越中国 富山城

所在地:富山県富山市本丸・丸の内・大手町
■■■■■■■■■*総曲輪・桜木町 ほか
■■駐車場: あり■■
■■御手洗: あり■■
遺構保存度:★☆■■■
公園整備度:★★☆■■
越中国、現在の富山県であるが、その中心を縦貫するように流れる大河が神通川である。飛騨の山岳地を抜けてきた
川の水は、富山空港のあたりから直線的に富山湾へと注いでいるが、これは明治時代の河川改修による流路であり、
江戸時代までは富山市街地の中を蛇行するように流れていた。現在、富山県庁や富山市役所の南を松川と言う細い
川が流れているが、これが本来の神通川の河道である。その富山県庁から松川を挟んだ対岸に構えられていたのが
富山城。神通川を北の守りの濠とし、周囲を縦横に水堀で取り囲んでいたため「浮城」と呼ばれていた城でござる。
ちなみに、当時の川幅を当てはめると県庁も市役所も川の底である。他に「安住城」「安城」との別名も。
築城の起源は諸説あり確証は無い。発掘調査に拠ればこの場所から室町時代前期の遺構が検出されており、恐らく
中世の武家居館が創始なのであろう。ともあれ、確定的なのは1543年(天文12年)頃に神保(じんぼう)氏が築いたと
いうものだ。神保氏は元々上野国多胡郡辛科郷神保(じんぼ)邑(現在の群馬県高崎市)の出自と言い、鎌倉時代に
畠山氏に仕え始め、室町期に畠山氏が越中守護となった事で西越中守護代に任ぜられた家柄だ。一方、東越中は
同じく畠山家臣の椎名氏が守護代として治めていたが、神保氏と椎名氏は折り合いが悪く、互いの領地を狙い合う
不倶戴天の敵となっていく。戦国時代になると最早畠山氏の守護権力は有名無実となり、両者は実力行動で領地を
奪っていく。こうした渦中にあって、婦負(ねい)郡(富山市の神通川以西部分)を領していた神保宗右衛門尉長職
(ながもと)は神通川を越えて新川(にいかわ)郡(富山県の神通川以東部分)へと侵攻する拠点を欲した。斯くして、
長職が家臣の水越勝重(みずこしかつしげ)に命じて築かせた城が富山城である。なお、江戸時代後期の加賀藩士
富田景周(とだかげちか)が記した地誌書「越登賀三州志」の記載に基づいて、水越勝重が勢力拡大につれて名を
改め神保長職になったとする説が信じられてきたものの、この記述は誤伝である事が確認された為、勝重と長職は
別人だと考えるのが現在の通説となっている。
富山城の築城により、神保氏の勢力は飛躍的に大きくなり椎名氏を圧迫する。しかし、統一権力を作れない越中の
争乱は他国からの侵略を呼び込む事になった。窮した椎名氏は隣国・越後の上杉謙信に援軍を恃んだのである。
1560年(永禄3年)上杉・椎名連合軍が富山城を攻撃、長職は城を放棄して増山城(富山県砺波市)へ逃げ込んだ。
この後、いったんは長職が椎名氏を推し戻すが1562年(永禄5年)の7月、更に同年10月にも上杉軍が再来した事で
謙信に降伏せざるを得なくなった。長職は本領の射水(いみず)郡(高岡市〜氷見市周辺)・婦負郡の支配権だけは
認められたが、富山城は退去する事になり、代わって長職の嫡男・越中守長住(ながずみ)が預かった。だが長住も
謙信との折り合いが悪く、1568年(永禄11年)彼も上杉方の圧力により能登国へと逃亡するに至る。結果、富山城は
上杉家臣の小笠原右馬助長隆・上杉信定らが預かったという。
さて能登へ逃れた神保長住であるが、その能登も上杉謙信に攻略されたので更に織田信長の下へと奔る。1578年
(天正6年)謙信が急死した事を契機に長住は織田家の兵を与えられて富山城の奪還を図り、それを成し遂げた。
越中国の大半は織田家の支配下に入り、信長の重臣・佐々内蔵助成政(さっさなりまさ)が統括するようになる。
1582年(天正10年)3月、武田勝頼の扇動に乗った神保家の旧臣・小島職鎮(もとしげ)らが富山城を急襲、長住は
囚われの身となるものの、間もなく成政が救援に駆け付け開放された。しかしこれ以後、長住は失脚する事になり
富山城には成政が在城。織豊系城郭としての改修が行われた。同年6月には本能寺の変が勃発、信長は斃れるが
成政は粛々と越中攻略を進め、成政居城である富山城は越中の首府となっていった。この後、織田家中の主導権
争いで柴田勝家と羽柴秀吉が対立、成政は勝家与力として反秀吉の立場を取り、賤ヶ岳の戦いで勝家が敗死した
後もその構図は変わらなかった。その為1585年(天正13年)8月に秀吉自らが10万の大軍を率いて富山城を攻略、
浮城として神通川を盾にした堅城はなかなか落ちなかったが、長期戦を不利と見た成政は時期を見て降伏する。
この敗戦によって成政は大坂への移住を強制され、富山城は廃城になり申した。
秀吉の全国統一事業にて越中国は前田氏の治める地となる。前田又左衞門利家は加賀・能登を領し、彼の嫡男
肥前守利長に越中3郡(射水郡・砺波郡・婦負郡)32万石が与えられたのだ。1595年(文禄4年)には残る新川郡も
加増され、利家の死後は前田家の総領として豊臣政権五大老の任に就いた。関ヶ原合戦後も所領は安堵、およそ
120万石もの大封を得た利長であったが、1605年(慶長10年)家督を弟の利常に譲って隠居する。この時、新川郡
22万石を自分の隠居領として分知し、富山城を再興して隠居所とした。幼少の利常を後見しつつ、富山城下町の
整備を行っていた利長であったが、1609年(慶長14年)3月18日に富山の町は城もろとも火災に見舞われてしまう。
この為、利長は魚津城(富山県魚津市)へ退去、幕府へは新たな隠居城として高岡城(富山県高岡市)の構築を
届出て築城を開始、城の完成と共に高岡へと移転する。従前、こうした経緯から1609年の富山火災は城の再建が
不可能な程の大被害が生じたと考えられていたが、近年の検証では然程の事ではなかったとされ富山城の復旧も
行われ、城代として前田家臣・津田刑部義忠が入っている。高岡城築城の口実だったのであろうか?
利長はこの後、隠居領の半分を本藩へ返上。さらに死去の後は高岡城も廃され遺領は加賀藩に戻されたが、名君
利常も隠居する頃になると、子供らへの分知が行われた。嫡男・筑前守光高は加賀藩を相続、2男・淡路守利次に
富山10万石、3男の飛騨守利治に大聖寺(石川県加賀市)7万石を分封、自らの隠居領として小松(石川県小松市)
20万石を保有する。こうして1639年(寛永16年)6月20日、加賀藩の支藩たる富山藩と大聖寺藩が成立する事になり
富山藩の本拠として富山城は復活するのである。但し、利次は分知にあたり当初は百塚(ひゃくづか、富山市内)に
別の城を新たに築く予定としており、富山城は仮住まいとして用いる筈であった。それどころか、そもそも富山城は
利次の知行地に含まれておらず、財政難から新城計画が取止めになった後、1660年(万治3年)加賀藩と協議し
富山城を譲り受けた経緯がある。こうした上で改めて幕府から許可を得て1661年(万治4年)の改修工事で近世
富山城が完成している。
利次の後、富山城主の座は2代・近江守正甫(まさとし)―3代・長門守利興(としおき)と続くが、1714年(正徳4年)
富山城の本丸が火災で焼失、1723年(享保8年)には石垣の補修普請などの苦難が続く。4代が出雲守利隆―5代
出雲守利幸―6代・淡路守利與(としとも)―7代・長門守利久―8代・出雲守利謙(としのり)―9代・淡路守利幹
(としつよ)―10代・長門守利保(としやす)。この利保が隠居の際、1848年(嘉永元年)富山城の東北側に隠居所の
千歳(ちとせ)御殿を造営。御殿敷地は一つの曲輪を成し、言わば千歳曲輪の構えを作り出す。更に11代・出雲守
利友(としとも)―12代・大蔵大輔利聲(としかた)と継承され幕末争乱期を迎える。不幸にも利聲の代は大災害も
頻発し、1855年(安政2年)2月に富山大火、1858年(安政5年)2月26日には飛越地震が発生した。富山城は勿論
領内にも様々な被害を受け、復旧に於いて益々藩財政が困窮し申した。御家騒動による藩政の混乱も重なった為
宗家である加賀藩前田家からの介入を受け、当時の加賀藩主・前田加賀守斉泰(なりやす)の11男・淡路守利同
(としあつ)が13代藩主に宛がわれる。とは言え、藩主相続時の利同は数えで4歳。当然、藩政を見れる訳もなく
実権は斉泰が握る事になった。こうした中で明治維新となり、1871年(明治4年)7月14日の廃藩置県で富山藩は
富山県へ改組。翌年から富山城内の諸建築は破却・払下げが行われるようになった。同様に堀や土塁も埋め立て
破壊が為され、城址の大半は市街地化されていく。本丸御殿の建物は残存し、富山県庁舎として使われていたが
これも1899年(明治32年)の火災で滅失。旧城の中で残る遺構は、部分的な石垣と堀のみでござる。太平洋戦争
末期の1945年(昭和20年)8月2日には富山市街地が米軍機の空襲によって焼け野原になったが、この際の攻撃
中心地と設定されたのが城の東南側外郭部、当時の住宅密集地であったという。
城の縄張りは神通川(現在の松川)を北に背負った方形の本丸を中心とし、南に二ノ丸・西に西ノ丸・東に東ノ丸
(薪丸(たきぎまる)とも言う)を連結し、全ての曲輪を囲うように広大な三ノ丸(外郭)が南に広がっている。加えて
東ノ丸の東側には千歳御殿の敷地が置かれていた。城域の東端には北の神通川へ合流する鼬(いたち)川が
南から流れ、総構えを構成。大手口は南側に開いており、現在の富山市電大手モール電停付近にあった。
現在、富山市の中心部には富山城址公園があり、その住所表示は「本丸1」となっているが、公園の敷地は本丸と
西ノ丸を合わせて造成されている(ちなみに、「本丸」は1丁目のみで2丁目以下の地番は無い)。これらの曲輪間に
あった堀は埋め立てられ、両者が一体化した広場になって城址公園とされているのだが、本来は別々の曲輪だ。
その公園の南面、石垣上には天守風の建築「富山市郷土博物館」(写真左)が建てられており申す。これは1954年
(昭和29年)4月11日から城址で開催された富山産業大博覧会に合わせて作られた模擬天守で、1953年(昭和28年)
7月に着工、1954年4月3日に完成し11月17日から博物館として営業を開始した。元来、この位置は本丸の南虎口
(二ノ丸とを繋ぐ鉄(くろがね)御門)となる地点で、石垣は門を構成する枡形の物だ。城郭研究家の目線で見ると、
ここにあるべきは多聞櫓、或いは隅櫓の建物である為、天守のような巨大な構造物が置かれる筈は無い。それ故
往々にして鉄筋コンクリート造りの「富山城天守」は非難の的にされてしまうのであるが、竣工から半世紀が過ぎた
2004年(平成16年)7月23日、国の登録有形文化財になった。この模擬天守は戦後復興天守として全国初であり
“地域の景観の核として広く市民に親しまれている”存在が評価されての文化財登録だ。ニセモノ天守と蔑むのは
簡単な話だが、戦後復興の希望を担い地域の象徴となる歴史を重ねてきた先駆者としての意義は正当に評価
すべきであろう。個人的には、とかく鈍重な“下膨れ”になりがちな望楼型天守なのに富山城のそれは実に細身で
気品があり、美麗に見える点を大いに推したい。近年(2003年(平成15年)〜2005年(平成17年)にかけて)耐震
改修工事も行われ、壁も白く美しく塗り直された事でより一層その傾向が強くなった。他の城では“古武士”の如く
イカツい雰囲気で例えられる望楼型天守であるが、富山城ではむしろ“凛々しい若武者”なのではないだろうか?
夜景になると更に上品な佇まいに見える。この美しい天守、富山の方々はもっと売り込んでも良いと思われる。
なお、本来の虎口として見れば石垣が見事な点も忘れてはならない。鉄御門虎口には巨石がいくつも鏡石として
組み込まれ(写真右)圧倒的な存在感を出している。こんなにも鏡石を沢山織り交ぜた石垣は全国的にも例が
無く、これまた富山城が誇るべき学術的遺構でござろう。
この他、1961年(昭和36年)9月に城址公園内に佐藤美術館が開館。こちらも城郭風の外観を持ち、なかなかの
風格。他方、公園には地下駐車場が敷設され、貴重な地下埋没遺構は恐らく壊滅状態なのが惜しい。公園内の
石垣も、鉄御門虎口部分以外は殆どが復興された模擬石垣(但し、古材を転用した箇所もある)で紛らわしい。
評価する点と遺憾に思える点が両極端な富山城であるが、地域の代表となる“顔”である事は間違いなく2017年
(平成29年)4月6日、財団法人日本城郭協会から続日本百名城の一つに選ばれた。
移築された遺構としては千歳御殿の門「千歳御門」が残る。明治維新にて近隣の富家である赤祖父氏の邸宅に
払い下げられていた物だが、2006年(平成18年)から2008年(平成20年)にかけて再移築され、本丸の東面に
鎮座している(元来の場所ではない)。総欅造りの薬医門、切妻造本瓦葺で、桁行6m×梁間1.9mの大きな門。
再移築工事後、保護措置を取った上で2012年(平成24年)4月27日から常時開放され、門口の向こうに富山城
天守が見えるようになっており、素晴らしい構図を見せてくれている。2008年10月29日指定、富山市文化財。
現存する遺構
堀・石垣・郭群
《再建天守は国登録有形文化財》
移築された遺構として
千歳御門《市指定文化財》・石垣古材
鮫ヶ尾城・立ノ内館
高岡城