相模国 小磯城

小磯城跡

所在地:神奈川県中郡大磯町西小磯・国府本郷

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:★★★■■



相模湾西部、いわゆる「西湘」と呼ばれる地域に属する大磯町は海岸線に面していながら丘陵地帯が多く、古代から人々の
生活が営まれていた。そんな丘陵のうちの一つが小磯城の跡で、この台地は北東側には西湘有数の観光地・湘南平として
有名な高麗山(こまやま)が、北西に鷹取山が連なる舌状の小山。東に血洗川、西側に不動川が流れており、南麓はすぐに
海へと突き出していて、海・山・川・平地というあらゆる環境が集約されている場所なのである。当然この山は縄文時代から
集落が成立しており、山中には縄文式土器の出土地や古墳時代の横穴墳墓跡などが残されている。
その後もこの山周辺では人々の生活が続けられたと見られ、室町時代になると相模湾を抑えるための拠点として小磯城が
築かれ申した。だが、詳しい来歴はよくわからない。場所柄から考えると、関東の名族・扇谷(おうぎがやつ)上杉氏に与する
勢力の城でござろうか?1476年(文明8年)上杉氏家宰の長尾左衛門尉景春(かげはる)が古河公方・足利成氏(しげうじ)と
図って謀反、関東管領(実質上の関東支配権者)・山内(やまのうち)上杉顕定と戦った際、景春配下の将・越後五郎四郎が
この城に籠もったものの、上杉方の名将・太田道灌(どうかん)に攻められて落城したという記録が僅かに残る。あるいは、
小田原から伸張した後北条氏が用いた城かもしれない。
時は流れ1898年(明治31年)、この地は三井財閥が別荘を構えるようになった為、これ以後は次第に庭園として整備される
ようになった。1937年(昭和12年)には東京麻布の今井町(現在の東京都港区六本木)から国宝の茶室・如庵(じょあん)が
移築され小磯城跡地に華を添えた。この茶室は元々京都の臨済宗東山建仁寺に創建されたもので、その創立は元和年間
(1618年(元和4年)か?)と言われる。織田信長の実弟で、茶人として高名な織田有楽斎(おだうらくさい)が建てたもので
柿葺入母屋造りの建物は武家風茶室建築の代表とされる。ちなみに、全く関係ない話だが東京都千代田区の地名である
有楽町は有楽斎の屋敷があった事から付けられたものだと伝えられる。
話を小磯城に戻すと、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)に三井別荘は接収され陸軍石井部隊(相模川西地区隊)が
駐屯した。米軍による日本本土上陸作戦は房総半島と相模湾を攻撃目標にしていた為、これに対する備えとされたようだ。
しかし、それもわずかで終戦を迎えた。戦後になり軍の接収は解かれたが、三井別荘は三井財閥の解体と運命を共にし、
衰退の一途を辿っていく。1970年(昭和45年)遂に三井家の手を離れた小磯城跡地は名古屋鉄道株式会社のものになり、
2年後の1972年(昭和47年)茶室如庵は愛知県犬山市へと移築されたのでござった。
その後、三井別荘跡地の再利用案として公園化計画が持ち上がり、1983年(昭和58年)に都市計画公園の指定を受けた。
翌1984年(昭和59年)から県立都市公園整備事業工事が開始され、1987年(昭和62年)に部分開園、1990年(平成2年)に
神奈川県立大磯城山(じょうやま)公園として正式開園の運びとなったのである。公園内は曲輪跡と思しき敷地を利用した
広場や庭園などが整備され、犬山へと去った如庵を偲ぶ茶室・城山庵(じょうざんあん)も建てられている。
また、上記の通り横穴墓群も残されており、史跡としての名残も僅かに見せる。
城跡としての遺構はほとんど無くなってしまっているが、展望台からは相模湾が一望でき、公園散策にはオススメ。







相模国 王城山城

王城山城跡

所在地:神奈川県中郡大磯町大磯

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:☆■■■■



天王山城とも。JR大磯駅から北北東方向およそ600m、標高83mの小山・王城山の頂を主郭とする山城でござる。
来歴は全く不明。王城山の北側には西湘地域随一の景勝地、湘南平・高麗山がある。かつて高麗山には陣城が築かれ、
1438年(永享10年)永享の乱の折に上杉中務少輔持房(もちふさ)が本陣を構え、1510年(永正7年)に北条早雲が岡崎城
(下記)を攻略した際にも在陣、さらに上杉謙信が1560年(永禄3年)に小田原城(神奈川県小田原市)へ攻めかけた時にも
逗留したと言う。王城山城はこの高麗山城に関連したものと推測するのが妥当な線と見られているが、それにしては規模が
小さく、地勢的に見ても高麗山との連携は薄いように思える。一方、高麗を「こま」と読む事からも判るように、古代からこの
地域は渡来人が多く居住した場所なので、高麗山城や王城山城を古代朝鮮式山城と推測する説もあるようだが、城郭の
縄張りが全く違う上、上記の通り高麗山城は戦国期の陣城である為、この指摘は的外れでござろう。尤も、渡来人移住に
伴う遺跡が大磯近辺に多いのは事実である。要は先入観で時代を混同せぬ心構えが肝心という事か。
王城山の山頂には石碑(写真)があるものの、これは「明治天皇観漁記念碑」で城郭に関連したものでも山頂を明示した
ものでもない。加えて、王城山中には安田財閥の総帥・安田善次郎が寄進した石造布袋像があるという。安田は湘南平の
平場が「大千畳敷」と呼ばれていた事に対し、王城山を「小千畳敷」と名付けた。このように、王城山は明治以降の逸話が
多く残り、現在では神奈川県企業庁水道局の大磯高区配水池が山頂脇にある為、ここが城跡である事を示すものは何も
ない。しかし良く見れば「観漁碑」のある山頂は広大な削平地であり、配水池はその下段平場である事に気づくだろう。即ち
山頂部一帯が主郭部であり、そこは上下2段の曲輪構成になっていた訳だ。そこから山腹へと下って行けば、鬱蒼とした
藪の中には空堀や土塁、腰曲輪といった城郭構造物が埋もれている。また、主郭の西側にある起伏は二ノ郭と見られ、
これまた風化した遺構が散見され申す。しかし、これらの遺構は総じて放置状態にあるため、全体像はあまり良く分から
ないのが現状である。とりあえず「新編相模国風土記稿(江戸幕府が編纂した地誌書)」では王城山を「城跡と伝ふ」とあり
周辺にも“堀之内”や“谷戸”と言った城郭に関連する地名がある事から、往時ここに城が構えられていた事だけは確かな
ようでござる。
国道1号線「化粧坂」交差点から脇道(旧街道)へ入って西進、2番目の右折角を北へ向かえば、あとは道なりに王城山へと
通じている。しかしこの道は密集する民家の間を通り抜け、城跡付近へ差しかかるあたりで舗装路ではなくなるので、車で
登城するのはかなり困難でござろう(駐車余地もない)。ちなみに、王城山の隣(北東側)にある山も山頂に水道施設があり
「水道山公園」となっているが、王城山城とは別物なので来訪時には注意。


現存する遺構

堀・土塁・郭群等








相模国 岡崎城

岡崎城址 無量寺

所在地:神奈川県伊勢原市岡崎
■■■*神奈川県平塚市岡崎

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★★■■■
公園整備度:☆■■■■



鎌倉時代〜室町時代にかけて相模国の支配者として名を知られた三浦氏歴代の城郭。当然、その創建は源平争乱期に
遡るのだが、この頃の城館は現在城址とされている浄土宗帰命山無量寺(伊勢原市岡崎、写真)よりも南に位置し平塚市
岡崎にある岡崎小学校・岡崎神社周辺が該当する場所のようだ。
築城者は平安末期の1112年(天永3年)三浦庄司義継の4男に生まれた岡崎四郎義実。義実は鎌倉幕府の成立に大功の
あった三浦大介義明の末弟としても知られており、その剛勇ぶりは“悪四郎(この当時の「悪」は「強い」という意味)”とまで
評される程で、源頼朝が伊豆で挙兵して以来、一貫して臣従。1180年(治承4年)の石橋山合戦では69歳という老齢ながら
奮戦して、嫡子・真田与一義忠を失いながらも頼朝を守り続けた。若年の頃は三浦郡沼田(現在の横須賀市浦賀周辺)に
住み、長じた後、相模国中部の支配を任され大住郡岡崎に領を得て移住、地名から岡崎姓を名乗るようになった。
こうして築かれたのが岡崎城であるが、その正確な築城年代は不明でござる。
現在の平塚市立岡崎小学校・岡崎神社周辺にあったと言われるこの古岡崎城館は、周辺に西海地土腐(さいかちどぶ)と
呼ばれる泥湿地帯を抱えていて、堅固な要害を為していたと伝えられる。上記にある「新編相模国風土記稿」の記載では
「泥土ノ深キコト測ルベカラズ。小雨ノ時モ水堪エテ海地ノ如カリシ故此ノ唱起レリ」とあり、鎌倉時代の騎馬を主体とする
戦術ではこのような泥湿地での戦闘に向かないため、城館を建てるには非常に有効な選地だったのではないだろうか。
こうして岡崎郷の支配権を確立した義実は、鎌倉幕府の幕僚に名を連ねたが、1193年(建久4年)大庭出羽権守景義らと
共に官職を辞し引退し、1200年(正治2年)6月21日に鎌倉由比ガ浜の邸宅で没した。享年89歳。跡を継いだ岡崎(土屋)
義清は1213年(建保元年)の和田合戦において和田左衛門尉義盛へ加勢して敗死。岡崎氏は断絶し、所領の岡崎郷は
近藤左衛門の領有となったのでござる。
この後、しばらく岡崎城に関する史料の記載は途絶えており、次に文献上で現れるのは1455年(康正元年)に三浦時高が
長尾左衛門尉景仲から城を乗っ取った事件でござる。その前年、1454年(享徳3年)から始まった享徳の大乱は、鎌倉公方
(室町体制下、東国支配の長官として鎌倉に置かれた役職)足利成氏が関東管領(鎌倉公方隷下、支配実務を行う役職)
上杉氏と深刻な対立を引き起こし遂に合戦となった事件であるが、この戦乱によって関東では諸勢力が足利方と上杉方に
分かれて対立、景仲と時高は共に上杉氏に加勢し成氏軍と戦っていた。ちなみに時高は岡崎義実の兄・三浦義明から続く
「三浦家本流」の家系で、鎌倉時代を経て室町時代にも足利将軍家から重用され相模国の支配権を認められていた。その
三浦家当主としては鎌倉幕府草創期の栄光を取り戻すべく、相模全土制覇を目標としていたようである。1455年、武蔵国
分倍河原の戦いで景仲は成氏に破れ、相模の所領を放棄して常陸国小栗城(茨城県筑西市)へと撤退。この機を逃さず、
時高は景仲の所領を接収し岡崎城に入ったのだ。以後、岡崎城は三浦氏の城として維持される。
さて、その時高は実子に恵まれず、主家筋である扇谷上杉氏から高救(たかひら、高敬とも)を養子に迎えていたのだが、
後年になって高救が上杉家に復する事となったため、高救の子・義同(よしあつ)を改めて養子とした。ところが時高晩年に
実子が生まれたため家督相続を巡って時高と義同が争う事態が発生した。義同はいったん足下郡に退き曹洞宗阿育王山
総世寺で出家して道寸(どうすん)と号し時高の油断を誘い、1500年(明応9年)9月に三浦家中の同心者や外戚の大森氏
(扇谷上杉氏重臣にして小田原城の築城者)を味方につけ時高の拠る新井城(神奈川県三浦市)に総攻撃をかけたという。
(この戦いは1494年(明応3年)説もあり、信憑性に疑問が多い)
結果、時高は敗死し道寸は独力で三浦家の家督を勝ち取った。道寸は嫡男の弾正少弼義意(よしおき)を新井城に入れて
背後を固め、自らはここ岡崎城を居城に定め、相模経営に本腰を入れるようになる。これにより岡崎城は大改修を受け、
主郭も従前より北側に位置する小高い丘の上に移されたのでござる。これが写真にある無量寺の新城で、現在一般的に
岡崎城の名で通る遺構はこの新城を指している。対する鎌倉期からの旧城館跡は岡崎南部方形囲郭という名称で今は
呼称されるようになった。ともあれ、岡崎城は旧来の城地に加え無量寺郭の新曲輪群が追加され、かなり大規模な城郭と
なったようである。軍記物語「小田原記」では岡崎城について「岡崎の城と申すは、昔し頼朝の御時、三浦大介の弟、岡崎
悪四郎義実が住みし城とぞ聞えし三浦の一門数年住せし処、要害きびしく支度せり」と記され、その由緒と堅城ぶりが音に
聞こえていた事を示している。
ところがこの頃、伊豆から勢力を伸ばし1495年(明応4年)に小田原城を占拠した伊勢新九郎盛時、後の北条早雲が相模
全土支配の野望を掲げ徐々に西から相模中央部へと進出してきていた。早雲の敵は相模・武蔵一帯の上級支配者たる
扇谷上杉氏だったが、その矢面に立たされ実際に戦う立場にあったのは他ならぬ三浦氏であった。斯くて早雲と道寸は
交戦状態に入り、実に17年の長きに渡り戦い続けたのだが遂に1512年(永正9年)8月、岡崎城を落とされ道寸は住吉城
(神奈川県逗子市)に退却。岡崎郷は北条早雲の支配下に入った。この後、4年に渡り早雲と道寸の戦いは続くものの、
住吉城も落とされた三浦方は最終的に新井城で抵抗、落城して全滅する運命であった。
北条氏が得た岡崎城、その後の経歴は詳らかではなくいつしか廃城となったようだ。
現状、三浦期〜北条期にかけての主郭部だった丘の頂部には無量寺が開かれている。この寺の境内、特に墓地からの
眺望は相模平野西部を一望し、丹沢・箱根・富士の山まで見通せる。これを見れば三浦氏が相模制圧の本拠としたのも
納得でき申そう。寺の北西500mほどの所には岡崎義実の墓があるが、その辺りも含めて寺の周囲の山林全域が城の
曲輪群だったようである。一部、田畑となり地形が改変されてしまっている所もあるものの、この山林は手付かずなので
堀・土塁など城の遺構が残されている部分も多い。と言うか、特に史跡整備されている訳でもないので、殆んど藪化して
いる。見たいのは山々だが、城マニアでもおいそれとは入りづらい状況でござるな (^^;
整備すれば素晴らしい遺構が目立つようになると思われるので、何とか状況の改善を希望したいものである。
1969年(昭和44年)2月27日、伊勢原市指定史跡となっている。


現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域は市指定史跡








相模国 大森氏頼居館

大森氏頼居館址 紫雲寺

所在地:神奈川県平塚市岡崎

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:☆■■■■



矢崎城とも。相模中央部を押さえる城として大森氏頼が築いた城館でござる。上記した岡崎南部方形囲郭史跡のすぐ隣、
曹洞宗大森山紫雲寺境内がその場所。大森氏は鎌倉時代に執権(幕政の実質的最高権力者)北条氏の被官だった家だが
その動向が注目されるのは室町期になってからである。室町幕府の東国支配体制において、鎌倉公方足利氏と関東管領
上杉氏、それに京都の将軍家との間では様々な確執があり、この3者は時に争い時に援助する関係にして、その複雑さから
幾多の戦乱が巻き起こっていたのだが、1416年(応永23年)前関東管領・上杉禅秀(ぜんしゅう)は自らの野望を叶える為
主君であるはずの鎌倉公方・足利持氏(もちうじ)に反旗を翻した。世に言う「上杉禅秀の乱」である。この戦いでは、常に
反目していた鎌倉公方家と足利将軍家が支援関係になり共同して反逆者・禅秀を倒した事が特筆されるが、駿河国東部を
領有していた大森頼明・頼春親子は持氏配下として活躍、抜群の功績を挙げた。これを愛でた持氏は翌1417年(応永24年)
正月、論功として大森氏に相模川以西の相模国を与え、その領土は西相模・箱根近辺・駿河東部にまたがる広大なものと
なった。頼明・頼春(いずれも信濃守と称す)の後継には伊豆守憲頼(頼春の嫡男)が立ち、その領を相続している。
ところがこの後、上杉氏の勢力が伸張し鎌倉公方家は衰退。持氏の後を継いだ成氏は闘争に敗れ鎌倉を離脱、下総国
古河(茨城県古河市)へ移居し、独自に古河公方を名乗った。関東地方の実質的な支配権は上杉氏へ移行したのだが、
その上杉氏も本家の山内上杉氏と庶家の扇谷上杉氏で勢力争いを起こし、関東の統治体制は麻の如く乱れたのだった。
この過程において鎌倉(古河)公方方に属していた憲頼は勢力を失い、大森氏の総領権は憲頼の兄にして扇谷上杉氏の
重臣であった信濃守氏頼へと移る。氏頼は名将として有名で、その力量は同じく扇谷上杉氏家臣であった軍師・太田道灌
(江戸城(東京都千代田区)の築城者)と並び評される程であった。氏頼と道灌の活躍により、扇谷上杉氏は隆盛を得る。
と同時に、大森氏もまた氏頼の働きで最盛期を迎えるようになったのでござる。
斯くして大森氏の領土は氏頼が統治する事となり、その本拠は小田原に置かれるようになった。かの堅城、小田原城の
誕生である。奇しくも江戸城と小田原城、関東を代表する2大名城が、道灌と氏頼という扇谷上杉配下の両巨頭から作り
出された事は歴史の必然なのか、それとも単なる偶然なのであろうか。氏頼の存命中は流石の北条早雲も小田原侵攻が
できなかったとも言われている。
さてそんな氏頼は小田原築城に先立つ若き頃、相模中部の要として、また修禅を兼ねてここ岡崎郷に居館を築いていた。
それがここ、平塚市岡崎の大森氏頼館跡である。氏頼は娘を岡崎城の三浦義同(道寸)に嫁がせており、共に扇谷上杉氏
隷下として相模国統治に心を砕いていたのだ。このため、古岡崎城と隣り合わせである当地に居館を築いた。大森氏と
三浦氏が如何に親密な関係であったかが覗えよう。道寸が家督を奪取し、岡崎城を無量寺郭に拡張できたのも実力者
氏頼の後援あっての事だ。
智徳の士・氏頼は隠居後に寄栖庵と号し後嗣・藤頼の後見に当たっていたのだが1494年(明応3年)8月26日、小田原城で
没した。かくてこの地に大森山紫雲寺が創立され高僧實堂宗梅禅師を開山とし、氏頼を開基とした。
現状の紫雲寺は完全に一般の寺院で、かつての城郭遺構らしいものは特に見当たらない。が、墓地(←ここもか)近辺の
敷地裏手は何となく傾斜地になっており、武家居館だった雰囲気だけは覗える。ちなみにこの紫雲寺、明治の学制発布で
坊舎を学校として使用した経歴がある。1872年(明治5年)8月3日に明治政府は学制頒布、これに基き翌1873年(明治6年)
紫雲寺を仮校舎にして進修館を創設。1886年(明治19年)進修館は岡崎小学校と改称し、1893年(明治26年)に尋常高等
岡崎小学校として校舎を新築し移転するまで用いられた。







相模国 真田城

真田城跡 天徳寺

所在地:神奈川県平塚市真田

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★☆■■■
公園整備度:☆■■■■



別名で実田(真田)要害。上記した岡崎城の主・岡崎四郎義実の嫡男である真田与一義忠が城館を構えた事に始まる城。
「真田」の姓および地名は江戸期になってから用いられるようになった表記であり、鎌倉期の文献上では「実田」あるいは
「佐奈田」とされ申す。また、義忠は岡崎義実の子であり、義実もまた実家は三浦氏であるため「三浦義忠」「岡崎義忠」と
表される事もあるが、この項では便宜上「真田」で統一しておく。
三浦本家が根拠地とした三浦半島から離れた大住郡岡崎に封を得て、当地で独立勢力となった岡崎義実。彼は岡崎城を
本拠としていたが、嫡子の義忠には岡崎より西へ行った真田に領地を与えた。斯くして義忠は真田に改姓し新たな居館を
構えたのでござる。これが真田城の創始だが正確な年代は不明である。
義実・義忠父子が勢力を広げた時代は源平合戦が始まる時期に重なる。この頃、伊豆の蛭ヶ小島(静岡県伊豆の国市)で
流刑生活を送っていた源頼朝は京の都からもたらされる平家暴政の情報やそれに伴う平家打倒の命令に基づき1180年、
挙兵の意を固めた。しかし当時の頼朝は、源氏の御曹司とは言え山中に閑居する罪人に過ぎず、まとまった兵を調達する
力は無かった。このため彼は父・義朝以来の臣と密かに通じて募兵を図るが、平氏の監視網は厳しく特に信の置ける者に
しか挙兵の決意は明かせなかったのである。こうした中で選ばれたのが土肥実平(といさねひら、真鶴半島の豪族)と岡崎
義実・義忠で、頼朝・実平・義実・義忠は共同で山木判官兼隆(やまきかねたか、平氏方の将)館を襲撃し、反平氏の炎を
灯したのである。ところが直後、平氏方の追討軍が襲来。頼朝は三浦氏・和田氏らの軍勢と合流する予定であったが間に
合わず、独力で戦わざるを得なくなった。世に言う「石橋山の合戦」である。当然、頼朝は大敗し兵は散り散りになり壊走。
この戦いで義忠は頼朝の盾となるべく死を覚悟の奮戦をし、その目論見通り、長尾定景に討たれたのでござる。義忠の
討死によって脱出した頼朝は海路で房総半島へ落ち延び反撃体制を整え、関東一円を掌握。反平氏の炎は劫火となり
遂に壇ノ浦で平家一党を滅ぼすに至ったが、忠義の士・義忠を回顧するたび頼朝は涙を流して慟哭したという。義忠の子
実忠が跡を継ぎ、祖父・義実以来の岡崎家も相続したが、鎌倉幕府の権力闘争において1213年の和田合戦で敗北。
ここに真田(岡崎)家は断絶し、おそらくこの時に真田城も廃絶された筈である。
ただ、平安末期〜鎌倉初期の真田城に関しては伝承のみで詳細な史料や出土品はない。
時は移って戦国時代。小田原城主であった大森藤頼(氏頼の子)は1495年に伊勢新九郎(北条早雲)から攻撃を受け、
城を失った。音に聞こえた堅城・小田原城を手にした事で早雲は磐石の基盤固めを為し相模全土制覇を進めていくが、
一方、小田原を落ち延びた藤頼の向かった先が、ここ真田城であったと言う。岡崎城の勢力圏内にあった真田城は、
恐らく三浦義同によって改修を受け中世城郭化されていたのだろう。或いは、藤頼自身が入城に際して改修したと見る
向きもある。いずれにせよ、藤頼はこの城に入って再起を期す事となる。
しかし伸張著しい早雲は追撃の手を緩めず、早くも小田原入城の翌年である1496年(明応5年)から真田城への攻撃を
開始している(年代については諸説あり)。真田城をめぐる攻防戦は3年に及んだが、1498年(明応7年)に落城し藤頼は
自害して果てた、というのが通説でござる。ただし、藤頼は生き延びて1503年(文亀3年)に没したと言う説がある上に、
最近では早雲の小田原攻略が1495年よりも後だという見解も有力視されつつあり、真田城の戦いについては確定的な
事が言えない状況にある。このため、平塚市博物館では早雲が攻めた真田城の事を「山内上杉顕定の城」として含みを
持たせている。
さて、早雲の戦いは藤頼を倒した後に義同との対決へと変化していく。その攻防は上記岡崎城の項に記した通りだが、
真田城は早雲方の城として機能した。早雲は時に扇谷上杉氏を支援し山内上杉氏との対立を招き、またある時は扇谷
上杉氏への攻撃を行う事で両上杉氏の共倒れを図り南関東での覇権を確立していった訳だが、記録によれば1504年
(文亀4年)山内上杉顕定とその同盟者である越後守護代・長尾弾正左衛門尉能景(よしかげ)の連合軍が実田(真田)
要害を陥落させた、とある。この当時、早雲は扇谷上杉氏と連合して山内上杉方との戦闘状態にあったため、真田城が
攻略目標とされたようだ。
ともあれ、一進一退の攻防を繰り返しながら早雲は着実に領土を拡大、扇谷上杉氏配下であった三浦氏を打倒、さらに
両上杉氏をも凌駕する勢力を築き上げていく。後北条氏は相模を制した後、武蔵国や上野国まで進撃していくが、その
頃になると、前線から離れた後方地帯となった真田城の重要性は薄れ、廃城とされたらしい。「新編相模国風土記稿」で
真田城跡に建立された曹洞宗萬種山天徳寺の創建は1574年(天正2年)とある為、この頃には既に城が無くなっていた
のでござろう。
現在、寺の墓地脇に「与一塚」と呼ばれる土盛があり、その近辺に若干の土塁が残る。与一塚は真田与一在館時代の
櫓台であるという伝承があったものの、寺伝を精査した結果江戸末期の1864年(元治元年)に構築されたものだと判明
しており、この伝承は否定された。そもそも、義忠時代の真田館は寺の境内のみを敷地とした方形館と推測されるため
与一塚のあたりは完全に館の外、という事になる。よって、与一塚は城郭の遺構ではない。それに連なる土塁は、戦国
時代の真田城で築かれたものと言える。
こうした戦国期真田城の遺構で最も見事なものは、城の周囲を囲う堀であろう。寺と墓地、さらに周辺何軒かの住宅を
含めた範囲をぐるりと取り囲むように堀の痕跡が検出されている。この堀は大半が宅地造成や道路敷設で破壊されたが
今も部分的にその名残を目にする事ができるようになってござる。16世紀初頭の城郭としてはかなり大規模な堀であり、
かつての真田城が相当な規模を誇っていた事が想像できよう。墓地(寺の裏にある)が「そがくるわ」と呼ばれた主郭部、
その周囲に「こしまき」と言う付曲輪(帯曲輪か?)が縄張りされていたという伝承が伝えられている。
とは言え、現況は一般民家が建ち並ぶ静かな住宅街の中。大々的に見学するのは差し控えたい感がある。
なお、大森氏頼館の紫雲寺と同様に天徳寺も明治の学制発布に伴って真田学校という名の小学校が設置されてござる。
どこの城跡も似たような経緯を辿るものでござるな(笑)


現存する遺構

堀・土塁・郭群等








相模国 城所城

城所城跡 浄心寺

所在地:神奈川県平塚市城所

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:☆■■■■



岡崎城や真田城と同様に、城所(きどころ)城の創始も源平争乱期。相模国大住郡糟屋荘(神奈川県伊勢原市糟屋)の
荘官であった糟屋豊後守盛久、その4男・四郎盛直が木所(現在の城所、旧来はこう記したらしい)へと移住して城館を
構えたのが城所城の由来とされる。築城年代は不明でござるが、盛直の父・盛久は石橋山の合戦で平氏方として参戦、
後に頼朝配下となった人物であるから、盛直が木所へやってきたのもその前後と推測されよう。
糟谷氏の起源は藤原摂関家のうち北家・藤原良方(良房の弟)流と言われ、良方の子・庄大夫元方が糟屋荘に土着した
事が始まりとされる。盛久は元方の5代後裔であり、盛直は城所へ居を移して以来改姓し城所盛直を称した人物だった。
なお、江戸幕府が編纂した家譜「寛政重修諸家譜」では盛直の名を盛員(もりかず)としてござる。盛員の後、城所氏の
当主は有政が継いだとあるが、この後の城所氏に関する記録は途絶えている。
再び城所氏の名が出るのは室町時代初期の事。観応年間(1350年〜1352年)に城所を領したと見られる城所藤五郎
正揚が、1350年(正平5年/観応元年)石見国(現在の島根県西部)で発生した三角(みすみ)入道の乱に出征し、足利
尊氏の腹心・高師泰(こうのもろやす)に従って抜群の軍功を挙げる。これを賞し、正揚の嫡男・直賢が尊氏から三河国
市場郷(愛知県豊田市)に所領を与えられた。斯くして城所城は廃され、城所一族は三河へと移ったが有政と正揚の
関連は明らかでなく、この間に城所城がどう維持されたかは不明だ。
さて、戦国期に入ると城所城は岡崎城の出城として用いられたと推測される。岡崎城(岡崎新城、無量寺)のほぼ真東
1km弱の位置にあるのが当城。岡崎城と大森氏頼館は600m程度、同じく岡崎城(新城)と岡崎南部方形囲郭(旧城)も
800m程にあり、無量寺を中心とする1km圏内にこれらの城館群は全て収まる計算になる。これに対し、後北条方の城と
なった真田城と岡崎城の距離は2.6km。攻める後北条勢と守る扇谷上杉(三浦)勢の一線が、この間に引かれた訳だ。
程無く岡崎城が落ち三浦義同は新井城へ退去、岡崎周辺は後北条氏の勢力圏に含まれる。城所城も同じ運命を辿り
いつしか廃城となったようだ。
江戸時代、城址には曹洞宗明王山浄心寺が建てられ幕府から手厚く保護された。元来の(城所盛直居館と推定される)
城地は寺の境内となり、その裏山である戦時の城塞部(戦国期の城所城主郭部)は大半が墓地に、山腹や麓の部分は
農耕地にされて候。昭和までこの状況が続き、城山は「新編相模国風土記稿」浄心寺の項に「方二町ノ許、今畑トナル、
何人ノ居城タル事ヲ伝ヘズ、或説ニ左大臣冬嗣八世ノ孫豊後守盛久ガ四男城所四郎盛直ノ居城タリシト云。按ズルニ
観応ノ頃、城所藤五郎正揚当所ニ住セシ由、家系ニ見エタレバ、城所氏世々ノ居城ナリシナルベシ。其子孫藤五郎
直賢ノ時、三州ニ移レリ」と記載された事を根拠に、永らく城跡と認知されていた。しかし具体的に縄張りや城の詳細を
示した史料はないので城山自体が城所城の存在を現していた訳だが、1966年(昭和41年)から新幹線線路敷設工事の
盛土を採土すべくこの山が切り崩されてしまう。「日本城郭体系」城所城の頁には当時の城山から推測された縄張図が
掲載され、それに拠ればかなり立派な城砦であった事が見て取れるも、今や城山は跡形も無く消え去り、農地や宅地に
変貌している。浄心寺の墓地だけがかつての隆起部を残す地帯、ここから南方を眺めればそれなりの眺望が開けるも
もはや城跡の縁を見受ける事は出来ない。残念ながら、昭和高度経済成長期に葬られた城の典型例と言えそうだ。
なお、墓地の脇に土塁状の土盛が見られるものの、これは後年のもので中世以来の城郭遺構ではないとの事。ここで
歴史的痕跡を見つけるならばむしろ浄心寺自体で、徳川幕府の庇護を受けただけあって寺の境内には三ツ葉葵紋が
多数用いられてござる。また、浄心寺の西側にある貴船神社は城所氏の屋敷内に鎮守として祀られていた社を起源と
しているそうな。







相模国 山下長者屋敷

山下長者屋敷跡 土塁

所在地:神奈川県平塚市山下

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★☆■■■
公園整備度:☆■■■■



平塚市西部、湘南平の北側にある山下地区の中にあった武家居館址。神奈川県道609号線「高根」交差点のすぐ北側
住宅街の中の細い路地が入り組んでいる一角に写真の土塁が残されている。これがかつての山下長者屋敷を囲って
いた土塁の断片で、ブロックで固められた斜面がその土塁の断面に当たる。御覧の通りかなりの高さと幅を有しており
ブロックになっている事でむしろハッキリと形状が確認できて面白うござる。現地案内板に拠れば、中世土豪の拠点で
あった史跡で、敷地は110m四方の面積を図り土塁の他に空堀も残ると書かれている。高麗山から緩やかに花水川や
その支流・河内川へと延びる微高台地上に位置し、鎌倉武士の館として成立した単郭方形居館の形式になっている。
但し、この場所は完全に民家の敷地内なので見学には配慮が必要。道路も狭いので、通行にも注意したい。
諸般の史料には山下長者の邸址とか、宮内判官長家(平塚に在住した武士)やその一族が入っていたと伝わるものの
山下長者なる者の来歴や、宮内判官がどこまで勢力を伸ばしていたのかは全然分からない。あるいは1510年に北条
早雲が権現山の戦い(神奈川県横浜市神奈川区で行われた合戦)に関連して「住吉要害」を構築したが、それがこの
山下長者屋敷を再利用したものだと考える向きもある。更には1561年(永禄4年)長尾景虎(上杉謙信)が小田原城を
攻略した際「高麗山のふもと、山下と云所に陣を取」ったとあり、これまた山下長者屋敷との関連が推測されるのだが
詳細は良く分からない。むしろ、この地の伝承として知られるのは曽我兄弟の仇討ちに出てくる虎女の逸話であろう。
亡き父の仇討ちを狙う曽我兄弟は、時節を耐え忍びながら好機を待っていた中、兄の十郎祐成(すけなり)は大磯の
虎御前と恋仲になる。しかし仇討ちを成し遂げた祐成は追手に囲まれて斬り死にしてしまった。残された虎は世を儚み
尼となって隠棲し、余生を祐成を弔って暮らしたと云う。その閑居先がこの山下長者屋敷のあった地だとされている。
物語としての「曽我物語」では虎御前の母が宮内判官家永の妻・夜叉王だとされており、その縁からここを頼ったらしく
宮内判官“家永”つまり“長家”の居館であった山下長者屋敷という説がこれで繋がる訳である。物語として脚色された
伝承に信憑性を疑う向きもあろうが、一方で虎御前は鎌倉幕府の公式記録「吾妻鑑(あづまかがみ)」にも曽我祐成の
証人として召し出された記載があり、実在していた事は確実だ。物語の中にも真実が隠されており、それを繋ぐ糸は
女性の存在―――歴史の裏を読み解けば、そうした女人が数多く居た事だろう。


現存する遺構

土塁





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