越前国 一乗谷城

所在地:福井県福井市城戸ノ内町 ほか
■■駐車場: あり■■
■■御手洗: あり■■
遺構保存度:★★★☆■
公園整備度:★★★★☆
一乗谷城は越前守護朝倉氏初代孝景が1471年(文明3年)に築いた城。
東西を連山に挟まれた、南北に細長い一乗の谷を利用した縄張りで
谷の南北入口をそれぞれ城戸で塞ぎ、この上下城戸の内側を
堀で割って居館・町屋・寺社などが並べられていた。
有事の際はまず上下城戸で敵の侵入を防ぎつつ、
さらに東の山上に築かれた詰めの城で抗戦を図る設計である。
詰めの城である山城は自然地形を利用して竪堀・土塁や
本丸・一ノ丸・二ノ丸・三ノ丸などの曲輪が構築されていた。
西側の山にも曲輪が分布していることから、谷を取り囲む
山と城戸全体で防衛する構想となっていたようである。
一乗谷全域で発掘調査が行なわれており、数々の遺構が明らかにされているが
特に朝倉館跡の調査では濠と土塁で囲まれた100m四方の敷地の中に
主殿などの屋敷遺構や庭園の跡が発見されている。
また町屋の調査では南北街道を中心として東西方向の路地を等間隔に配し
計画的な都市整備が行なわれていた事が判っている。
この他にも寺社跡、武家屋敷跡、庭園などの発掘・復元が進んでおり
当時の一乗谷の人口は約1万人であったということが推定されている。
朝倉氏は越前守護として代々この谷の整備拡張を進め、
戦乱の京都から文化人・公家衆らも避難してきたため
小京都とも呼ばれるほどの繁栄を見せていた。
5代義景の頃には将軍就任を狙う足利義昭も訪れたほどだが
織田信長と対立、その軍勢に攻められて一乗谷は灰燼に帰し
名門越前朝倉氏は滅亡したのである。
現在残る唐門は朝倉氏追悼のために豊臣秀吉が寄進したもの。
現存する遺構
唐門・堀・石垣・土塁・郭群
庭園跡・居館址・町屋址・寺社址等
城域内は国指定特別史跡
朝倉館跡・諏訪館跡庭園・湯殿跡庭園・南陽寺跡庭園は特別名勝
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