相模国 三崎城

三崎城跡土塁

所在地:神奈川県三浦市城山町・三崎

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:☆■■■■



三浦半島南端、往時は三浦水軍の一大根拠地となっていた海賊城でござる。
別名で三浦城・宝蔵寺城・北条山城とも。
城の創建は定かではない。鎌倉幕府成立期の建久年間(1190年〜1199年)、
後に三崎城外縁部として取り込まれる位置にある本瑞寺の敷地に
源頼朝が桜之御所を建てたとされているが、もちろんこれは城郭として
成立したものではない。頼朝は三浦市内に梅・椿・桜の3御所を用意し
そこに愛妾を囲っていたとの事。戦闘を意図したものではないのでござる。
結局のところ、三崎城が城郭として機能したのは戦国期になってからであろう。
相模の名族・三浦氏が後北条氏との戦いによって滅亡した折(新井城の項を参照)
新井城と同時に三浦氏の城であった三崎城が陥落したという記録がある。よって、
この落城劇が起きた1516年(永正13年)には既に三崎城があったという事になる。
三浦軍と後北条軍の交戦当時、三崎城には三浦方の城代・出口茂忠が
入っていたが、落城と共に大半の兵は討死し、残った兵は城を逃れて
城ヶ島(三浦半島の南にある島)に立て籠もり抵抗を続けたと言う。
1513年(永正10年)の足利政氏書状に於いても「三崎要害」の記載があるため
この年代には三崎城が用いられていたという点は確定的でござろう。
さて、三浦氏の滅亡により後北条方に接収された新井城と三崎城。それまでは
新井城を本城とし、三崎城が出城として機能していたのだが
後北条氏は運用を改め、三崎城をこの地域の拠点城郭として整備していく。
伊豆から相模へと領土を伸張させていた後北条氏は、小田原に本拠を構え
武蔵や下総、房総半島へも進出して行くのだが、三浦半島と海を挟んだ
位置にある安房・上総では強敵である里見氏が勢力を張っていた。
このため、江戸湾(東京湾)の制海権をめぐり両者は数度に渡って海戦を行う。
水軍城郭である三崎城が重視されるのは当然の流れだったと言えよう。
三崎城は玉縄衆(玉縄城家臣団として統率される師団)隷下の城と位置付けられ
三崎海賊(水上兵団の事)の運用拠点になっていく。横井越前守らを城代とし
船手大将の出口五郎左衛門尉・梶原備前守ら三崎十人衆と呼ばれる水軍を配備し
城の規模も拡張されていった。こうした状況下、北条水軍と里見水軍は
戦歴を重ねていくのである。一例を挙げると、1526年(大永6年)の暮れ
里見水軍が鎌倉へ上陸し破壊活動を行うも、玉縄衆が迎撃し撃退。
1556年(弘治2年)には三浦半島各所に里見軍が上陸し占拠した事件もある。
この時には城ヶ島も主戦場となっており、三崎城も一時里見方の手に落ちた。
さらに1571年(元亀2年)にも里見水軍と北条水軍が交戦に及んでいる。
天正年間(1573年〜1592年)になると、三崎城主に北条氏規(うじのり)が
任じられる。氏規は後北条氏3代当主・氏康の5男。後北条氏は一族を
重要城郭の城主に任じる事で地域支配網を確実に広げており、氏規も
三崎城近くの相模国三浦郡三崎宝蔵山に領地を得ていた事から城主に抜擢され
三崎水軍を統率する役に就いたのでござる。氏規の入封により三崎城は
さらなる改良が加えられ、三浦半島南端を守るに相応しい大城郭へと発展。
1577年(天正5年)4月17日付の書状において、城の竣工を氏規が報じている。
斯くして整備された三崎城は、海に面した小山の崖上に主郭と二郭を並列させ
二郭の前面に大きな馬出、その馬出に連なる西側に三郭、東側に四郭が続く。
結果的に四郭は主郭を塞ぐ位置になった縄張り。各曲輪間は虎口によって
厳重に守られ、また、曲輪間の相互補完性が極めて強い構造になっている。
例えば三郭に対しては馬出と二郭の両方から射撃が行えるし
同様に四郭に対しては馬出と主郭から攻撃軸線が用意できるのでござる。
まさに“後北条流城郭”の真骨頂である曲輪間の相互連携性を重視した縄張り。
これを実現するため、馬出は敢えて不整形な5角形になっており申す。
こうした曲輪群を囲うように、外郭も配置。そして主郭直下の浜辺に
軍船が集結するようになっている。しかも、三崎城の港をかばうように南岸を
城ヶ島が塞いでいるため、天然の防波堤として機能するようになっていた。
氏規の統率によって進化した三崎城と三崎水軍は、1577年の11月に
里見水軍とまたも交戦に至り、遂にこれを撃破したのでござる。
抗いきれなくなった里見氏は後北条氏と講和する事となり、
江戸湾の制海権は後北条方の手に入った。以後、三崎城は
相模湾〜江戸湾における水上交通の監視拠点として用いられ申した。
このようにして後北条5代・約100年に渡って整備拡張され続けてきた三崎城。
現在では城跡の小山は北条山と呼ばれるようになっている程でござる。
ところが、1590年(天正18年)天下統一に王手をかけた豊臣秀吉が
後北条氏を下さんとして大軍を以って関東地方に侵攻。外交に長けた
北条氏規は後北条領における西の要である韮山城(静岡県伊豆の国市)に
籠もり豊臣方と駆け引きを演じたため、三崎城は城代の山中上野介が守備した。
しかし結局、後北条氏は秀吉に降伏したため終戦。
三崎城も開城し、これを以って廃城とされたのでござった。
明治頃までは城郭の遺構が比較的明瞭に残されていたと言うが、
現在、城の敷地であった場所には三浦市役所や市体育館、学校などが建ち
曲輪の跡形や堀などの構造物は殆んど消え去っている。部分的に
土塁の残礎が散見され、写真を見て分かるように車の高さより上まで
盛り上がっている場所もあるが、これはあくまでも玄人目で見て気付くもの。
正直、城郭らしい姿を見て取れる場所は少ない。主郭下、かつては
港だった部分も今ではかなり埋め立てられ、往時の海岸線は残らない。
北条山の比高差を見て、当時の城の立地を推測するのが一番の見所?であろうか…。


現存する遺構

土塁・郭群








相模国 浦賀城

浦賀城跡 東叶神社と社叢林

所在地:神奈川県横須賀市東浦賀町

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:★■■■■



浦賀といえばペリー来航、幕末動乱の導火線となった場所として有名だが
戦国期には水上交通を監視するための城が築かれていた。
それがここ、浦賀城でござる。もっとも、一口に浦賀と言っても広く
浦賀城跡とペリー上陸地はかなり離れてはいるのだが…。
何はともあれ、浦賀城の経歴を紐解いてみると
三崎城の出城として構えられたものだという。
即ち、(正確な築城年代は不明だが)三浦道寸(どうすん)によって築かれ
三崎城同様、三浦氏の滅亡に伴って後北条氏に接収された城郭でござる。
(三浦氏の衰亡については新井城の項を参照の事)
築城以前よりこの地には叶神社(現在は東叶神社と称する)があった。
神社の由緒を辿れば1181年(養和元年)8月15日、京都・高雄山神護寺の僧
文覚が源氏再興を祈願して京都の岩清水八幡宮の御霊を招いた事に始まり
源頼朝が見事にその務めを果たした為、叶大明神と呼ばれた経緯がある。
よって、神社の裏山が明神山と名付けられ、江戸湾を挟んだ里見水軍に
備えんとした後北条氏が標高50m程のこの山を城郭として整備していき
浦賀城が成立したのでござった。水軍の駐屯地とされた明神山は
下田山・城山などとも呼ばれ、山腹を空堀が巡り個々の曲輪を形成。
それほど技巧的な縄張りでもなく、また、三崎城のような拠点城郭に比べると
小規模な城郭であったが、明神山からは対岸の房総半島が良く見通せるため
水軍における非常時即応の臨戦城砦だったと考えられよう。後北条氏の
支城網のうち、東相模の一大師団である玉縄衆の隷下に位置付けられ
1556年の里見氏三浦半島侵攻時には山角紀伊守が浦賀城を守っていた。
さらに後、北条氏康による再編を経てからは愛洲兵部少輔・高尾修理
小山三郎右衛門らが浦賀城に配置されたと後北条氏の軍役帳簿
「小田原衆所領役帳」にある。浦賀城に編成された三浦水軍には
高禄で召し抱えられた安宅水軍(紀州水軍の一派)も編入され、
後北条氏の家財奉行・大草康盛の指揮下、軍船の建造なども行われた。
年を経る毎に重要度の増していった浦賀城と三浦水軍。1590年、豊臣秀吉が
西国諸大名を率いて後北条氏に戦を仕掛けた折には、浦賀の三浦水軍が伊豆の
下田城まで遠征、豊臣方水軍に対する防衛線を伊豆水軍と共に敷いた程だが
結局、後北条氏が秀吉に降伏したため終戦。浦賀城は廃城となり申した。
以後、明神山は叶神社の社叢林として風化。この林は自生するウバメガシの
北限と言われ、1976年(昭和51年)12月17日、神奈川県の天然記念物に指定。
城郭としての明瞭な遺構は残らないものの、天然社叢林を有す叶神社は
翌1977年(昭和52年)横須賀市の市制70年を記念し制定された
横須賀風物百選の一つに数えられている。
ところでその叶神社、1860年(万延元年)太平洋横断渡航に先立ち勝海舟が
明神山の井戸で水垢離を行い断食の願を懸け、咸臨丸の航海安泰を祈願した
神社だと言われている。結局、浦賀城も幕末と切っても切れない間柄のようで…。


現存する遺構

郭群








相模国 衣笠城

衣笠城址碑

所在地:神奈川県三浦市衣笠町

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★☆■■■
公園整備度:★■■■■



三浦氏発祥の城として名高い。三浦半島のほぼ中心にあり
山麓に天然の濠となる大谷戸川と深山川が流れ、その間に挟まれた
東向きの半島状丘陵を城地としている。横浜横須賀道路衣笠ICの傍、
曹洞宗金峯山不動院大善寺の裏山が衣笠城跡。地図によっては
その北にある衣笠公園(桜の名所として有名)を衣笠城址としているが
これは誤りなので注意されたい。
城の起源は平安時代中期に遡る。東北地方に独立勢力を築く安倍氏を
時の朝廷が源頼義・義家親子を派遣して平定しようとした
1051年(永承6年)〜1062年(康平5年)の「前九年の役」において
相模国に土着していた桓武平氏後裔・村岡平大夫為通が
(村岡氏については高谷砦(村岡城)の項を参照されたい)朝廷軍に参加し
戦功を挙げ、恩賞として三浦の所領を与えられた。これに伴い為通は
三浦半島に入り、衣笠の地に本拠を構えた。こうして築かれたのが
衣笠城で、同時に姓を改め三浦氏と称したのでござる。以後、三浦氏は
衣笠の地で為継・義継・義明と代を紡ぐ。その三浦氏4代
大介(おおすけ)義明の頃、衣笠城は歴史の表舞台に登場する。
1180年(治承4年)8月17日、源頼朝は打倒平氏の志を以って伊豆で挙兵、
平氏の伊豆代官・山木判官兼隆の館を襲撃して戦いの火蓋を切った。
義明率いる三浦党は当初から頼朝支持の態度を鮮明にしていて
義明の嫡男・義澄や一門の和田義盛らに兵300余りを率いさせ
援軍を派遣したのでござる。しかし三浦軍は大雨で増水した
酒匂川(神奈川県西部を流れる川)に行く手を遮られ、その間に
平氏方の反撃を受けた頼朝は石橋山合戦で大敗を喫してしまう。結果、
頼朝は海路で房総半島へと逃れ、三浦軍は引き返さざるを得なかった。
源氏方の統制が乱れている間に平氏方の軍が押し寄せ、同月26日
衣笠城は江戸重長・河越重頼・金子家忠・畠山重忠(いずれも平氏方)ら
3000騎の兵に囲まれた。対する城方は400騎であったという。
大手側から江戸・河越・金子の軍2000、搦手側から畠山軍1000が攻撃し
多勢に無勢である事を悟った義明は、義澄・義連ら子息に兵を与え
安房(千葉県南部)に逃れさせ頼朝支援を命じた。そして義明自身は
城内に残り攻城兵を惹き付け、壮絶な最期を遂げたと言う。
(自刃したとも、江戸重長に討たれたとも伝わる)
時に義明89歳。これがいわゆる衣笠合戦で、義明が貴重な時間を稼いだ事で
頼朝は安房で再起を果たし、平氏政権打倒の大望を成し遂げたのでござる。
その結果、三浦氏は鎌倉幕府内で重鎮とされ申した。これにより、
いったんは落城した衣笠城が三浦氏の隆盛に伴って整備拡張されていく。
しかし、鎌倉時代は権力闘争が絶えぬ情勢にあり、特に
執権(将軍に代わり政務を運営する事実上の最高権力者)北条氏は
政敵となり得る他氏を排斥する事に躍起で、梶原氏・比企氏
畠山氏・和田氏といった面々が滅ぼされていた。三浦氏は何とか
難を逃れていたものの、1247年(宝治元年)遂に北条氏と対決するに及ぶ。
三浦氏7代・泰村(やすむら)は鎌倉市中で北条氏の軍勢と相対し
衣笠からも援軍が急行したが、北条氏優勢で事が運び、遂には自刃。
斯くして三浦一門は佐原流を残して滅亡し、これを以って衣笠城も廃された。
戦国時代に小田原後北条氏が用いたという説もあるが、判然としない。
現状に残る遺構は、鎌倉期の古城だけあって殆んど風化している。
この状況から察するに、戦国期に使われた形跡は薄いと思われる。
何より、鎌倉時代の城跡というものは戦国〜近世の城郭と異なり
大規模な土木工事は行われず、天然の地形をそのまま利用したものなので
堀や土塁といった目立つ遺構があるわけでもない。しかしそれでも衣笠城は
削平地の痕跡や井戸跡が残っているので、確かに城地であった雰囲気が漂う。
そうした衣笠城跡へ登るには、山腹の大善寺から入山する事になる。
その道筋を案内すると、山裾から大善寺へ至る道が衣笠城の大手口とされており
大善寺の一つ下の平場が平時における居館跡だったと言われる。
現在、大善寺までは車で登れるが道が狭いので注意が必要だ。
大善寺の歴史は衣笠城よりも古く、728年(天平元年)全国行脚中の僧
行基(奈良大仏建立の功績者である)がこの山に立ち寄り、
金峯蔵王権現と自ら彫刻した不動明王を祭ったのが始まりだとされる。
その際、お払いに使う水を求めた行基が杖で岩を打つと清水が湧き出たという
伝承が残る。この清水が「不動尊御手洗池」通称で「不動井戸」と呼ばれ
衣笠城における貴重な生活用水になっていた。関東大震災により水量が
減ってしまったらしく、当時は泉の水が山麓まで溢れる程だったとの事。
なお、三浦氏2代・為継が1083年(永保3年)〜1087年(寛治元年)の
「後三年の役」に参陣した際、大善寺の不動明王が前線に現れ
為継に向かって飛んできた矢を打ち払って守ったと言う伝説がある事から
この不動明王を「箭(矢)取不動(やとりふどう)」とも呼ぶ。
大善寺から先は徒歩で山に入る。この坂は非常に急峻で、
馬で登るのが困難と言われていた事から「馬返しの坂」と呼ばれる。
衣笠城はこのように切り立った山を雛壇式に啓開して曲輪を用意していた。
こうした曲輪を登っていき、城域の西端になる最高所へ至ると
物見岩とされる大岩が鎮座している。衣笠合戦の折、三浦義明は
この岩の上に立ち戦況を確認したそうな。衣笠城における詰めの場所だ。
1919年(大正8年)衣笠城の発掘調査が行われた際、岩の下から
磁器の水差しや刀剣・経筒などが出土している。岩の西側は
急激に落ち込んだ谷になっていて、これが城の裏手を鉄壁に守っていた。
一方、大善寺の脇から城山を迂回して下る切り通しの道が搦手口。
衣笠城の西木戸裏口では、衣笠合戦の時に和田義盛・金田頼次(義明の娘婿)ら
150騎が守っていたとされている。搦手口から南に過ぎた平地は
兵の訓練を行った練武場跡。その周辺には土塁が残り、馬屋もあった。
さらに急坂を下ると水喰い井戸(馬喰い井戸)がある。
戦国城郭や近世城郭に比べると見学するのに経験値を要する城郭であるが、
それなりに遺構があるため、1966年(昭和41年)6月15日
面積5331u分の城地が横須賀市の史跡に指定されている。
余談ではあるが、城の近辺には矢竹が多く生えている。
三浦氏が戦闘で使う弓矢を用意するために植樹したものと推測され
衣笠近辺の地名「大矢部」「小矢部」というのも、弓矢職人が
居住していた事に由来するという。この地は明らかに
坂東武士が生活と戦闘の舞台にしていたのでござる。
余談をもう一つ。衣笠合戦の際、三浦方の将・三浦与一と
平氏方の将・金子与一が組討を行ったという。2人の与一は乱戦となり
三浦与一に加勢しようとした味方の兵が「三浦与一殿は上か下か」と
声をかけたものの、肝心の三浦与一は風邪をひいていたため返事ができず
咳き込むばかり。そうこうしている間に、三浦与一は討ち取られてしまった。
彼が風邪をひいていなければ落命しなかっただろうと、後年になって
この場所に供養の地蔵が祀られ、いつしかそれは「咳地蔵」と
名付けられ、咳の快癒に御利益があると信じられるようになったという。


現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は市指定史跡





鐙摺城・和田館・新井城  相模川西岸諸城郭