平安末期の武家居館?後北条氏の大改修?実像は不詳■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
平安時代の関東武士、大庭氏が居館としたのが大庭城の起こり。大庭氏は桓武平家の血を受け継ぐ鎌倉権五郎景政が
ここ大庭に土着した家系で、相模川〜藤沢にかけての地域一帯を開墾しその所領を伊勢神宮に寄進したとされる。景政
一族が管理するこの伊勢神宮荘園が大庭御厨(おおばみくりや)の創始でござれば、それ以来、景政は地名から採って
大庭氏と改姓した。大庭一族はこの地に深く根差し勢力を蓄え、景政の曾孫・大庭景義(かげよし)は源頼朝の鎌倉幕府
設立に大きな功績があった。有力御家人となった景義は、懐島(ふところじま)郷に領を得てそこに新たな居館を構えたが
(懐島城、下記)、大庭の地も引き続き支配していたようである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国時代になると、扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の宿老にして江戸城(東京都千代田区)の築城で有名な名将・太田道灌
(どうかん)が相模国中央部の押さえとして大庭居館跡に城郭を築き上げたと言われている。これが現在に残る大庭城の
構築と言えよう。道灌の死後、扇谷上杉氏の没落に伴って1512年(永正9年)伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)が攻め
落とす。これ以後、小田原の後北条氏勢力下に入り、逐次整備維持が行われたものの1590年(天正18年)の豊臣秀吉
来攻によって廃城となった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
丘陵地帯である大庭地区の中でも特に独立した山となっている場所が城跡。結果として四周はすべて谷となっていて、
これが大規模な切岸となっている。恐らく当時は城山の周辺平地が全て水田(つまり低湿地)とされ、攻め寄せる敵軍に
対する天然の外濠を為していたのであろう。また、城山内部も縦横に堀が作られ、構造を複雑にしている。曲輪内には
建物の礎石も検出され、堅牢な建築物が建てられていたようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
縄張りはT郭(主郭)・U郭・V郭・W郭が一列に並ぶ連郭式。T郭が一番狭く、W郭へ向かうにつれて順にその敷地は
大きくなっていた。各曲輪間の空堀ではそこかしこに屈曲が構えられ、横矢が掛かるようになっている。また、外縁部には
「比高二重土塁」と呼ばれる土塁と横堀を二重に巡らす構造も有し、そこから竪堀に落ちる仕掛けも構えられているが、
この構造が後北条時代の造作によるものなのか、それ以前の上杉時代のものなのかは判然としてござらぬ。従来から
唱えられていた旧説では「比高二重土塁や折れと言えば後北条氏」というのが城郭縄張論での常識となっていたのだが
近年の再検証でこれは否定され、上杉時代からの関東城郭でもこのような屈曲が用いられていたと再考されたためだ。
さらに言えば、後北条氏の統治体制において大庭城の位置は本拠である小田原城(神奈川県小田原市)に近すぎて、
前線城郭として使われたのは最初期のごく僅かな期間に限られるからである。つまり、後北条氏が大庭城をどの程度に
改修していたか不明瞭なのだ。考えれば考えるほど謎めいてくる大庭城であるが、相模中部においてこれだけの規模を
誇る城は少なく、やはり後北条氏がそれなりに使用していた実績は否定できないだろう。■■■■■■■■■■■■■
昭和の住宅地開発により、残念ながらW郭の大半が削り取られてしまったが、残る部分は1985年(昭和60年)3月31日に
開園した大庭城址公園として整備されバラ園なども設けられた市民の憩いの場。桜の名所として有名であり、週末には
家族連れ等で賑わいをみせている。「公園の敷地」としては完全に整地されてしまい、一見では遺構らしきものを見つけ
られないが、一歩奥に踏み込んで堀に入ってみれば見事な残存具合に息を呑む。主郭外部の下段には比高二重土塁の
遺構も残っている為、城らしい部分を見たい方は、そちらへ向かわれる事をお勧めする。ただし、公園としての立入区域を
外れるので、くれぐれも事故や史跡破壊などの無いように!■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
長らく史跡指定はされてこなかったが、ようやく2021年(令和3年)12月1日に藤沢市指定史跡となった。■■■■■■■■
|