天下統一の総仕上げ、小田原征伐■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「太閤の一夜城」として有名な石垣山城。墨俣一夜城(岐阜県大垣市)と並んで、豊臣秀吉による一夜城伝説の舞台として名が
知られている。太閤一夜城、或いは石垣山一夜城などと呼ばれるが、ここでは歴史用語に基づき石垣山城の名称で統一する。
戦国時代、相模国(現在の神奈川県西南部)・伊豆国(伊豆半島の大半)を基盤に後北条氏は関東一円に勢力を保っていた。
小田原城(小田原市内)を本拠として北進政策を採り領土を拡大、近隣勢力を圧倒して上野国(群馬県)〜下野国(栃木県)〜
下総国(千葉県北部)までも支配下に収め、中央政界から独立した一大“関東帝国”を築き上げていた。一方、後北条氏が最大
版図を構築していた頃、天下の趨勢を握りつつあったのが関白に任官された豊臣秀吉だった。豊臣氏の威勢は西国を併呑し
東国へと矛先を向け、豊臣影響下の領土と後北条領は境界を接するようになる。秀吉は後北条氏に対し再三に渡って服属を
要求するものの、当時の後北条氏総帥・左京大夫氏政(うじまさ、後北条4代当主)は関東の自主独立を目指し、これを頑なに
拒否していた。日ごとに軋轢の高まる両者の緊張関係、そうした中で上野名胡桃(なぐるみ)城(群馬県利根郡みなかみ町)を
めぐる争奪戦が発生。この城は豊臣氏に従う真田氏の城であったが、上野国全土制圧を標榜する後北条氏の臣・猪俣能登守
邦憲(いのまたくにのり)が奪取したのでござる。この「名胡桃事件」を契機として秀吉は後北条氏の武力征伐を決定、開戦が
迫った。これに対し後北条方は領国内に“総動員令”をかけて対抗、領内諸城での籠城ならびに小田原城での抵抗を図る。■
斯くして1590年(天正18年)3月、豊臣軍は大挙して関東へ侵攻。後北条方の城はほとんどが各個撃破され、氏政の目論みは
外れたが、天下の巨城・小田原城はやはり落とせなかった。この当時の小田原城は町全体を囲む“総構”と呼ばれる土塁防備
施設で守られており、その総延長は9km以上に及んでいる。まさしく戦国時代最大の城郭であり、豊臣軍とて総構の内部まで
侵攻するのは難しい状況であった。よって、攻城軍は小田原の町を全周から包囲、長期戦も辞さぬ覚悟で圧力を加え続ける
情勢になる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一夜の城、後北条方が知らぬ訳は無いが…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうした状況下、秀吉が構築したのがこの石垣山城だ。着陣当初は箱根湯本に本陣を構えた秀吉であったが、長期包囲戦の
為に陣城を構える計略を立てた。その頃、圧倒的大軍に囲まれた後北条方の中にさしもの小田原城とてこの軍には敵わぬと
疑り、密かに内応を図る将たちが出始め申した。後北条氏の譜代重臣である家老・松田左衛門佐憲秀(のりひで)もその1人で
秀吉に「小田原の南西にある笠懸山(かさがけやま)からは城内が俯瞰できる」と情報を流した。これに従って秀吉は笠懸山に
陣城を築き始めるのでござる。延べ4万人を動員し4月に着工〜6月27日に完成とされているので実際の築城工事は80余日に
及んだようだが、小田原から隠れるように密かに進めた作業の後、頃合を見計らって周囲の木々を一斉に切り倒して城の姿を
露にし、まるで一夜で城を建てたかのように見せかけた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その全容は総石垣造りで(これが「笠懸山」改め「石垣山」の由来である)櫓が林立、天守までも備えた大城で、およそ陣城とは
程遠い恒久城郭であった。この時、まだ工事作業中の櫓には紙を貼り付けて白壁であるように見せかけたという逸話も残るが
兎に角、小田原城の籠城軍はこれを見て動揺。一気に戦意を喪失し開城するに至った。攻められていた後北条方とて、自分の
庭先なので秀吉が陣城を作っていたのは推測できた事だろうが、関東初の近世城郭の登場は衝撃的で、よもやこれ程の城が
目の前に現れるとは思っていなかったのだろう。“一夜城伝説”は天下人・秀吉の偉業として誇張された部分も多くある筈だが、
石垣山城の出現は確かに後北条氏を屈服させる効果をもたらした。恒久城郭が作られ、兵站も途切れずに、全国の諸大名が
続々と集結する状況となれば、もはや小田原城だけが延々と籠城を行っても無意味だからである。■■■■■■■■■■■
陣城とは言い難い恒久城郭■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
単なる掻揚げの城ではない本格的な城であった石垣山城は、笠懸山の山頂部にあたる場所に5層と想像される天守を揚げ、
その直下を削平して本丸を構築。天守台付近の標高は261.5m、小田原城の本丸からは227mも高い位置にある。本丸の北東
方向、即ち小田原方面へ向けて二ノ丸・三ノ丸を階段状に配した梯郭式の縄張りを基本として、本丸の側面を防御する形で
南曲輪、本丸背後の防備に西曲輪と出丸を構えている。特に南曲輪から二ノ丸隅部を経て本丸へ至る道は、多重の折れや
枡形を用い非常に技巧的な防御を図っている。その一方、出丸は構築途中のまま終戦を迎えたようで未完成の状態だった。
陣城としてはあまりにも広大な縄張りで、城域は東西およそ280m×南北550mにも達する。数十万の軍を擁し、関白の武威を
見せ付ける為、これ程までに大きな城となったのだろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
圧巻なのは二ノ丸脇にある井戸曲輪で、水脈に当たるまで深く掘り下げた井戸穴がまるで蟻地獄の穴のようにとぐろを巻いて
地の底へと沈み込む。無論、石垣山の名の如くこうした曲輪群は殆ど全て石垣で固められているが、この井戸も例外ではなく
とても見事な造形美を醸し出すように石垣が組まれた。井戸曲輪周辺は小田原から見て山並みの裏側にあたり、敵兵からは
見られる場所ではないにも拘らず精緻な石組みを施されている。もちろん、崩落を防ぐ為の強固な設備である事は言うまでも
無いが、秀吉は小田原攻城戦において、全国の諸大名を石垣山城に集結させ臣従の決意を固めさせる政治的意図も持って
いたと考えられており、こうした諸大名に対し「秀吉は陣城と言えど豪壮な巨大城郭を構える圧倒的戦力を持っている」と喧伝
する格好の材料にしたのだ。事実、豊臣軍は武将の妻子も石垣山へ参集する事を許され“余裕の攻城戦”を演出した訳だが、
冷静に考えればおよそ「戦場」としては有り得ぬ話で、石垣山城は小田原攻囲よりも豊臣政権の基盤固めに用いた城だったと
言えよう。秀吉自身も側室の淀殿を石垣山へ呼び寄せ、諸大名共々茶会に興じて小田原城の陥落を待ったと言う。攻められた
後北条方としてはこれ以上ない屈辱であるが、このような茶会においても井戸曲輪から湧き出た水が使われていたのだから、
井戸曲輪の重要性が窺える。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
これらの石垣は秀吉が畿内から派遣させた石工集団(いわゆる穴太衆)によって築かれたもので、野面積みであるが高く強く
組み上げられてござった。また、松田憲秀の通報通りこの山からは小田原城内が一望でき、特に三ノ丸の突端からは眼下に
小田原の町、さらに三浦半島や房総半島までも見渡す事が可能だった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
“政治の舞台”として存在感を出した陣城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
石垣山城の完成から間もない7月5日に小田原城は開城、後北条氏は降伏する。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
開戦前から豊臣軍との交戦を無益と考えていた(と伝わる)5代・左京大夫氏直(氏政嫡子)は剃髪の上、高野山へ追放処分と
されたが、主戦派だった氏政とその弟・陸奥守氏照(八王子城(東京都八王子市)主)は切腹に処せられた。また、後北条譜代
家臣にありながら降伏・内応を図ろうとした大道寺駿河守政繁(だいどうじまさしげ)や松田憲秀らは秀吉の勘気に触れて同じく
処断される。松田憲秀は、結局のところ秀吉に上手くあしらわれただけであった。その一方、最後まで後北条氏に従った家臣、
或いは開戦前から両軍の融和を望んでいた者たちは赦され、主だった者は秀吉によって新たな関東の太守に任じられた徳川
家康に召抱えられる。優れた官僚制機構を擁し、5代96年に亘り東国を支配した小田原後北条氏の統治体制はこのようにして
徳川家に組み込まれ、後に江戸幕府265年の太平を支える事となった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さらに秀吉は小田原征伐を以って日本全国の統一を完成、それまで影響下になかった東北地方の諸大名に対しても細かな
仕置きを行う。秀吉に従わなかった大小名らは軒並み改易され、重要拠点には豊臣政権肝煎りの有力大名が配されるように
なったが、こうした裁断は総て石垣山城内で行われたものである。近年の学説では、戦国時代の端緒は北条早雲が国獲りを
行った時に始まるとされる(従来の説では応仁の乱とされた)ので、戦国の世は小田原に始まり小田原に終わったと言っても
過言ではない。秀吉は石垣山城で大半の命令を発した後、実際に奥州へ赴いて仕置きを実行している。■■■■■■■■■
廃城時期に波紋を投げかける「天正19年」銘の瓦■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて問題はその後の石垣山城である。従来、小田原征伐の為の陣城として構築されたこの城は、秀吉の退去を以って役目を
終えて廃城になったと考えられていた。ところが最近の発掘調査によれば石垣山城址から「天正19年」銘の瓦が出土したので
ある。天正19年、つまり1591年、小田原開城の翌年だ。石垣山城の建築物に1591年製造の瓦が載っていたのなら、少なくとも
小田原戦役の翌年まで造成が行われた事になる。これに基づき、最新の学説では石垣山城は陣城のみならずその後の統治
城郭として用いる計算があったのではないかと考えられ始めた。後北条氏が約100年に亘って“関東の首府”とした小田原の
町は重要拠点である。豊臣政権としてもこの町を確保する事は必要不可欠であった。しかし、それまでの統治者が使っていた
小田原城をそのまま継承するのは天下人としての権威を損なう。よって秀吉は関東全域の監視所となる新たな城を小田原に
築き直し、その城を以って豊臣政権の威光を広めようと目論んだ訳で、それに適う城として作られたのがこの城だと言うのだ。
関東の支配は徳川家康に任せたが、その一方で秀吉直属の“橋頭堡”も残しておき、有事の際には東国の一大根拠地として
使う為、石垣山城は簡単に廃さなかったと考えられる。となれば、巷説に囁かれる“家康を江戸に左遷し、失態を招かせる”と
いう秀吉の策略説もあながち誤りではなくなる事になろう。ところが実際には、家康は江戸で見事に関東の統治を成し遂げ、
石垣山城の有用性はなくなった。よって、徳川氏が関東の支配体制を磐石にした頃、石垣山城が廃城になったと想像できる。
尤も「天正19年」銘の瓦が出ただけでここまで推測するのは行き過ぎなのかもしれないが…。■■■■■■■■■■■■■
歴史公園となった今、有名パティスリーが隣に(笑)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、江戸時代になると完全に廃城とされたようだが、小田原藩によって石垣山は御留山(立入禁止の山)とされていた。
1720年(享保5年)小田原藩によって石垣山城の絵図が作成されており、秀吉来寇から130年を経ても猶この山が戦略拠点で
あると認識されていたようでござる。近代に入り1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で城址の石垣が大規模崩落を起こし
現在に至っているが、つまりそれまでは建物こそ滅失したものの石垣造りの縄張りは健在だった事になる。■■■■■■■■
今の石垣山は非常に静かな山となり、かつて大軍が埋め尽くした喧騒は嘘のようだ。箱根山塊の隅部にあるこの山は、1936年
(昭和11年)2月1日に指定された富士箱根伊豆国立公園内に含まれ、城跡のうち5.8haの面積が石垣山一夜城歴史公園として
整備されてござる。もちろん、城跡そのものも1959年(昭和34年)5月13日に国の史跡と指定され、2006年(平成18年)1月28日
追指定を受け、四季折々の景色を楽しめる観光名所になっている。上記の関東大震災で(特に本丸南側の)石垣が崩れては
いるが、井戸曲輪などでは現在でも破損の無い良好な状態で遺構が維持されている。その井戸からは今でも少量ながら水が
湧き出ている(関東大震災で地下水流が変わったせい?往時はもっと多かった筈)。また、秀吉の来寇時と同じく城跡からは
眼下に小田原の町が望め、近世小田原城の復興天守がまるで模型の如く見つけ出せる。これを目当てに観光客が訪れる為
城跡の見学はとても快適である。ただし、公園整備敷地外や石垣の崩落箇所では足場の悪い所も数多くあるので、危険な
行動は慎みたいものでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
国道135号線、早川交差点から山側へと入り、東海道新幹線の高架を潜る位置からさらに脇道へと登っていくのが一般的な
登城路。車を使えば楽だが徒歩でも問題ない。この道すがらには小田原攻城戦において参陣した武将の紹介看板が所々に
立てられているので、石垣山城へ登る前の予備知識として、読みながら歩むのも悪くないであろう。■■■■■■■■■■■
箱根ターンパイクが城のすぐ裏を走っているが、その道からは入城できないので要注意。■■■■■■■■■■■■■■■
公園駐車場の目の前には某有名洋菓子店もあり、むしろそっちの方が一般的には有名?(苦笑)■■■■■■■■■■■■
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