相模国 玉縄城

玉縄城跡 諏訪壇曲輪跡からの眺め

所在地:神奈川県鎌倉市植木・城廻

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★★■■■
公園整備度:☆■■■■



別名甘縄城。戦国相模の歴史において鍵となる重要性に反比例して
現代の史跡保存のあり方で非常に評価の低い城郭という悪名で有名な城跡。
相模国の城郭は大半が小田原後北条氏に関連するものだが
御多分に漏れず、この城も後北条氏に大きな関わりがござる。
そもそも築城者が北条早雲。後北条氏の始祖であり、玉縄築城の経緯は
早雲の覇業推進と密接に関連している。伊豆に足場を築き、1495年(明応4年)に
小田原城を奪取した早雲は、そのまま東進し相模国制覇を目標とする。
一方、早雲の攻勢に立ち向かうのは相模守護にして鎌倉以来の名門である三浦氏。
1500年代に入る頃から両者の争いは激化、三浦氏当主の義同(よしあつ)は
岡崎城(神奈川県平塚市)に拠って戦い続けるも、巧妙な早雲の作戦により
1512年(永正9年)8月に落城してしまった。それでも義同・義意(よしおき)父子は
住吉城(神奈川県逗子市)に引いて早雲に抵抗を続ける。北条方は住吉城も落とすが
まだまだ粘る三浦方は新井城(神奈川県三浦市)に退却したのでござった。
度重なる転戦に、早雲は三浦氏封殺の拠点が必要と考えて鎌倉に城を築いた。
鎌倉は三浦半島の付け根にあたると同時に、武家政権にとって重要な古都。
三浦半島で最後の抵抗を見せる三浦氏を牽制し、補給路を断ち
鎌倉という町を支配して「早雲こそ新たな相模統治者」と喧伝するのには
うってつけの場所と言えたのだ。斯くして1512年〜1513年にかけて築かれたのが
ここ玉縄城なのでござった。早雲は2男の氏時に城主を任じ、三浦氏を監視させる。
この頃、早雲は武蔵国を支配する扇谷(おうぎがやつ)上杉氏とも係争中で、
上杉氏と三浦氏の連携を崩す目的でも玉縄城の重要性は比類なきものであった。
もし玉縄城がなければ上杉氏は三浦氏を支援し得る事になり、
その後の歴史は大きく変わったかもしれない。
実際、三浦氏に援軍を差し向けようとした上杉氏は1516年(永正13年)
三浦半島に迫ったが、早雲は押さえとして2000騎を残して出陣、
玉縄城の北方に4000騎(5000とも)を布陣させて上杉軍を打ち破った。
結果、上杉氏の支援は失敗。補給を絶たれた三浦氏は同年7月11日
新井城にて北条軍の総攻撃を受け滅亡するのでござった。
これにより早雲は相模全土制覇を成した訳だが、その後も玉縄城の重要性は
変わらなかった。江戸湾を挟んだ対岸、房総半島の里見氏は北条氏と対立し
しばしば海を渡って北条方との戦いに及んでいたからである。
特に1526年(大永6年)12月、安房から水軍を進発させた里見氏は鎌倉に上陸し
破壊活動を行ったが、玉縄城から出撃した北条氏時・氏綱(北条氏2代当主)の兵に
掃討された事例がある。相模は統一されたが、玉縄城は鎌倉の備えとして
東相模の戦略拠点となっていたのでござる。
氏時の死後、為昌(氏綱2男)・綱成(つなしげ、氏綱養子)が城主を歴任。
いずれも北条家親族衆の重鎮であり、特に綱成は“地黄八幡”の旗印で
勇猛さを鳴らした名将中の名将。彼らに率いられた玉縄城もまた名城であり
1561年(永禄4年)閏3月、長尾景虎(後の上杉謙信)の攻略を受けるが
これを退けた。詳しく記すと、関東管領復権の大義を掲げる景虎は
北条氏の威勢を払拭するために越後国(現在の新潟県)から長征、
諸豪族を糾合し小田原城下に迫った。が、さすがに小田原は天下の堅城、
戦上手の景虎も攻略できずに鎌倉へ撤退、関東管領職の就任式を
挙行するに留まった。この時、長尾景虎改め上杉政虎は
鎌倉での障害となる玉縄城の攻撃に着手したのである。折りしも、城主の綱成は
小田原に参陣して不在であった。しかし、留守を守る綱成の子・康成(後の氏繁)は
玉縄城兵を巧みに指揮して上杉軍の攻撃を撃退してしまう。
もともと政虎に本気で城を落とす意図はなかったのかもしれないが
玉縄城の守りが堅かったからこそ、政虎も諦めをつけたのであろう。
1569年(永禄12年)今度は武田信玄が相模へ来襲した際には、
玉縄城は素通りし、戦いを避けている。政虎が攻略を諦めた事例から
信玄は最初から玉縄城での戦いに利有らずと決していたらしい。
謙信・信玄という戦国の両巨頭ですら、玉縄城の攻撃は差し控えたのである。
如何にこの城が堅城であったかが想像できる逸話でござろう。
綱成の後、氏繁・氏舜・氏勝と城主が変わったが、その支配体制に終焉が来たのは
1590年(天正18年)の事。天下統一を間近に控えた豊臣秀吉が
全国の諸大名を動員して小田原北条氏を討伐した戦陣による。
西から迫る豊臣軍に対し、玉縄城主・北条氏勝は山中城(静岡県三島市)に
軍勢を率いて迎え撃つが、3月29日にわずか半日で落城。氏勝は山中城を棄て
玉縄城に逃げ帰ったのでござる。再起を期す氏勝はここで抵抗を続けるも
豊臣方の徳川家康が氏勝の叔父である大応寺住職・了達を通して開城を勧告、
これを容れた氏勝は4月21日、降伏するに至った。
以後、氏勝は関東各地で籠城する北条方諸将へ降伏を呼び掛ける使者となる。
同年7月5日に小田原城も開城し、秀吉による征伐が終息すると
氏勝は下総岩富城1万石に移され、相模・武蔵をはじめとする旧北条領には
徳川家康が配される。これに伴い、玉縄の領地は家康腹心の部下である
本多正信が支配した。以後、水野正忠や松平正綱ら徳川譜代家臣が
玉縄城主を歴任し玉縄藩が成立するも、1703年(元禄16年)に
松平正久が上総国大多喜城に移封となり、廃藩・廃城となったのでござる。
廃城以後、城郭外縁部の太鼓櫓跡土塁や“くいちがい”と呼ばれる切岸が
昭和30年代まで良好に残されていたというが、これらの遺構は市街地開発で
高度成長期に急激な破壊を受けてしまった。歴史文化都市である
鎌倉市にあって、この破壊ぶりは城郭愛好家からしばしば非難され
玉縄城の現状における評価は極めて低い。拙者も城跡外周を訪れたが
時折“曲輪や土塁遺構か?”と思われる場所が散在するものの
明瞭に城址であるものを証明する箇所はなかった。
北条氏の輝かしい戦歴とは裏腹に、開発に消え去る運命の悲しい城である。
一方、本丸跡には1963年(昭和38年)清泉女学院が建てられた。
昨今の社会情勢を受け、女子校の敷地は厳重な警備が行われ、
内部に無断で立ち入る事は不可能である。
しかし(さすがに教育現場だけあって)敷地内の諏訪壇曲輪だけは
手付かずのまま残されている。かなりの比高差を誇る切岸や
そこに掘られた竪堀?と思われる凹凸面、曲輪縁部を囲う土塁など
貴重な痕跡が見受けられるので、城周辺の傾斜地(勿論、城の防御遺構)が
次々と宅地化されており、もはや往時の堅城ぶりを垣間見ることも叶わない
玉縄城の現状にあって唯一“中世城址らしい部分”を見せ付けてくれる。
きちんとした申請を学校に行えば、史跡見学の許可を貰えるので
城郭愛好家ならば、臆せずに是非とも“玉縄城のよすが”を検分して頂きたい。
なお、城跡の南端にある玉縄民俗資料館(龍宝寺敷地内)には
玉縄城の構造模型が展示されているので、これを見学するのも忘れずに。


現存する遺構

堀・土塁・郭群等








相模国 御瞥山砦

御瞥山砦址 御瞥公園

所在地:神奈川県藤沢市藤が岡

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:★■■■■



新編相模国風土記稿によれば、藤沢市の大鋸(現在は町名整理で藤が岡)
付近の山林を御瞥(おんべ)山と呼び、そこに砦が築かれていたという。
上記した玉縄城の支城の一つであった御瞥山砦は、小田原後北条氏の家臣
大谷帯刀左衛門公嘉の築城とされ、大谷城とも呼ばれていた。
玉縄城からは東南東方向、約2.2kmの位置にある。
御瞥山は麓に北西から南東へ向かって境川が流れ、これを天然の濠とし
川の反対側である北側や東側は急傾斜で隔絶した地形になっている。
この山にいくつかの平場を階段状に配置したのが御瞥山砦であり
戦闘正面は南西側を想定していたようでござる。
御瞥の字は通常「ごへい」と読み、神道の祭事に使われる道具の一種。
山の名にこの単語を用いていた事には、少なからず宗教的な加護を
志向していたと推測できる。実際、この山と一つ尾根筋を違えた隆起に
時宗の総本山である清浄光寺(遊行寺)が控えており、その他にも
周辺には諏訪神社・山王神社・船玉神社・白旗神社などの古社が点在する。
御瞥山は周囲の寺社により霊力を得た聖地と考える事ができ、
その霊験によって守護されたのが御瞥山砦でござった。もっとも、藤沢宿
自体が遊行寺の門前町として成立したものなので、逆に言えばこの砦は
こうした寺社集落の防備を引き受ける存在であったとも想像できる。
しかし1569年、御瞥山砦は武田信玄の相模侵攻時に攻撃を受け、神仏の
加護なく落城。当時、城主の公嘉は小田原城に入っていて不在であった。
また、1590年の豊臣軍来攻においても落城。豊臣軍との戦いにおいては
公嘉は上野国の西牧城(群馬県甘楽郡下仁田町)まで出陣し戦死している。
結局、この後に御瞥山砦は廃城になったようでござる。
現在、御瞥山は藤沢駅北部に広がる密集住宅街となってしまった。
そのため、起伏のある地形という立地ではあるものの
堀や土塁、曲輪と言った城郭構造物の遺構は全く残らず
ここが信玄や秀吉と戦った史跡だという事は全然わからない。
御瞥山という山の名も既になく、住宅街の中にある小さな公園(写真)に
御瞥公園という名が付けられている点だけが唯一の名残でござる。







相模国 高谷砦(村岡城)

村岡城址公園

所在地:神奈川県藤沢市村岡東

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:★■■■■



伝承によれば村岡五郎こと平良文(たいらのよしふみ)の居館であったという。
葛原親王の曾孫であり、桓武平氏の一門たる良文はこの周囲に荘園を拓き
村岡郷の総鎮守である御霊神社(ごれいじんじゃ)を勧進したと言われる。
関東で一大勢力を築くに至った良文は朝廷から939年(天慶2年)鎮守府将軍
陸奥守に任じられたが、同年に反乱を起こした平将門(良文の甥に当たる)には
同情的であったらしい。少々余談になるが、この当時の桓武平氏一門は
血族同士でありながら領地の奪い合いを発端とする戦を繰り返しており、
実際の所、将門が兵を挙げたのも伯父・平国香(たいらのくにか)が将門の亡父
平良将(たいらのよしまさ、国香の弟)の遺領を搾取した事が端緒であった。
国香や良将の末弟である良文はこうした事情を良く知っていたのであろう。
緒戦で勝利した将門は国香を討ち果たし父の無念を雪いだが、今度は逆に
国香の遺児である平貞盛(たいらのさだもり)に狡猾な計略を掛けられて敗死した。
以後、貞盛の子孫は平氏一門の頭領として中央政界に進出し
あの平清盛が平氏の最盛期を築き上げるのであった。その一方、
良文の系譜は関東に土着し広範囲に展開、坂東八平氏と呼ばれる
関東の在地武士団を形成していく。これらの氏族は三浦氏・大庭氏・和田氏
土肥氏・秩父氏・千葉氏・上総氏・長尾氏・俣野氏・畠山氏・渋谷氏など
(文献により系譜の内容に混乱が見られ、全部が良文の系統とは言えないが)
いずれも鎌倉幕府草創期の重鎮として名を残す名家ばかりでござる。
しかし、良文の本拠地とされる場所は茨城県かすみがうら市(旧新治郡千代田町)や
埼玉県熊谷市(武蔵国大里郡、村岡という地名が存在する)にも比定地があり、
藤沢の村岡が唯一の場所、とは断定できない。もっとも、良文の孫である
村岡五郎忠通(ただみち)が村岡郷の支配を行っていたという記録は残っており
また、村岡城の東側に鎌倉権五郎景政(良文の曾孫)が産湯を採ったという
三日月井戸があった(現在は消滅)事から、良文の時代から多少は
前後するものの、この地に彼の血脈が息づいていたであろう事は確かだ。
よって、村岡城は平安時代後期〜鎌倉幕府成立期において
村岡郷の支配拠点として機能していたと考えられるのでござる。
時が下り、鎌倉幕府に対する倒幕運動が盛んになると、鎌倉の西を守る
交通の要衝である村岡郷でも激しい戦いが繰り広げられるようになった。
1333年(元弘3年・正慶2年)5月18日、鎌倉へ攻め入らんとする
新田義貞の軍勢が村岡城の南側にある柏尾川河畔の洲崎原で
幕府軍と激戦を展開。これを洲崎原の戦いと申す。
室町時代になっても、東国の枢要である鎌倉を巡っては幾度となく
戦乱が引き起こされ、その度に村岡周辺でも戦闘があったらしい。
戦国期になると、相模国の覇権を懸けて小田原の北条早雲が旧支配者の
三浦氏を圧迫していくという話は上記玉縄城の項に記した通り。
早雲の玉縄築城に連動し、かつての村岡城址は高谷(たかや)砦として
改修が加えられ、玉縄城の支城として活用されるようになった。
当時はH型の高所であり、戦闘正面となる南側の展望が開けた高谷砦は
平坦部・土塁・堀切などがあり、北側は深く切り込んだ断崖で
隔離されていたと言う。玉縄城から二伝寺(にでんじ)砦(下記)を経由し
鎌倉の南西方面監視の任に当たっていた高谷砦。玉縄城からの距離は約1kmだ。
御多分に漏れず、この砦も豊臣秀吉の小田原征伐後に廃城とされたようで
現在は宅地造成の開発が行われ、城の遺構は微塵も残ってござらぬ。
城址の一角が「村岡城址公園」の名で都市公園になっており、公園の隅には
旧帝国海軍元帥・東郷平八郎揮毫による村岡城址碑が立てられているものの
(東郷氏の祖先は渋谷氏、即ち平良文に連なる為。詳しくは早川城の頁を参照)
土塁や堀といった構造物は全く見受けられない。
公園から望む南側の展望が、当時と変わらず広範囲に及んでいる事から
平安時代〜戦国時代におけるこの城の重要性を想像するのみでござろう。







相模国 二伝寺砦

二伝寺砦跡 戒法院宝国山二伝寺

所在地:神奈川県藤沢市渡内

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:☆■■■■



玉縄城と高谷砦を結ぶ線上に存在する砦。玉縄城からの距離は僅か600mほど。
二伝寺砦の名の通り、当地には浄土宗二伝寺が鎮座しており申す。この二伝寺は
鎌倉大本山光明寺の末寺で鎌倉郡第32番観音札所。1998年(平成10年)2月12日に
藤沢市指定文化財となった運慶作と言われる木造聖観音坐像を有す寺で、
1505年(永正2年)北条氏時の開基による。上記の通り、氏時は北条早雲の2男だ。
玉縄城の南西側にある谷状の低地は相模陣と呼ばれ、まさに城の外堀を為す
天然の要害であったが、その相模陣の対岸に位置する隆起が二伝寺砦の地。
即ち、玉縄城に最も近接する出城が二伝寺砦なのでござる。
もっとも、玉縄城の築城時期が1512年〜1513年頃なので二伝寺が開かれた
1505年の時点においてはまだ城郭としての体裁は整っていなかっただろう。
玉縄城が築かれた事により、二伝寺の境内がその支城に適した場所と判断され
砦の用途に変貌していったと考える事ができる。また、二伝寺砦の近隣には
鎌倉から藤沢へ抜ける街道が整備されており、後北条氏の統治体制を支える
戦略的要所であった。これらを総合的に考察すると、高谷砦が陥落した後
玉縄城の手前で敵軍を食い止める“玉縄城外郭の最終防衛地点”と結論できる。
二伝寺砦はまさに玉縄城と一心同体の運命にあった城郭と言えよう。
廃城の時期は詳らかではないが、恐らく他の後北条氏城郭と同様に
豊臣秀吉の小田原侵攻後と推測できる。以来、城の消滅に合わせて二伝寺は
荒廃したようだが江戸時代前期、玉縄藩主・松平正次によって再興されたと言う。
この縁あって、二伝寺境内の一角には松平氏の墓所がある。
加えて、二伝寺本堂の裏手に回ると(高谷砦の項で紹介した)村岡五郎こと
平良文やその子孫である平(三浦)忠光、平(同じく三浦)忠通の供養塚がござる。
この塚を良文・忠光・忠通の墓とする説もあるが、その真偽は定かではない。
ともあれ、高谷砦(この場合、村岡城と言うべきか)所縁の人物が眠っている事から
二伝寺開基に先立つ平安末期からこの地が信仰に即した場所と認知されていたようだ。
とかく、山岳(という程の立地ではないが)信仰の霊地はその権威と霊力
それに要害としての地形を考慮して城郭化する事が多く、二伝寺砦が
良文一門の墓所から玉縄城の出城へと発展していったのも、歴史の必然だったのか?
3名の供養塚がある場所が二伝寺境内における最も標高の高い場所であり、
恐らくここを中心として砦の曲輪が形成されていたと思われる。
供養塚へと上がる階段の途中から振り返れば、眼前に玉縄城の姿を仰ぎ見る事ができ
こうした眺望の良さが砦としての重要な機能だったのだろうと容易に想像できる。
惜しくも現在は寺の墓地開発などで当時の土塁や切岸などの遺構が
ほとんど消滅してしまっているが、雰囲気だけは何となく味わえなくもない。
なお、供養塚へと至る道は二伝寺の私有地内であるため、見学する際には
寺務所に断りを入れてから中に入らせて貰うよう配慮して頂きたい。







相模国 長尾砦

長尾砦跡 塚畑碑

所在地:神奈川県横浜市栄区長尾台町・田谷町

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★★■■■
公園整備度:☆■■■■



別名で長尾城、長尾塁、「新編相模国風土記稿」に長尾氏塁跡とも。
現在の行政区分では横浜市栄区長尾台町。横浜市、というと武蔵国に
含まれる印象が強いが、中世の区分では相模国鎌倉郡長尾台村である。
現代においても長尾台町の最寄駅はJR大船駅であり、大船駅は
神奈川県鎌倉市に所在する。すなわち、長尾砦のあった地は
鎌倉の北辺に位置する事になり、立派に相模国内の城郭と言え
何よりそこは玉縄城の北を守る台地で、武蔵国に対する監視哨であった。
江戸時代には冨士弥一郎なる人物の知行地であった長尾台であるが
その起源は平安時代末期にまで遡り、名族・長尾氏発祥の地なのである。
一般に長尾氏は坂東八平氏の一つとされ、鎌倉権五郎景政の孫・次郎景行が
長尾台に居を構え、長尾氏を称したとされている。景政は
桓武平氏の祖である高望王(平高望)から5代後の人物であるため
長尾景行は桓武天皇の10代後裔、高望王の7代後裔という事になる。
(鎌倉権五郎景政については大庭城の頁を参照されたい)
ただし、長尾の姓を使い始めたのは景政の父・相模守忠通だとする
史書もあり(長尾家記である「御影之記」)、断定的な事は言えないが
いずれにせよ平安時代末期には長尾台に長尾氏の館があり
勢力基盤となっていたようでござる。長尾台台地の北側斜面には
長尾臺御霊(ごりょう)神社が祭られているが、この社の祭神は
鎌倉権五郎景政となっており、長尾砦の由緒が垣間見えよう。
平氏政権に対する怨嗟が全国に蔓延し、1180年(治承4年)8月に
伊豆で源頼朝が挙兵するや、関東地方の武士団はその当初
平氏の命に従い、頼朝討伐に兵を動かした。景行の子である
長尾砦の長尾為景・定景兄弟は平氏方総大将・大庭景親(かげちか)から
先陣を申し付けられ、石橋山の合戦で頼朝軍を散々に打ち負かしている。
合戦時、頼朝を守っていた左那田(真田)与一義忠は
平氏方の将・俣野五郎景久と組み討ちをしたが敗れ、
定景に首を討たれたという。ところが頼朝は海路で伊豆を脱出
房総半島に逃れて態勢を立て直した。源氏の棟梁が奇跡の復活を遂げた事で、
関東地方の諸将はにわかに臣従先を変え、平氏を見限るようになる。
斯くして頼朝は源氏の本拠地である鎌倉へ凱旋した訳だが、この際
鎌倉近辺の武将(特に坂東八平氏など)は頼朝の鎌倉入りに尽力しており
長尾氏もまた、平氏から源氏への鞍換えを表明した。とりあえずは
服属を認められたものの、石橋山合戦で定景が義忠を討ち取った遺恨もあり
長尾氏は三浦氏(三浦半島に勢力を築いた有力な鎌倉御家人)の預かりとなり
以後、長尾一門は三浦氏の配下として位置づけられている。
1219年(承久元年)1月、鎌倉幕府3代将軍・源実朝が甥の公暁(くぎょう)に
暗殺された時、長尾定景は公暁討伐に働いているが、これも三浦氏の
命に基づくものであったという。三浦氏は北条氏(鎌倉幕府執権)との
権力闘争に敗れ、1247年(宝治元年)の宝治合戦で宗家断絶となっているが
定景の子・景茂はこれに殉じており、鎌倉長尾氏もまた没落した。
景茂の子・景忠(景能とも)は捕らわれの身となり、後に赦されたが
既に三浦氏の権勢なく、ちょうどこの頃に京都から下向して
公家から武家へと転身した上杉氏の従者となり申した。これ以後の長尾氏は
上杉氏の家宰として身を立てて行く事になり、後に上野国(群馬県)や
越後国(新潟県)守護代として諸家を発展させていった訳だが、
平安末期〜鎌倉期にかけて本拠としていたのがここ、長尾砦だったのである。
長尾景茂の自刃後、長尾氏の館は廃されたとする説もあるが
室町時代に総社長尾氏(分家した長尾家のうち、上野国総社を領した一家)の
顕方(かねまさ)の屋敷がこの周辺にあったと伝承があるため、
恐らくは継続使用されていたと考えられよう。
さて、戦国時代の相模国で外せないのが小田原後北条氏の伸張だ。
北条早雲こと伊勢新九郎長氏が伊豆で旗揚げし、瞬く間に相模国へと
進出したのは上記の通り。玉縄城の築城に合わせて、そこから程近い
長尾台の地にも勢力が及んでいた。顕方は後北条氏の影響下に組み込まれ
密接な関係を持つようになる。元来、総社長尾氏は後北条氏と敵対する
山内(やまのうち)上杉氏の家宰を勤める家柄であったのだが
こうした事情により、両家の間を渡り歩くようになっている。
1524年(大永4年)、上杉家の代理として越後長尾氏の為景が後北条氏と
戦った折、総社長尾顕方は後北条方として動き為景と後北条氏の和平を
周旋したという。越後長尾氏もまた、鎌倉長尾氏の末裔にあたる家であり、
これをして太田資頼(すけより、太田道灌の曾孫で扇谷上杉家臣)は
「長尾同名中の離反」であると顕方を非難している。
兎にも角にも、こうして長尾台は玉縄城主・北条綱成の領地に入り、
長尾砦は玉縄城の出城として鳥居伝十郎が守ったと言う。長尾台台地の
東側麓には柏尾川が流れ天然の堀を為し、最高所からは北〜東への
眺望が開ける。即ち、当時の後北条氏が仮想敵としていた上杉氏の軍勢が
押し寄せるであろう領域を監視するに適した砦だったのである。
ちなみに顕方は本領となっていた上野国総社(群馬県前橋市元総社町)へと移り
山内上杉氏に再度服属する運命を辿っている。ここに長尾砦は完全に
後北条氏のものとなり、江戸湾を挟んだ房総の雄・里見氏が海路で
鎌倉周辺へ押し寄せる事もあったため玉縄城・長尾砦は要衝であり続けた。
廃城時期は不明だが、恐らく1590年、豊臣秀吉の関東征伐時であろう。
以来400年、長尾台は農地となり現在に至っている。跡地は大半が耕地で
最近は住宅建設も進められているため特に城跡としての保全は行われていない。
御霊神社境内(長尾氏の居館址との説あり)、あるいは農地として使われない
急傾斜面などは手付かずで残されており、切岸や空堀跡と思しき遺構が
あるものの、「手付かず」であるが故に藪化が激しく、見学しにくい状況。
砦の南面に構えられていた大空堀跡はそのまま農地になっており
ここを展望するのが一番見やすい遺構なのではなかろうか。この大空堀、
幅が50mちかくある巨大なもので、近世城郭が鉄砲戦を意識して築いた堀と
同等の広がりを見せている。あまりに大き過ぎるため、その堀が丸ごと
畑に転用されており、一見では堀と思えない程の規模である。
平安末期から使われ続けた長尾砦にあって、後北条氏の
戦国期改修によるものか?まさに鉄砲戦を考慮したものなのか?
色々と憶測を呼ぶ大空堀で、謎は尽きない。写真はこの大空堀の傍らに
隠れた、長尾砦の鎮守跡と想像される塚畑碑でござる。
長尾砦では1980年(昭和55年)農地整理に伴った横浜市埋蔵文化財
調査委員会の発掘調査が行われ、居館址と思われる場所から
五輪塔・陶磁器・板碑など、縄文時代〜中世にかけての生活遺物が
出土している。市教育委員会によって測量図も製作されているので
今後の考察に期待したいものである。
ちなみに、後北条氏と戦った越後長尾為景の子が長尾景虎、即ち上杉謙信。
北陸信越に一大領土を有した戦国屈指の名将は、ここ長尾台を
始祖の地とする人物なのである。後北条氏との抗争で鎌倉まで遠征したのは
あるいは創始の郷土を自分の目で確かめるためだったのかもしれない。


現存する遺構

堀・土塁・郭群等





荻野山中陣屋・県中西部鎌倉武家居館址  横浜市内諸城郭(1)