加賀国 金沢城

金沢城石川門

所在地:石川県金沢市丸の内 ほか

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★★☆
公園整備度:★★★★★



加賀は富樫氏が守護の国であったが、応仁の乱後国人衆・僧侶・農民らが
戦乱を嫌って一斉蜂起。守護富樫政親を敗死させてしまった。
以後およそ100年に渡り「百姓ノ持チタル国」として自治支配が行なわれた。
その拠点となったのが一向宗本願寺派の尾山(金沢)御坊でござる。
一揆衆は周辺諸国とも盛んに争ったが、1580年(天正8年)に
織田信長配下の柴田勝家に攻められ、遂に尾山御坊は陥落した。
御坊跡には佐久間盛政によって城が築かれ、信長の加賀支配が始まる。
賎ヶ岳合戦の後は前田利家が入城、慶長年間(1596年〜1615年)に
加賀100万石の本拠として近世金沢城が整備された。
江戸時代に入ると1676年(延宝4年)に5代藩主前田綱紀(まえだつなのり)が
本丸南側の台地に山里曲輪として蓮池御亭(れんちおちん)庭園を建てる。
1759年(宝歴9年)の大火で蓮池御亭は焼失してしまうが
1774年(安永3年)に11代藩主前田治脩(まえだはるなが)が再建、
新たに滝などを架けた。加えて1822年(文政5年)に竹沢御殿庭園が完成、
蓮池・竹沢の両庭園を総称して、奥州白河藩主であった
松平楽翁(まつだいららくおう)が「洛陽名園記(中国宋代の詩人・李格非の著作)」の
「湖園」から採って「兼六園」と命名した。
宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の六勝を兼備する、という意味である。
明治維新後兼六園は一般開放されたが、城跡は陸軍第7歩兵連隊の駐屯地となる。
維新後も存城の扱いとされたのでいくつかの建造物は残っていたが
1881年(明治14年)の大火でほとんどが焼失してしまった。
また、1907年(明治40年)本丸南東隅の石垣下段が崩壊する事故が起きている。
戦後は金沢大学の敷地となったが、城址保存計画によって数年前大学は移転。
徐々にかつての城の様子が復元されつつある。
2001年(平成13年)には48億円という巨費を投じ、1881年の火災で滅失した
二ノ丸菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓が復元され申した。
これらの建造物は広大な金沢城の中でも特に群を抜く大型建築であり
いずれも伝統的木造軸組工法で再現されている。
五十間長屋は全国でも珍しい二重の多聞櫓。金沢城には二重多聞櫓が多く、
しかもそのほとんどが一重目と二重目が同大面積という特徴があった。
菱櫓は大型の三重櫓で、天守のない金沢城における象徴的な建物であった。
これらの建造物群には金沢城建築物の特色ともいえる唐破風出窓が数個備えられ
外壁は海鼠壁で固められており、古建築を忠実に再現したものと言える。
内部は一般公開されていて、さまざまな解説が用意されている。
現存建築物は三十間長屋と有名な石川門。
三十間長屋は本丸の脇にある付壇の曲輪に建てられていて
これも海鼠壁で外壁を整え、その名の通り長く続く大型の多聞櫓でござる。
石川門は本来金沢城の搦手を守る門であり、枡形を櫓門と二重附櫓で挟み撃ちできる
厳重かつ強固な構造をとっている。石川門の向かいが兼六園である。
金沢城址と兼六園の間は現在道路になっているが、
当時は百間堀と呼ばれる水をたたえた大きな水濠であった。
(明治時代末期に埋め立てられた)
この百間堀を始め城の周囲には石垣が多く残っている。
また、石川門に続く塀も美麗な海鼠塀。北陸有数の名城として高名である。
(海鼠塀については新発田城の頁を参照)


現存する遺構

石川門構成群(表門・表門南北太鼓塀・櫓門・続櫓・隅櫓・附左右太鼓塀)
三十間長屋《以上国指定重文》
塀・堀・石垣
城域内は国指定史跡
兼六園は特別名勝




阿尾城  七尾城・小丸山城