相模国 玉縄城

玉縄城跡 諏訪壇曲輪跡からの眺め

 所在地:神奈川県鎌倉市植木・城廻

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★■■■
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北条早雲の相模制覇における要■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名で甘縄(あまなわ)城。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国相模の歴史において鍵となる重要性に反比例して、現代の史跡保存のあり方で非常に低い評価の悪名で有名な城跡。
相模国の城郭は大半が小田原後北条氏に関連するものだが、御多分に漏れずこの城も後北条氏に大きな関わりがござる。
そもそも築城者が北条早雲。後北条氏の始祖であり、玉縄(たまなわ)築城の経緯は早雲の覇業推進と密接に関連している。
伊豆にて足場を築き、1495年(明応4年)に小田原城(神奈川県小田原市)を奪取した早雲こと伊勢新九郎盛時は、そのまま
東進し相模制覇を目標とする(年代には諸説あり)。一方、早雲の攻勢に立ち向かうのは相模守護にして鎌倉以来の名門で
ある三浦氏。1500年代に入る頃から両者の戦は激化、三浦氏当主の陸奥守義同(よしあつ)は岡崎城(神奈川県平塚市)に
拠って戦い続けるものの、巧妙な早雲の作戦により1512年(永正9年)8月に落城してしまった。それでも義同と弾正少弼義意
(よしおき)父子は住吉城(神奈川県逗子市)へ退いて早雲に抵抗を続ける。早雲方はその住吉城も落とすが、まだまだ粘る
三浦勢は新井城(神奈川県三浦市)に退却したのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
度重なる転戦に、早雲は三浦氏封殺の拠点が必要と考えて鎌倉に城を築いた。鎌倉は三浦半島の付け根にあたると同時に
武家政権にとって重要な古都だ。三浦半島で最後の抵抗を見せる三浦氏を牽制し、補給路を断ち、鎌倉という町を支配して
「早雲こそが新たな相模の統治者」と喧伝するのにはうってつけの場所と言えたのだ。斯くして1512年〜1513年(永正10年)に
かけて築かれたのがここ玉縄城なのだった。早雲は2男の左馬助氏時(うじとき)を城主に任じ、三浦氏を監視させる。■■■
この頃、早雲は武蔵国を支配する扇谷(おうぎがやつ)上杉氏とも係争中で、上杉氏と三浦氏の連携を崩す目的でも玉縄城の
重要性は比類なきものであった。もし玉縄城がなければ上杉氏は三浦氏を支援し得る事になり、その後の歴史は大きく変動
したかもしれない。実際、三浦氏に援軍を差し向けようとした上杉勢は1513年に三浦半島へ迫ったものの早雲は押さえとして
2000騎を残して出陣、玉縄城の北方に4000騎(5000とも)を布陣させて上杉軍を打ち破った。■■■■■■■■■■■■■
結果、上杉氏の支援は失敗。補給を絶たれた三浦氏は1516年(永正13年)7月11日、新井城にて後北条軍の総攻撃を受け
滅亡するのであった。これにより早雲は相模全土制覇を成した訳だが、その後も玉縄城の重要性は変わらなかった。江戸湾
(現在の東京湾)を挟んだ対岸、房総半島の里見氏は後北条氏と対立し、しばしば海を渡り後北条方との戦いに及んでいた
からである。特に1526年(大永6年)11月26日、安房から水軍を進発させた里見氏は鎌倉に上陸して破壊活動を行ったのだが
玉縄城から出撃した北条氏時・左京大夫氏綱(氏時の兄、後北条氏2代当主)の兵に掃討された事例がある。■■■■■■■
相模は統一されたが、玉縄城は鎌倉の備えとして東相模の戦略拠点となっていたのである。■■■■■■■■■■■■■■

城主は“玉縄北条氏”として一族の柱石に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
氏時の死後、彦九郎為昌(ためまさ、氏綱2男)・上総介綱成(つなしげ、氏綱養子)が城主を歴任。いずれも後北条家親族衆の
重鎮であり、特に綱成は“地黄八幡”の旗印で勇猛さを鳴らした名将中の名将だ。彼らに率いられた玉縄城もまた名城であり
1561年(永禄4年)閏3月、長尾弾正少弼景虎(後の上杉謙信)の攻略を受けるがこれを退けた。詳しく記すと、関東管領復権の
大義を掲げる景虎は後北条氏の威勢を払拭すべく越後国(現在の新潟県)から長征、諸豪族を糾合し小田原城下に迫った。
が、さすがに小田原は天下の堅城、戦上手の景虎も攻略できずに鎌倉へ撤退、関東管領職の就任式を挙行するに留まった。
この時、長尾景虎改め上杉政虎は鎌倉での障害となる玉縄城の攻撃に着手したのである。折りしも、城主の綱成は小田原に
参陣して不在であった。しかし、留守を守る綱成の子・左衛門大夫康成(後の氏繁)は玉縄城兵を巧みに指揮して上杉軍の
攻撃を撃退してしまう。もともと政虎に本気で城を落とす意図はなかったのかもしれないが、玉縄城の守りが堅かったからこそ
政虎も諦めをつけたのであろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1569年(永禄12年)今度は武田信玄が相模へ来襲した際には、玉縄城は素通りし、戦いを避けている。政虎が攻略を諦めた
事例から、信玄は最初から玉縄城での戦いに利有らずと決していたらしい。謙信・信玄という戦国の両巨頭ですら、玉縄城の
攻撃は差し控えたのである。如何にこの城が堅城であったかが想像できる逸話でござろう。■■■■■■■■■■■■■■
綱成の後、常陸介氏繁・左衛門大夫氏舜(うじきよ)・左衛門大夫氏勝と城主が変わったが、その支配体制に終焉が来たのは
1590年(天正18年)。天下統一を間近に控えた豊臣秀吉が全国の諸大名を動員して小田原後北条氏を討伐した戦陣による。
西から迫る豊臣軍に対し、玉縄城主・北条氏勝は山中城(静岡県三島市)に軍勢を率いて迎え撃つが、3月29日に僅か半日で
落城。氏勝は山中城を棄てて玉縄城に逃げ帰ったのである。再起を期す氏勝はここで抵抗を続けるも、豊臣方の徳川家康が
氏勝の叔父である大応寺(現在の曹洞宗陽谷山瑞光院龍宝寺)住職・了達を通して開城を勧告、これを容れた氏勝は4月21日
降伏するに至った。以後、氏勝は関東各地で籠城する後北条方諸将へ降伏を呼び掛ける使者となる。■■■■■■■■■■
同年7月5日に小田原城も開城し、秀吉による征伐が終息すると相模・武蔵をはじめとする旧後北条領には徳川家康が配され、
氏勝は下総国岩富(千葉県佐倉市岩富町)1万石に移される。これに伴い、玉縄の領地は家康腹心の部下である本多佐渡守
正信と、家康の伯父・水野清六郎忠守が支配した。忠守は程なく隠居し相模国沼目郷(神奈川県伊勢原市沼目)へ隠棲するが
正信の所領は玉縄1万石(2万2000石とも)を維持。しかし豊臣家も滅んだ1615年(元和元年)一国一城令が幕府から発せられ
1619年(元和5年)に玉縄城は廃城処分を受けた。本多正信も既に没し、以後、松平右衛門大夫正綱が玉縄領を与えられるも
陣屋を築いて統治を行うに留まり、その松平家も備前守正信―弾正忠正久と代を経た1703年(元禄16年)2月10日に上総国
大多喜(千葉県夷隅郡大多喜町)へ移された為、玉縄藩は消滅し申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
江戸時代中期、寛政の改革を行った松平越中守定信が海防重視の用で玉縄城の復興を検討するも、これは実現しなかった。

廃城後の悲運と、僅かな希望■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
廃城以後、城郭外縁部の太鼓櫓跡土塁や“くいちがい”と呼ばれる切岸が昭和30年代まで良好に残されていたと云い、当時の
航空写真ではその形状が明瞭に確認できたのだが、これらの遺構は市街地開発で高度成長期に急激な破壊を受けてしまった。
歴史文化都市である鎌倉市にあって、この破壊ぶりは城郭愛好家からしばしば非難され、玉縄城の現状における評価は極めて
低い。拙者も城跡外周を訪れたが、時折“曲輪や土塁遺構か?”と思われる場所が散在するものの、明確に城址であるものを
証明する箇所はなかった。北条氏の輝かしい戦歴とは裏腹に、開発に消え去る運命の悲しい城である。地元有志が地権者と
交渉し、近年ようやく残存部分の森(太鼓櫓跡)を「植木1号市民緑地」として公園化したのが涙ぐましい努力であろう。こうした
保護運動や現在の“城郭ブーム”の流れを受けて鎌倉市ではようやく史跡指定の検討を始めたと言うが(何せ「始めた」ばかり)
史跡が優良な観光コンテンツとして認知されるようになった今となっては、いささか遅きに失した動きであろう。■■■■■■■
一方、本丸跡には1963年(昭和38年)清泉女学院が建てられた。昨今の社会情勢を受け、女子校の敷地は厳重な警備がされ
内部に無断で立ち入る事は不可能である。しかし(さすがに教育現場だけあって)敷地内の諏訪壇曲輪だけは手付かずのまま
残されている。かなりの比高差を誇る切岸やそこに掘られた竪堀?と思われる凹凸面、曲輪縁部を囲う土塁など貴重な痕跡が
見受けられるので、城周辺の傾斜地(勿論、城の防御遺構)が次々と宅地化されていてもはや往時の堅城ぶりを垣間見る事も
叶わない玉縄城の現状にあって、唯一“中世城址らしい部分”を見せ付けてくれる。きちんとした申請を学校に行えば、史跡の
見学許可を貰えるので、城郭愛好家ならば臆せずに是非とも“玉縄城のよすが”を検分して頂きたい。■■■■■■■■■■
なお、城跡の南端にある玉縄民俗資料館(龍宝寺敷地内)には玉縄城の構造模型が展示されているので、これを見学するのも
忘れずに。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等








相模国 御瞥山砦

御瞥山砦址 御瞥公園

 所在地:神奈川県藤沢市藤が岡

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 あり

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遊行寺の脇に控える砦■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
江戸中期に編集された地誌「新編相模国風土記稿」によれば、藤沢市の大鋸(だいぎり、現在は町名整理で藤が岡)付近の
山林を御瞥(おんべ)山と呼び、そこに砦が築かれていたという。上記した玉縄城の支城の一つであった御瞥山砦は、小田原
後北条氏の家臣・大谷帯刀左衛門公嘉の築城とされ、大谷城とも呼ばれていた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
玉縄城からは西南西方向、約2.2kmの位置にある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
御瞥山は麓に北西から南東へ向かって境川が流れ、これを天然の濠とし、川の反対側である北側・東側は急傾斜で隔絶した
地形になっている。この山にいくつかの平場を階段状に配置したのが御瞥山砦であり、戦闘正面は南西側を想定していた
ようでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
御瞥の字は通常「ごへい」と読み、神道の祭事に使われる道具の一種。山の名にこの単語を用いていた事には、少なからず
宗教的な加護を志向していたと推測できる。実際、この山と一つ尾根筋を違えた隆起に時宗の総本山である藤沢山清浄光寺
(遊行寺)が控えている上、その他にも周辺には諏訪神社・山王神社・船玉神社・白旗神社などの古社が点在する。御瞥山は
周囲の寺社により霊力を得た聖地と考える事ができ、その霊験によって守護されたのが御瞥山砦でござった。■■■■■■
もっとも、藤沢宿自体が遊行寺の門前町として成立したものなので、逆に言えばこの砦はこうした寺社集落の防備を引受ける
存在であったとも想像できる。しかし1569年、御瞥山砦は武田信玄の相模侵攻時に攻撃を受け、神仏の加護なく落城。当時、
城主の公嘉は小田原城に入っていて不在であった。また、1590年の豊臣軍来攻においても落城。豊臣軍との戦いにおいては
公嘉は上野国の西牧城(群馬県甘楽郡下仁田町)まで出陣し戦死している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
結局、この後に御瞥山砦は廃城になったようでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在、御瞥山は藤沢駅北部に広がる密集住宅街となってしまった。そのため、起伏のある地形という立地ではあるものの堀や
土塁、曲輪と言った城郭構造物の遺構は全く残らず、ここが信玄や秀吉と戦った史跡だという事は全然わからない。■■■■
御瞥山という山の名も既になく、住宅街の中にある小さな公園(写真)に「御瞥公園」という名が付けられている点だけが唯一の
名残りでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■







相模国 高谷砦(村岡城)

村岡城址公園

 所在地:神奈川県藤沢市村岡東

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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桓武平氏一門の開拓領主館、との伝承に始まる■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
伝承によれば村岡五郎こと平良文(たいらのよしふみ)の居館であったという。葛原親王の曾孫であり、桓武平氏の一門たる
良文はこの周囲に荘園を拓き村岡郷の総鎮守である御霊神社(ごれいじんじゃ)を勧進したと言われる。関東で一大勢力を
築くに至った良文は朝廷から939年(天慶2年)鎮守府将軍・陸奥守に任じられたが、同年に反乱を起こして「新皇」を称した平
将門(良文の甥に当たる)には同情的であったらしい。少々余談になるが、この当時の桓武平氏一門は血族同士でありながら
領地の奪い合いを発端とする戦を繰り返しており、実際の所、将門が兵を挙げたのも伯父である常陸大掾・平国香(くにか)が
将門の亡父・平良将(よしまさ、国香の弟)の遺領を搾取した事が端緒であった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
国香や良将の末弟である良文はこうした事情を良く知っていたのであろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
緒戦で勝利した将門は国香を討ち果たし父の無念を雪いだが、今度は逆に国香の遺児である常陸大掾・平貞盛(さだもり)に
狡猾な計略を仕掛けられて敗死した。以後、貞盛の子孫は平氏一門の頭領として中央政界に進出し、あの平清盛が平氏の
最盛期を築き上げるのであった。その一方、良文の系譜は関東に土着し広範囲に展開、坂東八平氏と呼ばれる関東の在地
武士団を形成していく。これらの氏族は三浦氏・大庭氏・和田氏・土肥氏・秩父氏・千葉氏・上総氏・長尾氏・俣野氏・畠山氏・
渋谷氏など(文献により系譜の内容に混乱が見られ、全部が良文の系統とは言えないが)いずれも鎌倉幕府草創期の重鎮と
して名を残す名家ばかりでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
されども、良文の本拠地とされる場所は埼玉県熊谷市(武蔵国大里郡、村岡という地名が存在する)や茨城県かすみがうら市
(旧新治郡千代田町)等にも比定地があり、藤沢の村岡が唯一の場所、とは断定できない。もっとも、良文の孫である村岡五郎
忠通(ただみち)が村岡郷の支配を行っていたという記録は残っており、また、村岡城の東に鎌倉権五郎景政(良文の曾孫)が
産湯を採ったという三日月井戸があった(現在は消滅)事から、良文の時代から多少は前後するものの、この地に彼の血脈が
息づいていたであろう事は確かだ。よって、村岡城は平安時代後期〜鎌倉幕府成立期において村岡郷の支配拠点として機能
していたと考えられるのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

鎌倉幕府打倒戦、そして北条早雲の三浦攻略■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
時が下り、鎌倉幕府に対する倒幕運動が盛んになると、鎌倉の西を守る交通の要衝である村岡郷でも激しい戦いが繰り広げ
られるようになった。1333年(元弘3年/正慶2年)5月18日、鎌倉へ攻め入らんとする新田左馬助義貞の軍勢が村岡城の南側に
ある柏尾川河畔の洲崎原で幕府軍と激戦を展開。これを洲崎原の戦いと申す。室町時代になっても、東国の枢要である鎌倉を
巡っては幾度となく戦乱が引き起こされ、その度に村岡周辺でも戦闘があったらしい。戦国期になると、相模国の覇権を懸けて
小田原の北条早雲が旧支配者の三浦氏を圧迫していくという話は上記玉縄城の項に記した通り。早雲の玉縄築城に連動し、
かつての村岡城址は高谷(たかや)砦として改修が加えられ、玉縄城の支城として活用されるようになった。■■■■■■■■
当時はH型の高所であり、戦闘正面となる南側の展望が開けた高谷砦は平坦部・土塁・堀切などがあり、北側は深く切り込んだ
断崖で隔離されていたと言う。玉縄城から二伝寺(にでんじ)砦(下記)を経由し、鎌倉の南西方面を監視する任に当たっていた
高谷砦。玉縄城からの距離は約1kmだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
他の諸城郭と同様、この砦も豊臣秀吉の小田原征伐後に廃城とされたようで現在は宅地造成の開発が行われ、城の遺構は
微塵も残ってござらぬ。城址の一角が「村岡城址公園」の名で都市公園になっており、公園の隅には旧帝国海軍元帥・東郷
平八郎揮毫による村岡城址碑(東郷氏の祖先は渋谷氏、即ち平良文に連なる為。詳しくは早川城の頁を参照)が立てられて
いるものの、土塁や堀といった構造物は全く見受けられない。公園から望む南側の展望が、当時と変わらず広範囲に及んで
いる事から、平安時代〜戦国時代におけるこの城の重要性を想像するのみでござろう。ただ、JRは東海道線の大船〜藤沢間
つまり村岡に新駅を建設する計画を立てており、公園からの眺望も数年後には激変するかも…もしかすると公園そのものが
開発で消滅する?可能性もある。城郭愛好家としては、ちょっと気になる処だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■







相模国 二伝寺砦

二伝寺砦跡 戒法院宝国山二伝寺

 所在地:神奈川県藤沢市渡内

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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玉縄城直近の出城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
玉縄城と高谷砦を結ぶ線上に存在する砦。玉縄城からの距離は僅か600mほど。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
二伝寺砦の名の通り、当地には浄土宗戒法院宝国山二伝寺が鎮座しており申す。この二伝寺は鎌倉大本山天照山蓮華院
光明寺の末寺で、鎌倉郡の第32番観音札所。1998年(平成10年)2月12日に藤沢市指定文化財となった、運慶作と言われる
木造聖観音坐像を有す寺で、1505年(永正2年)北条氏時の開基による。上記の通り、氏時は北条早雲の2男だ。■■■■■
玉縄城の南西側にある谷状の低地は相模陣と呼ばれ、まさに城の外堀を為す天然の要害であったが、その相模陣の対岸に
位置する隆起が二伝寺砦の地。即ち、玉縄城に最も近接する出城が二伝寺砦なのでござる。もっとも、玉縄城の築城時期が
1512年〜1513年頃なので、二伝寺が開かれた1505年の時点においてはまだ城郭としての体裁は整っていなかっただろう。
玉縄城が築かれた事により、二伝寺の境内が支城に適した場所と判断され砦の用途に変貌していったと考える事ができる。
また、二伝寺の近隣には鎌倉から藤沢へ抜ける街道が整備されており、後北条氏の統治体制を支える戦略的要所であった。
これらを総合的に考察すると、もし高谷砦が陥落した後は玉縄城の手前で敵を食い止める“玉縄城外郭の最終防衛地点”と
結論できる。二伝寺砦はまさに玉縄城と一心同体の運命にあった城郭と言えよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■
廃城の時期は詳らかではないが、恐らく他の後北条氏城郭と同様に豊臣秀吉の小田原侵攻後だと推測できる。以来、城の
消滅に合わせて二伝寺は荒廃したようだが、江戸時代前期、玉縄藩主家の松平甚右衛門正次(正綱の義父)によって再興
されたと言う。この縁あって、二伝寺境内の一角には松平氏の墓所がある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
加えて、二伝寺本堂の裏手に回ると(高谷砦の項で紹介した)村岡五郎こと平良文やその子孫である平(三浦)駿河介忠光、
平(同じく三浦)相模大掾忠通の供養塚がある。この塚を良文・忠光・忠通の墓とする説もあるが、その真偽は定かではない。
ともあれ、高谷砦(この場合、村岡城と言うべきか)所縁の人物が眠っている事から、二伝寺の開基に先立つ平安末期から
この地が信仰に即した場所と認知されていたようだ。とかく、山岳(という程の立地ではないが)信仰の霊地はその権威と霊力
それに要害としての地形を考慮して城郭化する事が多いので、二伝寺砦が良文一門の墓所から玉縄城の出城へと発展して
いったのも、歴史の必然だったのか?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
3名の供養塚がある場所が二伝寺境内における最も標高の高い場所であり、恐らくここを中心として砦の曲輪が形成されて
いたと思われる。供養塚へと上がる階段の途中から振り返れば、眼前に玉縄城の姿を仰ぎ見る事が出来、このような眺望の
良さが砦としての重要な機能だったのだろうと容易に想像できる。惜しくも現在は寺の墓地開発などで当時の土塁や切岸と
いった遺構が殆んど消滅してしまっているが、雰囲気だけは何となく味わえなくもない。なお、供養塚へと至る道は二伝寺の
私有地内であるため、見学する際には寺務所に断りを入れてから中に入らせて貰うよう配慮して頂きたい。■■■■■■■







相模国 長尾砦

長尾砦跡 塚畑碑

 所在地:神奈川県横浜市栄区長尾台町・田谷町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★★■■■
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あの「長尾氏」出自の地■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名で長尾城、長尾塁、「新編相模国風土記稿」に長尾氏塁跡とも。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その在処は、現在の行政区分では横浜市栄区長尾台町。横浜市、と言うと武蔵国に含まれる印象が強いが、中世の区分では
相模国鎌倉郡長尾台村である。現代においても長尾台町の最寄駅はJR大船駅であり、大船駅は神奈川県鎌倉市に所在する。
即ち、長尾砦のあった地は鎌倉の北辺に位置する事になり、立派に相模国内の城郭と言え、何よりそこは玉縄城の北を守る
台地で、武蔵国に対する監視哨であった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
江戸時代には冨士弥一郎なる人物の知行地だった長尾台の地であるが、その起源は平安時代末期にまで遡り、名族・長尾氏
発祥の地なのである。一般に長尾氏は坂東八平氏の一つとされ、鎌倉権五郎景政の孫・次郎景行が長尾台に居を構え、長尾
姓を称したとされている。景政は桓武平氏の祖たる高望王(平高望)から5代後の人物である為、長尾景行は桓武天皇の10代
後裔、高望王の7代後裔という事になる。(鎌倉権五郎景政については大庭城の頁を参照されたい)■■■■■■■■■■■
ただし、長尾の姓を使い始めたのは景政の父・相模守忠通だとする史書もあり(長尾家記である「御影之記」)、断定的な事は
言えないが、いずれにせよ平安時代末期には長尾台に長尾氏の館があり勢力基盤となっていたようでござる。長尾台台地の
北側斜面には長尾臺御霊(ごりょう)神社が祭られているが、この社の祭神は鎌倉権五郎景政となっており、長尾砦の由緒が
垣間見えよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

鎌倉幕府の中での長尾氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
平氏政権に対する怨嗟が全国に蔓延し、1180年(治承4年)8月に伊豆で源頼朝が挙兵するや、関東地方の武士団はその当初
平氏の命に従い、頼朝討伐に兵を動かした。景行の子である長尾砦の長尾新五郎為宗・新六定景兄弟は平氏方総大将・大庭
三郎景親(かげちか)から先陣を申し付けられ、石橋山の合戦で頼朝軍を散々に打ち負かしている。合戦時、頼朝を守っていた
佐那田(真田)与一義忠は平氏方の武将・俣野五郎景久と組み討ちをしたが敗れ、定景に首を獲られたという。ところが頼朝は
海路で伊豆を脱出、房総半島に逃れて態勢を立て直した。源氏の棟梁が奇跡の復活を遂げた事で、関東地方の諸将は俄かに
臣従先を変え、平氏を見限るようになる。斯くして頼朝は源氏の本拠地である鎌倉へ凱旋した訳だが、この際鎌倉近辺の武将
(特に坂東八平氏など)は頼朝の鎌倉入りに尽力しており、長尾氏もまた、平氏から源氏への鞍換えを表明した。とりあえずは
服属を認められたものの、石橋山合戦で定景が義忠を討ち取った遺恨もあって、長尾氏は三浦氏(三浦半島に勢力を築いた
有力な鎌倉御家人)の預かりとなり、以後、長尾一門は三浦氏の配下として位置づけられている。■■■■■■■■■■■■
1219年(承久元年)1月、鎌倉幕府3代将軍・源実朝が甥の公暁(くぎょう)に暗殺された時、長尾定景は公暁討伐に働いているが
これも三浦氏の命に基づくものであったという。三浦氏は北条氏(鎌倉幕府執権)との権力闘争に敗れて1247年(宝治元年)の
宝治合戦で宗家断絶となっているが、定景の子・平内左衛門尉景茂はこれに殉じており、鎌倉長尾氏も三浦氏と共に没落した。
景茂の子・四郎景忠(景能とも)は捕らわれの身となり、後に赦されたが既に三浦氏の権勢なく、丁度この頃に京都から下向して
公家から武家へと転身した上杉氏の従者となり申した。これ以後の長尾氏は上杉氏の家宰として身を立てて行く事になり、後に
上野国(群馬県)や越後国(新潟県)の守護代として諸家を発展させていった訳だが、平安時代末期〜鎌倉時代にかけて本拠と
していたのがここ、長尾砦だったのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

戦国時代、長尾氏と後北条氏の関係■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
長尾景茂の自刃後、長尾氏の館は廃されたとする説もあるが、室町時代に総社長尾氏(分家した長尾家のうち、上野国総社を
領した一家)の顕方(かねまさ、読み仮名は現地案内板に準拠)等の屋敷がこの周辺にあったと伝承があるため、恐らくは継続
使用されていたと考えられよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、戦国時代の相模で外せないのが小田原後北条氏の伸張だ。北条早雲こと伊勢新九郎盛時が伊豆で旗揚げし、瞬く間に
相模国へと進出したのは上記の通り。玉縄城の築城に合わせて、そこから近い長尾台にも勢力が及んだ。長尾尾張守顕方は
後北条氏の影響下に組み込まれ密接な関係を持つようになる。元来、総社長尾氏は後北条氏と敵対する山内(やまのうち)
上杉氏の家宰を勤める家柄であったのだが、こうした事情により両家の間を渡り歩くようになっている。■■■■■■■■■■
1524年(大永4年)、上杉家の代理として越後長尾氏の弾正左衛門尉為景が後北条氏と戦った折、総社長尾顕方は後北条方と
して動き為景と後北条氏の和平を周旋したという。越後長尾氏もまた、鎌倉長尾氏の末裔にあたる家であり、これをして太田
美濃守資頼(すけより、太田道灌の曾孫で扇谷上杉家臣)は「長尾同名中の離反」であると顕方を非難している。■■■■■■
兎にも角にも、こうして長尾台は玉縄城主・北条綱成の領地に入り、長尾砦は玉縄城の出城として鳥居伝十郎が守ったと言う。
長尾台台地の東側麓には柏尾川が流れ天然の堀を為し、最高所からは北〜東への眺望が開ける。即ち、当時の後北条氏が
仮想敵としていた上杉氏の軍勢が押し寄せるであろう領域を監視するに適した砦だったのである。■■■■■■■■■■■■
ちなみに顕方は本領となっていた上野国総社(群馬県前橋市元総社町)へと移り山内上杉氏に再服属する運命を辿っている。
ここに長尾砦は完全に後北条氏のものとなり、江戸湾を挟んだ房総の雄・里見氏が海路で鎌倉周辺へ押し寄せる事もあった為
玉縄城・長尾砦は要衝であり続けた。廃城時期は不明だが、恐らく1590年、豊臣秀吉の関東征伐時であろう。■■■■■■■

現在の「長尾台」は…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以来400年、長尾台は農地となり現在に至っている。跡地は大半が耕地で、最近は住宅建設も進められている為、特に城跡と
しての保全は行われていない。御霊神社境内(長尾氏の居館址との説あり)、あるいは農地として使われない急傾斜面などは
手付かずで残されており、切岸や空堀跡と思しき遺構があるものの、「手付かず」であるが故に藪化が激しく、見学し難い状況。
砦の南面に構えられていた大空堀跡はそのまま農地になっており、ここを展望するのが一番見易い遺構なのではなかろうか。
この大空堀、幅が50mちかくある巨大なもので、近世城郭が鉄砲戦を意識して築いた堀と同等の広がりを見せている。あまりに
大き過ぎる為、その堀が丸ごと畑に転用されており、一見では堀と思えない程の規模である。平安末期から使われ続けた長尾
砦にあって、後北条氏の戦国期改修によるものか?まさに鉄砲戦を考慮したものなのか?色々と憶測を呼ぶ大空堀で、謎は
尽きない。写真はこの大空堀の傍らに隠れた、長尾砦の鎮守跡と想像される塚畑碑でござる。■■■■■■■■■■■■■■
長尾砦では1980年(昭和55年)農地整理に伴った横浜市埋蔵文化財調査委員会の発掘調査が行われ、居館址と思われる場所
から五輪塔・陶磁器・板碑など、縄文時代〜中世にかけての生活遺物が出土している。市教育委員会により測量図も製作されて
いるので、今後の考察に期待したいものである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ちなみに、後北条氏と戦った越後長尾為景の子が長尾景虎、即ち上杉謙信。北陸信越に一大領土を有した戦国屈指の名将は、
ここ長尾台を始祖の地とする人物なのである。後北条氏との抗争で鎌倉まで遠征したのは、あるいは創始の郷土を自分の目で
確かめるためだったのかもしれない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等





厚木市内陣屋群・県中西部鎌倉武家居館址  横浜市内諸城郭(1)