甲斐国 躑躅ヶ崎館

躑躅ヶ崎館跡 武田神社

 所在地:山梨県甲府市古府中町・屋形・大手

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★■■
★★★☆



「甲斐府中」の守護館■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
甲斐守護職・武田氏3代が本拠地とした城館としてあまりにも有名。「人は城、人は石垣、人は堀…」で始まる名文句で謳われるのは
この館の事である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
甲斐国(現在の山梨県)に勢力を張る甲斐源氏・武田氏の起源は平安時代にまで遡る。源氏繁栄の基礎を築き、奥州征伐などに
抜群の武功があった源義家は八幡太郎の呼び名高く、後世に源氏血統を称する者達がその祖と誇る武将であった。義家の弟で
ある義光(よしみつ)もまた、後三年の役へ参陣して新羅三郎の名を轟かせ、覇を唱えた剛勇の将。この義光は甲斐国に封を得て
土着し、以後の世に甲斐源氏の血脈を遺すようになったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
義光から始まる武家の名門・甲斐源氏の嫡流、それこそが武田氏だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
(武田氏の出自は常陸国(茨城県)武田からのものとする説もある)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
時は移り室町時代、足利氏によって幕府が開かれた際にも武田氏が甲斐守護に任じられ父祖伝来の地を領有、勢力を維持した。
ところが1467年(応仁元年)京都で勃発した応仁の乱は日本全土を巻き込み従来の権威・伝統・政治体制をことごとく破壊していく
10年規模の大乱になった。武田氏はこの戦いに参加しなかったものの、全国に蔓延した下剋上と戦乱の機運は甲斐国にまで押し
寄せ、守護職の地位を危ういものにし始めた。国内各地の国人衆は、隣国・信濃国(長野県)の勢力をも含み守護たる武田氏への
反乱を起こすようになって行く。それどころか、武田の一族内からも主家の地位を奪おうと画策する者までが現れたのでござる。
ところが、武田氏の武威はそれに負けるほど脆弱ではなかった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
武田刑部大輔信昌(のぶまさ)・左京大夫信縄(のぶつな)・陸奥守信虎(のぶとら)と続く武田本家は、1490年代〜1510年頃に渡る
これら数々の兵乱を次々と返り討ちにし武田家の実力を国内外に轟かせる。名門意識に流され、全国各地の守護が没落していく
風潮の中、武田氏は武力を以って国内平定を成し遂げ、家門の安定に成功したのである。■■■■■■■■■■■■■■■■
こうした情勢の中、甲斐武田氏18代当主である信虎は、旧来の居館だった川田館(山梨県甲府市川田町)が河川氾濫に悩まされる
不便な地にあったため、1519年(永正16年)それに替わる新たな守護所を築いた。これが躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)である。
躑躅ヶ崎館は北・東・西の三方を山に囲まれ、南方に甲府盆地が開ける利便の地に建設されたが、信虎の造営時では堅固な城郭
形式にはなっておらず、守護の御座所たる平易な館でしかなかったと言われる。つまり、伝統的な方形居館を踏襲した形状であり
その縄張りも、創建当初は現在の東曲輪と中曲輪の部分しかなかった。この為、躑躅ヶ崎館は平時における武田氏の住居としての
機能しか有せず、もしも敵が攻めて来た場合には館を放棄し、北東約2.5kmの山中に築かれた要害山城(下記)に退去して籠城戦を
行うとされた。逆に言うと、戦国大名化していった武田家と言えど、未だ伝統権威に立脚した館を必要としていた訳である。この館を
中心にした町が「甲斐府中」つまり「甲府」と名付けられる訳だが、これも古典的な“国府”という概念を継承したものだった。■■■
とは言えど、軍備増強政策を旨とする信虎の治世において躑躅ヶ崎館にまで敵が来攻する事はなく、もっぱら甲斐国各地で起きる
争乱を平定するべく出陣を繰り返す事ばかりであった。戦いに明け暮れる信虎は、他国からの侵略リスクを回避すべく躑躅ヶ崎館
造営の直前、1517年(永正14年)に駿河国(静岡県)の今川家と和解し、1537年(天文6年)には娘を嫁がせて同盟を組んでいたが、
駿河からの侵略を抑えただけでは不十分で、上記の通り信濃諸勢力や相模(神奈川県)の後北条氏などが甲斐国を侵そうと狙って
いた。国内の国人衆の反乱、信濃・相模からの侵犯など、信虎の統治時代は戦争に次ぐ戦争で、内政を省みる余裕などなかった。
軍事一辺倒の信虎によって、次第に甲斐国内は疲弊していく。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
(但し、近年では信虎の治世(特に経済政策)が再検証され、躑躅ヶ崎館を中心とした都市計画などが再評価されつつある)■■■

武田晴信・勝頼による継承■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうした状況を鑑みた信虎の嫡子・大膳大夫晴信(はるのぶ)は1541年(天文10年)6月に決起した。この時信虎は、今川家に嫁いだ
娘に面会するとして甲斐を離れ駿河へ赴いたが、晴信は甲斐・駿河国境を封鎖しそのまま父・信虎を追放したのだ。無論、今川家と
結託した行動であり、このクーデターによって晴信は武田の家督を継承し新たな甲斐国主、新たな躑躅ヶ崎館の主となったのである。
晴信は富国強兵策を展開、国内の治世を十分に固めつつ、信虎時代よりも効果的に軍備増強と領土拡張を成し遂げていく。■■■
駿河今川氏だけでなく相模後北条氏とも盟を結び後顧の憂いをなくした晴信は、甲斐国内を完全に平定し信濃侵攻へと軍を進めた。
信虎時代に基礎が固められた甲州兵は晴信の軍略で大成し、無敵を誇る武田騎馬軍団として全国にその勇名を轟かせていくのだ。
この過程において躑躅ヶ崎館は防衛設備を増強され、戦国大名の城郭へと改良されていく。されどもその内容は、堀や土塁の整備、
曲輪や馬出の追加といった簡素なもので、大掛かりな石垣造成や天守の建立というような巨大事業ではなかった。■■■■■■■
無敵の武田氏に堅城は不要、精強な兵と国の繁栄を築く人材があれば、敵が国の中枢に来襲する事はないのである。冒頭に記した
「人は城…」は晴信による国家防衛理念を表したもので、大名の居所を守るのは頑強な軍事要塞ではなく、国民一丸となる団結力と
国全体の発展であるとしたものなのだ。それが示す通り、躑躅ヶ崎館が攻撃に遭う事は一度たりともなかった。■■■■■■■■■
甲斐の安定と信濃への領土拡張を成し遂げた名君・武田晴信、彼こそが戦国屈指の名将として名高い武田信玄その人である。■■
信玄はその後、駿河国も併呑。甲斐・信濃・駿河の3国を有する大大名になり上洛を果たすべく西上作戦を発動するが、志半ばにして
病に倒れ没する。武田の家督を継ぎ躑躅ヶ崎館の主となったのは、信玄の4男・四郎勝頼でござった。■■■■■■■■■■■■■
精強な武田騎馬軍団を束ねる立場となった勝頼は、信玄の所業を超えるべく西への積極的な領土拡張政策に走り、軍拡の道を選ぶ。
しかし勝頼に父・信玄ほどの軍略はなく、その手法は猪突猛進、力攻めあるのみという強引なものであった。こうした隙を突いたのが
織田信長と徳川家康である。信玄に圧され続けた両者は、血気盛んな若き勝頼を誘き寄せ、鉄砲攻撃で武田騎馬軍団を打ち破った。
1575年(天正3年)5月21日、史上名高い長篠・設楽ヶ原の合戦である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この敗北により壊滅的打撃を被った武田軍は凋落の道を辿り、織田・徳川方に主導権が廻ってしまったのでござる。■■■■■■■

捨てられた「古府中」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
信長と家康に翻弄される勝頼は敗戦に次ぐ敗戦を重ね領地を失っていく。国土防衛に危機感を募らせた勝頼、躑躅ヶ崎館の防備では
不足と考えるようになり、重防備の新城・新府(しんぷ)城(山梨県韮崎市)を築きそこへ移転した。時に1581年(天正9年)の暮れであり、
これで躑躅ヶ崎館は主を失った。これにて武田氏居館として62年の歴史に幕が降りたのである。ちなみに「新府」の名は「新たな府中」を
意味し、勝頼は遷都を行うつもりで新城を構築したのでござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
されど甲府の町の基軸にあるのは躑躅ヶ崎館である事に変わりなく、勝頼が敗走を続け1582年(天正10年)3月に自刃、信長が甲斐を
手中にした後も甲府統治の本拠として利用される。同年6月に本能寺の変が発生し織田氏も衰退したため、結局、甲斐を治めるように
なったのは徳川家康であった。家康も同様に躑躅ヶ崎館を継続して利用、改修工事を行うなどしている。徳川時代において、躑躅ヶ崎
館には石垣が造営され、天守台も築かれた(但し、天守台はあるものの実際に天守は建てられなかった)。■■■■■■■■■■■
しかし、それと同時に躑躅ヶ崎館の南方にある一条小山(甲府盆地の中央にある小山)に新城を築城し始め、その城(甲府城)が完成
すると甲斐統治の中心はそちらへ移るようになる。斯くして躑躅ヶ崎館はその役目を終え、次第に廃れていった。廃城となった正確な
時期は不明だが、恐らくは文禄初頭と思われる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
廃城前の最終的な縄張りは、曲輪の北西隅に天守台を抱く中曲輪が中心とされ、土塁を隔てて東曲輪を構成する。中曲輪と東曲輪を
併せるとほぼ正方形の敷地となり、これを1重の濠が囲っている。その西側に土橋で繋がれた西曲輪が接続、西曲輪の南には巨大な
角馬出しを連想させる梅翁曲輪が設置された。西曲輪・中曲輪・東曲輪の北には味噌曲輪・無名曲輪などの小曲輪が多数置かれて
城内の構成を複雑なものにしている。典型的な平城の縄張りと言えよう。大手は東面で、その前にも角馬出がある。■■■■■■■
全体的な敷地の大きさは、東西283m・南北193mとなっており、土塁の平均的な高さは4m程度。現在もこれらの曲輪はほぼ完全な形で
残されており、その敷地は1919年(大正8年)に創建された武田神社の境内となっている。なお、武田神社の正面入口は市街地を向く
南面に開かれているが(写真)これは躑躅ヶ崎館時代の開口部ではない。一見、石垣を構えた勇壮な構えなのだが…。■■■■■■
名前から分かる通り、武田神社は武田氏を祀り甲斐の発展を祈願する社である。曲輪・堀・土塁・(徳川期の)石垣など、中世城館の
遺構が良好な状態で現存するので躑躅ヶ崎館跡は1938年(昭和13年)5月30日に「武田氏館跡」として国の史跡に指定され申した。
2006年(平成18年)4月6日には財団法人日本城郭協会から日本百名城の1つにも選出されている。■■■■■■■■■■■■■■
敷地内には信玄使用の井戸などが残っており、在りし日の姿を彷彿とさせてくれる。名将・武田信玄の住居はどんなものであったのか、
想像するのも楽しゅうござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡








甲斐国 要害山城

要害山城 主郭裏堀切

 所在地:山梨県甲府市上積翠寺町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★★
★☆■■■



躑躅ヶ崎の「詰の城」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
要害山は「ようがいさん」と読むのが通例。単に要害城、所在地から積翠寺城(積翠城、積翠要害山城、石水寺城)とも。城山の山容が
甲府市街地側(南西側から北東を向く)だと丸い山に見える事から、丸山の城とも言う。躑躅ヶ崎館の“詰の城”として築かれた険峻な
山城で、甲府盆地の北端を塞ぐ標高787m(但し、城の主郭部はそれより一段低い780m近辺に築かれている)の丸山にある。■■■■
躑躅ヶ崎館が築かれた翌年、1520年(永正17年)の6月に築城工事が行われたのが創始である。これは武田家重臣・駒井高白斎政武
(まさたけ)が著した日記「高白斎記」に記載があり、この時期が特定できる。伝統的な権威を示す方形居館である躑躅ヶ崎館に連携し
この城が戦時に立て籠もる要塞として用意された。1521年(大永元年)に今川家臣の福島上総介正成(くしままさしげ、まさなりとも)が
1万5000と言われる大軍を率いて甲斐へ侵攻を開始。対する武田信虎の手勢は2000程度だったとされ苦戦を強いられる。この危難に
信虎は正室の大井夫人を躑躅ヶ崎館から避難させ、この要害山城へ入れた。当時、大井夫人は懐妊中で11月3日に城の中で男子を
出産している。この子が信虎の嫡男・太郎で、長じて晴信、つまり信玄になるのである。即ち、武田信玄は要害山城で誕生した訳だが
険しい山を臨月に近い妊婦が登った(自力でなくとも、輿を使っても登るのは難しい)と言うのも考えづらく、山の麓にある臨済宗万松山
積翠寺での事とする説もある(積翠寺境内に「信玄産湯の井戸」がある)。ともあれ、男子誕生に湧いた武田勢は劣勢を跳ね返し11月
23日の上条河原合戦で大勝、福島正成を屠っている。恐らく、要害山城が実際に使われたのはこれが唯一の事例だったようだ。■■
その信玄が国主であった時期も躑躅ヶ崎館が武田家の本拠とされ、要害山城が詰の城として控えていた。「人は城」の理念を実現した
信玄にとって、実際に詰の城を用いるような事態は起きなかったが、他の戦国大名が自身の居城を拡大強化する傾向にある世情で、
館作りの守護所を本拠とし続けた武田家は“戦国最強”の名に恥じぬ統治体制を作り上げた事になろう。さりとて、乱世の中で本当に
「館だけ」で国を守れた筈が無い。よく「武田信玄は自分の領国内に城を作らなかった」と言われるが、実際には“頼るべき詰城”つまり
要害山城があって初めて躑躅ヶ崎館が政庁城館としての任を果たせていた事になろう。現代でも「外交には抑止力の裏付けが必要」と
言われるのと同じでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

勝頼の改修と放棄■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
長篠合戦以後、武田家は衰退の一途を辿った。勝頼もそれは実感していたのか、1576年(天正4年)6月1日付の朱印状で要害山城の
改修を指示している。帯那郷(甲府市上帯那町・下帯那町)に住む17歳以上60歳までの男を毎月3日ずつこの城の修理に参加させる
もので、その代わりに河川改修などの普請役は免除している。軍記物「甲陽軍鑑」や地誌書「甲斐国志」では要害山城の城番として
駒井次郎左衛門・武藤山城・駒井右京亮政直らの名が挙がっており、信玄の頃は“使わなくとも”維持されてきたこの城が、にわかに
“危急存亡の城”として重視されるようになってきた様子が分かる。だが結局勝頼は新府城の築城・移転を決めてしまい、要害山城は
打ち捨てられる事となってしまった。遅ればせながら武田家も「自身の居城を拡大強化する」方向に舵を切ったのだろうが、結果として
要害山城の改修は無為に終わり、また新府城は武田家を守る役には立たなかった。今更言っても詮無い事だが、風林火山の旗印を
掲げる武田家が「動かざる山を動かしてしまった」事により、甲府(領国)の民心を離れさせてしまったのが滅亡の一因となったのでは
なかろうか。不動の覚悟で甲府の守りを固めれば、新府造営の無駄な浪費を抑え、甲信の民を一致団結させる事になったであろうが
新府移転はむしろ「武田家の動揺」を公言したに等しい行いで、それが配下武将の裏切りを助長したとも考えられよう。■■■■■■
さて、武田家が滅び織田信長も没すと甲斐は徳川家康の所領となった。家康は躑躅ヶ崎館と共に要害山城も使用し、城番として駒井
政直(徳川家が登用)や日向(ひなた)玄東斎(宗立?)・半兵衛政成(まさなり)父子を遣わす。家康が関東へ移封となって以後、豊臣
政権下では加藤遠江守光泰(みつやす)が要害山城の整備を行ったそうだが、最終的に1600年(慶長5年)関ヶ原合戦で徳川家康が
政権を掌握し、甲斐を自領に組み入れた際に廃城となり申した。「甲斐国志」に「慶長五年ノ後ワリ壊ス」と記載。■■■■■■■■■

険阻な山に見事な遺構■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
丸い山に見える丸山、即ち要害山であるが、実際には南西〜北東に向かった細長い山である。城の縄張りを簡単に記せば、山頂から
一つ手前(南西側)にある小ピーク一帯を細長い主郭に造成、そこから尾根沿いの前後にいくつもの段曲輪群と堀切を並べて多重の
障壁阻塞を重ねたものだ。そしてその遺構は現在も大半が明瞭な状態で残存しているのだから素晴らしい。主郭の手前、その手前と
無数の小曲輪が連なるのだが、それぞれが馬出のような機能を果たしていてまるで“無限馬出”の如くに思える。あまりにも同じような
曲輪が並ぶので、縄張図と照らし合わせながら進んでも自分が今どこまで来たのかが分からなくなる程の(見事な)謎具合だ。もちろん
斜面の横方向には竪堀も掘られていて、曲輪を迂回して行く事は不可能。虎口も屈曲が積み重なり、非常に技巧的だ。何より凄いのが
門や井戸枠、そして堀切の断面(!)と言った要所が石垣で固められている事。山城の堀切と言うと、近世城郭でもない限りは土を削り
込んだだけで山肌が露出するものだが、ここではわざわざ土留めの石垣を組み込んでいるのだ。こんな遺構は他の山城ではなかなか
見られない。ましてや東国の、土の城の代表例と言える武田の城で…と驚かされるのだが、来歴からするとどうやらこのような技巧的
構造物は織豊系技術を導入した、つまり徳川〜豊臣時代の改修に拠るものなのだろう。こうした“石組堀切”は主郭の裏手に集中して
いるので、見学の際には主郭から先も見逃さないように心掛けて頂きとうござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
麓からの比高は250mを越える。山梨県道31号線には要害山の登り口があり、そこまでは車で行ける(駐車場もある)が、そこからでも
比高差150mを徒歩で行く事になろう。ただ、上記の如く登山路のそこかしこに強烈な遺構が次々と現れるので山登りも苦にならない。
要害山城の南東側に並行する尾根には熊城なる城もあるが、これは要害山城の側面を補強する支城と解釈される事もある。そちらは
本格的に険しい道を行き来する事になるので、注意が必要。その名の通り、熊が出没するそうなのでその対策も忘れずに。■■■■
1991年(平成3年)3月30日「要害山」の名で国史跡に指定。見事な遺構にさもありなん…と思うのだが、何せ相手は山城なので草木や
藪に覆われる事甚だしい。行く季節や天候を選ばないと、魅力半減してしまうかも?無論、危険な行為は厳に慎むべし。■■■■■■
2017年(平成29年)4月6日には財団法人日本城郭協会から続日本百名城の1つに選出されている。続百にハズレ無し、この城も期待を
裏切らない、いやそれ以上の秀逸な造形美を見せてくれるので是非とも御登城あれ!■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡




高浜城  甲府城・(八代郡)勝山城