武蔵国 間宮豊前守信盛館

間宮豊前守信盛館跡(川崎塁) 宗三寺

所在地:神奈川県川崎市川崎区砂子

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:☆■■■■



京浜急行川崎駅の目前、瑞龍山宗三寺境内が館跡と伝わる。別名で川崎塁、名の通り間宮豊前守信盛なる者の館であった。
間宮氏は近江源氏佐々木氏の血統と言われ、恐らく南北朝時代に伊豆国田方郡間宮村(現在の静岡県田方郡函南町)へと
居を移した事から改姓したもの。この間宮氏が北条早雲(小田原後北条氏の祖)の旗揚げ以来臣従し、後北条家臣団の中核を
為すようになる。早雲が伊豆から相模へと領地を拡大していくと、必然的に相模を領有する扇谷(おうぎがやつ)上杉氏と抗争を
激化させた訳だが、後北条方の拠点であった権現山城(神奈川県横浜市神奈川区)に上杉軍が攻勢をかけた際、城中から
飛び出した武者が「我こそは神奈川の住人間宮」と名乗りを上げて敵陣へと斬り込んだと云う。それを見た権現山城の兵は
「間宮を討たすな」と叫んで後に続き、大激戦の端緒になったと伝わる。この間宮なる武者が早雲の臣である間宮新佐衛門尉
信冬、あるいはその子である芳彦四郎信盛と推測されてござる。
川崎塁の主、豊前守とはこの芳彦四郎信盛と考えられる。間宮氏は神奈川県内の各所(相模国〜武蔵国の境界近辺)に
所領を持ち、河崎(川崎)あたりも含まれていた。砂子(いさご)には佐々木氏所縁の勝福寺があり、信盛は衰退していた
寺を復興すると同時に居館としたらしく、彼の死後、その戒名として付けられた「宗三」に寺名が改められた。これが間宮館の
由来と現在に繋がる宗三寺の歴史でござる。なお、信盛の次代・豊前守信元(康信とも)の頃?に、間宮氏の本拠は
笹下(ささげ、神奈川県横浜市港南区)へ移る訳だが、この「笹下」という地名も間宮氏の本姓「佐々木」が佐々気→
佐々下→笹下と転訛したものだという伝承がござる。さらに信元の跡を継いだ康俊は老齢の身ながら1590年(天正18年)
豊臣秀吉が後北条氏討伐に軍を発した際、最前線である伊豆の山中城(上記の函南町)守将の1人として抜擢され壮絶な
討死を遂げている。この時、康俊は老兵と侮られぬよう白髪頭を墨で黒く染め猛然と突撃したと言う。
一方、康俊の娘は小田原戦役後に徳川家康の側室へ迎え入れられ、これが元で生き延びた間宮一族は江戸幕府の旗本と
して取り立てられるようになってござる。なおも話は続き、帰農して常陸国筑波郡上平柳村(茨城県つくばみらい市)へと
移り住んだ者の末裔に、樺太探検で有名な間宮林蔵が輩出され申した。更に更に、江戸時代の蘭方医にして「解体新書」の
出版で有名な杉田玄白も間宮氏の流れ。斯くして間宮一族は脈々と血を受け継いでいる。
現在の館跡は駅前の一等地であるが故、遺構は全く残らない。寺の名にかつて此処を住まいとした武士の意気を感じるのみ。







武蔵国 小杉御殿

小杉御殿跡石碑

所在地:神奈川県川崎市中原区小杉御殿町・小杉陣屋町

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:☆■■■■



1590年、豊臣秀吉の全国統一によって関東へ徳川家康が入封。家康は江戸を本拠地と定め、領国経営のため少しずつ
統治施策を進めていくが、差し当たって喫緊の課題となったのが江戸城下町で消費される食糧の増産であった。江戸
近郊での農地開拓を検討する中、武蔵国橘樹郡(たちばなぐん、現在の神奈川県川崎市一帯と横浜市の一部)が候補地の
1つに選ばれたものの、当時この辺りは水利に乏しく、田畑を養成するに足りる水がなかった。このため1597年(慶長2年)
橘樹郡を縦貫する二ヶ領用水(にかりょうようすい)の開削が始められ、その工事監督や事務処理に必要な陣屋が
ここ小杉に築かれた。これが小杉陣屋で、二ヶ領用水敷設を進言し、その工事責任者であった小泉次大夫(じだゆう)
吉次(よしつぐ)が入居。後に次大夫は稲毛・川崎領の代官に任じられるが、用水奉行として彼が果たすべき仕事は
難工事が予想される二ヶ領用水の完成であり、陣屋の裏手に保田山妙泉寺を建立し工事の無事を祈願。妙泉寺には
安房国保田吉浜(千葉県安房郡鋸南町)の日蓮宗中谷山妙本寺から高僧の連中房日純を招いている。
さて、秀吉没後に天下の覇権を握った家康は征夷大将軍に任じられ全国支配を確立する一方、軍事教練と民情視察を
兼ねて江戸郊外での鷹狩りを頻繁に行うようになった。江戸城(東京都千代田区)を出る地方遠征の為、鷹狩りの際に
必要となる宿館が関東各地に築かれ、こうした宿館は「御殿」と呼ばれ御茶屋御殿(千葉県千葉市若葉区)や中原御殿
(神奈川県平塚市)などが代表例でござるが、家康や2代将軍職を継承した秀忠は中原御殿へと向かう道すがら、中原
街道(江戸城から中原御殿へ直行する道、東海道整備以前には京都方面で最大の街道。現在の神奈川県道45号線)に
近い位置にあった妙泉寺に日純を訪ねて様々な談義を行ったと云う。そして1608年(慶長13年)秀忠は小杉にも御殿を
構築。1640年(寛永17年)には拡張改修され、普請奉行は安藤市郎兵衛と小俣平右衛門であった。御殿番は同心の井出
七郎左衛門。小杉御殿は家康・秀忠の他、3代将軍・家光や4代将軍・家綱も逗留したと伝わる。
小杉陣屋の南隣りに建てられた小杉御殿は、東西約170m×南北100m程の規模を有し、敷地面積1万2000坪(約4万u)の
中に表御門・御主殿・御殿番屋敷・御賄屋敷・御馬屋敷・御蔵・裏御門などの建物が軒を連ねていた。ちょうど中原街道は
この小杉御殿の南縁を通過していて、防備を固めるべく御殿の門前で鍵折れの形状となり城郭の“食い違い虎口”を成す
ようにされ、その鍵折れは現在の神奈川県道45号線でもそのまま残されている。御殿の北側は当時の多摩川河川敷に
近接し、それを利用し裏側を天然の濠として守りを固めており、幕府創設期にまだ治安維持が万全でなかった状況下、
将軍を警護するに相応しい城構えの防御構造を備えていた事を伺わせてござる。多摩川の流路は現在もっと北に遷移
したが、陣屋防備の河岸段丘は今でも等々力陸上競技場(その河岸段丘下段に位置する)の周回道路に見て取れる。
この他、御殿敷地に隣接する泉沢(せんたく)寺・西明(さいみょう)寺と言った寺院も出郭として防備に用いられた。
しかし東海道が一級幹線道として整備され、また将軍の鷹狩り御成も次第に行われなくなった事から、中原街道沿いに
存在する小杉御殿は必要性を薄め、1655年(明暦元年)に建物の一部が品川宿の臨済宗大徳寺派万松山東海寺へと
移築された。1672年(寛文12年)には残りの建物が上野弘文院へと移築され、小杉御殿は廃止されたと云うが、1660年
(万治3年)の時点で既に廃されたとする説もある。ちなみに、妙泉寺は砂子(現在の川崎市川崎区宮前町)へと移転し
寺名も長経山妙遠寺に変更されたが、小杉の妙泉寺跡地に現在は祖師堂が建てられている。
御殿廃止後、跡地は耕作地になったがその各所に御主殿稲荷・陣屋稲荷・御蔵稲荷という3つの稲荷社が建てられた。
現在もこれらの稲荷社は存続してござるが、周囲は全て宅地化されて隙間なく民家が建ち並ぶ。かろうじて街路による
区画割りだけが往時の敷地を推測する手がかりで、小杉御殿跡は中原街道「小杉陣屋町」交差点の150mほど西の地点を
南東隅とし、そこから上記の通り170m×100mの大きさで北西側へ対角線を延ばせば、綺麗に御殿敷地の長方形と街路が
一致する(一見すると東辺の道は消滅しているが、路地の北半分は残存)。同様に小杉陣屋は御殿跡地北東側の一角、
東西100m×南北120mの区画(小杉陣屋町中公園が東辺になる形)が跡地だ。
何より、町名表記を「小杉御殿町」「小杉陣屋町」とするのが“地元旧跡の誇り”を感じられて良うござる(笑)
とは言え、最も分かり易く御殿の存在を際立たせているのが先に記した中原街道の鍵折れでござろう。写真の石碑も
その鍵折れ地点に設置されている。ところが県道45号線はこの鍵折れが渋滞の原因になっている為、川崎市では2002年
(平成14年)3月12日に道路直線化および拡幅工事の事業認可を取得。2019年(平成31年)3月現在、道路用地の買収を
進めており、この道路改修が完成すると「小杉陣屋町」交差点〜「小杉十字路」交差点までが屈曲無しで通過できるように
なる。交通渋滞緩和の為には是非とも進めて頂きたい事業だが、一方で伝統ある町割りがこれで消える訳で、この石碑も
撤去もしくは移設される事になるだろう。こうした景色が見られるのも、あと数年という事なのか…。




三増峠周域諸城郭  春日山城・御館