越後国 栃尾城

栃尾城本丸跡

所在地:新潟県長岡市栃尾町
(旧 新潟県栃尾市栃尾町)

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★★★■■
公園整備度:★■■■■



栃尾市は2006年(平成18年)1月1日に長岡市へと編入合併されたが、その旧栃尾市の中心街に程近い諏訪神社の裏手が
登城口。鬱蒼とした森の登山道を30分ほど登ると、後藤曲輪・金井曲輪・千人溜りといった郭跡や馬洗池などが順番に出現。
標高227.6mを数える鶴城山の頂上が栃尾城の本丸跡だ。ちなみに、山頂の裏手(西側)まで林道が通じており車で登る事も
可能なようだが、なかなかに厳しい道筋だそうなので運転には注意が必要でござろう。何はともあれ、写真の通り山頂からは
視界が開け、栃尾盆地が一望できる。登山道がややキツめなので初心者には奨められないが、この眺望は一見に値する事
間違い無しでござる!
形式としては典型的な戦国期の山城。堅城として名高く、馬蹄型の縄張を構成していた。山頂には南北に細長い本丸、その
北側には尾根を削り均す形で松ノ丸・三ノ丸・五島丸が並ぶ。各曲輪の間はガッツリと堀切で分断され、その堀切は谷底まで
繋がる竪堀となって落ちていく。本丸から南〜西〜北へは折り返すように二ノ丸・中ノ丸・琵琶丸・馬繋ぎ場・鷹待場が。無論
こちら側も竪堀や堀切がふんだんに穿たれている。鷹待場の先、西側尾根の最先端部は狼煙台として使われていたようだ。
また、城内には数ヶ所の池(井戸)もあり、水の手も抜かりない。保水・湧水に恵まれた山は、まさしく築城好地であろう。
正確な築城年代は不明。奈良時代に防人の宿営地として築かれたとか、鎌倉時代に佐々木氏や執権・北条一族が拠った、
南北朝期に北朝方拠点となって足利尊氏から越後の守護代に任じられた下野国(現在の栃木県)の有力者・芳賀左兵衛尉
高名(はがたかな、法名の禅可(ぜんか)と呼ばれる事が多い)が正平年間(1346年〜1370年)の一時期この城へ入ったとか
様々な伝説が入り混じるものの、現在の城の規模や形状としては室町時代初期〜中期の創建と推測される。鎌倉時代から
この地に根付いていた国人・本庄氏の城であり、室町期に入ると蔵王堂(ざおうどう)城・栖吉(すよし)城(共に長岡市内)を
本拠とした古志(こし)長尾氏に従属している。室町時代の越後は守護の越後上杉氏や守護代である長尾氏の利権が対立、
更に各地の国人も自立の構えを崩さず混沌としていた状況だったが、16世紀初頭になると英傑・長尾信濃守為景が台頭し
下克上、守護・上杉房能(ふさよし)を追放して越後の覇権を握った。為景は同族である古志長尾氏から継室の虎御前姫を
迎えており、その間に産まれた次子・虎千代は幼少期に林泉寺で修行を積んだ後に栃尾城主・本庄実乃(さねより)に預け
られる。実乃は虎千代に軍略を叩き込み、虎千代が長じると側近として仕えるようになった。誰あろう、虎千代あらため長尾
景虎こそ、軍神と称される上杉謙信その人である。景虎はこの城で青年期を過ごし、父・為景が死去して越後国内が再び
争乱の嵐に飲み込まれるや、兄である長尾左衛門尉晴景(為景長男)に代わって反対勢力の討伐へ出征するようになって
瞬く間にこれを平定。景虎を若輩と侮って黒田和泉守秀忠(黒滝城(新潟県西蒲原郡弥彦村)主)らが栃尾城へ攻め寄せた
事もあったが、見事に撃退している。この時、景虎は募兵ながら敵を挟撃に追い込む采配を見せ14歳にして天才的武略を
発揮したとか。一方、晴景は病弱で戦に出る事が出来ず、また家中を統制する政治力にも欠けていたため、次第に越後の
将は景虎を長尾家の当主に望むようになるが、それに対抗しようとした兄・晴景は景虎追討を目論んだ。斯くして長尾家の
跡目争いが起こった時、景虎(謙信)は栃尾城で旗揚げしたと言われている。結局、戦の天才たる景虎がこの争いを制し
晴景は引退、兄弟対決は血を見る事なく景虎が家督を継承する事になり申した。
本庄美作守実乃は謙信の重臣として名を馳せ、謙信の居城である春日山城(新潟県上越市)に詰める事が多くなったため
栃尾城には城代として本庄玖介や宇野左馬充が置かれる。その隷下に栃尾衆が編成され、約240騎の軍役を負っていた。
実乃の跡は嫡男の秀綱(ひでつな)が相続。中越の要衝・栃尾城主として、そして父同様に謙信側近として活躍したのだが
1578年(天正6年)に謙信が薨ずると上杉家はまたもや家督騒動に見舞われ、本庄氏の運命も暗転する。
謙信は跡継ぎを定めずに没した。当時、謙信には3人の養子がいたものの、その内の2人が後継者の座を争って上杉家は
真っ二つに割れた。世に言う「御館の乱(おたてのらん)」である。本庄秀綱は小田原後北条氏出身の三郎景虎を推したが、
時流はもう1人の後継者、上田長尾氏出身の弾正少弼景勝へと傾いた。景虎側が劣勢になるにつれ、秀綱は自身の城で
ある栃尾城に立ち返り景勝への対抗を継続したが、敢え無く景虎は1579年(天正7年)3月24日に自刃する。それでも秀綱ら
景虎側の諸将は景勝への抵抗を続け、景勝側は残党狩りに兵を動かした。景勝と直江山城守兼続の攻略によって1580年
(天正8年)4月22日、遂に栃尾城も落城。秀綱は会津へ逃げ延び、後年、佐々成政に仕えたそうである。
景勝は奪取した栃尾城の城主として家臣(景勝の出自である上田衆)の佐藤甚助忠久を入れたが、豊臣秀吉の全国統一後
1598年(慶長3年)上杉家は故郷・越後から会津へ移封されてしまった。豊臣政権が新たな越後の主として堀左衛門督秀治
(ほりひではる)を入れた事に伴い、栃尾城には堀家の家臣・神子田長門守政友が7000石(1万石とも)で入城しているが、
徳川幕府によって1610年(慶長15年)閏2月2日、堀家は改易処分になり、栃尾城も廃城となったのであった。以降、400年に
渡って城跡は眠りに就く。乱開発などされず現代まで残った山城は1960年(昭和35年)3月28日、新潟県史跡に指定された。
別名で大野城、舞鶴城とも。


現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群等
城域内は県指定史跡




新発田城  蔵王堂城・長岡城