北条早雲の相模制覇における要■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名で甘縄(あまなわ)城。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国相模の歴史において鍵となる重要性に反比例して、現代の史跡保存のあり方で非常に低い評価の悪名で有名な城跡。
相模国の城郭は大半が小田原後北条氏に関連するものだが、御多分に漏れずこの城も後北条氏に大きな関わりがござる。
そもそも築城者が北条早雲。後北条氏の始祖であり、玉縄(たまなわ)築城の経緯は早雲の覇業推進と密接に関連している。
伊豆にて足場を築き、1495年(明応4年)に小田原城(神奈川県小田原市)を奪取した早雲こと伊勢新九郎盛時は、そのまま
東進し相模制覇を目標とする(年代には諸説あり)。一方、早雲の攻勢に立ち向かうのは相模守護にして鎌倉以来の名門で
ある三浦氏。1500年代に入る頃から両者の戦は激化、三浦氏当主の陸奥守義同(よしあつ)は岡崎城(神奈川県平塚市)に
拠って戦い続けるものの、巧妙な早雲の作戦により1512年(永正9年)8月に落城してしまった。それでも義同と弾正少弼義意
(よしおき)父子は住吉城(神奈川県逗子市)へ退いて早雲に抵抗を続ける。早雲方はその住吉城も落とすが、まだまだ粘る
三浦勢は新井城(神奈川県三浦市)に退却したのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
度重なる転戦に、早雲は三浦氏封殺の拠点が必要と考えて鎌倉に城を築いた。鎌倉は三浦半島の付け根にあたると同時に
武家政権にとって重要な古都だ。三浦半島で最後の抵抗を見せる三浦氏を牽制し、補給路を断ち、鎌倉という町を支配して
「早雲こそが新たな相模の統治者」と喧伝するのにはうってつけの場所と言えたのだ。斯くして1512年〜1513年(永正10年)に
かけて築かれたのがここ玉縄城なのだった。早雲は2男の左馬助氏時(うじとき)を城主に任じ、三浦氏を監視させる。■■■
この頃、早雲は武蔵国を支配する扇谷(おうぎがやつ)上杉氏とも係争中で、上杉氏と三浦氏の連携を崩す目的でも玉縄城の
重要性は比類なきものであった。もし玉縄城がなければ上杉氏は三浦氏を支援し得る事になり、その後の歴史は大きく変動
したかもしれない。実際、三浦氏に援軍を差し向けようとした上杉勢は1513年に三浦半島へ迫ったものの早雲は押さえとして
2000騎を残して出陣、玉縄城の北方に4000騎(5000とも)を布陣させて上杉軍を打ち破った。■■■■■■■■■■■■■
結果、上杉氏の支援は失敗。補給を絶たれた三浦氏は1516年(永正13年)7月11日、新井城にて後北条軍の総攻撃を受け
滅亡するのであった。これにより早雲は相模全土制覇を成した訳だが、その後も玉縄城の重要性は変わらなかった。江戸湾
(現在の東京湾)を挟んだ対岸、房総半島の里見氏は後北条氏と対立し、しばしば海を渡り後北条方との戦いに及んでいた
からである。特に1526年(大永6年)11月26日、安房から水軍を進発させた里見氏は鎌倉に上陸して破壊活動を行ったのだが
玉縄城から出撃した北条氏時・左京大夫氏綱(氏時の兄、後北条氏2代当主)の兵に掃討された事例がある。■■■■■■■
相模は統一されたが、玉縄城は鎌倉の備えとして東相模の戦略拠点となっていたのである。■■■■■■■■■■■■■■
城主は“玉縄北条氏”として一族の柱石に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
氏時の死後、彦九郎為昌(ためまさ、氏綱2男)・上総介綱成(つなしげ、氏綱養子)が城主を歴任。いずれも後北条家親族衆の
重鎮であり、特に綱成は“地黄八幡”の旗印で勇猛さを鳴らした名将中の名将だ。彼らに率いられた玉縄城もまた名城であり
1561年(永禄4年)閏3月、長尾弾正少弼景虎(後の上杉謙信)の攻略を受けるがこれを退けた。詳しく記すと、関東管領復権の
大義を掲げる景虎は後北条氏の威勢を払拭すべく越後国(現在の新潟県)から長征、諸豪族を糾合し小田原城下に迫った。
が、さすがに小田原は天下の堅城、戦上手の景虎も攻略できずに鎌倉へ撤退、関東管領職の就任式を挙行するに留まった。
この時、長尾景虎改め上杉政虎は鎌倉での障害となる玉縄城の攻撃に着手したのである。折りしも、城主の綱成は小田原に
参陣して不在であった。しかし、留守を守る綱成の子・左衛門大夫康成(後の氏繁)は玉縄城兵を巧みに指揮して上杉軍の
攻撃を撃退してしまう。もともと政虎に本気で城を落とす意図はなかったのかもしれないが、玉縄城の守りが堅かったからこそ
政虎も諦めをつけたのであろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1569年(永禄12年)今度は武田信玄が相模へ来襲した際には、玉縄城は素通りし、戦いを避けている。政虎が攻略を諦めた
事例から、信玄は最初から玉縄城での戦いに利有らずと決していたらしい。謙信・信玄という戦国の両巨頭ですら、玉縄城の
攻撃は差し控えたのである。如何にこの城が堅城であったかが想像できる逸話でござろう。■■■■■■■■■■■■■■
綱成の後、常陸介氏繁・左衛門大夫氏舜(うじきよ)・左衛門大夫氏勝と城主が変わったが、その支配体制に終焉が来たのは
1590年(天正18年)。天下統一を間近に控えた豊臣秀吉が全国の諸大名を動員して小田原後北条氏を討伐した戦陣による。
西から迫る豊臣軍に対し、玉縄城主・北条氏勝は山中城(静岡県三島市)に軍勢を率いて迎え撃つが、3月29日に僅か半日で
落城。氏勝は山中城を棄てて玉縄城に逃げ帰ったのである。再起を期す氏勝はここで抵抗を続けるも、豊臣方の徳川家康が
氏勝の叔父である大応寺(現在の曹洞宗陽谷山瑞光院龍宝寺)住職・了達を通して開城を勧告、これを容れた氏勝は4月21日
降伏するに至った。以後、氏勝は関東各地で籠城する後北条方諸将へ降伏を呼び掛ける使者となる。■■■■■■■■■■
同年7月5日に小田原城も開城し、秀吉による征伐が終息すると相模・武蔵をはじめとする旧後北条領には徳川家康が配され、
氏勝は下総国岩富(千葉県佐倉市岩富町)1万石に移される。これに伴い、玉縄の領地は家康腹心の部下である本多佐渡守
正信と、家康の伯父・水野清六郎忠守が支配した。忠守は程なく隠居し相模国沼目郷(神奈川県伊勢原市沼目)へ隠棲するが
正信の所領は玉縄1万石(2万2000石とも)を維持。しかし豊臣家も滅んだ1615年(元和元年)一国一城令が幕府から発せられ
1619年(元和5年)に玉縄城は廃城処分を受けた。本多正信も既に没し、以後、松平右衛門大夫正綱が玉縄領を与えられるも
陣屋を築いて統治を行うに留まり、その松平家も備前守正信―弾正忠正久と代を経た1703年(元禄16年)2月10日に上総国
大多喜(千葉県夷隅郡大多喜町)へ移された為、玉縄藩は消滅し申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
江戸時代中期、寛政の改革を行った松平越中守定信が海防重視の用で玉縄城の復興を検討するも、これは実現しなかった。
廃城後の悲運と、僅かな希望■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
廃城以後、城郭外縁部の太鼓櫓跡土塁や“くいちがい”と呼ばれる切岸が昭和30年代まで良好に残されていたと云い、当時の
航空写真ではその形状が明瞭に確認できたのだが、これらの遺構は市街地開発で高度成長期に急激な破壊を受けてしまった。
歴史文化都市である鎌倉市にあって、この破壊ぶりは城郭愛好家からしばしば非難され、玉縄城の現状における評価は極めて
低い。拙者も城跡外周を訪れたが、時折“曲輪や土塁遺構か?”と思われる場所が散在するものの、明確に城址であるものを
証明する箇所はなかった。北条氏の輝かしい戦歴とは裏腹に、開発に消え去る運命の悲しい城である。地元有志が地権者と
交渉し、近年ようやく残存部分の森(太鼓櫓跡)を「植木1号市民緑地」として公園化したのが涙ぐましい努力であろう。こうした
保護運動や現在の“城郭ブーム”の流れを受けて鎌倉市ではようやく史跡指定の検討を始めたと言うが(何せ「始めた」ばかり)
史跡が優良な観光コンテンツとして認知されるようになった今となっては、いささか遅きに失した動きであろう。■■■■■■■
一方、本丸跡には1963年(昭和38年)清泉女学院が建てられた。昨今の社会情勢を受け、女子校の敷地は厳重な警備がされ
内部に無断で立ち入る事は不可能である。しかし(さすがに教育現場だけあって)敷地内の諏訪壇曲輪だけは手付かずのまま
残されている。かなりの比高差を誇る切岸やそこに掘られた竪堀?と思われる凹凸面、曲輪縁部を囲う土塁など貴重な痕跡が
見受けられるので、城周辺の傾斜地(勿論、城の防御遺構)が次々と宅地化されていてもはや往時の堅城ぶりを垣間見る事も
叶わない玉縄城の現状にあって、唯一“中世城址らしい部分”を見せ付けてくれる。きちんとした申請を学校に行えば、史跡の
見学許可を貰えるので、城郭愛好家ならば臆せずに是非とも“玉縄城のよすが”を検分して頂きたい。■■■■■■■■■■
なお、城跡の南端にある玉縄民俗資料館(龍宝寺敷地内)には玉縄城の構造模型が展示されているので、これを見学するのも
忘れずに。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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