相模国 田村館

田村館跡石碑

所在地:神奈川県平塚市田村

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:☆■■■■



平塚市田村、相模川右岸にあったとされる三浦平六義村の館跡。
別名で田村山荘、三浦義村館など。一説によれば
蝦夷討伐に向かう平安時代初期の征夷大将軍・坂上田村麻呂が
ここに逗留した事が「田村」という地名の由来であると言われている。
現在、館跡を顕彰する石碑(写真)が建てられている場所から北に
150mほど行くと神川(かみかわ)橋が架かり相模川が渡れるように
なっているが、古来よりこの地は“田村の渡し”として有名な渡河点でござった。
即ち、田村の渡しは相模の大河・相模川を扼する交通の要衝であり、
中世においては八王子往還(相模を南北に縦貫する道)と
大山街道(同様に東西へ通じる道)の結束点、現代では国道129号線と
神奈川県道47号線が交わっていて、その重要性は変わっていない場所である。
元来、この周辺は(要地であるが故に)国衙領であったが
いつの頃からか三浦氏の領地となり、その威勢は相模川西岸の大住郡および
余綾(よろぎ)郡一帯(現在の平塚市・大磯町・二宮町近辺)に及び申した。
田村館の創建は不詳であるが、相模川を渡った対岸に
梶原景時の居館である一宮館(神奈川県高座郡寒川町一之宮)があり
鎌倉幕府草創期に梶原景時と勢力争いを繰り広げた三浦義村が
一宮館に備えるべく、1199年(正治元年)頃に築いたとする説がある。
この年、景時は源頼朝没後の権力闘争に敗れて兵乱を起こさんとした
密計があったとされる為だが、その真偽は不明である。
田村館が史料上に初出するのは1223年(貞応2年)であるが、これに先立つ
1219年(承久元年)7月、館の存在を覗わせる逸話が残る。源氏将軍が3代で絶え
京の都から摂家将軍を鎌倉に迎える事となり、当時まだ2歳であった
三寅(みとら)、後の九条(藤原)頼経(くじょうよりつね)が下向する際
田村の地に5日間逗留したと「承久記」にある。この当時、既に館が
造営されていたのかどうかは分からないが、この件を基にして
三浦氏が和田氏(同じく鎌倉幕府の有力御家人)を見限って滅亡させた
1213年の和田合戦後、田村館が建てられたとする説が一般的だ。
ともあれ、義村と頼経はこれが縁で接近するようになり、
1228年(安貞2年)7月には将軍・頼経を筆頭に執権・北条泰時や
連署の北条時房らが田村山荘、つまり田村館を訪れて3日間にわたり
秋の風流を楽しんだと「吾妻鏡」にある。この他にも頼経らはしばしば
田村館を訪れており、この折に義村が京都から楽人(雅楽師)を呼び
歓待の宴を催した事から、現在も平塚市に伝わる伝統芸能
「田村囃子」が発祥したとの説が残ってござる。
その義村は1239年(延応元年)12月5日に死去。この前後に田村館は
廃絶したと見られるが、創建同様に詳細な事は不明である。義村の子
泰村(やすむら)は1247年(宝治元年)の宝治合戦で
幕府実力者・北条氏に敗れて死亡、三浦宗家は滅亡する。少なくとも
この時点で田村館が滅失していた事は確実視されよう。
伝承に拠れば館の大手は北側にあり、田村の渡しへと通じる
街道に面していたとされる。昭和初期までは館の堀や邸内の築山などが
残っていたと言い、堀の長さは一辺およそ180mの四辺形、典型的な
鎌倉武士居館の規模であった。一方で発掘調査の結果では武家居館と
断定するような痕跡は見つからず、弥生時代〜古墳時代の集落遺跡痕が
検出されている。果たして田村館の実態が如何なものであったかは
不明なまま、1960年(昭和35年)〜1962年(昭和37年)にかけて木造の
平塚市営住宅が造成され、館跡地は破壊されてしまった。市営住宅建設に
際し、住民の希望でその威徳を顕彰する石碑(写真のもの)が
作られたが、1981年(昭和56年)〜1983年(昭和58年)に住宅の耐火構造
改築が行われ、これを機に当初置かれていた場所から北側へ移された。よって、
元来の館跡は現状の石碑設置位置よりもっと南側であったと見られる。
このように既に消失、さらに改変された史跡であるため特段の史跡指定は
行われていないが、平塚市では埋蔵文化財としてのみ登録を行っている。
なお「田村囃子」の方は1976年(昭和51年)11月24日に
市指定重要無形文化財となってござる。







相模国 大上砦

大上砦跡 真芳寺

所在地:神奈川県平塚市大神

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:☆■■■■



平塚市大神、曹洞宗大上山真芳寺のある場所は戦国期に小田原の後北条氏が
砦を構えた地でござった。真芳寺の開基は1478年(文明10年)、
仁忠良義(にんちゅうりょうぎ)禅師とされる。仁忠は後北条氏の支族であり
本家の庇護の下、当寺を開くと共に堀・土塁などを構えて
この地を守る砦としたのでござる。よって、真芳寺砦とも称される。
真芳寺境内からその北方にある八幡原にかけては、相模川の自然堤防が
最も狭まった地点であり、ここを通過する軍勢の急所となる場所であった。
即ち、相模国を縦貫する八王子往還が相模川の川岸に肉薄する位置であり
西側から広がる水田(低湿地)と、東側から迫る細長い微高地(相模川流路)が
街道を阻害する形となる。ここに砦を築く事で、甲斐・武蔵方面から
小田原へ進む軍勢を簡単に牽制できるようになり、
相模中央部の要衝として大上砦は必要とされた。
果たしてその予見通り、1561年(永禄4年)3月に長尾景虎(上杉謙信)が
小田原城を攻めた時の布陣地となった上、1569年(永禄12年)8月に
武田信玄が甲斐から相模へ侵入した際も、ここを通過している。
信玄の軍勢が迫るや、大上砦にあった後北条勢は出撃し
砦の北方およそ200m地点、八幡原牛ヶ渕という場所で会敵する。
8月24日に甲府を出立した武田軍は25日に相模川を渡河、26日に
大神・田村付近で陣を張っており、ここに北条軍が切り込んだのである。
砦からの出撃兵は募兵であり、大軍を擁する武田軍には敵わず
牛ヶ渕合戦は後北条方の敗北に終わったが、この戦いで武田軍は
足止めされ、小田原城への到着が遅れた。その間に小田原城では
籠城用の兵糧・物資搬入、兵員の集結を完了させる事ができた。
特に兵糧の増備は籠城における効果絶大であり、為に武田軍は
長期的な小田原城包囲が不可能となり、城を落とさぬまま撤兵する事になる。
牛ヶ渕合戦は戦略上においては後北条軍の勝利であったと言えよう。
大上砦は見事に小田原城前衛としての役割を果たしたのでござる。
小田原後北条氏が滅亡した後、徳川家康が天下を掌握すると
平塚周辺は家康の鷹狩場とされた。江戸からしばしば家康が平塚へ
訪れるようになったが、ある日の事、賊徒が一行に襲撃をかけ
家康は真芳寺に逃げ込んで難を逃れたという伝承が残されてござる。
この折、寺の住職は門を堅く閉ざして賊を退けたとある。
天下の将軍・徳川家康が賊に襲われたという話には疑問が残るが
この話は寺が江戸時代になってからも一定の防御力を維持していた事を
物語っている。以来、真芳寺は庶民の出入を許さぬ寺として
高い格式を誇り、山門は不開門として公事以外は絶対に開けなかったという。
現在、一帯は完全に住宅地・水田地帯となっていて特に遺構らしきものはないが
牛ヶ渕古戦場付近には「内出」「出口」といった小字名が残され、また
戦死者を葬ったという小墳塚が近年まで多数存在していたそうでござる。







相模国 中原御殿

中原御殿跡石碑

所在地:神奈川県平塚市御殿

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:☆■■■■



江戸に本拠を構えた徳川家康が、鷹狩に赴く際や駿府との往復時などに
宿館とした御殿。別名で御鷹野御殿、雲雀野御殿などがあるものの
当時は単に「御旅館」と呼ばれていたという。
1596年(慶長元年)、領内巡検で平塚を訪れていた家康は、
豊田村本郷(平塚市豊田、中原の近隣)の清雲寺を宿館としていたが
水害により使えなくなった。急遽、新たな宿所を求めた所
中原村に古い居館が放置されているのを家臣(伊奈忠次とする説あり)が発見、
改修して新たな宿館としたのが中原御殿の始まりだという。その一方、
1592年(文禄元年)朝鮮出兵で肥前名護屋へ徳川軍が赴く際に
中原へ逗留したという説もあり、創築に関してはいまいち不明瞭である。
ともあれ、中原御殿は家康がたびたび訪れるようになり、一説には
江戸幕府の開設構想を家臣とここで談義したとも言われる。また、
鷹狩を好む家康は、獲物となる鳥類が多く生息した中原周辺を甚く気に入り
相模川西岸〜金目川(平塚市西端を流れる川)一帯を鷹狩場としたため
その中心として中原御殿は大いに重用されたと伝わる。家康が初めて平塚で
鷹狩を行ったのは1590年(天正18年)で、中原御殿が整備された後
「新編相模国風土記稿(徳川幕府が編纂した地誌)」によると
1607年(慶長12年)、1611年(慶長16年)、1612年(慶長17年)、
1613年(慶長18年)など、毎年のように来訪している。これに伴い
江戸城虎ノ門から中原御殿を経て大磯宿(で東海道と合流)に至る街道が
中原街道と命名され(ただし、街道そのものは家康入封以前から存在する)
この名前は現在も神奈川県内で使われている。御殿内には鷹小屋、
御殿の隣には鷹を生育する鷹匠屋敷が建てられた。
家康と中原御殿の繋がりはまだまだあり、1613年に小田原城主
大久保忠隣(ただちか)謀反との噂がたつや、小田原に居た馬場八左衛門が
中原御殿に宿泊中の家康へ急を知らせた。さらには1616年(元和2年)駿府で
家康が薨去、翌1617年(元和3年)に日光へ改葬される際の棺は中原御殿に
1泊しており、御殿廃絶後(下記)、敷地内に中原御殿東照宮が建立され申した。
御殿の規模は東西約130m〜190m(諸説あり)×南北約100m〜110mの方形館、
四周には幅12mほどの空堀が巡らされていた。東側(江戸方面)を大手口として
中原街道へ通じ、その道幅は7m半にもなった。当時としてはかなり大きな道だ。
他方、御殿南側の道は調練場、すなわち馬場として用いられてござった。
家康没後もしばらくは存続し、当地の行政中枢として機能していた。
また、中原街道は東海道の脇往還として益々発展。中原代官の1人、
成瀬五左衛門重治がこの地で作られた食酢を幕府に献上して以来
その運搬路ともなった為、「御酢街道」という別名まで付くようになった。
しかし時代が下るにつれて中原御殿の必要性は薄れていく。1640年(寛永17年)
(1642年(寛永19年)とも)に修復が行われたが、1657年(明暦3年)
いわゆる“明暦の大火”で江戸城が焼失すると、その復旧材として
中原御殿の建築物が持ち去られ、ここに御殿は破却・廃絶された。
唯一、裏門であった冠木門だけが近隣の善徳寺山門として残されている。
この後、御殿跡地は幕府御用林として松が植生され、その一角に
明暦年間(1655年〜1658年)中、上記の通り東照宮が営まれ申した。
以来、幕末までこの状態が保全され、東照宮の縁日が催される際には
かつての馬場であった御殿南側の道で草競馬が執り行われたという。
しかし明治維新後、この林は伐採され建材や煉瓦焼成の燃料にされた。
東照宮も遷移、現在の御殿跡地は平塚市立中原小学校の敷地になっている。
数次にわたる発掘調査が行われ、1981年には縄文時代中期の土器や
古墳時代後期・中世・近世の遺構が検出。1991年(平成3年)の調査では
古文献通り御殿の堀や井戸跡が確認され申した。中原御殿は家康が用いた時代を
中心に、幅広い年代で歴史の息吹を収めた場所だったのでござる。
が、これらの遺構は全て埋め戻され、現状では何も残されていない。
御殿跡周囲の道路が堀跡に沿って敷設され、鍵の手に屈曲している事ぐらいが
当時を推測する材料だ、としか言えない状態でござる。


現存する遺構

移築された遺構として
善徳寺山門(搦手冠木門)




三崎城・浦賀城・衣笠城  三増峠周域諸城郭