越後国 鮫ヶ尾城

所在地:新潟県妙高市宮内・籠町・雪森
(旧 新潟県新井市宮内・籠町・雪森)
■■駐車場: あり■■
■■御手洗: あり■■
遺構保存度:★★★☆■
公園整備度:★★☆■■
謙信急死後の上杉家家督争い「御館(おたて)の乱」において、乱の一方の当事者・上杉三郎景虎が最期を迎えた
場所としてあまりにも有名な城だが、実際の来歴は殆ど不明な謎の城郭。恐らく、永正年間(1504年〜1521年)から
天正年間(1573年〜1592年)にかけてのいずれかに、長尾氏(後の上杉氏)が本拠の春日山城(新潟県上越市)を
固める為の支城として築いたものと考えられている。春日山城から南へ約10km、信越国境を睨み、北国(ほっこく)
街道を管制する要地に鮫ヶ尾はあり、その道は現在の国道18号線・上信越自動車道とほぼ一致する。上信越道は
鮫ヶ尾城の城山を観音平トンネルで貫通しており、まさにこの城が街道を“塞いでいる”かの如くである。鮫ヶ尾城は
春日山城の南を守る「最後の防波堤」となる城だったのでござる。
1578年(天正6年)3月13日、上杉謙信が急逝。この時、謙信には弾正少弼景勝(かげかつ)と三郎景虎という2人の
後継者候補が居たものの、どちらかを指名せぬまま没したため先行きは全く見えず、両者は家臣団を巻き込んで
対立する事になった。景勝は早々に上杉家の本拠・春日山城を占拠、対する景虎は城下にあった関東管領館の
御館(同じく新潟県上越市)に陣取った。これが御館の乱の始まりである。開戦当初は景虎方がやや優勢で、対外
的にも景虎が上杉家を継承したと認知されていたようだが、堅固な春日山城を落とすのは困難であった。そこで、
景虎は実兄にして小田原後北条氏当主である北条左京大夫氏政に助力を乞う事になった。
実は景虎、かつて謙信と氏政が盟約を結んだ際の人質として上杉家に送られた人物であるが、謙信は人質でなく
客人として景虎を遇し、遂に養子として迎え入れたのだ。それに対して景勝は謙信の姉の子、つまり甥にあたる。
血縁的には景勝の方が優位であり、地縁を頼る景虎は早々に決着を付ける必要があっただろう。ところが頼みの
実家・後北条家は関東での戦いに謀殺され、援軍を送る余力が無い。困った氏政は、当時同盟関係にあった甲斐
武田家へと代理援軍を依頼。これを受けて、武田勝頼は武田軍の越後出兵を行った。このまま行けば援軍を得た
景虎が景勝を倒すのは時間の問題だった筈だが、肝心の武田軍は何故か越後国内で遅滞し動かなくなる。その
挙句、勝頼は景虎と景勝の和睦を提案したのである。どうやら景勝は勝頼に金品を送り、内応を働きかけたのだ。
援軍なくして勝利が見込めない景虎としては、和議は敗北を意味した。故に、次第に形勢は逆転し景虎側が追い
込まれるようになっていく。1年近い内乱の後に1579年(天正7年)3月中旬、景勝側の攻撃によって御館は落城し
景虎の妻や子はその混乱の中で落命する。景虎本人だけは戦禍を脱したが、もはや敵の攻勢を押し留められず
実家の小田原を目指して落ち延びようと図り、その途上でここ鮫ヶ尾城に立ち寄ったのである。
当時、鮫ヶ尾城主だったのは堀江駿河守宗親(ほりえむねちか)。元は謙信の旗本であり、御館の乱では1000の
兵を動員して景虎支持の行動を起こしていた。その宗親を頼って景虎は関東への道を辿ってきたのである。だが
宗親は景虎を城に迎え入れたと思いきや、二ノ丸に火を放って城を退去。実は、既に宗親は景勝側の武将・安田
掃部助顕元(やすだあきもと)の寝返り工作を受け離反していたと言う。土壇場で宗親が裏切った事に景虎は進退
窮し、3月24日に城内で自刃。享年26歳だったとか。景虎は幼い頃から寺に入れられ、はたまた分家の養子へと
出され(諸説あり)、挙句には越後への人質となって、ようやく国主の座が見えたかという所での凋落で、近年では
悲劇の貴公子と見られるようになった。その景虎が悲運の最期を遂げた鮫ヶ尾城は、どうやらこの落城の後には
廃城となったようで、景虎と運命を共にしたと見られている。
一方、最後の最後で景虎を見捨てた堀江宗親もその後の動向が闇に消え、乱後に堀江領が没収されている為
景勝が「裏切者など信用ならぬ」とばかりに抹殺した可能性が高い。この点、武田勝頼もまた1582年(天正10年)
織田信長に攻められて岩殿山城(山梨県大月市)へ逃げ込もうとしたが、到着直前に城主の小山田越前守信茂
(おやまだのぶしげ)が入城を拒否した事で行き場を失くし自刃、その信茂も信長から不忠を咎められ切腹させ
られた経緯と合致する。また、宗親を籠絡した安田顕元も上杉景勝からの恩賞が期待通りに出ず、面目を失って
自害に至る。このように鮫ヶ尾城と関連して名の挙がった武将は悉く不運な末路を辿っている。なお、恩賞を出し
渋った事で景勝は家臣の反感を買い、景虎を倒した後も各地で叛乱の鎮圧に振り回されていく。これが、謙信の
手で領土拡大路線を突き進んでいた上杉家の停滞を招き、以後は織田家への防勢や豊臣政権への臣従という
結果に繋がり、領国拡張の夢は潰える事になる。景虎の敗死は、上杉家の命運を左右する大波乱だった。
鮫ヶ尾城の城山はえちごトキめき鉄道妙高はねうまライン(旧信越本線)の北新井駅から西へ2.5km程の位置で、
山頂の標高は190m、麓との比高差は150mを越える壮大な山である。山裾には国の史跡となっている斐太(ひだ)
遺跡群があり、一帯が史跡公園として整備されていて、駐車場もそこに用意されている。斐太遺跡群は弥生時代
後期から古墳時代にかけての竪穴式住居集落痕であり、この地に古くから人の営みがあった証拠であろう。妙高
市では斐太遺跡と鮫ヶ尾城を一体として「斐太歴史の里」の名で実地学習の場を提供している。そうした環境下、
北西〜南東にかけて大きな尾根を形成する城山は、ほぼ中心点に上記の山頂があり、そこから東へも支尾根が
延びる山容。ざっくりと言えばこれらの尾根にそれぞれ曲輪を啓開、山頂部が主郭となる縄張だが、山の随所に
堀切・切岸・竪堀と言った阻塞構造物が作られ、険要な城を築いている。その規模は上杉家の本城・春日山城に
勝るとも劣らない秀逸さで、むしろ城の“出来栄え”としてはこちらの方が上では?と思える程だ。
主郭(本丸)には南東側に下段の曲輪を付随させ、ここはそのまま馬出として使えそうな構造。その南に二ノ丸、
ここは標高175mを指し(本丸〜二ノ丸で既に15mもの比高差が発生している)、発掘調査によれば曲輪の中央に
約8.6m×5.1m程の掘立柱建物が1棟確認され、周囲には投石用の飛礫石(つぶていし)が積み重ねられていた。
当時、投石は主要な攻撃手段であり、この城が臨戦態勢にあった状況を示している。その一方、高熱に晒された
陶磁器片が散乱した状態で出土しており、落城時に火災を受け廃城となった様子を示唆する。二ノ丸の南には
三ノ丸が繋がり、三ノ丸の脇には山城に必須の井戸跡も。そこから南東側には急峻な尾根筋を細かく造成して、
いくつもの段になる腰曲輪の列が続く。
三ノ丸からは炭化した握り飯が出土している。この握り飯は、雑穀抜きの「白米だけで作られたおにぎり」だった。
籠城戦の最中に、白米だけで握り飯を作るのは非常に贅沢な事だ。追い詰められた景虎が“最後の晩餐”として
食するつもりだったが、落城に伴う火災で焼け焦げて、そのまま埋没したのだろう。なお、鮫ヶ尾城内では今でも
炭化米が出てくるとの事だが、出土物は全て文化財であるため見つけても持ち出しは厳禁なので御注意を。
反対に、本丸の北側には米倉跡と伝わる曲輪が。さすが米倉だけあって、ここからも焼米が出てくるそうだ。その
米倉曲輪の北に西ノ丸と通称される曲輪があり、そこから先には多重の堀切があって城域の北限を示す。一方、
本丸から東へと続く支尾根には東遺構群と呼ばれる一群の曲輪が並び、本丸に近い所から東一ノ丸〜東二ノ丸
さらに細かい曲輪を並べて山麓へ至る構造になっている。また、西ノ丸と東遺構群の間にある谷戸にも腰曲輪が
多数連なっている。斐太歴史の里からは、この谷戸部分を経て本丸へ登る道と東遺構群を通って本丸に達する
経路の何れかを通って登って行く事になるが、公園からではなく南東側腰曲輪群から登城する事も可能である。
見どころ十分な城なので、一方向からだけでなくそれぞれの曲輪を攻略していくのが良うござろう。
廃城以後は草木に埋もれた山だったが、地元では城山(じょうやま)として城址の記憶が伝承され、それに基づき
新潟県立新井高等学校の郷土史クラブが縄張図を制作、1963年(昭和38年)伊藤正一氏(新潟県文化財主任)の
手によって公表の運びとなる。これを機に鮫ヶ尾城の知名度が一躍向上、翌1964年(昭和39年)3月21日に新潟県
指定の史跡となった。その後も発掘や史跡整備が進んで、上記したように斐太歴史の里としての史跡活用計画も
策定され、2008年(平成20年)7月28日には国の史跡に指定されている。国史跡範囲は224.128uである。2017年
(平成29年)4月6日、財団法人日本城郭協会から続日本百名城の中に選出された。「続百にハズレ無し」と我が
城仲間では専らの評判だが、この城も期待を裏切らない名城としてオススメしたい。
ところで個人的な話だが、初めてこの城へ赴こうとした際、春日山城の「ついでに」立ち寄ろうとした所、暗雲天を
覆い、猛烈な勢いで雹(!)が降り注いだ。オカルトな話は全く信じない拙者なのだが、流石にこの時は景虎公の
恨み節が「春日山のついでにこの城へ来るな!」「相州の者が今更何をしに来た!」とお怒りかの如くで、時宜を
得ぬと諦め退散。後日、改めて「鮫ヶ尾城を目的に」訪れた所、その折は一面の快晴で存分に城の遺構を堪能。
しかも本丸跡から北を望めば、春日山がハッキリと見えるのである!公も落ち延びながら「おのれ、奴らめ…」と
春日山に陣取る景勝一党を睨み付けた事であろう。成る程、景虎公が拙者に見せたかったのはこれかと得心し
先人への畏敬を肝に銘じた次第でござる。聞けば城仲間の何人かも“鮫ヶ尾城には追い返された”という経験を
お持ちのようで、この城には“生半可な気持ちで訪れてはいけない”という機運がある感じだ。各々方、襟を正し
誠意を以って登城されるが良きかと心得る。その分、探訪を果たした際の達成感はハンパないものが有ろう!
別名で宮内古城・鮫ノ尾城(こちらが古来の名前か?)等。堀切と竪堀で切り刻まれた山容が“鮫の尾”のように
見えた事が由来だとか。ふむ、確かに樹木が無ければそうだったのかも…。それだけ堀が険しい城なのである。
現存する遺構
井戸跡・堀・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡
越後国 立ノ内館

所在地:新潟県妙高市大字乙吉
(旧 新潟県新井市大字乙吉)
■■駐車場: なし■■
■■御手洗: なし■■
遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:☆■■■■
立ノ内(たてのうち)館は「館ノ内館」とも表記される。あるいは乙吉(おとよし)館とも言われる。鮫ヶ尾城の城主が
平時の居館として使った館とされる。険峻な鮫ヶ尾城では居住性が皆無なので、日常の居宅を山麓に構えるのは
当然の事だろう。創建の来歴などは不明だが、恐らく鮫ヶ尾城と同調するものだと思われる。ただし、館跡の発掘
調査では中世よりさらに古い年代の地層から平安期のものと見られる須恵器片なども出土しているので、検討の
余地はあろう。
場所は鮫ヶ尾城の城山から東、新潟県道85号線が細かくクランクする乙吉集落の中、浄土真宗浅野山勝福寺の
境内付近。丁度この寺の敷地一帯が四角い街路になっている為、方形居館の形式を踏襲していると考えられるが
そもそも乙吉集落自体が一面の水田地帯(往時は低湿地帯だったのであろう)に浮かぶ微高地なので、立地にも
配慮しての築城だと言える。平安時代以来の居住地(の可能性)というのも、そうした環境あっての事だろう。
現状、寺の境内や畑地・住宅地となっている敷地なので目立つ遺構らしきものは見当たらない。部分的に土塁の
ような起伏もあるが、当時の物なのかは分からない。ただ、上杉景虎を偲んで石像や供養塔などがあり、1978年
(昭和53年)から毎年4月29日(旧暦3月24日)に景虎忌法要が勝福寺で営まれている。どちらかと言えば景虎を
裏切った堀江宗親ゆかりの場所では?とも思うのだが、寺となった今は、むしろ不遇の最期を迎えた景虎を弔い
戦に散った者を等しく供養する“鎮魂の館跡”とされているようである。鮫ヶ尾城を訪れるならば、こちらにも詣でて
景虎公に御挨拶するのが礼儀作法―――なのかな?(苦笑)
駐車場は無く、近隣にも家が並ぶ地区なので来訪時には節度を保つべし。
蔵王堂城・長岡城
富山城