越後国
蔵王堂城
所在地:新潟県長岡市西蔵王
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駐車場: あり
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御手洗: あり
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遺構保存度:★★★
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公園整備度:★
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蔵王堂(ざおうどう)城は、日本一の大河・信濃川へ柿川が合流する地点に存在した平城。別名で蔵王城。現在この場所には
金峯(きんぷ)神社・天台宗金峰山安禅寺・毘沙門堂・観音堂と言った寺社が並んでいる。709年(和銅2年)元明天皇の勅願で
大和国吉野山(奈良県吉野郡吉野町)にある修験道の本山・金峯山寺(きんぷせんじ)から越後国古志郡楡原(にればら)村
(現在の長岡市楡原)へ蔵王権現が分霊され、それが鎌倉期(1242年(仁治3年)か?)又倉(股倉、保倉とも)村へ遷座された。
斯くして又倉に金峯山の本尊である蔵王権現が祀られるようになり、その堂宇があった事から蔵王堂(蔵王)の地名へ転化。
また、源頼朝の夢枕に蔵王権現が現れて、前世の縁起で越後の蔵王堂に供養せよと諭され、建久年間(1190年〜1199年)に
“頼朝塔”と称される供養塔が創建されたとの伝説もある(実際にはこの供養塔は鎌倉末期〜南北朝期の製作と見られる)。
このような経緯から、武士の崇敬を集めた又倉村あらため蔵王村に城が築かれたのは南北朝時代の事。築城者は不明だが
北朝方の中条(なかじょう)氏が金峯神社の境内に陣を張ったのが始まりだとも。1352年(正平7年/文和元年)には南朝方の
風間越後守信昭らに攻撃されている。越後国守護となった山内(やまのうち)上杉民部大輔憲顕(のりあき)が南朝方の兵を
討った後は、その家臣・古志長尾氏の長尾豊前守景春が本格的な築城を行い(築城者については諸説あり)以降4代に亘り
この城を拠点とした。景春―備中守宗景―備中守秀景?―四郎左衛門尉?―豊前守孝景と続いたようだが、孝景は新たに
栖吉(すよし)城(長岡市栖吉町)を築いて居を移した。孝景の移居後も蔵王堂城は維持され丸田周防守が城主となったが、
戦国期になって長尾新二郎為重なる人物が改修(これを本格的な築城とする説もある)を行う。為重は、長尾景虎つまり上杉
謙信の叔父だと云う。争乱続く越後は謙信によって統一されたが、彼の死後に家督争いが勃発し、その渦中で古志長尾家は
滅亡。上杉家の家督争いを制した弾正少弼景勝が天下人・豊臣秀吉に命じられ1598年(慶長3年)に会津へ移封されるまで
蔵王堂城は景勝の家臣・松川大隅守修衡が治めていく。
上杉家が会津へ移った後は、堀左衛門督秀治が春日山城(新潟県上越市)に入り新たな越後国主となる。松川修衡は景勝と
共に会津へ去り、蔵王堂城には秀治の弟・美作守秀成(親良(ちかよし)とも)が4万石で封じられたが、そのうち1万石は家老
近藤織部佐重勝に分与した。関ヶ原戦役に於いて堀家は東軍・徳川家康に与する。越後国内では西軍方の旧主・上杉景勝に
扇動された一揆が反乱を起こして東軍を脅かす策謀が起きるも、秀成は一揆勢を鎮圧して家康・秀忠父子から感状を賜った。
当然、所領は安堵されたが1602年(慶長7年)秀成は病気を理由に家督を養嗣子の鶴千代(秀治の2男)に譲った。実は病と
言うのは表向きの事で、実際は秀成が秀治や堀直政(秀治の家老)と不仲になり隠遁したのである。後年、堀家は御家騒動で
改易処分を受ける事になり一族は処罰されるが、秀成あらため親良は出奔していた事から連座を免れている。災い転じて福と
成す…と云うか、人生何が禍福となるか分からないものでござるな。
ともあれ、跡を継いだ鶴千代はこの時まだ5歳ほど。当然、政務など執れる筈も無く坂戸城(新潟県南魚沼市)主で直政の子
堀丹後守直寄(なおより)が後見人になったのだが、結局1606年(慶長11年)鶴千代が夭折してしまい遺領は坂戸藩に吸収。
蔵王堂城は直寄の持ち城になった。坂戸と蔵王堂を加えた直寄の所領は5万石を数えたが、一方で川沿いにある蔵王堂城は
この頃になると水害に削られ、存続が難しい状況になっていた。直寄は新城の築城を計画(これが長岡城になる)するものの
上記の通り堀一族は1610年(慶長15年)に改易処分を受けてしまう。直寄は越後から除封され、信濃国飯山(長野県飯山市)
4万石となり、蔵王堂城は越後高田城(新潟県上越市)の新城主となった松平上総介忠輝(徳川家康6男)の支城とされる。
蔵王堂城には忠輝の代官として家臣の山田隼人正勝重が入った。
しかし忠輝は素行の悪さから家康に疎まれ、大坂の陣が終結した後の1616年(元和2年)7月6日に改易、流罪に処せられて
しまう。その結果、同年10月に堀直寄が8万石に加増となり長岡に復帰するのである。斯くして長岡城の築城工事が本格化
するが、完成直前の1618年(元和4年)10万石に再加増されて越後国村上(新潟県村上市)へと移される。そのため長岡城は
次に入府する牧野氏の手によって竣工する事になる訳だが、兎も角これで蔵王堂城は役目を終えて廃城とされ申した。
廃城後、蔵王堂が城跡に建てられ、正徳年間(1711年〜1716年)中に安禅寺も並び建つ。文政年間(1818年〜1831年)には
蔵王堂の裏にあった頼朝塔が、城址西面土塁の外に移されている。この頼朝塔は戊辰戦争時に銃撃の被弾で損傷している
事から、廃城となった蔵王堂城でも何かしらの攻防があったのだろう。明治維新後は神仏分離で蔵王堂は金峯神社と改名、
一方で安禅寺は廃仏毀釈の波を受けて廃寺とされ申した。1885年(明治18年)に寺は復興されるも、現在は無住だ。また、
頼朝塔も補修されて安禅寺参道の脇に再安置されてござる。
廃城後の寺社建立や近代の市街地化により、城の敷地は半分くらいを残して造成・宅地化されてしまっている。毘沙門堂や
安禅寺・観音堂の建つ敷地が本丸、金峯神社境内や蔵王公園〜蔵王地区集会所〜浄土真宗浄照寺一帯が二ノ郭だった。
また、安禅寺の西側(現状では信濃川の河川敷)には出郭のような曲輪が接続。このうち、現状で本丸外周の土塁と、本丸
南面から東面にかけての濠が部分的に残る。また、石垣の痕跡も僅かながらに見受けられるが、濠の冠水面に固められて
いる石垣は城の遺構ではござらぬ。破壊された敷地の方が多い城跡ではあるが、その分、残存する遺構は美麗で、見学
するのが楽しい城でもある。北長岡駅から徒歩20分ほどで行けるし、蔵王公園に車を停める事も可能で交通の便も良い。
1971年(昭和36年)3月24日、長岡市史跡に指定。
現存する遺構
堀・土塁・郭群等
城域内は市指定史跡
越後国
長岡城
所在地:新潟県長岡市城内町・大手通・東坂之上町・坂之上町
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表町・本町・殿町・台町・福住 ほか
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駐車場: あり
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御手洗: あり
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遺構保存度:☆
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公園整備度:☆
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上記の通り、洪水の難を受ける蔵王堂城に代わる新城として堀直寄が企画、牧野家に引き継がれて完成した城郭。直寄が
最初に長岡城の築城を考えたのはまだ鶴千代存命中の1605年(慶長10年)頃と言われ、竣工したのは牧野右馬允忠成が
封じられた後の1618年、足掛け13年に渡った築城だ。この新城に「長岡」という名を附したのは、地形が信濃川洪積台地の
「長い丘」であったからだとか、かつてこの地を領した長岡縫殿介に由来する、長岡京に似ているからなど諸説あるものの、
いずれにせよ、既に1605年の時点から蔵王堂に代えて長岡の地名が使われ始めていく。
西に信濃川、東に栖吉川が北へと流れる合間に挟まれた平野部へ長岡城は築かれた。現在の長岡駅が本丸、その西側に
二之丸、逆に本丸の東側には馬出として機能する出郭(詰の丸)が置かれ、この3つの曲輪が一直線に並ぶ形で連郭式を
作り上げる縄張が基軸となる。一連の曲輪の北側全面を塞いで東西に細長い三之丸を配置、詰の丸南側〜本丸南側へは
「┛」の形状をした南曲輪、更に二之丸の南側〜西側を囲んで「┗」形の西曲輪。主郭群は連郭式だが、それを囲い込む
三之丸〜南曲輪〜西曲輪とその外周全域を取巻く外郭は輪郭式になっている。本丸からは詰の丸へ出る塩門と、二之丸へ
至る九間門の2箇所が出入口として開くが、塩門が平虎口(食い違い虎口との説もあり)なのに対し九間門は外枡形を成す
厳重な備え。当然、大手口は西側という事になり、西曲輪の西面や外郭の西端にも豪壮な櫓門が構えられた。本丸内には
天守代用の三重櫓が1基、二重櫓が5基、二之丸にも二重櫓が2基、詰の丸に三重櫓1基が建てられていたものの、1728年
(享保13年)の大火で殆どを焼失。後に復興するも、詰の丸の三重櫓は再建されなかった。土塁造りが基本となる城であり
石垣は一部の櫓台や虎口のみにしか用いられていない。平城故に城内外の高低差はほぼ無いが、徳川の天下が盤石と
なった時期の築城であるから、堅牢な防備よりも政庁としての役割を重視したのでござろう。城域や城下町の拡大を図った
一方、堀には全て水が引き入れられて河川交通を活用した城作りが為されている。しかも城内には至る所で井戸が掘られ
水利の便はすこぶる良かった様子が想像できる。曲輪や堀は全域で直線を基調としており、これは現在も長岡駅一帯の
町割りが碁盤の目となっている状況に活かされてござる。
牧野氏は元々、三河国宝飯(ほい)郡・渥美郡・八名(やな)郡(概ね愛知県豊川市周辺)を中心に根付いていた国人で、
駿河今川氏の勢力が三河へ及ぶと、それに従属していた。桶狭間合戦の後、徳川家康が岡崎(愛知県岡崎市)で独立を
果たすも、牧野一族は今川方に従って頑強に抵抗し続けた。ようやく今川勢力が衰退した頃、家康へ服従するようになり
以後は徳川家臣として忠節を尽くした“忠義の家”である。忠成は関ヶ原戦役で上田城(長野県上田市)攻防戦に従軍し、
大坂の陣でも首級27を挙げた猛者である一方、幕閣としても重用されていた。数々の戦歴や人望あっての事か、1619年
(元和5年)武家諸法度違反を咎められた福島正則に対し、彼の居城・広島城(広島県広島市中区)の明け渡しを命じる
幕府の上使として赴き、決戦も辞さじと激怒する正則を宥めて無事に役目を果たしている。越後国長峯(新潟県上越市)
5万石から加増転封され6万4000石を領し長岡城主になった忠成は、この功績から1620年(元和6年)更に1万石を加増。
ところで激務が続いた忠成は、長岡に封じられたものの12年間国入りする事なく、初めて入国したのは1630年(寛永7年)
6月になってからであった。城主不在のままだった長岡では何事も「堀丹後守御証文通り」とされ、堀直寄の治世が踏襲
されていたと云う。直寄の政治力が垣間見える逸話ではあるが、それで不便を起こさなかった牧野家の家臣団もなかなか
機転の利く面々だったのではなかろうか。
右馬允忠成の嫡男・大和守光成(みつなり)は若くして亡くなったため、2代目となったのは光成の長男である飛騨守忠成
(祖父と同名)であった。その後は駿河守忠辰(ただとき)―駿河守忠寿(ただなが)―土佐守忠周(ただちか)―駿河守
忠敬(ただたか)―駿河守忠利(ただとし)―駿河守忠寛(ただひろ)―備前守忠精(ただきよ)―玄蕃頭忠雅(ただまさ)
備前守忠恭(ただゆき)―駿河守忠訓(ただくに)と継いだ。忠寿の代に三蔵(さんぞう)火事と呼ばれる1728年3月27日の
大火災が起きて長岡城が全焼した事は先に述べたが、城の復旧工事が完了したのは1754年(宝暦4年)、実に26年もの
歳月がかかり、費用も7000両を幕府から借りるなど多額に及んだ。他にも飢饉・水害・地震などが度重なり、その復興に
長岡藩は苦しめられてきた。新潟湊が長岡藩の管轄下にありそこから上がる利潤が藩財政を支えていたものの、それも
1843年(天保14年)に上知(幕府へ収公)され、藩は益々困窮するようになる。この赤字体質を根本から改善すべく、幕末
藩政改革に登場したのが河井継之助秋義(かわいつぎのすけあきよし)だ。継之助は実学に基づいた経済活動を断行、
借財ばかりであった藩の経営を黒字転換したのみならず、藩士の禄高改定や兵制改革にも手を付け、その結果として
風雲急を告げる情勢下、アームストロング砲やガトリング砲・エンフィールド銃といった最新兵器を西欧から購入する。
特にガトリング砲は当時の日本に3門しか存在しなかった中の2門を長岡藩が買付けた。これに対し、鳥羽・伏見の開戦
以降、幕府や会津藩の討伐を徹底したい新政府軍は北陸戦線へ攻め寄せて来る。長岡藩、そして継之助は国際法に
依拠し武装中立を唱えて新政府軍との交渉に当たったが、強硬な新政府軍側は「味方せぬなら敵である」との短絡的な
判断を下し、長岡への攻撃を開始した。1868年(慶応4年)5月19日、数に勝る新政府軍は長岡城を落とすが、継之助を
軍事総督とする長岡藩兵は最新武器を活用して反撃に転じ、6月から7月にかけて新政府軍を翻弄。7月24日夕刻から
急襲をかけ、翌日に長岡城を奪還した。ところがこの戦いで継之助は重傷を負い、指揮が執れなくなる。戦力も低下して
7月29日に長岡城は再び新政府軍の手に落ちた。もはや敗軍となった長岡藩兵は落ち延びるしかなく、会津へ向けて
八十里越(はちじゅうりごえ、魚沼から只見へ抜ける峠道)を下ったが、その途中で継之助は銃創が元で死亡している。
長岡を戦火に晒したとして非難する声がある一方、郷土の英雄として讃えられる事も多い河井継之助であるが、こうした
戦いによって長岡藩は新政府から減封処分を受け、2万4000石とされた上に藩主・忠訓が処罰され、最後の藩主となる
忠毅(ただかつ)へと代替わりした。彼は1869年(明治2年)6月22日の版籍奉還で長岡知藩事に。有名な「米百俵」の
逸話はこの直後の話だ。5万石も減封され食料不足に陥った長岡の窮状を見かね、支藩であった三根山(みねやま)藩
(新潟県新潟市西蒲区)から1870年(明治3年)5月に百俵の米が送られてきた。長岡の民は喜んだが、長岡藩の大参事
小林虎三郎はこの米を換金して学校建設の資金とした。曰く「百俵の米も食えばたちまち無くなるが、教育に充てれば
明日の百万俵となる」と教育の重要さを説いた。こうした成果か、長岡からは橋本圭三郎(貴族院議員)・小野塚喜平次
(東京帝国大学総長)・山本五十六(海軍元帥)と言った名士が誕生している。
しかし藩の困窮は如何ともし難く、廃藩置県に先立つ1870年10月22日に牧野忠毅は知藩事を辞任。長岡藩は廃藩され
藩領は柏崎県に吸収された。長岡城は先の北越戦争で壊滅状態にあり、焼け残っていた本丸の三重櫓・九間門の橋
坤隅櫓・二之丸南櫓・籠部屋・千手口門は全て資材として売却されている。跡地は公園となっていたが、そこに1898年
(明治31年)長岡駅が建設され、20世紀初頭までに堀も埋められて全く跡形も無くなった。現在、駅前広場に本丸跡の
標柱、市役所庁舎(二之丸跡地)脇に城址碑(写真)が立つのみでござる。なお、長岡駅の地下道掘削工事に於いて
旧本丸内の礎石が1954年(昭和29年)8月20日に地下4mの深さから出土、この石が1968年(昭和43年)4月に開館した
長岡市郷土史料館(悠久山公園にある模擬天守建築)の石垣に組込まれており、現状で唯一の「城の遺物」である。
隅々まで行き渡った水路や水濠に囲まれた複雑な縄張から、別名で「霞ヶ城」「苧引形兜城(おびきがたかぶとじょう)」
「八文字構浮島城(はちもんじがまえうきしまじょう)」と言った水に関連する雅称を持つ。
移築された遺構として
本丸城塁礎石
栃尾城
鮫ヶ尾城・立ノ内館