能登国 七尾城

七尾城本丸石垣

所在地:石川県七尾市古府町・古屋敷町・竹町

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★★★☆
公園整備度:★★★☆



能登畠山氏は室町幕府管領家の流れをくむ名家、守るは要害七尾城。
1408年(応永15年)に能登国守護に任じられたが、七尾築城は
これより後の永正年間(1504年〜1521年)ではないかと推測されている。
城は山頂を本丸とし、ここから幾筋にも広がる尾根に曲輪を築いている。
一説には七つの尾根に曲輪があったので「七尾」と命名されたとも。
能登畠山氏は7代義総(よしふさ)の頃に最盛期を迎える。
名君として名高い義総は港湾都市である七尾城下町を発展させ、
これを頼って戦乱の京から逃げてきた公家らを手厚く保護した。
七尾は小京都として一大文化圏を形成。自身も一流の文化人であった義総は
武略にも長じ、周囲から侵攻してきた敵勢力をことごとく撃退したのである。
七尾城が整備拡張されたのもこういった背景に因ったものでござる。
が、義総没後は家督騒動や家臣の対立が表面化。
8代義続は重臣の叛乱を招き、9代義綱は家臣団に追放される有様。
統制の取れなくなった七尾城は上杉謙信の手に落ちる。
有名な「霜満軍営秋気清」の詩はこの時謙信が詠んだものと言われている。
その後も畠山旧臣の争乱が続き、1581年(天正9年)には
織田信長の家臣前田利家が能登一国を得て入城した。
利家は堅固な七尾城をさらに改修し石垣積みなどを行ったが
城下から離れた高所の山城を不便として新たに小丸山城を築城、
この時に七尾城は廃されたのでござる。
廃城後は一切手を加えられることがなかったため保存状態は良好。
曲輪や堀、石垣などはそのままの状況が残されている。
国指定史跡なので整備も良く行なわれており、
中世山城を知るための学術的遺構として貴重な存在である。


現存する遺構

堀・石垣・土塁・郭群
城域内は国指定史跡








能登国 小丸山城

小丸山城址碑

所在地:石川県七尾市馬出町

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:★★☆■■



七尾市の中心部に小高く盛り上がった小山が小丸山城でござる。
前田利家が七尾城から居を移して1582年(天正10年)に築城。
この山は七尾市街地の中に独立した丘陵であり、
城下町支配のための城を築くにはうってつけの場所であった。
四方が急傾斜の斜面で、麓に町屋や街道がある。
現在も城址のすぐ脇を国道249号線とのと鉄道の線路が通っている。
ただ、防衛拠点としての小丸山城は手狭であったため、
これを補うべく周囲に大量の寺を建立した。
この寺群はいずれも七尾市街北西側の丘陵地帯に設置され、
有事の際は野戦陣地として機能するように考慮されていた。
利家はこの後金沢城を本拠としたため在城期間は短かったが
これらの寺は今も多数残されている。
現在、城跡は小丸山公園として整備されている。




金沢城  小松城