若狭国 高浜城

高浜城本丸跡

 所在地:福井県大飯郡高浜町事代

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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★★■■■



風光明媚な海城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
JR小浜線の若狭高浜駅から北北東へ約1km、日本海へ突き出した小さな半島に高浜城がある。東西に2つ並ぶ岩山の島が、砂州で本土と繋がった
陸繋島と言う形状の半島だ。2つの岩山は海蝕によって荒々しい造形を見せる景勝地で、特に東側の山には海蝕の洞窟が貫通し、岩山に窓が開き
その手前と向こうに海が通じた「明鏡洞(めいきょうどう)」と呼ばれる名所となっている。この明鏡洞には室町幕府3代将軍・足利義満や、その子供の
4代将軍・義持が訪れ、見事な景観を激賞したそうである。明鏡洞の名は、この穴を通して日本海が眺められ水平線が鏡のように見える事から名付け
られた。歴代将軍でなくとも、感動が味わえる絶景でござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、城の主郭があったのは明鏡洞とは反対側、西の岩山である。この山の最高所は標高31.9mを数え、そこには天守が築かれていた。その下段に
広がる平場が本丸だが、そこも標高24.9mを指し眺望は抜群。天守台曲輪との間には大堀切を穿ち、狭い山頂部にも関わらず人工的な起伏を造成。
言わずもがな、この山は海蝕崖に囲まれているので陸繋部分以外は屹立した絶壁だ。その陸繋部分、つまり2つの島に接する砂嘴の平場が二ノ丸で
明鏡洞のある東の山、これは天王山と呼ばれるがそちらは三ノ丸となっている。天王山は標高38.2mで、実は本丸側よりも高さはある。広い二ノ丸は
2つの山の間が入り江となっていて、往時は舟入として用いられていた事が想像できよう。また、この入り江に面した砂浜の脇には小さな土盛があって
そこは太鼓櫓があった場所と伝わっている。海城を築くに最適な地形、そして規模を有した半島だったと言えよう。そして何より、この城は要所要所に
石垣を用いて堅固さを高めていた。写真は天守台前にある案内板(薄暗くて見難いがw)。なお、曲輪の構成については諸説ある。■■■■■■■
築城されたのは1565年(永禄8年)、若狭武田氏の家臣・逸見駿河守昌経(へんみまさつね)の手に拠る。室町期の若狭国は武田氏が守護を務めたが
この武田氏と言うのは、武田信玄で知られる甲斐武田氏と同族である。甲斐源氏武田氏は本国・甲斐の他、安芸(広島県)にも分家を作り、更に安芸
武田氏から分流したのが若狭武田氏だ。そして逸見氏というのは甲斐源氏武田氏の早い段階で枝分かれした支族で、主家である武田家の随臣として
行動を共にしており、昌経も守護・若狭武田氏の有力家臣として実力を有していた。若狭武田家臣の中の有力4氏を武田四老と言うが、熊谷大膳亮
直之(くまがいなおゆき)・武藤上野介友益(むとうともます)・粟屋越中守勝久(あわやかつひさ)と共に昌経も数えられている。だが、主君である若狭
武田家と武田四老は必ずしも円満な関係では無かったようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

若狭争乱の申し子・逸見昌経■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
昌経が出仕した当初の武田家当主は治部少輔信豊(のぶとよ)だったが、この信豊は自身の隠居を巡り嫡男の大膳大夫義統(よしずみ)と対立する。
信豊に与した昌経は義統に叛旗を翻す事となり、当時の居城であった砕導山(さいちやま)城(高浜町内)に拠って自立した。これに対して新守護の
義統が追討の兵を出し、長年争った後に1561年(永禄4年)6月19日の合戦で昌経は敗北、砕導山城は落城する。これで一時的に昌経は城を失うが
1565年に反抗を開始し砕導山城を奪還、更に新たな拠点として築いたのが平城(海城)となる高浜城であった。西若狭に地盤を持つ若狭逸見氏は、
伝統的に水軍を擁した戦力に依拠しており、山城の砕導山城よりも船戦に直結した高浜城を必要としたのである。と同時に、水運や城下町の開発に
有利な海城は、戦国末期から近世へ変革する時代において“新たな統治方法”を切り拓く新世代の城郭となった。もともと、この地には若狭武田家の
初代・武田伊豆守信栄(のぶひで)を弔う長福寺という寺があったそうだが、昌経はそれを移転させて築城したと言う。寺を退かしてまで築城好適地を
確保したと言うのだから、昌経の先見性が推測される。実際、昌経は高浜一帯の寺社再建・整備(当時は公共事業の意味合いが強い)や農漁業振興、
領内の地子銭(現代の住民税・固定資産税)免除など、領民優遇の善政を敷いた名君と現代まで讃えられている。■■■■■■■■■■■■■■
これと前後して、武田信豊と義統の父子は和解。だが、今度は越前朝倉氏への外交方針を巡って義統とその子・孫八郎元明(もとあき)が争うように
なった。昌経はよほど義統には従いたく無かったのだろう、この対立では元明に与するようになり、さらに他の武田四老も巻き込んで義統への反抗を
煽ったのである。築城の翌年、1566年(永禄9年)桑村九郎右衛門謙庵・竹長源八兵衛が率いる武田義統の水軍と、逸見河内守が主将の逸見水軍が
久手崎(福井県小浜市)沖で遭遇戦となるが、これは逸見勢の敗退。河内守は戦死した。それでも昌経は武田家への対決を続け、もはや独立領主と
なった状態を獲得する。こうした状況で維持されたのが高浜城で、久手崎敗戦の後に一時武田氏が占拠したとも言われるが、程なく昌経が奪還した。
四老もそれぞれ半独立領主となった状態で、もはや若狭武田家は四分五裂の内情であったようだ。ただ、他の四老が“主家を立て直す”事を名目に
戦っていたのに対し、昌経は専ら“武田家支配からの脱却”を目論んでいた節が見受けられる。単純に“善政の名君”とは言えない暗躍ぶりだが、元々
逸見氏は武田氏と同族…つまり、自身が主君に取って代わってもおかしくないという野心を秘めていた。これは昌経だけでなく歴代逸見氏に共通する
考えのようだが、それを成し遂げんと巧みな謀略を仕掛けるのだから、昌経と言う人は相当な食わせ者、いや、稀代の大戦略家と言えよう。■■■■

逸見昌経以後の高浜城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが結局、若狭武田家は朝倉氏に蹂躙され1568年(永禄11年)武田元明は拉致されてしまった。義統もその前年・1567年(永禄10年)に没しており
若狭は国主不在の国となってしまう。丁度その頃、中央政界を握ったのが織田弾正忠信長である。信長は朝倉氏との対立を深めており、若狭国衆は
必然的に信長を頼る事となり、昌経も織田家に臣従したのである。信長は重臣の丹羽五郎左衛門尉長秀(にわながひで)を若狭統治に充て、これ以後
昌経は長秀麾下として働いた。その為、5000石と言われた所領は安堵された他、武藤友益が追放された後(友益は信長に反抗した)は武藤家の所領
3000石も加増されている。しかし1581年(天正9年)4月16日に昌経が病死(諸説あり)すると、無嗣を理由に所領は召し上げられてしまう。一説には源太
虎清という子が居たともされるが(若狭郡県志)、旧来の所領である5000石は長秀家臣の溝口金右衛門尉秀勝(みぞぐちひでかつ)に、新領の3000石は
帰国した武田元明に分け与えられた。よって、高浜城は秀勝の城となった。ちなみに、秀勝も系譜を遡ると逸見氏の出自だそうな。■■■■■■■■■
信長が本能寺に斃れ秀吉の時代になると、1585年(天正13年)山内対馬守一豊が高浜城主となるが、すぐに近江国長浜(滋賀県長浜市)へ移される。
次いで1587年(天正15年)浅野久三郎、1593年(文禄2年)に秀吉の遠戚・木下宮内少輔利房(としふさ)が2万石(後に3万石へ加増)で城主に。されど、
利房は1600年(慶長5年)天下分け目の大戦・関ヶ原合戦で西軍に付いた為、所領は没収される。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この後、若狭一国は京極若狭守高次(きょうごくたかつぐ)の所領になる。彼は小浜城(福井県小浜市)を居城とするが、西若狭の要衝である高浜城には
家臣の佐々加賀守義勝を城代として据えている。実はこの義勝、高次の妹・竜子と武田元明の間に産まれた子なんだとか。回り回って、高浜城が若狭
武田家の城になった…と考えるのは都合の良い解釈か?(苦笑)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
最終的に、京極家が1634年(寛永11年)出雲・隠岐への転封を命じられ若狭が酒井家の領地となった頃、高浜城は廃城とされた。逸見昌経の築城から
70年、戦国乱世の城として築かれたが、近世城郭としても有用だった城でござった。廃城後、高浜は代官支配の地となっている。■■■■■■■■■
近代まで城地は小浜藩主酒井家の私有地として継承されていたが1949年(昭和24年)高浜町へ譲渡され、城山公園になっている。1981年(昭和56年)
天守台の南側に濱見神社を創建。高浜の「濱」と逸見氏の「見」から濱見神社と名付けられた神社は、逸見昌経没後400年を祀る為に築かれたそうだ。
高浜の町民にとっては、今なお城主の遺徳を偲ぶ場がこの城なのでござろう。公園化によってかなり改変を受けているのが残念…。■■■■■■■



現存する遺構

堀・石垣・土塁・郭群等




平泉寺城  躑躅ヶ崎館・要害山城