武蔵国 小机城

小机城跡 伝本丸入口土橋

所在地:神奈川県横浜市港北区小机町

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★☆■■
公園整備度:★■■■■



12世紀頃の築城と見られるが、正確な築城年代は不明。
おそらくは室町時代初頭、関東管領上杉氏の支城として成立した城と思われる。
応仁の乱を経て戦国時代になると、1476年(文明7年)6月に起きた長尾景春の乱に連動し
ここ小机城も戦闘に巻き込まれた。上杉氏の宿将であった景春が下剋上を狙い
主君である関東管領・山内(やまのうち)上杉顕定に叛旗を翻した事件において
小机城主であった矢野兵庫助らが景春に与力、
このため上杉軍の討伐を受ける事になったのだ。
兵庫助の軍は小机城に籠城、これに対して上杉軍は城の北方にある
亀之甲山(現在の横浜市港北区新羽町)へ布陣し攻勢をかけたのでござる。
討伐軍を率いた将は扇谷(おうぎがやつ)上杉家の宰相・太田道灌。
江戸城を築き、当代一流の名軍師として名高いあの道灌だ。
攻防は2年以上続いたものの、1479年(文明10年)にとうとう落城。
小机城は再び上杉氏の支配下に置かれる事となる。
この後、上杉氏も小田原から伸張してきた伊勢新九郎(北条早雲)に追われるようになり
小机の地は北条氏の領土となった。北条氏の支配によって、小机城は一時期廃城となるが
戦国の争いが更に激しくなった1524年(大永4年)、武蔵国の支配基盤を強化するために
再び使用されるようになった。新たに小机城主として任じられたのは北条氏堯(うじたか)。
しかし、氏堯が城主とは言え笠原越前守信為が城代とされたため
実質的には笠原氏の城であった。氏堯の後、城主は北条氏信、
北条氏光と受け継がれたが、この間も城代は笠原氏が務め続けたのでござった。
ちなみに氏光は足柄城主の役も兼務となっている。
小田原北条氏は各地の支城に一門衆を配置し、血縁によって強力な支配体制を構築したが
小机城もこの一翼を担い、それに応じた軍役も負担していた。
1559年(永禄2年)2月時点で編纂された「小田原衆所領役帳」(軍役基本台帳)によれば
小机衆被官(小机城主配下となり戦闘に参加する部将)は29人と規定されている。
これは北条氏軍制の中で中規模の軍団勢力に位置するものである。
そんな小机城に次なる転機が訪れたのは1590年(天正18年)。
全国統一を目指す豊臣秀吉は小田原北条氏を最後の敵と定め4月に討伐軍を発し
これに対抗する北条氏は領内各地で徹底的な籠城策を展開し防戦する。
しかし、中央政権を握った強大な豊臣軍には敵わず、7月に小田原城を開城。
関東の雄として100年近く隆盛した北条氏はここに滅亡し、
関東地方は徳川家康の領土とされた。小机城を守る笠原氏は4代目となる
笠原弥次平衛重政の時代を迎えていたが、小田原北条氏が滅亡した事により
徳川家康の配下に編入され、翌1591年(天正19年)都筑郡台村(横浜市緑区台村町)に
新領地を与えられた。台村領の石高は200石、笠原氏は徳川直参の旗本となったのだ。
笠原氏が退去した事を以って小机城は廃城となり、その歴史に幕を閉じたのでござる。
なお、移封後も笠原氏は墓所を小机に定め、かつての領地に名残を残した。
現在のJR小机駅に近い雲松院がそれである(旗本笠原氏墓所は横浜市指定史跡)。
小机城跡の現況は城跡公園となり一般に開放されている。JR横浜線小机駅からすぐ、
横浜線の線路と第三京浜国道が交差する近辺が小机城址公園でござる。
部分的に第三京浜が城地を削り取ってしまったのが残念ではあるが、
南北に長い台地に、主に3つの曲輪が並べられその周囲には帯曲輪や出曲輪が散在。
これらの曲輪の間は空堀や堀切で仕切られ、保存状態はかなり良好だ。
城の西側には鶴見川が流れ、天然の外濠を成している。
城郭愛好家には結構オススメできる中世城郭の跡でござろう。
蛇足になるが、公園の案内板には小机城の縄張図が示され「本丸」「二ノ丸」といった
曲輪名称が示されているものの、これらは便宜上附されたものであり
実際にはどこが本丸・二ノ丸であったか解明されていない事を付記しておく。


現存する遺構

堀・土塁・郭群等







武蔵国 
茅ヶ崎城

茅ヶ崎城主郭部眺望

所在地:神奈川県横浜市都筑区茅ヶ崎東

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★★☆
公園整備度:★★★★☆



茅ヶ崎と言っても湘南の茅ヶ崎でなく、横浜市内の内陸部にある。
武蔵国南部、現在は横浜市営地下鉄センター南駅周辺商業地域として都市化された
三角山から東に連なる丘陵の先端部に築かれた中世丘城でござる。三角山の北には
早渕川が西から東へと流れており、これが茅ヶ崎城の北辺外郭外堀を為す。
1192年(建久3年)に源頼朝が幕府を創設して以来、中世関東における
政治の中心地であった鎌倉からほど近い位置にあるこの城は、城下に鎌倉街道の
中の道が通じており、更に東側には後の中原街道、西側には矢倉沢街道(大山道)も
走っていた。加えて、早渕川の水運によって神奈川湊(神奈川県横浜市神奈川区)や
武蔵国府(東京都府中市)への連絡も可能という交通の要衝でござる。
近隣には小机城がわずか4km弱という距離にあり、茅ヶ崎城は小机城の支城として
重視されていたと考えられよう。茅ヶ崎城の城地は標高が28m〜35m、
最高所である中郭南西隅の土塁上では40mを数える。
そこに高さ8m程度の櫓を構えれば小机城まで見渡せたはずだと言われる。
城の創建に関しては平安時代中期の1021年(治安元年)頃に
多田行綱(多田源氏では時代も場所も整合せず。桓武平氏多田流の人物か?)が
築城したという伝承があるものの、上記のような選地理由から考えれば
当然の事ながら、室町時代以降の築城とみるべきである。
しかしながら、茅ヶ崎城を巡る攻防と言うものは明確な史料が無いため
通説では(場所柄から考えて)当然のように小田原後北条氏の城とだけ
認識されてきた。確かに、後北条氏が用いた事に間違いはないだろうし
廃城の時期も、後北条氏が滅んだ1590年だと考えられている。また、この城にある
比高二重土塁(曲輪を囲う土塁を高さの異なる二重のものにした状態)が
あまりにも特徴的であるため、“後北条流築城術”なる城郭用語が誕生し
その築城術においてはかなりの確率で比高二重土塁が用いられるものだと
決定付けられるようになった事でも有名な城だ。
ところが、発掘調査によってその説が全て正しいという訳ではない事が
徐々に明らかとなった。以下、その内容を記しておく。
まず築城時期だが、14世紀後半〜15世紀と推測されてござる。
この時代、後北条氏はまだ武蔵国への進出を果たしていない。となれば
築城は後北条氏ではなく、当時の領主である扇谷上杉氏の手による事となる。
発掘の出土品には小机城の項(上記)で記した長尾春景の乱に関連する物があり
茅ヶ崎城も小机城に連動して攻防戦があったと考えられよう。
なお、この地は築城以前の段階でも人の手が入っていたらしく、発掘で
弥生時代後期〜古墳時代〜平安時代における竪穴式住居の跡も見つかっている。
そうした時代の土器などが出土し、更に城郭として使われていた時代の
かわらけ・陶磁器・石臼・硯・鉄釘・古銭なども発見されている。
茅ヶ崎城の敷地は東西330m×南北200mほど、総面積は約55000u。
築城当初は東西に2つの曲輪を並べただけの簡単な縄張りだったようだ。
15世紀後半になるとこれに手が加えられ、土塁の改築と空堀の堀り直しにより
西郭・中郭・東郭・北郭の4曲輪に再編され申した。中郭(当初の西郭)
南東部からは、倉庫と考えられる建物などが検出されている。
発掘調査によれば、中郭南東部全面に多数の柱穴や土坑が分布していた為
東西南北に軸を持つ掘立柱建物が並び、南土塁との間を塀で区切っていたと
思われる。検出された建物1〜3内の土坑は陶器の埋納坑と推定され、
これらの建物が倉庫であった事の証明になった。また、建物5からは
炭化材と共に焼けた壁土の欠片が多数検出され、焼失した土倉と判明。
これらの事から、中郭南東部は倉庫地区であることが明確とされ
遺構の重なり具合や位置関係から4〜5期の変遷がある事もわかった。
その一方、曲輪内から住居と見られる建物は検出されていない。
城の南東側に根小屋地区(城に詰める将兵の居住地区)が構えられていた為
茅ヶ崎城内に居宅の類はなかったのだろう。ちなみに根小屋地区からは
14世紀〜15世紀頃の物と思われる常滑産の蔵骨器や板碑が出土してござる。
城山の崖下裾、根小屋の平場は幅10m〜20m、東西600mほどの規模であった。
こうした経緯を経た後、茅ヶ崎城周辺の地域は後北条氏の領有に帰した。
然る後、16世紀の中頃(大永年間(1521年〜1528年)?と見る向きがある)に
後北条氏の手が加えられ、二重土塁の間に空堀を新設したり
(即ち、上杉氏の段階で既に二重土塁は存在した事になる)
中郭の東寄りに新しく中堀を掘削する大がかりな改修工事が為された。
これは中郭の東側を小曲輪として分割する事で、“後北条流”に特有の
角馬出しとして活用する目論見があったと推測できる。しかし、
中堀の脇に(縄張り上、在って然るべき)土塁がない上、中郭と西郭の間にある
大空堀が従前のまま直線的に残された(後北条流ならば、折曲を工夫すべき)
事などから、この改修工事は限定的なもの、若しくは中断したものだったとも
考えられよう。当時、後北条氏は上杉氏に対して攻勢一方であったため
いずれ後方城郭になる事が確定的であった茅ヶ崎城の防備増強は
その程度で十分だったのかもしれない。ともあれ、茅ヶ崎城縄張りの変化を
詳細に検証すればするほど、通説であった“後北条流築城術”の定義は
根底から覆される事になってきたのでござる。よって、昨今では
後北条流築城術という城郭用語の使用は忌避される傾向にある。
杉山城問題などにもあるように(杉山城の頁を参照の事)近年の城郭研究で
新事実が解明されるとそれまでの概念が打破される傾向が顕著だが、
茅ヶ崎城もまたそうした激変の中にある城でござった。
尤も、私見ではあるが“後北条流築城術”という概念を完全に否定するのにも
賛同できない。後北条氏が用いた城における共通項というのは
少なからずあると個人的に考えており、要は“後北条流”という
単語の使用には慎重にも慎重を期せば良いだけの事だと思われる。
兎にも角にも、後北条氏の支配下にあった茅ヶ崎城は
小机衆(小机城主を筆頭に編成された後北条氏の地方師団)の一人で
この周辺を領していた座間氏や深沢備後守が城代に入ったといわれる。
そして1590年、上記のとおり豊臣秀吉の関東征伐に至る。
小田原城の防衛を主眼とした後北条氏は茅ヶ崎城における戦闘を放棄。
秀吉もまた、配下の兵に茅ヶ崎城近隣11ヶ村における略奪や放火を禁止し
結果として、この城が実戦に用いられた事はなかった。その後、
関東は徳川家康の支配下に入った為に廃城となり、江戸時代を通じて
城跡は村の入会地(共有地)として活用されたという。
それ故、近代まで(一部が農地となりつつも)この場所は
「城山(じょうやま)」の名で保全されてきた。極めて良好な城跡が
手付かずのまま残された事を利用し、横浜市は平成に入ってからこの地を
史跡公園化する事を計画。1990年(平成2年)〜1998年(平成10年)にかけて
7次にわたる発掘調査を行い、2003年(平成15年)と2005年(平成17年)にも
北郭の一郭と中郭南東側土塁の一部に関して発掘を行った。この調査により
堀や土塁・土橋の様子が明らかにされ、中郭東部の建物跡・北郭の井戸等も
発見されたのでござる。こうした経過に基づいて公園化工事に着手し
2008年(平成20年)6月28日、茅ヶ崎城址公園が開園する。
公園整備によって明瞭な形を現した城址内の曲輪は、上記の通り西郭・中郭
東郭・北郭の4曲輪、それに加えて東郭東北側にある長さ60mほどの腰郭だ。
この他、城地の丘陵における中腹には複数の細かい帯郭があった。
(城址整備よりも先に宅地化されてしまった場所に旧来は東北郭も存在した)
こうした郭群はかなり大規模な土塁によって囲われており、平均して
堀底からの高さ7m〜8m、郭内側でも2m〜3mの規模を有している。
土塁基底部の幅もおよそ8m程度と数えられ、実に分厚いものだ。
特に中郭南西にあった土塁は段違いの武者走りを備えた巨大なもので
おそらくこの上には物見櫓などが建てられていたのだろう。
一方、堀に目を向けると茅ヶ崎城内の堀は空堀ばかり。関東ローム層の
土砂が堆積するこの地では水濠とするだけの保水力がないためだ。しかし
土塁の急傾斜(約70°)と大規模さが相俟って、空堀ならではの防御力を発揮。
この堀底から郭内へ強行突破を図る事はほぼ不可能であろう。よって、
郭へ入るには必然的に虎口で攻防戦を繰り広げることになる。
こうした虎口のうち、北郭から西郭方面へ抜ける堀底道では絶妙な間合いがとられ
侵入しようとする敵をあらゆる方向から包囲攻撃できるような構造になっている。
なお、北郭から中郭へ直接入る虎口も開かれているが、これは恐らく廃城後に
農地利用のため土塁が崩された出入口であろう。構造的に単純すぎて
これでは戦時の防備として役に立たないからだ。結果、中郭へ入るには
南東側の虎口が唯一の出入口になる。しかしその虎口の前面には
例の比高二重土塁が構えられており、進撃路が限られる構造。
最前線として用いられた時期が古く、縄張りが古典的と見られる茅ヶ崎城だが
それなりに防備の見劣りはしないようになっていたのでござる。
主郭と見られる中郭と、最高所である東郭の間は土橋で繋がれていた。発掘で
その生成過程を確認したところ、空堀の削り残しとして橋を為したのではなく
いったん完全に空堀で2つの曲輪を分断した後、土を積み上げて
後から土橋を増設した事がわかった。土橋の幅は2m弱、人ひとりが
やっと通れる程度の細さでござる。現在は道路整備で失われてしまったが
北郭と(宅地となった)東北郭の間にも同様の土橋が架けられていた。
ただし、こちらの土橋は盛り土ではなく掘り残し形式の土橋であった。
その北郭には井戸が掘られていた。井戸の上端直径は約4m、深さ5m程度。
豊富な湧水量を誇っていたらしく、現在は井戸跡に目印の杭が打たれている。
こうして史跡整備が完了した茅ヶ崎城址、あまりにも美麗に修繕された事で
旧来の“埋もれた古城”を知る人からは「整備し過ぎ」との声もあるが
逆に言えば、それだけ見事な復活を遂げたと見るべきであろう。それまでの
人が立ち入らない藪であった(からこそ保全された訳だが)場所では
如何に古来からの遺構が残されていようとも、一般に認知されるものではない。
城址公園として整備された事で、確実に認知度が上がっており
しかも整備の内容も「過度」と言うほど異常なものではなく実に丁寧なものだ。
個人的にはこうした整備で城址の存在意義が増したと思えるものだし
実際、それまで何も史跡指定されていなかった茅ヶ崎城跡は
公園整備事業が完了した後の2009年(平成21年)11月2日、ようやく
横浜市指定史跡になってござる。中世城址の姿を分かり易く再現した
茅ヶ崎城、城郭初心者に対する実に良い教材となるのではないだろうか。
来訪には横浜市営地下鉄を利用するのが最も良い。センター南駅から徒歩5分程度。
城址公園用の駐車場はなく、住宅街のど真ん中なので路上駐車も憚られる故
車での訪城は避けた方が良い。どうしても車で行くならば、同様に
センター南駅周辺の公共駐車場に停め、徒歩で赴くべし。


現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群等
城域は市指定史跡





深見城・早川城・白井織部屋敷  荻野山中陣屋・県中西部鎌倉武家居館址