果たしてどのような城であったのか…?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
相模湾西部、いわゆる「西湘」と呼ばれる地域に属する大磯町は海岸線に面していながら丘陵地帯が多く、古代から人々の
生活が営まれていた。そんな丘陵のうちの一つが小磯城の跡で、この台地は北東側には西湘有数の観光地・湘南平として
有名な高麗山(こまやま)が、北西に鷹取山が連なる舌状の小山。東に血洗川、西側に不動川が流れており、南麓はすぐに
海へと突き出していて、海・山・川・平地というあらゆる環境が集約されている場所なのである。当然この山は縄文時代から
集落が成立しており、山中には縄文式土器の出土地や古墳時代の横穴墳墓跡などが残されている。■■■■■■■■■
その後もこの山周辺では人々の生活が続けられたと見られ、室町時代になると相模湾を抑えるための拠点として小磯城が
築かれ申した。だが、詳しい来歴はよくわからない。場所柄から考えると、関東の名族・扇谷(おうぎがやつ)上杉氏に与する
勢力の城でござろうか?1476年(文明8年)上杉氏重臣の長尾左衛門尉景春(かげはる)が古河公方・足利左兵衛督成氏
(しげうじ)と図って謀反、関東管領(実質上の関東支配権者)・山内(やまのうち)上杉顕定と戦った際、景春配下の将・越後
五郎四郎がこの城に籠もったものの、上杉方の名将・太田道灌(どうかん)に攻められて落城したという記録が僅かに残る。
あるいは、小田原から伸張した後北条氏が用いた城かもしれない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在は風光明媚な公園■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
時は流れ1898年(明治31年)、この地は三井財閥が別荘を構えるようになった為、これ以後は次第に庭園として整備される
ようになった。1937年(昭和12年)には東京麻布の今井町(現在の東京都港区六本木)から国宝の茶室・如庵(じょあん)が
移築され小磯城跡地に華を添えた。この茶室は元々京都の臨済宗東山建仁寺に創建されたもので、その創立は元和年間
(1618年(元和4年)か?)と言われる。織田信長の実弟で、茶人として高名な織田有楽斎(おだうらくさい)が建てたもので
柿葺入母屋造りの建物は武家風茶室建築の代表とされる。ちなみに、全く関係ない話だが東京都千代田区の地名である
有楽町は有楽斎の屋敷があった事から付けられたものだと伝えられる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
話を小磯城に戻すと、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)に三井別荘は接収され陸軍石井部隊(相模川西地区隊)が
駐屯した。米軍による日本本土上陸作戦は房総半島と相模湾を攻撃目標にしていた為、これに対する備えとされたようだ。
しかし、それもわずかで終戦を迎えた。戦後になり軍の接収は解かれたが、三井別荘は三井財閥の解体と運命を共にし、
衰退の一途を辿っていく。1970年(昭和45年)遂に三井家の手を離れた小磯城跡地は名古屋鉄道株式会社のものになり、
2年後の1972年(昭和47年)茶室如庵は愛知県犬山市へと移築されたのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■
その後、三井別荘跡地の再利用案として公園化計画が持ち上がり、1983年(昭和58年)に都市計画公園の指定を受けた。
翌1984年(昭和59年)から県立都市公園整備事業工事が開始され、1987年(昭和62年)に部分開園、1990年(平成2年)に
神奈川県立大磯城山(じょうやま)公園として正式開園の運びとなったのである。公園内は曲輪跡と思しき敷地を利用した
広場や庭園などが整備され、犬山へと去った如庵を偲ぶ茶室・城山庵(じょうざんあん)も建てられている。■■■■■■■
また、上記の通り横穴墓群も残されており、史跡としての名残も僅かに見せる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城跡としての遺構はほとんど無くなってしまっているが、展望台からは相模湾が一望でき、公園散策にはオススメ。■■■
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