戦国関東で幾多の戦いをくぐり抜けた城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
15世紀頃の築城と見られるが、正確な築城年代は不明。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
おそらくは室町時代初頭、関東管領(室町体制下、関東の統治実務を担った役職)・上杉氏の支城として成立した城と思われる。
応仁の乱を経て戦国時代になると、1476年(文明7年)6月に起きた長尾景春の乱に連動し、ここ小机城も戦闘に巻き込まれた。
上杉氏の宿将であった長尾四郎左衛門尉景春が人事上の恨みから主君である関東管領・山内(やまのうち)上杉顕定に叛旗を
翻した事件において小机城主であった矢野兵庫助らが景春に与力、そのため上杉軍の討伐を受ける事になったのだ。兵庫助の
軍は小机城に籠城、また、平塚城(東京都北区)で上杉勢に敗れた豊島勘解由左衛門尉泰経(としまやすつね)も小机城に逃げ
込み(近年の説では、豊島泰経は小机へ来る前に行方知れずとされる)、それに対して上杉の軍勢は城の北方にある亀之甲山
(現在の横浜市港北区新羽町)へ布陣し攻勢をかけたのである。討伐軍を率いた将は扇谷(おうぎがやつ)上杉家の宰相・太田
備中入道道灌。江戸城(東京都千代田区)を築き、当代一流の名軍師として名高いあの道灌だ。道灌は亀之甲山で陣を敷く前
「小机は まず手習いの 初めにて いろはにほへと ちりぢりとなる」と歌を詠んで、敵勢を蹴散らす見通しを立てた。その歌の
通り、2ヶ月の籠城戦は1478年(文明9年)4月に終幕を迎え小机城は落ちた。なお、これには異説もあって攻防は2年以上続き、
1479年(文明10年)に落城したとの説もござる。いずれにせよ、乱後の小机城は再び上杉氏の支配下に置かれる事となる。■■
この後、戦国争乱が激しくなると上杉氏も小田原から伸張してきた伊勢新九郎盛時(北条早雲)に追われるようになり、小机の
地は後北条氏の領土となった。小机城は一時期廃城となっていたが、後北条氏の支配により1524年(大永4年)、武蔵国の支配
基盤を強化するため再び使用されるようになる。小机城主には北条彦九郎為昌(ためまさ)・三郎時長・新三郎氏信・左衛門佐
氏堯(うじたか)・右衛門佐氏光と後北条一門が歴任したが、全般を通じて笠原越前守信為(のぶため)が城代とされていたので
実質的には笠原氏の城であった。笠原越前守家を筆頭とし、小机には後北条氏の地方軍団である小机衆が編成されている。
小田原北条氏は各地の支城に一門衆を配置し、血縁によって強力な支配体制を構築したが、小机城もこの一翼を担い、それに
応じた軍役を負担していた訳だ。1559年(永禄2年)2月時点で編纂された「小田原衆所領役帳」(軍役基本台帳)によれば小机衆
被官(小机城主の配下となり戦闘に参加する部将)は29人と規定されている。これは後北条氏軍制の中で中規模の軍団勢力に
位置するものでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
廃城、そして続百名城へ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そんな小机城に次なる転機が訪れたのは1590年(天正18年)。全国統一を目指した関白・豊臣秀吉は小田原後北条氏を最後の
敵と定め4月に討伐軍を発し、これに対抗する後北条氏は領内各地で徹底的な籠城策を展開して防戦する。しかし、中央政権を
握った強大な豊臣軍には敵わず、7月に本拠である小田原城(神奈川県小田原市)を開城。関東の雄として100年近くも隆盛した
後北条氏はここに滅亡、関東地方は徳川家康の領土とされた。小机城を守る笠原氏は4代目となる笠原弥次平衛重政の時代を
迎えていたが、後北条氏滅亡により家康の配下へ編入され、翌1591年(天正19年)都筑郡台村(横浜市緑区台村町)に新領地を
与えられた。台村領の石高は200石、笠原氏は徳川直参の旗本となったのだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
笠原氏が退去した事を以って小机城は廃城となり、その歴史に幕を閉じたのである。なお、移封後も笠原氏は墓所を小机に定め、
かつての領地に名残を残した。JR小机駅に近い曹洞宗臥竜山雲松院がそれである(旗本笠原氏墓所は横浜市指定史跡)。■■
小机城跡の現況は城跡公園となり一般に開放されている。JR横浜線の小机駅からすぐ、横浜線の線路と第三京浜国道が交差
する近辺が小机城址公園だ。城山の西半分は第三京浜が城地を削り取ってしまったのが残念ではあるが、南北に長い台地に、
主に3つの曲輪が並べられ、その周囲には帯曲輪や出曲輪が散在。これらの曲輪の間は空堀や堀切で仕切られ、保存状態は
かなり良好である。城の西側には鶴見川が流れ、天然の外濠を成している。近年になって発掘調査が徐々に行われており、謎が
多いこの城の実態が解明されると期待したい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
深い堀底から見上げる切岸の姿は圧巻。横浜にこれほどの大城郭があったのかと驚かされる事は必定で、残存部分の遺構が
素晴らしい事から2017年(平成29年)4月6日に日本城郭協会が続百名城の1つに選出した。城郭愛好家にはオススメできる中世
城郭の跡でござろう。その反面、特に史跡指定などが為されていないのが不思議な点でもある。■■■■■■■■■■■■■
蛇足になるが、公園の案内板には小机城の縄張図が示され「本丸」「二ノ丸」といった曲輪名称が示されているものの、これらは
便宜上附されたものであり、実際にはどこが本丸・二ノ丸であったか解明されていない事を付記しておく。■■■■■■■■■■
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