で油川軍への強襲を行った。完全に不意を衝かれた信恵方は防戦ままならず、信恵とその子である信貞・弥九郎・
珍宝丸兄弟、信恵の同母弟で信昌3男である岩手(油川)四郎縄美(つなよし)ら、殆んどの者が討ち取られた。斯くして勝山城は落城し、
甲斐守護家は信虎によって統一されたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし信虎の戦いはまだ始まったばかりであった。武田家の相続争いを平定したとは言え、甲斐国内の国人領主は独立割拠の状態に
あり、守護家の命に従わぬ者が数多くいたのである。こうした中で1515年(永正12年)有力氏族である大井氏が駿河守護・今川氏と謀り
信虎への戦いを起こした。大井氏もまた、武田氏から分家した甲斐源氏の一門である。駿河から甲斐へと来襲した今川軍2000は、中道
往還に近いこの勝山城を占拠し信虎を脅かす。大井・今川連合軍に圧された信虎は、一時居館を放棄し菩提寺の臨済宗乾徳山恵林寺
(山梨県甲州市塩山にある古刹)に逃げ延びる程だったが、小山田(おやまだ)氏を始めとする他の甲斐国人衆を味方に就けるなど粘り
強く継戦、1517年(永正14年)に50余日の交渉の末、今川軍を甲斐国内から退去させ一応はこの乱を平定した。■■■■■■■■■■
大井氏の挙兵はこの後も度々続いたが、遂に信虎はこれを討ち倒す。結果、大井氏の娘が服従の印として信虎に嫁ぎ子を成した。この
子供らが戦国の名将兄弟、武田信玄入道晴信・典厩信繁(のぶしげ)・逍遙軒信廉(のぶかど)でござる。■■■■■■■■■■■■■
一方の今川家であるが、1521年(大永元年)にも家臣の福島上総介正成(くしままさしげ、まさなりとも)が率いる兵によって勝山城を占拠、
武田家との係争を繰り返したが、信虎の跡を継いだ晴信の時代、盟約を結ぶに至った。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

そして天正壬午の乱■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その晴信も没した後、四郎勝頼(晴信の後継者)が織田信長に討たれ武田家が滅亡した1582年。信長もまた本能寺に斃れた事で甲斐は
無主の国になる。この地を争って東海の徳川家康と小田原の北条左京大夫氏直が兵を送り込み、両者は対陣した。中道往還を制する
交通の要衝・勝山城は徳川家康配下の名将・服部半蔵正成率いる伊賀組が占領し、城の改修を行って後北条軍に備えた。この様子は、
江戸時代に編纂された甲斐の地誌「甲斐国志」の中に「上曽根村勝山ノ旧塁ヲ修シ、服部半蔵ニ伊賀組ヲ添エヘテ守ラシム」とある。
徳川・後北条の戦いは3ヶ月ほど続いたが、和議の約定が結ばれて後北条軍は撤兵、甲斐・信濃は徳川家の領土となった。但し、乱後も
勝山城の重要性を鑑みて、「家忠日記」(家康配下の将・深溝(ふこうぞ)松平主殿助家忠の日記)でこの年の11月7日「勝山取出普請」と
ある。家忠が勝山城の改修工事を行ったと言う記述でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうした記録が残る勝山城ではあるが、いつしか風化し人々の記憶からも消え去っていった。勝山城は伝承だけ残るも、存在の判らない
城となっていた訳だが、1983年(昭和53年)農道整備に伴う発掘調査が行われた結果、堀や土塁の痕跡が確認され400年ぶりに位置が
確定されたのである。然るにその城跡、現代では果樹園になっていた。城地の小丘陵はそのまま園地となり、住宅街に残された空間と
なっているが、堀や土塁などの遺構は大半が植樹により改変を受けてしまってござる。わずかに見られるのはうっすらとした0.5m程度の
土塁らしき土盛や、農道として埋められた堀筋の向きを想像する程度である。そもそも果樹園、即ち私有地であるため城跡見学と言えど
勝手な立ち入りは憚られよう。当然、史跡指定などは行われていないし観光するような雰囲気でもない。駐車場も無し。■■■■■■■
遺構の消えた城跡では写真にある標柱が僅かに立っており、そこには一首「沼田めぐり 攻めるにかたし 勝山城」と歌が記されているが、
私有地である現在はまさに「攻めるにかたし」堅城と言える。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等




躑躅ヶ崎館・要害山城  岩殿山城