越前国 越前大野城

大野城 復興天守

 所在地:福井県大野市城町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★☆■■
★★★☆



織豊期の築城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
単に大野城とも。亀山城の別名も。昨今では雲海の上にそびえる城として「天空の城」との異名もあるが、この城で雲海になる
気象条件が揃う日は年間10日程度しかないらしく、それを見られる可能性は限りなく低い“難易度の高い天空の城”でござる。
1575年(天正3年)越前一向一揆は織田信長によって平定され、武功のあった金森飛騨守長近(かなもりながちか)は大野郡の
3分の2に相当する3万石を与えられ、それまでこの地にあった戍山(いぬやま)城(大野市内)の北東約1kmにある独立丘陵に
1576年(天正4年)新城を築いた。これが越前大野城だが、この丘陵は亀山と呼ばれていたので亀山城の別名が付いたのだ。
長近は信長直属の親衛集団・赤母衣衆(あかほろしゅう)の一員で武名高く、しかも武将としてのみならず文化人としても高名
だった。特に茶道では千利休や古田織部助重然(ふるたしげなり)に師事し、「金森肩衝」と言う茶道の名器を所有していた程。
築城工事は4年に及んだと言い、1580年(天正8年)に完成したとか。この後、信長は本能寺に斃れ羽柴筑前守秀吉、すなわち
豊臣秀吉が天下統一に邁進、長近は飛騨高山城(岐阜県高山市)主として転封される。秀吉の差配では、長谷川藤五郎秀一
(ひでかず)次いで青木紀伊守一矩(かずのり)が城主になったとか。その一矩が1592年(文禄元年)越前府中(福井県越前市)
10万石で移封されると、今度は織田秀雄(ひでかつ、信長2男・信雄(のぶかつ)の嫡子)が5万石で城主に任じられる。しかし
秀雄は1600年(慶長5年)関ヶ原合戦で西軍についたため、戦後所領は没収されてしまった。■■■■■■■■■■■■■■■
1600年11月15日、越前一国68万石は左近衛権少将・結城秀康(ひでやす)の領地に。秀康は徳川家康の2男で、当時存命の
家康の子の中では最年長であったが、秀吉への人質に出された後に結城家へ養子入りさせられた為、徳川家の後継者には
ならなかった。その分、一門の重鎮として“越前宰相”と称され大封を得、大野城は福井城(福井県福井市)の支城たる地位が
確立する。大野城代には結城家の重臣・土屋左馬助昌春が3万8000石で命じられ、その昌春が1607年(慶長12年)に没すと
1609年(慶長14年)からは小栗五郎左衛門正高が大野城代を引き継いだ。大坂の陣の折、越前松平家の軍勢が大坂へ出陣
した際には、一揆の可能性が高い大野郡の守備を固める為に木本(このもと、大野市内)領主で松平家臣の加藤四郎兵衛
康寛(やすひろ)が大野城を守ったと言う。だが、秀康の後嗣・越前守忠直(ただなお)は不行状が多く遂に1623年(元和9年)
改易処分を受ける事になった。越前松平領は分割されて大野には1624年(寛永元年)松平左近衛権少将直政(なおまさ)が
5万石で封じられる。直政は忠直の弟(秀康の3男)である。直政は1633年(寛永10年)4月に信濃国松本(長野県松本市)へ
転封、一旦大野は収公されるも1635年(寛永12年)8月1日には越前国勝山(福井県勝山市)の松平大和守直基(なおもと)が
移されて来た。直基は秀康の5男、3万石から5万石への加増である。長兄・忠直は悪政で名を汚したが、その弟らはいずれも
良く国を治め、越前松平家の家名を残す事に腐心したようだ。直基は1644年(寛永21年)3月に出羽国山形(山形県山形市)
15万石へと加増転封、それに代わって勝山3万5000石から5万石へ加増転封で松平土佐守直良(なおよし)が入城したのだが
彼も秀康の6男。直政・直基・直良はいずれも別家となった一族だが、彼ら兄弟が大野城を継承する形でこの時代の大野郡の
統治が進められていたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
直良は1678年(延宝6年)6月26日に75歳と言う高齢で没し、跡を3男の若狭守直明(なおあきら)が相続。1682年(天和2年)、
直明が1万石加増の6万石で播磨国明石(兵庫県明石市)へと移されると、3月16日に元老中の土井能登守利房(としふさ)が
4万石で入封。以後、廃藩まで土井氏が8代続いた。甲斐守利知(としとも)―伊賀守利寛(としひろ)―能登守利貞(としさだ)
―造酒正利義(としのり)―甲斐守利器(としかた)―能登守利忠(としただ)―能登守利恒(としつね)である。

大野城の構造■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城は標高249mの丘陵を利用した平山城。麓からの比高は約70m、山頂からは大野市街や白山連峰が望める。城山は北東〜
南西へと細長い山容で、その山頂部を啓開した本丸には望楼型の2重3階の大天守+2重2階の小天守、更に天狗櫓が付随し
複合連結式の見事な天守群が置かれていた。金森氏時代の大野城の様子は詳しくわかっていないが、江戸時代初期の慶長
越前国絵図にはこの天守群が描かれている。本丸には山の傾斜面を利用した幾つかの腰曲輪が連なり、山上部での阻塞を
構成し、しかもこれらの曲輪や天守台は一面の石垣で固められていた。石垣は野面積みなので古くから越前大野城が石垣を
多用した織豊系城郭だった事を物語る。一方、山麓は南東側に方形(山の斜面に食い込む形で)の二ノ丸を置き、それを更に
囲む形で三ノ丸、その外部に外丸(外郭)が展開した。外丸での出入口には三日月堀のような堀が食い込み、食違い虎口を
形成。対する山の北西側には目立った遺構がなく、大野城は大野盆地の内側に向かって広がっていたようだ。山の西面には
赤根川が流れており、それが天然の防御線となっていたのだろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
大野は度々火災の被害に見舞われており、山頂の天守は1775年(安永4年)に焼失。本丸の殿舎は1795年(寛政7年)までに
再建されたが、天守は失われたままだった。幕末の混乱期を右往左往した大野藩であるが、最終的には新政府側へ恭順し
廃藩置県後、その所領は大野県となる。だが直後の府県統合で大野県は福井県に統合し消滅。大野城も用を為さなくなり、
廃城令も発せられた事で、大野城は破却される運命を辿った。このため、現在まで城内に残る建築物は無いが、移築された
建物が数点現存する。本丸不明門が市内にある浄土真宗養仙山真乗寺の山門に、鳩門(二ノ丸大手門)の部材が浄土真宗
一乗山光明寺山門として転用された。鳩門は元々櫓門であったものが、山門に改築される際、2階部分が変更され鐘楼門に
なっている。この他に藩主隠居所の屋敷が改造されて大手前広場の無料休憩所に再利用されている上、式台前門と伝わる
長屋門が市内の喜多山家に現存。このうち旧不明門が2010年(平成22年)2月26日に、旧式台前門は2022年(令和4年)11月
21日に大野市文化財としての指定を受けている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城山そのものは1957年(昭和32年)7月30日に福井県指定史跡に。城下の百間堀も1967年(昭和42年)5月18日に大野市の
指定史跡となっている。その城山は現在、亀山公園となっており遊歩道なども整備されて一般公開されている。この遊歩道の
おかげで山頂まで登るのは容易いが、比高差70m以上を一目散に上がって行くのはなかなかしんどい。この急傾斜が防備の
キモである事を、実感できる坂道なのである。そんな坂を登り切った所に待ち受けるのが復興天守だ。1968年(昭和43年)に
往時を「推定して」鉄筋コンクリートで再建されたもの。あくまで「推定」なので史実に基づいた訳では無く、実際には天狗櫓の
あった位置に小天守が置かれるなど、正確さには劣る。しかも、近年では往時の天守の姿に再考が行われており、どうやら
江戸時代の天守は全く違うものだったとも考えられているのだが“天空の城”として雲海に浮かぶ現代の天守は既に大野の
町に馴染んでおり、これはこれで良いものと肯定しとうござる。2017年(平成29年)4月6日、続日本百名城に選出されたのも
そうした景観や情緒も含んだ評価だったのであろうか…。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は県指定史跡

移築された遺構として
真乗寺山門(旧本丸不明門)・喜多山家長屋門(旧式台前門)《以上市指定文化財》
光明寺山門(旧鳩門部材)・藩主隠居所屋敷




丸岡城  小浜城・佐柿国吉城