相模国 矢部城

矢部城跡 街山八幡社

所在地:神奈川県横浜市戸塚区矢部町

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:☆■■■■



竹下城・竹の下城・竹下小次郎館などとも呼ばれる。室町前期の応永年間(1394年〜1428年)
その名の通り竹下小次郎なる人物が館を構えたそうだが、この者の来歴は
相模の名族・三浦一門の出自という事だけしか分かっていない。
場所は戸塚区の矢部町、横浜新道を東京から下ってきた終点を僅かに過ぎた付近。
写真の一番左に見える防音壁は国道1号線新線のものでござる。現在、跡地と推測される
場所には街山八幡社が建てられており(写真)その一角だけが住宅街の中
自然豊かな森として残されている。見ようによっては、こうした森の起伏が
かつての土塁痕か?と思えなくも無いが全く確証はない。とりあえず、八幡社の敷地は
周囲に比べて一段高い位置にあり(比高15mほど)、中世武士が館を構えたとしても
不思議は無いだろう。いかんせん密度の高い住宅街の中にある為、来訪するのが困難。







相模国 石川陣屋

石川陣屋跡

所在地:神奈川県横浜市戸塚区上矢部町

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:☆■■■■



石川重政屋敷とも。この地を領した徳川旗本・石川四郎左衛門重政の館。
豊臣秀吉の全国統一により関東は徳川家康のものとなったが、家康入部に伴い
1592年(文禄元年)重政は武蔵国・相模国各地に封を与えられる。その知行は
神奈川県央地域各所に分散し、横浜市瀬谷区宮沢・大和市下草柳(しもそうやぎ)
海老名市望地(もうち)・高座郡寒川町大蔵(おおぞう)など計687石であったが、
その中で居館を構えたのがここ、戸塚区上矢部町でござった。石川家は有力旗本として
江戸幕府に忠勤し、重政の子である八左衛門重次は普請奉行に就任。当時の将軍
徳川家光から江戸佃島近辺の中洲を拝領した。これが東京都中央区「石川島」のおこりで
日本を代表する重工業企業「石川島播磨重工(現在はIHIに改称)」の名も
元を正せば、この石川家が由来と言う事になろう。
現在の陣屋跡地は、これまた工業の会社「かもめプロペラ」工場敷地。船舶用の
巨大なスクリュープロペラ等を生産している企業だそうな。IHIにかもめプロペラ、しかも
普請奉行の役職、石川家は何かと工業生産系に関連ばかりしているような…(笑)
冗談は兎も角、横浜新道戸塚料金所の北西350mほどの位置にある為、現在の敷地は
完全に工場として整地されており陣屋の遺構は皆無。なだらかな丘陵斜面という
大まかな雰囲気を見て取るのみでござろうが、周辺には一昔前まで城郭に関連する
小字名が使われていたとの事なので、遡って小田原後北条氏統治の時代から
何かしらの城館が構えられていたのかもしれない。







相模国 岡津城

岡津城址土塁

所在地:神奈川県横浜市泉区岡津町

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:☆■■■■



相模国鎌倉郡岡津(おかづ)村は「新編相模国風土記稿」によれば鎌倉時代に鶴岡八幡宮の
給田とされ、地頭職に大宰少弐為佐が就きその孫・甲斐三郎左衛門尉為成の代まで
受け継がれた。また、1270年(文永7年)には領地係争の裁判があった記録も残る。
室町時代になると相模国一帯は扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の支配下に置かれた。
扇谷上杉氏は関東管領(室町体制における東国の統治実務者)山内(やまのうち)上杉氏の
分家筋に当たり、その血脈を遡れば公家の勧修寺(かじゅうじ)家に辿りつく名門の家柄。
一方、戦国争乱の機運が高まるや伊豆に旗揚げした新興勢力の伊勢新九郎(北条早雲)が
小田原城を奪取、相模掌握の北進策を採る。斯くして扇谷上杉氏と伊勢氏改め後北条氏が
南関東の覇権をかけて鎬を削るようになる訳だが、この過程で上杉方が築いた防御拠点が
岡津城の始まりらしい。当時の南関東は勃興しつつあった江戸と、堅固な城砦都市である
小田原、古くから武家政権の都であった鎌倉が主要都市であったが、江戸と小田原を繋ぐ
街道から鎌倉方面へ分岐する地点がまさしく岡津の地であったのが築城理由と言えよう。
時の扇谷上杉家当主・朝良(ともよし)は当城で防戦に努めたと言うが、勢いに乗る
新九郎は1512年(永正9年)鎌倉を手にし玉縄城(鎌倉市内)を築城、この為
岡津城も攻略されたのでござる。後北条氏の軍役帳「小田原衆所領役帳」に拠れば、
後北条氏の手に渡った岡津城は島津衆の太田大膳亮に与えられたとされる。尤も、
「小田原衆所領役帳」以前の史料に岡津城についての記載は見受けられず、上杉方が
用いていたと言うのは伝承に過ぎない。よって、恐らく上杉時代の城と言うのは
朝良が一時的に在陣した陣城程度のものだったと推測される。
後北条氏はその後も関東一円への伸張に成功、戦略的最前線は北関東や東関東へと
拡大した為、相模国内は完全な後背地となる。そのため、岡津城が以後の戦闘に
関わる事は無かったようだ。ところが後北条氏は1590年(天正18年)天下統一を果たす
豊臣秀吉に滅ぼされ、関東地方のほぼ全域は徳川家康に与えられる事となった。
岡津には家康配下の彦坂小刑部元正(ひこさかもとまさ)が代官頭として入り、
旧岡津城を縮小・再整備、南郭跡を利用して岡津陣屋(岡津代官所)を構築。
彦坂は能吏だったらしく、伊那忠次・大久保長安と並び家康配下の三目代に数えられ
江戸幕府草創期の地方行政に才を尽くした。岡津陣屋も相模から伊豆にかけての
幕府天領を統括していたと言われる重要省庁だったようだが、一方で彦坂は職務に
えり好みをするきらいがあったようで、1601年(慶長6年)鶴岡八幡宮修理に不備があり
一時閉門の処分を受けている。ほどなく職務に復帰するも、1606年(慶長11年)支配地域の
農民から不正行為を訴えられたとして改易、岡津陣屋は僅か15年程で廃され申した。
彦坂の失脚には様々な憶測が為されており、「代官頭」という職制を廃止するために
仕組まれたものだったとか、代官所での貢金不正があったとか言われるが詳細は不明。
ともあれ、以後の岡津村は旗本の黒田五左衛門が知行する所となってござる。
この辺りの土地は太平洋戦争後に急激な宅地開発が行われ、それまで散見されていた
城郭遺構は続々と都市整備によって改変されてしまった。1961年(昭和36年)には
横浜市立岡津中学校が現在地に移転して来ており、現在の城跡は岡津小学校・中学校
三嶋神社などの敷地となってござる。城の構造は南向きの緩斜面を雛壇状に活用し
曲輪を配置、最南端(最も低い地点)には阿久和川が塞ぎ天然の濠となっていた。
阿久和川は岡津城を取り巻くように北から南へ注ぎ出し、城の外周をなぞって
流路を東へと曲げている。現在は河川改修によって往時ほどの流れではなくなったが
恐らく戦国期はそれなりの峡谷となって城の前衛となっていたのだろう。岡津小学校の
南側に架かる橋(南北2つあるうち、北側の小橋)が旧来の大手口とされる鷹匠橋で
そこから山へ登る道がかつての大手道であったと言う。南端の曲輪となる南郭(三郭)が
小学校敷地、岡津陣屋が置かれた場所でござる。小学校の上段(北側)に二郭の中学校、
その東側(南郭の北東側)にある三嶋神社も内部3段の曲輪を為していたようだ。
三嶋神社の北が現在は中学校の第2グラウンドになっているが、ここが大丸と呼ばれる
主郭であったと伝承されており、「日本城郭大系」によれば五輪塔が出土したとある。
大丸の北には搦手側の曲輪群が設置されていたようだ。さらに転じて小中学校の西側、
山腹が阿久和川にせり出す部分は帯曲輪となっていたらしく、これは現状で
岡津鷹匠町公園の中に見受けられ申す。各曲輪間は縦横に空堀が掘られ、辺縁部を
土塁で固めていた。宅地化された現在、傾斜地の地盤を固める為に切岸などは
大半がコンクリートで覆われ、あるいは堀跡を街路に転用してしまったが
(逆に言えば、そうした法面や路盤こそが城の名残なのだ)
三嶋神社周辺や小中学校の間には今でも土塁遺構が手付かずで残存する(写真)。
神奈川県内の中小城址は殆どが都市化で完全消滅している中、横浜市内で
これほど明瞭な遺構がそのまま残るのは大変貴重であると言えよう。
しかし、このあたりで過去1回だけ行われた発掘調査では、城跡としての痕跡は
検出されなかったそうだ。中村宮ノ谷(なかむらみやのたに)遺跡と呼ばれる
この地点での発掘において確認されたのは縄文〜平安時代にかけての竪穴式住居痕、
それから中世の溝状遺構(堀跡ではない)ばかりで、特に大丸一帯については
主郭とするに足りるほどの面積は有していなかったと推測されてござる。
伝承としての城跡が正しいのか、研究結果としての否定説が正しいのか、
“杉山城問題”と同じような問題提議が為された訳だが、既に宅地開発が終了した
今となっては再確認する術もなし…永遠の謎を秘めたまま、岩津城跡は眠っている。


現存する遺構

堀・土塁・郭群








相模国 中和田城

中和田城跡 推定土塁痕

所在地:神奈川県横浜市泉区和泉町

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:★■■■■



泉小次郎館とも。鎌倉時代初期の武士、泉小次郎親衡(ちかひら)の居館と伝わる。
清和源氏の祖・源経基(つねもと)の嫡男が満仲。満仲は摂津国多田庄(兵庫県川西市)を
本拠とし多田源氏を成立させ、後の鎌倉幕府へと繋がる源氏の血脈を築いた人物として
有名だが、その5弟である満快(みつよし)の曾孫・為公(ためとも)は信濃守に叙任され任国へ
下向、信濃源氏一党を紡ぎだす。親衡は信濃源氏の出身で満快の10代後裔にあたり、北信濃
小県(ちいさがた)郡小泉庄(長野県上田市)の豪族だったと言われる。彼は鎌倉幕府の
御家人となり1212年(建暦2年)ここ中和田城を構えた。城跡のすぐ傍に鎮座する須賀神社は
同年に城の鎮守として創建されたものが現在まで存続しているものでござる。
源頼朝が開いた鎌倉幕府では頼朝の嫡子・頼家が1202年(建仁2年)2代将軍を継承したが
幕府の有力者・北条氏はこれを快く思っていなかった。頼家には有力御家人の比企氏から
妻が娶られており、このままでは北条氏の権勢が比企氏に奪われる事が予測されたからだ。
勢力を維持したい北条氏は謀略を用いて1203年(建仁3年)比企能員(よしかず)の乱を
起こさせ比企一門を排除。この年、頼家も病人として修善寺に幽閉し将軍位を剥奪する。
斯くして3代将軍に頼家の弟・実朝(さねとも)が就任するも、彼は文弱の若武者で
再び北条氏の権勢が優位となる情勢になった訳だが、源氏嫡流をないがしろにする行為は
水面下で他の御家人の反感を招く事となる。源氏の血を受け継ぐ親衡はその中心人物で
1213年(建保元年)頼家の遺児・千寿丸(千手丸とも)を擁立し反北条の兵を挙げんと計画。
これに同調する御家人は多く、和田氏ら幕府実力者も参加を決意していた。さらに同志を
募ろうとした親衡は郎党・青栗七郎の弟で安念坊なる僧侶を使者に立て千葉成胤(なりたね)の
館に遣わしたが、成胤はこれを捕らえ北条方に密告してしまう。北条氏は直ちに叛乱加担者を
捕縛、首謀者の親衡も追撫するべく軍勢を派遣したのである。中和田城は北条軍に攻められ
乱戦の中、親衡はいずこかに逃亡した。2月15日の事でござる。残された千寿丸は
北条氏によって強制的に出家させられ、後年に抹殺される事となるが、一方で親衡は
何とか逃げおおせたようで、信濃国飯山(長野県飯山市)で子孫が繁栄したとされる。
この乱を泉親衡の乱と呼び、和田氏と北条氏の対立は同年5月の和田合戦へと至るのである。
中和田城はこれで廃絶となったようだが、遺構の状態から見て後々にも改修・使用されたと
考える向きもある。その城跡は現在、泉中央公園となっている。都市公園としては小ぶりで
(東西80m弱×南北150m程度)主に広場が開放されているだけのように見えるが、実は
和泉川(神奈川県央部を流れる境川の上流部)の段丘に面した崖端城となっており、7m〜8mの
比高差を有する築城適地。広場の脇には2重土塁のような痕跡(写真)・切岸面が残り
1段下がった帯曲輪状の敷地には小次郎池(当然、親衡に由来する名前)なる溜池も。
伝承では雨不足の時でもこの池は枯れなかったとされ、城の歴史から下って昭和初期まで
雨を必要とする際には雨乞いの儀式をここで行っていたとの事。公園整備によって
小次郎池も改変されてしまい、今ではまるで“人造池”のようにしか見えないが、
城が現役であった時代には馬を洗ったりしていたと言うのだから由緒正しいものである。
果たしてどれが往時の遺構でどれが公園整備の改変によるものなのか、それどころか
城の来歴は鎌倉期のものだけなのか室町・戦国期にも用いられたのか、様々に謎めかした
城跡でござるが、現地に立って想像すると中々面白い場所なのではなかろうか。


現存する遺構

堀・土塁・郭群








相模国 下飯田城

下飯田(富士塚)城跡 石碑

所在地:神奈川県横浜市泉区下飯田町

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:★■■■■



飯田五郎家義館・富士塚城などの別名も。泉区下飯田町、富士塚幼稚園の南に広がる
新興住宅街(富士塚団地)あたりが比定地。現在、その場所は完全に宅地と化し
城跡としての遺構は皆無となっている。地元住民の厚意により、比定地の西側にある
富士塚公園なる児童公園の中に城址碑(写真)が立つのみでござる。
とは言えこの富士塚公園は旧鎌倉道に面しており、当時の主要幹線を押さえる
交通の要衝であった事は良くわかる。加えて、その鎌倉道に沿って南西側に水田地帯が
広がり、反対の城跡側(北東向き)の富士塚団地は田圃から一段高い微高地になって
いるのが確認できる。鎌倉武士の館は耕作地を守備するに適した場所を選ぶのが常で
まさに下飯田城の立地はその大原則に適合する場所なのが一目瞭然だ。
館の主である飯田家義(家能とも記す)は平安末期〜鎌倉初期の武将。桓武平氏秩父流
渋谷重国(早川城(神奈川県綾瀬市)主)の5男。つまり坂東八平氏の流れを汲む名族だ。
家義が生まれたのは相模国高座郡長後(ちょうご、藤沢市)の地である。この頃、渋谷氏は
大庭御厨(おおばみくりや、藤沢市近辺)の有力武将・大庭景親(かげちか)を相手とし
境川の水利争いに悩まされていたと言う。大庭方は大雨の度に境川の東岸にある渋谷領
飯田郷(下飯田一帯)の耕作地を侵犯、川の流路を変えて自分の土地を拡幅しようと
していた。これに対する報復措置として重国は水の手を絶つ強硬手段を採り、大庭方の
水田に水が流れないようにしたと言う。これでは元も子もない景親は重国と和議を結び
以後、互いの領地への不可侵を約束。重国も誼の証明として自らの5男が元服する際に
五郎重親(重国の「重」と景親の「親」)と名乗らせ、因縁の飯田郷を治めさせた。
斯くして飯田五郎の治める飯田郷が成立、その居館となる下飯田城が築かれた訳である。
(長後の館と下飯田城は上記の旧鎌倉道を使えば指呼の距離で結ばれている)
さらに重親へは景親の娘が娶らされ両家の縁はより一層深まる事になり、彼は
自らの存在こそが「両家の義」を示すものとの決意から「家義」に改名したと言う。
ちょうどその頃、伊豆の流人に過ぎなかった源頼朝が平家打倒の兵を挙げた。当時はまだ
平氏一門の力が磐石と思われていた時代である。平氏の威光に従わざるを得なかった
関東武士の中でも、特に忠誠心の高かった大庭景親は頼朝追討の任を受け石橋山合戦に
挑む。当然、家義もそれに随伴する事となったが、渋谷一門は既に源氏嫡流の頼朝へ
味方する事を決していた。1180年(治承4年)8月23日、多勢に無勢で頼朝は景親に大敗。
その命が尽きる寸前、内々に土肥(神奈川県足柄下郡湯河原町)の椙山(すぎやま)へと
逃したのが家義であった。山中に身を隠した頼朝は、同様に大庭軍中にあった将
梶原景時がわざと見逃す事で脱出に成功、海路で安房国(千葉県南端部)へと渡り再起する。
義父・景親はなお平氏に味方し頼朝と対決を続け、遂に斬首される運命を辿ったのに対し
家義はこの功を高く評価され、頼朝から飯田郷の本領安堵を認められ申した。石橋山合戦で
平氏方に就いた者の中で旧来の所領を安堵されたのは家義だけと言われる。皮肉にも
大庭・渋谷(飯田)「両家の義」は破られる事になった訳だが、家義はその後も鎌倉幕府
重鎮として名を残す。頼朝没後、2代将軍・頼家と北条氏の対立は抜き差しならぬものとなり
(上記、中和田城の項を参照)頼家に与しようとした梶原景時は北条氏の追手から逃れようと
京都へ向かわんとするが、それを駿河国清見関(静岡県静岡市清水区)で討ち果たしたのが
石橋山で同じ境遇にあった飯田家義の手勢であったというのも、これまた皮肉な話だ。
この結果、飯田氏は大岡郷(静岡県沼津市)の地頭にも補任され、家義の子等がそれぞれ
飯田郷と大岡郷を継承したと言うが、下飯田城がその後どうなったかは詳らかでない。







相模国 俣野城

俣野城推定地(俣野観音堂)の庚申塔

所在地:神奈川県横浜市戸塚区俣野町

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:☆■■■■



上記、下飯田城の項で登場した大庭景親の弟が俣野五郎景久(かげひさ、景尚とも)。
彼もまた、源平合戦において平家方の勇将として歴史に名を残しているが、その館が
俣野城(俣野館)でござる。景久の本貫地、俣野の姓の由来である鎌倉郡
村岡郷(神奈川県横浜市戸塚区〜藤沢市東部周辺)俣野村にあったとされる。元来、
大庭氏は大庭御厨を地盤として勢力を張っていたが、景義(かげよし、景親・景久の長兄)
景親・景久らの兄弟が分割統治するようになり、景義は懐島(ふところじま)郷
(現在の神奈川県茅ヶ崎市内陸部)・景親が大庭郷(藤沢市中北部)を領有、
残る俣野の地が景久のものとなったのでござる。
景義は父祖の代からの主従関係を貫き、一生を通じて源氏に従った人物であるが
景親・景久は1159年(平治元年)に起きた平治の乱以降、都で権勢を誇るようになった
平氏に臣従していた。1180年の石橋山合戦において景久は兄・景親と共に頼朝軍を攻撃、
頼朝配下の忠臣・佐奈田(真田)与一義忠(よしただ)と激烈な組み合いの果て
遂にその首を討ち取る。頼朝にとって景久は憎んでも憎みきれない敵という事になり
それを自覚していた彼は、源氏方が優勢に転じた後も決して平家方から離反しなかった。
関東の大勢が頼朝になびき、兄・景親が斬首に処された情勢下、もはや平氏に従っても
事態が打開できない劣勢に追い込まれた景久であるが、所領の俣野を捨て北陸で戦いを
続ける。当時、北陸戦線では平維盛(これもり)軍が木曽義仲軍と交戦しており
景久は僅かな手勢を連れて維盛軍に合流したのである。しかしこちらでも源氏方が優勢、
義仲の天才的武略に平氏方は衰亡の道を辿っていた。こうした中、維盛の後見役
斎藤別当実盛(さねもり)は追従する将の真意を試すべく「もはや義仲の勝利は確実、
皆で源氏方へと鞍替えしてはどうか?」と誘いかける。これに頷く者も多い中、景久は
「我は東国で少しは名の知れた者、威勢の良い方に付いて身の置き所を代えるは見苦しい」と
答え、平氏方として討死する覚悟を述べた。その言葉通り、1183年(寿永2年)5月11日の
倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで戦死して果てる。合戦を前にし、死を覚悟した彼は
「故郷に残した母だけが心残り、願わくば観音像を郷土に届け祀って欲しい」と
十一面観音像を託したと言う。その為、俣野には現在まで観音堂が残されている。
俣野城の所在地は諸説あり定かではないが、最も由緒ある俣野観音堂を比定地とした。







相模国 永井監物陣屋

永井監物陣屋(東俣野陣屋)跡からの眺め

所在地:神奈川県横浜市戸塚区東俣野町

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:★★★★



永井城・東俣野陣屋とも。江戸時代初頭、戸塚区東俣野町を領した徳川旗本・永井監物こと
永井弥右衛門白元(あきもと)の居館でござる。上記、俣野城がそのまま継承され
この陣屋になったと考える説もある(この場合、俣野城=永井監物陣屋となる)。
ただし、諸説ある俣野城の比定地(しかも平安末期に使われただけで消滅)が
間違う事なく江戸時代に陣屋として再建されたとするのは少々無理があろう。
さて俣野村の時代変遷を見ると、鎌倉時代以後に何度かの分割や再統合が行われている。
東俣野村・西俣野村への分割が起こった時点で村岡郷から分離され鎌倉郡俣野郷と
称されるようになった。そのうちの東俣野村が寛永年間(1624年〜1644年)さらに分割、
上俣野村と下俣野村になる。下俣野村は後に旧名である東俣野村に戻され、一方で西俣野村は
郡界再編で高座(こうざ)郡(神奈川県央部、現在の藤沢市・茅ヶ崎市〜大和市・綾瀬市まで)に
含まれるようになった。現状では、上俣野村は俣野町、東俣野村は東俣野町として共に
横浜市戸塚区の町域となり、西俣野村は藤沢市西俣野となってござる。戦国時代、
後北条氏の勢力下において東俣野村(当時はまだその名ではないが)部分を治めたのは
新藤下総守なる者であったが、徳川家康が関東へ入封するに至り1596年(慶長元年)から
330石の石高を以って冒頭に記した永井(旧姓・長田(おさだ))白元が領するようになった。
斯くして築かれたのがこの陣屋なのでござる。長田一族は近隣にも所領を宛がわれ
長田忠勝と白政(あきまさ)がそれぞれ瀬谷村(横浜市瀬谷区)に入っている。
さて、長田白元は徳川家康から直々に永井姓を与えられ、以後永井氏は譜代家臣として
徳川幕府の要職を度々勤める事になっていく。では何ゆえ長田姓が棄てられたかと言えば
話は俣野五郎の時代まで遡る。平安末期、平清盛との権力争いに劣勢であった源氏棟梁
源義朝は乾坤一擲の賭けに出て挙兵するも狡猾な清盛の策に破れ去る。1159年、世に言う
平治の乱である。都を落ち延びた義朝は、自身の本拠地である関東での挽回を企図し
東下するが、その途中、尾張国(愛知県西部)にある従者・鎌田政清の妻の実家で
一夜の宿を取ろうとした。が、その家の主は清盛の追討を恐れ義朝・政清主従を
闇討ちにしてしまうのである。長田白元の祖先は長田親致(ちかまさ)と言うが、
義朝を暗殺した人物とはその弟・長田忠致(ただむね)だったのである。親致は
弟の凶事に反対し加担せず、累が及ぶのを避ける為に逐電したが、時代は移り
源氏一党の後裔(という事になっている)である徳川家康が征夷大将軍となる中
家康の家臣に、因縁深き長田白元が居たと言う訳である。
家康は白元に「源氏の逆臣たる長田の名は不要」として新たに永井の姓を与えたと言う。
或いは、「親致は義朝謀殺には加担していない故に長田家との悪縁はない」として
新たな姓を与えたと考える向きもあるようだ。ともあれ、晴れて家康からの信任を受けた
永井白元は以後の忠勤著しく、関ヶ原合戦への参戦をはじめ使番・目付の歴任を為し、
1604年(慶長9年)2月には普請奉行として東山道の一里塚設置・街道整備を本多左大夫光重と
共に行い、その功を朝廷からも賞されたとされている。これに伴って所領は加増され、
1610年(慶長15年)に830石、1616年(元和2年)1030石、1622年(元和8年)1530石、
翌1623年(元和9年)2530石、最終的には1628年(寛永5年)3530石となり申した。
こうして増加した知行地には彦坂元正が管理していた幕領・相模原市南区鵜野森や
下総国印旛郡(現在の千葉県北部)などがあるようだが、所領が増大しても永井家の
本拠として用いられたのはここ東俣野陣屋であり続けた。廃城時期は詳らかではない。
東俣野は現在も国道1号線が貫通しているように、当時から東海道沿いの要地でござった。
また、鎌倉古道への分岐点も程近い。さらに耕作地も古くから広がっており、将軍譜代の
旗本が領有するには丁度良い場所だったと考えられる。陣屋はそうした領地の中に隆起する
台地上を利用して築かれ、現在その跡地は東俣野中央公園(の西側高台)となっている。
宅地・畑地や公園となってしまい明瞭な遺構は皆無だが、陣屋の西側には境川が流れ
これが天然の外構えになっていたと考えられる。また、台地直下にはごく僅かながら
水路状の遺構が現在も流れている。写真は陣屋跡付近から望む眺望。これを見れば
当時の陣屋がいかに見晴らしの利く場所(築城適地)に作られていたかが想像できよう。







相模国 小雀城

小雀城(杉浦屋敷)跡 富士山本門寺

所在地:神奈川県横浜市戸塚区小雀町

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:☆■■■■



徳川家康の旗本・杉浦鎮栄(しげひで)の居館と伝わり、杉浦八郎五郎勝吉屋敷の別称も。
家康の関東入封直後の創建と見られるので、1590年頃の築城と考えられている。
杉浦氏は元々の姓を杉本氏と言う。その杉本氏は源平合戦期における三浦氏の分流、
三浦氏を遡れば桓武平氏良文流なので、元来の姓は平氏という事になろう。源頼朝が
伊豆で旗揚げした頃、三浦一門の長老であったのが三浦義明。その義明の長男・義宗は
鎌倉の古刹・杉本寺の近くに居を構えた事から杉本(椙本)姓を名乗るようになった。
義宗は安房勢との戦いで傷を受け杉本館で死亡してしまった為、三浦氏の家督は義明の2男
義澄が継ぐ。一方、義宗の長男は既に三浦郡和田(神奈川県三浦市初声町和田)へ
移っていた為、和田姓を名乗っていた。鎌倉幕府創立の功臣、和田小太郎義盛でござる。
義盛は末子・八郎義国に杉本姓を名乗らせ、父・義宗以来の杉本氏を継がせ申した。
ところが義盛は和田合戦で執権(鎌倉幕府における将軍補佐役)北条氏に挑み
敗死してしまう。義盛の一族も討死を果たし、或いは北条氏に捕らわれていく中、
義国は近江国(滋賀県)へと逃げたのでござる。逃亡先で身を隠す為、彼は「杉本」と
「三浦」の1文字ずつを取り「杉浦」に改姓。以来、杉浦氏は近江で代々の血脈を残し
さらに三河国(愛知県西部)へ移り住むようになる。斯くして杉浦八郎五郎吉貞(鎮貞)と
その子・勝吉こと鎮栄は松平広忠(家康の父)に仕える将となり申した。吉貞・勝吉父子は
猛将として知られ、特に1555年(弘治元年)の蟹江城(愛知県海部郡蟹江町)攻めでの
働き目覚しく“蟹江七本槍(蟹江城攻めに大功あった7将)”の中に親子共々数えられている。
勝吉はその後も1556年(弘治2年)日近合戦(愛知県岡崎市、日近城をめぐる戦い)で
松平元康(当時の家康の名)の旗本として参戦、1560年(永禄3年)の桶狭間合戦では
元康配下として大高城(愛知県名古屋市緑区大高町)への兵糧搬入に抜群の功績を挙げる等
数々の戦いで家康に近侍している。三方ヶ原・長篠・長久手の各合戦にも参戦。斯くして
家康が関東へ移ると鎌倉郡小雀村330石を知行、この館が構えられたのでござる。
ちなみに、それ以前の小雀村は後北条氏の重臣・間宮豊前守康俊(やすとし)の所領。
小雀は丘陵地である為、この頃から城砦が構えられていたそうだが(玉縄城の支砦)
勝吉が入って後もこうした地形を利用した館として使用されたようだ。関東大震災での
地形変動を受け、さらに現在では宅地開発が行われて城跡の痕跡は残らないが
富士山本門寺の敷地ならびにその裏山(写真)が跡地と推測されており、周辺の谷戸には
殿谷・的場・大面(=大表つまり大手の事)・塚など、城郭に関連する地名が残されている。
勝吉は1611年(慶長16年)12月9日に病没、養子の勝次が跡を継ぎ
幕末まで家名を残したが、小雀城の消息については明らかでない。







相模国 井出城

井出城跡

所在地:神奈川県横浜市栄区飯島町

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:☆■■■■



飯島殿谷とも。JRの線路、東海道本線と根岸線が分離する近辺の小丘陵が城跡。
現在は横浜市栄区飯島町、中世では鎌倉郡長尾郷飯島村という事になるが、この地は
南北朝期に證菩提寺(下記、小菅ヶ谷殿館参照)の寺領となっていたものが戦国時代になると
小田原後北条氏の統治下に置かれ井出兵部丞と高城下野守胤辰(たねとき)の両名が
知行地とした。江戸時代初頭は天領だったが、1691年(元禄4年)からは旗本
黒田兵庫守・冨士吉十郎・戸田兵助の領地が混在する事となり、さらに1811年(文化8年)
6月には会津松平家の所領に加えられ、以後、様々な大名の領地として転属していった。
このうち、井出城は戦国期における井出兵部丞の屋敷と考えられ
「小田原衆所領役帳」にある井出兵部丞の所領(飯島村117貫391文)を治める為のものだと
認識されているが、一方で地元の伝承には井出兵部丞が治めたという記録は無いので
果たして井出城の存在は如何なるものだったのか、検証の余地が残る。
井出氏は駿河国井出郷(静岡県富士宮市)の出自で、もともとは今川家に仕えていたが
後に北条早雲へ従った。兵部丞は玉縄城主・北条為昌(ためまさ)の属将で、次いで
山角上野介康定(やまかくやすさだ、後北条家評定衆の1人)の家臣とされ、
北条氏康の御馬廻衆となった人物。いわば後北条家の上級家臣という事になるが
その居館であった筈の井出城がどのようなものであったか定かでない上、現在では
城跡と推定される小山の斜面は宅地造成で完全に削り取られてしまい(写真)遺構は無い。
見学をしようにも、ひと様の家が並ぶ中をうろつく訳にも行かないのが難儀な所。
現地にあるバス停の名に「殿谷」とある事だけが名残でござろうか…。
なお、この城の南南西1kmほどの位置に長尾砦(玉縄城関連城砦群の頁参照)があり、
長尾砦から井出城は俯瞰できる。井出兵部丞の城?という来歴は兎も角としても
玉縄城の支城である長尾砦の出城、という立地条件は満たしていよう。







相模国 小菅ヶ谷殿館

小菅ヶ谷殿館跡

所在地:神奈川県横浜市栄区小菅ヶ谷

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:☆■■■■



古代では中の坪集落、中世においては鎌倉郡小菅ヶ谷村、現在は横浜市栄区小菅ヶ谷。
「小菅ヶ谷」は鎌倉時代から名付けられた地名でござる。その由来を記せば、鎌倉幕府
3代執権・北条泰時の娘が「小菅谷殿」と呼ばれ、彼女がこの地に粧田を与えられ住んだ為
村の名が小菅ヶ谷となった訳である。他HPで「小菅ヶ谷村に住んでいたから小菅谷殿」と
しているものもあるが、これは順番が逆という事になろう。彼女は北条氏の娘として
居館の近くにある證菩提寺(上記、井出城の項に記した寺)に1235年(嘉禎元年)阿弥陀堂を
建立、そこに阿弥陀如来像を安置し北条政子(頼朝の妻)の13回忌を行っている。
(中世では寺社の保護振興を図る事も権力者が徳を示す重要な仕事であった)
小菅谷殿の館がその名も小菅ヶ谷殿館、中世武家居館の典型例でござろう。以来、
跡地は城山と呼ばれ、高さ20m程度の瓢(ひさご)形をした小丘陵であったとされる。
また、周辺の地名に「武家の居館」「高塀」「御三の前」「青楼ヶ橋」と言った
武士の館構に即したものが使われ続け、4尺(1.2m)程の石積みも残されていたそうだ。
女性の住居と言えど鎌倉時代の質素堅実な館であった事を彷彿とさせる。鎌倉時代は
女性にも所領の相続権があった訳だし、まして執権北条氏の一門となれば、
居館もそれ相応の格式を備えていたのだろう。
しかし1938年(昭和13年)第1海軍燃料廠が建設された事により城山は全て切り崩され
平坦に地均しされてしまった。その第1海軍燃料廠は終戦で進駐軍に接収され
米軍大船倉庫地区とされたが、1965年(昭和40年)〜1967年(昭和42年)にかけて
日本へ返還され申した。現在、城山の跡地は都市再生機構南小菅ヶ谷住宅ならびに
JR根岸線本郷台駅南口広場(写真)となっている。JR根岸線の開通までは庭園遺構と
伝承されるものが残されていたらしいが、このような経過により現在では何も残らない。
余談ではあるが、五峰山一心院證菩提寺の創建は1189年(文治5年)源頼朝によるもの。
平氏を滅ぼし、奥州藤原氏も倒し武家統一政権の樹立が軌道に乗った頃、石橋山合戦で
落命した股肱の臣・佐奈田与一義忠(上記、俣野城の項を参照)を供養する為に開基した。
1215年には3代将軍・実朝も参詣、小菅谷殿が保護した後も鎌倉幕府鎮護の寺として祀られ
その鎌倉幕府を倒した足利氏も1334年(建武元年)寺領安堵を行っている。これが
井出城のあった飯島町の歴史に関わる訳だが、こうして列挙すると
泉区・戸塚区・栄区周辺の城は相互に関連する深い繋がりがある事に驚かされる。




横浜市内諸城郭(1)  鐙摺城・和田館・新井城