越前国 平泉寺城

平泉寺城跡 旧玄成院庭園

 所在地:福井県勝山市平泉寺町平泉寺

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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★★★☆



「城塞寺院都市」の栄華■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現代の日本では政教分離が当然の事とされ、宗教勢力が政治介入を行ったり、ましてや軍事的行動を起こすような事は皆無であるが、
中世までは有力寺院が「僧兵」と呼ばれる武力集団を擁し、彼らの要望を叶えるべく政治活動や軍事行動を行う事は茶飯事であった。
当然、そうした寺社は城構えと同等の設備を有するに至り(境内=曲輪、堂宇=櫓と言った具合で本質的に寺と城は似たようなもの)
「城塞寺院」と言われる強固な防御施設を構築する。寺の周囲には利権を有する商工業者や信者らの町も出来、それは即ち城下町と
同じように外郭まで持った都市空間を作り上げた。こうした「城塞寺院都市」の代表例と言えるのが、白山平泉寺である。■■■■■■
現在、平泉寺白山神社(そう、現状では神社なのである)境内となっている勝山市平泉寺町にある一帯は、元は天台宗霊応山平泉寺と
呼ばれる寺だった。この寺は717年(養老元年)修験道の僧・泰澄(たいちょう)によって築かれ、平安期以降は比叡山延暦寺の末寺に
組み入れられていく。山岳修行を必要とする修験道や、厳しい戒律に基づく教義の天台宗、それに白山信仰の拠点となったこの寺は
必然的に屈強な僧兵を擁する事になり、城塞寺院化していく事となる。となれば当然、軍事的活動を行うようになり、源平合戦の折に
平泉寺の僧兵集団が参戦。平泉寺の長吏・斎明(さいめい)は平家方であったが、燧ヶ城(ひうちがじょう、福井県南条郡南越前町)に
木曽義仲が派遣した軍勢が結集すると、そちらに寝返る。ところが斎明は平家の大軍が城を囲うや、それに怖気づいて再び平家方に
転じた。斎明の裏切りで燧ヶ城は落城するも、義仲本隊が来襲した倶利伽羅峠合戦で平家方は大敗し、斎明は捕らえられ処刑されて
しまう。だが義仲も平泉寺と事を構えるのは拙いと考え、直後に藤島七郷を平泉寺に寄進している。あの“戦の天才”朝日将軍でさえ
平泉寺を敵に回したくないという考えに至るのだから、当時の屈強ぶりが窺えよう。この後、兄・源頼朝に追われた弟・九郎判官義経と
弁慶主従も、逃亡の際に平泉寺を頼るなど、この寺は一種の“治外法権”地帯となっていたのでござる。■■■■■■■■■■■■■
南北朝時代には南朝方に与し、南朝勢の有力な一角を為したが、後に北朝方に転身。これを危惧した南朝の重鎮・新田左近衛中将
義貞が討伐を行うべく進軍したものの、その軍勢は1338年(延元3年/暦応元年)閏7月2日に灯明寺畷で乱戦に巻き込まれ、総大将の
義貞が戦死する事態に至る。新田義貞戦死の遠因は、平泉寺にあったと言えよう。平泉寺は日本史上にまつわる大戦に深く関わり、
次第に城塞化を強めていった。戦国時代には、石垣を多用する軍事要塞都市となっていたようである。■■■■■■■■■■■■■

一向一揆により焼亡■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
応仁の乱以後、越前国は守護代の朝倉氏が実権を握って守護勢力を追い出す下剋上を行った。朝倉家は平泉寺を祈願寺とし融和を
図ったが、これは寺の勢力を取りこんで権力の安泰を狙った意味合いがある。その一方、戦国時代の北陸地方は一向一揆が盛んに
起こっている。平安時代以来の“崇高な教義”を旨とする天台宗と、“死ねば極楽”と言う大衆仏教の一向宗とは反目する関係にあった。
朝倉氏は当初、一向宗の勢力拡大を抑え込む意味で平泉寺との共同路線を採っていたが、織田弾正忠信長が朝倉左衛門督義景と
対決する事態になると、“信長の敵”一向宗との同盟を採るように方針変更する。そうなると平泉寺は「朝倉家に見放された」形となり
こちらは織田家との連合を模索するようになる。果たして1573年(天正元年)織田軍が越前へ侵攻を開始し朝倉家が滅亡に瀕すると、
義景は土壇場で平泉寺に助けを求めたが、寺側はこれを拒否し、行き場を失くした義景は自刃する事となった。■■■■■■■■■■
義景没後、越前は織田家のものとなり朝倉一族で唯一の生き残り(義景を裏切った)・孫八郎景鏡(かげあきら)が代官になる。されども
主君を見限った景鏡は一向一揆の標的とされ、1574年(天正2年)2月に平泉寺へ逃げ込んで来た。一向宗は平泉寺に対しても朝倉家
滅亡時の裏切りを弾劾し、景鏡と平泉寺を攻撃する事となった。結果、この年の4月15日に平泉寺軍は敗北、寺は一向一揆勢によって
焼き討ちされ、800年の栄華を誇った平泉寺は灰燼に帰したのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
豊臣秀吉の時代となった1583年(天正11年)顕海(けんかい)僧正によって再建が始まるも、以後は城塞化する事無く、規模も縮小した。
江戸時代には白山信仰に関する権益を得たが、明治の神仏分離令で神社となる。これが現在に至る訳だが、もはや城としての面影は
失われている。むしろ、神社の苔生した庭園が観光名所となっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

白山神社の地形と遺構■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
白山神社境内は西から東へ向かって一本の尾根が登って行く地形。尾根の先端(西端)が参道入口で、最高所の東端に三之宮がある。
その間、数々の宮社が置かれており、当然それが曲輪群を構成していた事だろう。が、この尾根は北と南にも並行して走っており、まるで
手の指を広げて並べたかのような山容となっている。白山神社がある尾根の1本北にある尾根はより険峻で高いものとなっていて、その
山中には「詰めの城」となる砦が2箇所(細かいものも入れると他にも)築かれていたそうな。また、南側の尾根との間に広がる谷戸には
僧房群が広がっていた。この僧房はいずれも石垣で敷地を固め、完全に城の曲輪群と同じ構造。1574年の焼き討ちによってその敷地は
土中に埋まり、近年まで日の目を見る事が無かったが、発掘調査によって整備・復元された。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1935年(昭和10年)8月27日、「白山平泉寺城跡」として境内一帯が国の史跡に指定。それが1997年(平成9年)3月10日、史跡範囲を広げ
同時に「白山平泉寺旧境内」の名に改称している。旧玄成院(きゅうげんじょういん)庭園(写真)は別当・平泉宮司の邸宅跡で、こちらは
1930年(昭和5年)10月3日に国の名勝となっている。更に白山神社参道は「中宮平泉寺参道」の名で日本の道100選の1つに選出。他にも
色々な冠を有する平泉寺遺跡であるが、おそらく地中には膨大な遺構が眠っている筈だ。その正体が明かされるのは、いつになるのか?
いや、むしろこのまま永遠の眠りに就いたままなのか?今後の成り行きがどうなるのか見守りたい。■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡




小丸城  高浜城