相模国 鐙摺城

鐙摺城(幡指砦)跡

所在地:神奈川県三浦郡葉山町堀内

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:☆■■■■



葉山鐙摺(あぶずり)港の脇にある小山、いや、小隆起が鐙摺城跡。
極めて小規模な城址だが、伝えられる話は多い。それらに共通するのは
相模の名族・三浦氏に縁の深い城址と言う事で、起源は平安末期に遡る。
平治の乱に敗れた事で伊豆・蛭ヶ小島に配流された源頼朝が
1177年(治承元年)三浦を訪れた際、この山を馬で上がろうとしたが
険峻で狭隘な道のため、馬の鐙(あぶみ、騎乗時に足を乗せる為の馬具)が
地に摺れた事から“鐙摺”の名がついたと言われる。
この山が軍事施設として歴史上に登場するのは1180年(治承4年)の事。
打倒平家の志を掲げ石橋山に挙兵した頼朝を助けるため、
三浦半島に勢力を有した三浦一門が海路から兵を送り出したのが
鐙摺の浜であった。しかしこの援軍は間に合わず、頼朝は敗戦。
三浦軍は酒匂川(神奈川県小田原市を流れる川)畔でこの報を聞き
止む無く引き返すが、その帰路の小坪(神奈川県逗子市)近辺において
平家方の畠山重忠軍と遭遇し由比ヶ浜で交戦状態に入る。この事態に、
三浦一門の総帥であった三浦義澄は鐙摺城にて守りを固め、援軍を増派した。
しかし三浦軍と畠山軍の間で和約が成立したため、義澄は鐙摺城に
旗を掲げ、進発させた援軍を引き返させたのでござる。
この故事から、鐙摺山を旗立山(はたたてやま)とも呼び、城名も
別名で幡指(旗指)砦とされてござる。場所的に三浦半島の入口を守る
要衝であり、当時は四方に眺望が開けていたという事なのだろう。
現在は城山の海側が鐙摺港の施設として埋め立てられ、陸側に県道が
通っている状態だが、平安時代には海側の直下に街道が走り、
そちら側が大手だったと言われている。陸路と海路が一体となった
海城のような状態で使用されていた城郭、という事になろう。
さて、頼朝は石橋山で大敗を喫したが海を渡り房総半島へ落ち延びて
瞬く間に勢力を回復する。その結果、関東の武士は軒並み源氏に臣従し
前述の畠山重忠らも頼朝の有力御家人として組み込まれていく。
況や、三浦義澄は当初から頼朝を支持しており重鎮中の重鎮であった。
そうした中、伊豆に勢力を築き平家方に大きな貢献をしていた
伊東祐親(すけちか)が頼朝軍に囚われた。かつて、祐親の娘・八重姫は
虜囚時代の頼朝と情を通じ千鶴丸という男子を儲けたが、平家に仕えていた
祐親は、罪人にして平家の仇敵たる頼朝の子など災いの元であると断じ
八重姫を頼朝から引き離した上、千鶴丸を殺害した挙句に
頼朝の暗殺までも謀った経緯があった。その上、石橋山で頼朝が挙兵した際
平家方としてそれを敗退に追い込んだ張本人が祐親であった。
しかし一方で祐親の別の娘は三浦義澄に嫁いでおり、伊東氏と三浦氏は
縁戚であった。このため、死罪は免れない状況にあった祐親は
義澄の取り成しによって助けられ、鐙摺城に蟄居する処分に留まった。
ところが、過去の経緯は許されざる大罪と恥じた祐親は鐙摺城内で自ら
命を絶った(首を斬られたという説もある)と「曽我物語」に伝えられる。
こうした伝承から、現在の鐙摺城址には伊東祐親の供養塔が祀られてござる。
鐙摺城にまつわる話はまだまだ続く。鎌倉時代の史書である「吾妻鏡」によれば
頼朝が正室である北条政子に秘密で亀の前という寵女を飯島(逗子市)の
伏見広綱邸に匿っていたが、1182年(寿永2年)5月にこの一件を
政子が知るや激怒し、牧三郎宗親(駿河国の豪族)に命じて
伏見邸を打ち壊しさせ亀の前を亡き者にしようと図ったとある。しかし、
亀の前は広綱の機転により伏見邸を脱し大多和義久の守る鐙摺城へ
逃げ込んだため事なきを得たと言う。義久は義澄の3男。
この頃、鐙摺城主となり城の周囲に館を構えていた人物と言われる。
後日、鐙摺城を訪れた頼朝は宗親を呼び「お前の主はこの頼朝か政子か」と迫り、
宗親の元結(もとゆい)を切ったとの話が残る。
さらに加えると、歌人・佐佐木信綱によれば、鎌倉幕府が成立した後
頼朝の2男にして3代将軍になった源実朝は1217年(建保5年)この城で月見をし
「大海の 磯もとどろに 寄する波 われてくだけて さけて散るかも」の
句を詠んだという。実朝は小倉百人一首に名を連ねる歌人でもござった。
このように、鐙摺城は平安末期〜鎌倉幕府成立期に様々な人物模様を
織り成した城址であった。その後も三浦氏の城として代々受け継がれ、
永正年間(1504年〜1521年)には三浦次郎高處なる人物の居城でござった。
高處は新井城主・三浦義同(よしあつ、出家して道寸(どうすん))の弟。この当時、
義同率いる三浦一門は小田原に勢力を張る北条早雲(後北条氏)の攻勢を受け
次第に勢力を弱めていた。小田原から相模湾沿いに伸張した後北条方は
既に鎌倉を制圧、玉縄城を築いて三浦氏の首元を締め上げていた時期でござる。
後北条方に備える最前線であった鐙摺城は、物見に最適な場所だったようで
三浦一党の棟梁である義同自らがこの城から敵情を見聞したと記録され
鐙摺山は旗立山の他に軍見山とも呼ばれているのでござる。
とは言え、鐙摺城の栄光もこれまでで、後北条軍の攻撃で新井城に先立ち落城、
廃城になったと見られる。現在は写真にある小丘陵だけが
周囲に住宅や港湾施設がひしめく中、孤独に残された状態。
遺構と呼べるほどのものはないが、今でも城址からの眺めは良いので
この山の上に登り海を仰いで当時の眺望を想像するのが良うござろう。
旗立山は1992年(平成4年)3月27日、葉山町の史跡に指定されている。
サザンオールスターズの曲「鎌倉物語」に登場する日影茶屋という日本料理店の
すぐ隣が城址。神奈川県道207号線に面していて車で行くのが手っ取り早いが
城址近辺に駐車場所がないのが難点でござる。



現存する遺構

郭群
城域内は町指定史跡








相模国 和田館

和田館跡

所在地:神奈川県三浦市初声町和田

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:☆■■■■



鎌倉幕府侍所初代別当(べっとう、長官の事)和田小太郎義盛の館跡。
彼は上記鐙摺城の解説で登場した三浦義澄の甥に当たる人物で
三浦氏と和田氏は極めて近い縁戚関係にあったのでござる。
義盛は16歳の頃(1162年(応保2年)?)、父・杉本義宗の死に伴い
それまで住んでいた鎌倉・杉本城から居を移し、この地に館を築いた。
これが和田館でござる。当地は和田ノ里と呼ばれており、地名を採って
和田姓に改姓。但し、義盛の所領は江戸湾(東京湾)を挟んだ対岸の
安房国和田御厨にもあるのでその地から和田姓とした説もある。
和田姓の由来はさて置き、三浦郡の和田ノ里は当時既に有数の
穀倉地帯として発展していた。平安時代の武士は領地における農村防備を
第一義としていた為、この地に義盛が館を構えたのは当然の成り行きとも言えよう。
和田館は水田の監視や領民の保護を為すに相応しい城館だったと思われる。
義盛はこの豊穣な地を拠点に勢力を蓄え、1180年に源頼朝が
平氏打倒の兵を挙げるや、一番に加勢を表明して絶大な信を得た。
石橋山合戦には間に合わなかったものの、海路脱出した頼朝に合流した
義盛の軍勢は源氏軍の中枢として活躍、和田ノ里から供出された
兵や兵糧が大きな効果をもたらした事は想像に難くない。こうした経緯で
義盛は侍所別当に任じられたのでござった。和田ノ里に愛着ある義盛は
この館を終生の本拠地としていく。なお、源平合戦に先立ち頼朝に討たれた
木曽義仲の愛妾・巴御前は義盛に預けられ、和田館で余生を送ったという。
斯くして鎌倉幕府創立の功臣となった義盛であったが、頼朝没後は
幕閣内の権力闘争に巻き込まれていく。将軍家縁者であった北条氏は
執権(しっけん、将軍に代わり政務を担当した事実上の最高権力者)の座に
収まり、邪魔者となる他氏を次々と排斥していき、義盛もそうした姦計の
矛先を向けられてしまったのだ。和田一族は謀反の疑いをかけられた訳だが
義盛は逆に北条氏打倒の兵を挙げ反撃に転じようとする。そのため、一時は
優勢に兵を動かす状況になったものの、最も近しい縁者であるはずの三浦氏が
和田方を裏切って北条方に就いた上、義盛の子息が戦死してしまった為
勝機は失われ、義盛もまた敗死して果てた。時に1213年(建暦3年)5月3日。
義盛、享年67歳。これを一般に和田合戦という。
和田氏が滅亡した事により和田館は廃絶し、跡地は農地や山林になってしまった。
そのため現在の和田館跡には遺構らしきものが残らないが、この館を囲むように
木戸脇・唐地(空地)・出口・赤羽根・矢作などの地名が残っていて
往時を偲ぶことができ申す。館の中心地と見られる平塚農業高校
初声分校の向かいには写真にある碑と案内板が建てられており、さらに
そこから傾斜地を下った道が国道134号線と合流する手前近辺には
和田氏顕彰の旧里碑が建立されてござる。土木的な遺構が何もない館跡だが
郷里の人々には今も敬愛されている事が当時のよすがと言え申そう。
また、館を構えた丘陵地の頂部を基点として今も広大な耕作地が広がる
周囲の様子から、当時から現在まで変わらぬ情景を推測するのもアリかと。







相模国 新井城

新井城跡 三浦道寸墓

所在地:神奈川県三浦市三崎町小網代

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★■■■
公園整備度:☆■■■■



相模の名族・三浦氏滅亡の城として知られる。築城年代は不明だが
一説に拠れば1247年(宝治元年)宝治合戦における論功として
佐原(三浦)盛時がこの地を領有し築城したと伝えられてござる。
宝治合戦とは、鎌倉幕府における当時最大の実力者であった執権・北条時頼が
対立した三浦泰村(やすむら)一族を粛清した事件。三浦一族のほとんどが
敗死した中、傍流の盛時だけは北条方に与したため生き残り、三浦半島南部を
所領として与えられ名門・三浦家の家督を相続したのでござった。
とは言え、この城が史料上で確認されるようになるのはやはり室町時代になってから。
盛時以降、三浦氏は北条氏被官として細々と家系を紡いでいたが、室町幕府成立に
伴って少しずつ勢力を拡大、一時は相模守護の地位を得るほどであった。
ところが1416年(応永23年)に発生した上杉禅秀(ぜんしゅう)の乱において
時の総領・三浦高明(たかあき)は幕府と敵対したと見做された為、三浦氏は
相模守護職を剥奪され、以後は関東管領(室町幕府における東国管轄の重職)
上杉氏の配下として扱われた。浮き沈みの激しい中世関東武士団の中
三浦氏は特に危うい橋を渡る事が多く、この後には継嗣騒動まで起こしてしまう。
以下、その経緯に関連して登場する新井城の記録でござる。
高明から家督を継いだ三浦時高(ときたか、高明の子)には長らく実子がなく
扇谷(おうぎがやつ)上杉家(関東管領上杉家の分流)から養子の義同を
迎え入れた(義同の父である高救(たかひら)が養子入りしたという説もある)。
ところがその後になって時高に実子の高教(たかのり)が誕生したため
彼は家督相続を翻意。義同は三浦家の嫡子たる地位を失ったのでござる。
これにより義同は小田原城主・大森氏の庇護下に隠棲、出家して道寸と号したが
その武勇を惜しむ声が三浦氏の家臣団から揚がり、家中は時高・高教派と
高救・道寸派に分裂した。こうした情勢の中、行動を決意した道寸は挙兵し
1494年(明応3年)ここ新井城を奪取、養父・時高を滅ぼし申した。
(ただし、近年の研究でこの家督相続は大規模な合戦ではなかったという説もある)
改めて三浦氏当主の座に就いた道寸は所領を固めるべく岡崎城(神奈川県平塚市)に
本拠を構え、新井城には嫡子の荒次郎義意(よしおき)を入れた。しかし程なくして
道寸の後ろ盾であった大森氏は小田原城を奪われて没落。新たに小田原城主となり
伊豆から相模へと勢力を広げる伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)は三浦氏に
盛んに攻勢をかけるようになっていく。その結果、武略に長じた長氏は1512年(永正9年)
8月に岡崎城を落城せしめた。城を失った道寸は住吉城(神奈川県逗子市)、
次いでこの新井城へと退去。長氏方は道寸の退却に合わせて相模国内の領地を
併呑していったが、三浦半島きっての堅城たる新井城はなかなか落とせなかった。
このため、長氏は半島の首根っこを締め上げる位置に1513年(永正10年)
玉縄城を築城するに至る(詳細は玉縄城の項を参照の事)。
玉縄城の出現により三浦軍は上杉軍との連携を絶たれ、劣勢になっていくが
それでも新井城は陥落せず持ち堪え続けた。それと言うのも、新井城は
三浦半島西岸の断崖上に築かれた立地で、北・西・南の三方が海に面していて
唯一、陸上経路が繋がっていたのが東側だけであったからだ。その東側も
主郭部からおよそ3km離れた所にある大手口が引き橋となっており、ここを
遮断すれば城内へと侵攻する事が極めて難しくなる堅固な構造になっていた。
実際、三浦軍は引き橋の遮断に成功したため、長氏方の攻勢がかけられない
状態になったのでござる。主郭から3kmも先に大手が構えられていたと言うのは
戦国初期の城としては異例の巨大さであるが、要するに総構えや外郭線と
捉えるべき位置だったのであろう。戦国末期に城郭構造物としての総構えを
大成させたのが三浦氏の敵である北条氏であるというのは何とも皮肉だが
ともあれ、引き橋において攻城軍を足止めした事で長期にわたる
新井城の防衛が可能になったのであった。現在、三浦市内の地名として
その名を残す引き橋は今でこそかなり内陸部になってしまっているが
(関東大震災の地盤隆起によるとの事)その当時は海岸線から浸食した
谷間になっていたので、天然の大堀切として利用されていたのでござる。
加えて、主郭部の入口にあたる部分も引き橋になっており
(こちらは「内の引き橋」と呼ばれる)新井城への侵攻路は
内外二重の堀切で防御されていたと言えよう。
玉縄城による閉塞で動けない三浦軍、引き橋から中へ入れず
持久戦の構えを取った北条軍、両者共に睨み合いを続ける形となり
戦いは予想を遥かに超えた長期戦になっていった。しかし1516年(永正13年)
三浦氏を救援しようとした上杉氏の軍勢が北条軍によって撃退され、
新井城はこれ以上の後詰が期待できなくなってしまった。事ここに至り
敗北が決定的になった三浦氏は同年7月11日に城門を開放し討って出て
城兵ことごとくが討死したのでござる。この時、戦死した兵たちの血と脂で
城周辺の海が埋め尽くされた事から、その湾が油壺湾と呼ばれるようになった。
この籠城戦は結果的に4年にも及んでおり、第2位の織田軍vs浅井軍における
小谷城攻防戦(3年2ヶ月)を遥かに越える日本史上最長の籠城戦であった。
道寸をはじめとする三浦一族も果て、ここに相模の名門・三浦氏は滅亡。
城跡の片隅に彼の墓が築かれている(写真)。ちなみに、道寸辞世の句は
「討つものも 討たるゝものも かはらけよ 砕けて後は もとの土くれ」
何と自虐的で悲壮な歌であろう。
さて、三浦氏滅亡後の新井城は北条氏に接収され使用されたようである。
対の城であった玉縄城が北条氏の拠点城郭として重きを成し、新井城は
その支城として位置付けられ城代の横井氏が入り、いわゆる“玉縄衆”の
一端を担っていた。三浦半島は江戸湾(東京湾)を挟んだ対岸に
北条氏の宿敵・里見氏が控えており海を挟んで度々交戦に及んでいる。
これに関連して新井城も何度か戦が行われたのだ。一例を挙げれば
1526年(大永6年)12月、里見軍が海路から鎌倉に上陸し市街地を焼き払う
攻撃を行っており、この時に新井城でも軍の動きがあったようだ。
また、里見側の軍記「房総軍記」によれば1556年(弘治2年)里見水軍が
三浦に上陸し東条六郎・木曽又五郎らが三浦四十郷を占拠、新井城を修復し
城代に里見右京を置いたとある。里見方が相模国内に領地を得た事は
史実に検証できないため、この記載にはかなりの誇張があると思われるが、
文献にあるのだから新井城を巻き込んだ戦いが少なからずあったのは確かだろう。
その後も城は北条氏のものとして維持され続け、1590年(天正18年)
豊臣秀吉が小田原後北条氏を攻略した戦いにおいては伊豆下田城から
梶原氏の率いる後北条水軍が油壺湾(=新井城)へと引き上げてきたという。
しかし結局、秀吉による小田原征服で後北条氏が滅亡した為に廃城とされた。
現在、城跡には東京大学の地震観測所と臨海実験所、それに油壺マリンパークが
建てられており、あまり城らしい雰囲気にはない。東大の敷地部分には
かつての堀や土塁の痕跡が見受けられるのだが、そのあたりは一般人の
立ち入りが禁止されているので簡単に見学できる状態にもなっていない。
強いて言えば、内の引き橋あたりの堀切だけが明瞭な遺構であるが
これとて、一般の観光客は素通りする場所なので“城址”としての認知度は
なきに等しい。戦国史上一の籠城戦が行われた城は、今や全くの観光地。
三浦道寸の墓石が時代の推移を静かに物語るのみでござる。



現存する遺構

堀・土塁・郭群等





横浜市内諸城郭(2)  三崎城・浦賀城・衣笠城