相模国 石垣山城

石垣山城本丸跡

所在地:神奈川県小田原市早川

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★★☆
公園整備度:★★★■■



「太閤の一夜城」として有名な石垣山城。墨俣一夜城(岐阜県大垣市)と並んで、豊臣秀吉による一夜城伝説の舞台として名が
知られている。太閤一夜城、或いは石垣山一夜城などと呼ばれるが、ここでは歴史用語に基づき石垣山城の名称で統一する。
戦国時代、相模国(現在の神奈川県西南部)・伊豆国(伊豆半島の大半)を基盤に後北条氏は関東一円に勢力を保っていた。
小田原城(小田原市内)を本拠として北進政策を採り領土を拡大、近隣勢力を圧倒して上野国(群馬県)〜下野国(栃木県)〜
下総国(千葉県北部)までも支配下に収め、中央政界から独立した一大“関東帝国”を築き上げていた。一方、後北条氏が最大
版図を構築していた頃、天下の趨勢を握りつつあったのが関白に任官された豊臣秀吉だった。豊臣氏の威勢は西国を併呑し
東国へと矛先を向け、豊臣影響下の領土と後北条領は境界を接するようになる。秀吉は後北条氏に対し再三に渡って服属を
要求するものの、当時の後北条氏総帥・左京大夫氏政(うじまさ、後北条4代当主)は関東の自主独立を目指し、これを頑なに
拒否していた。日ごとに軋轢の高まる両者の緊張関係、そうした中で上野名胡桃(なぐるみ)城(群馬県利根郡みなかみ町)を
めぐる争奪戦が発生。この城は豊臣氏に従う真田氏の城であったが、上野国全土制圧を標榜する後北条氏の臣・猪俣能登守
邦憲(いのまたくにのり)が奪取したのでござる。この「名胡桃事件」を契機として秀吉は後北条氏の武力征伐を決定、開戦が
迫った。これに対し後北条方は領国内に“総動員令”をかけて対抗、領内諸城での籠城ならびに小田原城での抵抗を図る。
斯くして1590年(天正18年)3月、豊臣軍は大挙して関東へ侵攻。後北条方の城はほとんどが各個撃破され、氏政の目論みは
外れたが、天下の巨城・小田原城はやはり落とせなかった。この当時の小田原城は町全体を囲む“総構”と呼ばれる土塁防備
施設で守られており、その総延長は9km以上に及んでいる。まさしく戦国時代最大の城郭であり、豊臣軍とて総構の内部まで
侵攻するのは難しい状況であった。よって、攻城軍は小田原の町を全周から包囲、長期戦も辞さぬ覚悟で圧力を加え続ける
情勢になる。
こうした状況下、秀吉が構築したのがこの石垣山城だ。着陣当初は箱根湯本に本陣を構えた秀吉であったが、長期包囲戦の
為に陣城を構える計略を立てた。その頃、圧倒的大軍に囲まれた後北条方の中にさしもの小田原城とてこの軍には敵わぬと
疑り、密かに内応を図る将たちが出始め申した。後北条氏の譜代重臣である家老・松田左衛門佐憲秀(のりひで)もその1人で
秀吉に「小田原の南西にある笠懸山(かさがけやま)からは城内が俯瞰できる」と情報を流した。これに従って秀吉は笠懸山に
陣城を築き始めるのでござる。延べ4万人を動員し4月に着工〜6月27日に完成とされているので実際の築城工事は80余日に
及んだようだが、小田原から隠れるように密かに進めた作業の後、頃合を見計らって周囲の木々を一斉に切り倒して城の姿を
露にし、まるで一夜で城を建てたかのように見せかけた。
その全容は総石垣造りで(これが「笠懸山」改め「石垣山」の由来である)櫓が林立、天守までも備えた大城で、およそ陣城とは
程遠い恒久城郭であった。この時、まだ工事作業中の櫓には紙を貼り付けて白壁であるように見せかけたという逸話も残るが
兎に角、小田原城の籠城軍はこれを見て動揺。一気に戦意を喪失し開城するに至った。攻められていた後北条方とて、自分の
庭先なので秀吉が陣城を作っていたのは推測できた事だろうが、関東初の近世城郭の登場は衝撃的で、よもやこれ程の城が
目の前に現れるとは思っていなかったのだろう。“一夜城伝説”は天下人・秀吉の偉業として誇張された部分も多くある筈だが、
石垣山城の出現は確かに後北条氏を屈服させる効果をもたらした。恒久城郭が作られ、兵站も途切れずに、全国の諸大名が
続々と集結する状況となれば、もはや小田原城だけが延々と籠城を行っても無意味だからである。
単なる掻揚げの城ではない本格的な城であった石垣山城は、笠懸山の山頂部にあたる場所に5層と想像される天守を揚げ、
その直下を削平して本丸を構築。天守台付近の標高は261.5m、小田原城の本丸からは227mも高い位置にある。本丸の北東
方向、即ち小田原方面へ向けて二ノ丸・三ノ丸を階段状に配した梯郭式の縄張りを基本として、本丸の側面を防御する形で
南曲輪、本丸背後の防備に西曲輪と出丸を構えている。特に南曲輪から二ノ丸隅部を経て本丸へ至る道は、多重の折れや
枡形を用い非常に技巧的な防御を図っている。その一方、出丸は構築途中のまま終戦を迎えたようで未完成の状態だった。
陣城としてはあまりにも広大な縄張りで、城域は東西およそ280m×南北550mにも達する。数十万の軍を擁し、関白の武威を
見せ付ける為、これ程までに大きな城となったのだろう。
圧巻なのは二ノ丸脇にある井戸曲輪で、水脈に当たるまで深く掘り下げた井戸穴がまるで蟻地獄の穴のようにとぐろを巻いて
地の底へと沈み込む。無論、石垣山の名の如くこうした曲輪群は殆ど全て石垣で固められているが、この井戸も例外ではなく
とても見事な造形美を醸し出すように石垣が組まれた。井戸曲輪周辺は小田原から見て山並みの裏側にあたり、敵兵からは
見られる場所ではないにも拘らず精緻な石組みを施されている。もちろん、崩落を防ぐ為の強固な設備である事は言うまでも
無いが、秀吉は小田原攻城戦において、全国の諸大名を石垣山城に集結させ臣従の決意を固めさせる政治的意図も持って
いたと考えられており、こうした諸大名に対し「秀吉は陣城と言えど豪壮な巨大城郭を構える圧倒的戦力を持っている」と喧伝
する格好の材料にしたのだ。事実、豊臣軍は武将の妻子も石垣山へ参集する事を許され“余裕の攻城戦”を演出した訳だが、
冷静に考えればおよそ「戦場」としては有り得ぬ話で、石垣山城は小田原攻囲よりも豊臣政権の基盤固めに用いた城だったと
言えよう。秀吉自身も側室の淀殿を石垣山へ呼び寄せ、諸大名共々茶会に興じて小田原城の陥落を待ったと言う。攻められた
後北条方としてはこれ以上ない屈辱であるが、このような茶会においても井戸曲輪から湧き出た水が使われていたのだから、
井戸曲輪の重要性が窺える。
これらの石垣は秀吉が畿内から派遣させた石工集団(いわゆる穴太衆)によって築かれたもので、野面積みであるが高く強く
組み上げられてござった。また、松田憲秀の通報通りこの山からは小田原城内が一望でき、特に三ノ丸の突端からは眼下に
小田原の町、さらに三浦半島や房総半島までも見渡す事が可能だった。
石垣山城の完成から間もない7月5日に小田原城は開城、後北条氏は降伏する。
開戦前から豊臣軍との交戦を無益と考えていた(と伝わる)5代・左京大夫氏直(氏政嫡子)は剃髪の上、高野山へ追放処分と
されたが、主戦派だった氏政とその弟・陸奥守氏照(八王子城(東京都八王子市)主)は切腹に処せられた。また、後北条譜代
家臣にありながら降伏・内応を図ろうとした大道寺駿河守政繁(だいどうじまさしげ)や松田憲秀らは秀吉の勘気に触れて同じく
処断される。松田憲秀は、結局のところ秀吉に上手くあしらわれただけであった。その一方、最後まで後北条氏に従った家臣、
或いは開戦前から両軍の融和を望んでいた者たちは赦され、主だった者は秀吉によって新たな関東の太守に任じられた徳川
家康に召抱えられる。優れた官僚制機構を擁し、5代96年に亘り東国を支配した小田原後北条氏の統治体制はこのようにして
徳川家に組み込まれ、後に江戸幕府265年の太平を支える事となった。
さらに秀吉は小田原征伐を以って日本全国の統一を完成、それまで影響下になかった東北地方の諸大名に対しても細かな
仕置きを行う。秀吉に従わなかった大小名らは軒並み改易され、重要拠点には豊臣政権肝煎りの有力大名が配されるように
なったが、こうした裁断は総て石垣山城内で行われたものである。近年の学説では、戦国時代の端緒は北条早雲が国獲りを
行った時に始まるとされる(従来の説では応仁の乱とされた)ので、戦国の世は小田原に始まり小田原に終わったと言っても
過言ではない。秀吉は石垣山城で大半の命令を発した後、実際に奥州へ赴いて仕置きを実行している。
さて問題はその後の石垣山城である。従来、小田原征伐の為の陣城として構築されたこの城は、秀吉の退去を以って役目を
終えて廃城になったと考えられていた。ところが最近の発掘調査によれば石垣山城址から「天正19年」銘の瓦が出土したので
ある。天正19年、つまり1591年、小田原開城の翌年だ。石垣山城の建築物に1591年製造の瓦が載っていたのなら、少なくとも
小田原戦役の翌年まで造成が行われた事になる。これに基づき、最新の学説では石垣山城は陣城のみならずその後の統治
城郭として用いる計算があったのではないかと考えられ始めた。後北条氏が約100年に亘って“関東の首府”とした小田原の
町は重要拠点である。豊臣政権としてもこの町を確保する事は必要不可欠であった。しかし、それまでの統治者が使っていた
小田原城をそのまま継承するのは天下人としての権威を損なう。よって秀吉は関東全域の監視所となる新たな城を小田原に
築き直し、その城を以って豊臣政権の威光を広めようと目論んだ訳で、それに適う城として作られたのがこの城だと言うのだ。
関東の支配は徳川家康に任せたが、その一方で秀吉直属の“橋頭堡”も残しておき、有事の際には東国の一大根拠地として
使う為、石垣山城は簡単に廃さなかったと考えられる。となれば、巷説に囁かれる“家康を江戸に左遷し、失態を招かせる”と
いう秀吉の策略説もあながち誤りではなくなる事になろう。ところが実際には、家康は江戸で見事に関東の統治を成し遂げ、
石垣山城の有用性はなくなった。よって、徳川氏が関東の支配体制を磐石にした頃、石垣山城が廃城になったと想像できる。
尤も「天正19年」銘の瓦が出ただけでここまで推測するのは行き過ぎなのかもしれないが…。
ともあれ、江戸時代になると完全に廃城とされたようだが、小田原藩によって石垣山は御留山(立入禁止の山)とされていた。
1720年(享保5年)小田原藩によって石垣山城の絵図が作成されており、秀吉来寇から130年を経ても猶この山が戦略拠点で
あると認識されていたようでござる。近代に入り1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で城址の石垣が大規模崩落を起こし
現在に至っているが、つまりそれまでは建物こそ滅失したものの石垣造りの縄張りは健在だった事になる。
今の石垣山は非常に静かな山となり、かつて大軍が埋め尽くした喧騒は嘘のようだ。箱根山塊の隅部にあるこの山は、1936年
(昭和11年)2月1日に指定された富士箱根伊豆国立公園内に含まれ、城跡のうち5.8haの面積が石垣山一夜城歴史公園として
整備されてござる。もちろん、城跡そのものも1959年(昭和34年)5月13日に国の史跡と指定され、2006年(平成18年)1月28日
追指定を受け、四季折々の景色を楽しめる観光名所になっている。上記の関東大震災で(特に本丸南側の)石垣が崩れては
いるが、井戸曲輪などでは現在でも破損の無い良好な状態で遺構が維持されている。その井戸からは今でも少量ながら水が
湧き出ている(関東大震災で地下水流が変わったせい?往時はもっと多かった筈)。また、秀吉の来寇時と同じく城跡からは
眼下に小田原の町が望め、近世小田原城の復興天守がまるで模型の如く見つけ出せる。これを目当てに観光客が訪れる為
城跡の見学はとても快適である。ただし、公園整備敷地外や石垣の崩落箇所では足場の悪い所も数多くあるので、危険な
行動は慎みたいものでござる。
国道135号線、早川交差点から山側へと入り、東海道新幹線の高架を潜る位置からさらに脇道へと登っていくのが一般的な
登城路。車を使えば楽だが徒歩でも問題ない。この道すがらには小田原攻城戦において参陣した武将の紹介看板が所々に
立てられているので、石垣山城へ登る前の予備知識として、読みながら歩むのも悪くないであろう。
箱根ターンパイクが城のすぐ裏を走っているが、その道からは入城できないので要注意。


現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡








相模国 今井陣場

今井陣場址

所在地:神奈川県小田原市寿町

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:☆■■■■



上記、石垣山城の項で記した通り小田原攻城戦は天下統一の最終局面として秀吉が全国の諸大名を動員し行った包囲戦で
ござった。小田原城の総構を海山からぐるりと取り囲み、小田原城内と外域を遮断して城内の兵が疲労・困窮するのを狙って
(実際には籠城中も城内で市が開かれる程で、小田原市街は全く平穏だった)長期戦を構えたのである。こうして、小田原の
町を囲んで有名武将が陣を置き、例えば細川越中守忠興は石垣山城と小田原城の中間にある小山を占領し(富士山陣場)
蒲生飛騨守氏郷は小田原城総構の北端と相対する荻窪の高台から小田原城の久野口・荻窪口を封じる役割を担っている。
ここ、今井陣場もそうした陣所の一つで、徳川家康が3万の兵を率いて駐屯した史跡である。
以下、家康の作戦行動と連動して解説する。
もともと徳川家は後北条家と同盟を結び、不戦の間柄であった。家康の娘・督姫は後北条氏5代目当主・氏直に嫁いでおり、
予てから豊臣家と後北条家の交渉窓口の任にあった。しかし強硬な開戦派である北条氏政は、徳川家との関係を絶ってでも
秀吉に臣従するを良しとせず、ここに小田原征伐が開戦となったのである。一方、秀吉の命には抗えず参戦する事になった
家康は1590年3月10日、本拠地であった駿府城(静岡県静岡市)を出て東海道を東へ進み、同月24日、徳川領最東端にある
長久保城(静岡県駿東郡長泉町)に入って陣容を整えた。この城で秀吉を迎え入れ、29日に箱根山塊へと進撃を開始する。
箱根峠の手前には後北条氏が技巧を凝らした関門要塞・山中城(静岡県三島市)があったが徳川勢ならびに豊臣旗本軍は
大軍に物を言わせてこれを蹂躙、わずか1日で峠を突破した。
戦略要衝だった山中城を短期間で抜かれた事にて後北条氏は小田原籠城を決する事になったが、対する徳川軍は足柄峠
方面からも後北条氏の支城を陥落させながら進軍、家康自身は三島から箱根山中の宮城野を通り小田原近郊へと迫った。
4月3日、3方に分かれて進軍していた徳川勢は小田原城の北側・久野諏訪で合流。既に秀吉が小田原城の長期包囲を決定
していた事から徳川軍も陣所を構える事になる。翌4日、家康は酒匂(さかわ)川(小田原市街東方を流れる相模国の大川)
西岸にあった今井村の土豪・柳川和泉守泰久の館を接収、陣所とする。これが今井陣場である。徳川軍は東西170m×南北
220mに及ぶ範囲で土塁を構築し対戦に備えた。また、北西方向から流れる小川を土塁の外側に迂回させ、小規模ながら
濠とした。この本陣の前衛として家康配下の将・酒井宮内大輔家次と奥平美作守信昌が西へ展開し、小田原城の渋取口を
塞いでござる。加えて、今井陣場から南へ下った海岸線付近には同じく徳川家臣の大久保七郎右衛門忠世(ただよ)と榊原
式部大輔康政が陣取り、小田原城山王口と対面している。要するに酒匂川河口部の農村地帯全域が徳川軍3万の駐屯地に
なった訳だが、この一帯は水田の広がる泥湿地で、富士山陣場など豊臣直轄軍が占位した丘陵地帯に比べ悪条件の場所。
後北条氏との交渉を成功させられなかった徳川家に対する当て付けか、はたまた家康の力量を恐れた秀吉の冷遇策なのか
何れにせよこの当時の徳川家が豊臣政権内において微妙な立場に立たされていた事が如実に表れる布陣位置と言えよう。
家康は小田原開城までおよそ110日に亘ってこの陣場に居を構えた。この間、大規模な交戦はなかったが、徳川四天王の
1人に数えられる猛将・井伊修理大夫直政が城方へ夜襲を掛け、限定的ながら小田原城の総構内部へと兵を進めている。
包囲軍が総構内に攻め入ったのはこの1戦だけであり、直政は冷遇されていた家康の面目躍如を果たした事になろう。
小田原合戦の終幕もまた家康と今井陣場が大きく関わる事になる。石垣山城の登場で継戦を諦めた北条氏直は父・氏政の
主戦論を抑えて降伏の途を選ぶが、その内意を伝えるため7月5日、城を出て密かに訪れたのが今井陣場であった。家康は
氏直の義父なのであるから当然の成り行きである。結果的には、やはり後北条氏との交渉役となったのは家康であった。
城兵・領民の助命と引き換えに自らの切腹を願い出た氏直に対し、家康は秀吉に取り次いで滝川下総守雄利(かつとし)の
陣へと護送、斯くして小田原戦役は終結に向かう。和平交渉の結果、先に記した通り氏直は助命されたが高野山へ追放、
氏政らは切腹させられ小田原後北条氏は滅亡する。諸大名も陣を引き払い、ここに今井陣場も役を終えた。
江戸時代になると、幕府創設者にして太平の世を作り出した家康は神格化され東照大権現の神号が朝廷から授けられた。
それを祀る社が東照宮であるが、家康墓所である久能山・日光の他、徳川氏所縁の地や恩恵にあやかろうとする諸大名の
城下各所に築かれており、ここ今井陣場にも今井東照宮(現在は今井権現神社)が建てられてござる。また、小田原藩主の
大久保加賀守忠真(ただざね)が命じた家康の戦績を顕彰する石碑が1836年(天保7年)に建立された。この碑文は小田原
藩士・岡田左太夫光雄が記し9月17日に設置されている。碑石の高さ222cm、総高335cm、巾130cm、厚さ28cmもある。
現代の市街地化により陣場周辺は住宅街へと変貌。すぐ傍を神奈川県道720号線が走り、国道1号線と国道255号線を結ぶ
幹線道路になっている。陣場の土塁は近代まで残っていたのだが、今では発見するのが困難。しかし陣場跡は権現神社の
小さな社が建つため小田原市教育委員会の設置した史跡案内板があり、場所は判別し易い。加えて、陣屋跡地の前だけは
奇跡的に水田が残され、往時の雰囲気を醸し出している。なお、陣場そのものは史跡指定を受けていないが、大久保忠真
建立の石碑「神祖大君営祉ノ碑」は1961年(昭和36年)3月30日、小田原市の指定重要文化財になってござる。


現存する遺構

顕彰碑「神祖大君営祉ノ碑」《市指定重文》








相模国 真鶴台場

真鶴台場址

所在地:神奈川県足柄下郡真鶴町真鶴

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:★★★★★



「真鶴」という地名は、真鶴町の大部分を占める真鶴半島の地形が飛ぶ鶴の首に見える事から名付けられたと言われる。
その“鶴の首”の最先端、くちばしの突先にあるのが真鶴台場だ。言うまでもないが、台場とは幕末に築かれた砲台場の事。
江戸時代後期、日本沿岸に西洋列強の艦船が次々押し寄せる世界情勢の中、幕府は沿岸警備の必要性に気付き、各地に
台場を構築。諸藩にも同様の対策を命じ、1844年(弘化元年)小田原藩は相模・伊豆2ヶ国の沿岸警備を指示された。
時の小田原藩主・大久保加賀守忠愨(ただなお)は、当時蘭学の大家として名を馳せていた韮山代官・江川太郎左衛門英龍
(ひでたつ)の下に藩士を入門させ、台場構築理論や西洋兵学を習得させている。これと並行して真鶴半島の先端に台場を
着工した。斯くして築かれたのが真鶴台場でござる。1846年(弘化3年)に記された「海岸御見分心覚帳」に拠れば、台場の
平面は台形を為し、南面(海側)の幅が約25mで北面の幅が約32m、長さがおよそ36mとされている。半島先端部の平地を
最大限に活用した大きさと言えよう。この真鶴台場(真鶴岬固急手)から始まり、小田原藩は続々と台場群を構築している。
江川に学んだ藩士らは小田原海岸に荒久(あらく)・万町(よろちょう)・代官町の3台場を1849年(嘉永2年)に選定、1850年
(嘉永3年)に工事開始し1852年(嘉永5年)11月迄には完成させた。
この他、淘綾(ゆるぎ)郡大磯に照ヶ崎御台場(神奈川県中郡大磯町)も竣工。計画上では他にも土肥・根府川など3箇所の
台場を作る事になっていたらしい。だがしかしこれらの台場が実戦を迎える事はなく明治維新に至り、外交にも大きな転換が
あったため、いずれも廃されてしまう。現在、小田原市内の3台場や照ヶ崎御台場は完全に姿を消しており、この真鶴台場も
砲を据え付ける礎石が地表面に残るのみだ(写真)。
ともあれ、ここから望む相模湾の風景は絶景。半島の先には真鶴随一の観光名所である三ッ石が並び、かつてここが外国
艦船を迎え撃つ橋頭堡であった事を忘れさせてくれる。


現存する遺構

砲台礎石








相模国 荒井城

荒井城址公園

所在地:神奈川県足柄下郡真鶴町真鶴

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:★☆■■■



一般的に荒井「城」とされているが、年代や来歴からすれば荒井「館」と考えるのが妥当だろう。こちらは真鶴半島の付け根、
JR真鶴駅の南東300m程の位置にある荒井城址公園がその場所。駅から徒歩圏にある好立地な分、周囲は完全な住宅地で
しかも丘陵地なため道は狭く、車で来訪するのは困難。一応、駐車場は僅かにあるものの、そこへ至る道は難易度が非常に
高いので運転には注意が必要だ。兎にも角にも、一帯が起伏に富んだ地形である事は来訪するだけで感じられる筈だ。
伝承に拠れば、源氏棟梁・源義家に従い1083年(永保3年)後三年の役に参戦した武将である荒井刑部実継が居館を構えた
ものだと云う。実継の孫が土肥実平(といさねひら)だと言われ、真鶴が土肥氏の本領である事実に繋がるようでござる。但し
実継と実平が本当に祖父・孫の関係だったのかは明らかでない。そもそも実継なる人物や、この館の来歴はそれ以上不詳で
戦国時代には小田原後北条氏が烽火台として使ったという言い伝えもあるが、それも果たしてどこまで真実なのやら?
現状、緑地公園となった荒井城址公園の中に大きな広場がある。ここが居館址の平場なのだろうか。しかし公園造成で一面
手が加えられており、往時の雰囲気は全く分からない。その広場の周囲には起伏があり、或いはこれが土塁の痕跡なのかも
しれないが(写真)、それも確証が持てない。公園外周、住宅地との境界に堀の跡と思われる谷間があり、それ位が明瞭な
遺構だと言えよう。さりとて、居館址の平場は周囲の起伏からすると窪地になっていて、果たして武家居館の要害性を求める
ならば、周辺高所に取り囲まれるようなこの場所が適切な立地なのか考えものであり、土塁や堀の配置も本当に正しいのか
良く分からない。もっとも、真鶴半島の中で居館を置けるような平場が他に無かったとも言え、この地の領主としては選択の
余地なしと言う事だったのかもしれない。荒井城址は謎が多い分、色々と想像を働かさせてくれる居館址なのでござる。


現存する遺構

堀・土塁








相模国 土肥氏居館

土肥氏居館趾 土肥実平夫妻像

所在地:神奈川県足柄下郡湯河原町土肥・宮下・門川・城堀

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:☆■■■■



正確な場所は不明だが、JR湯河原駅やその裏にある曹洞宗(開山当初は密教寺院、後に臨済宗)萬年山城願寺の境内一帯が
館跡と推測されている。つまり湯河原駅を訪れれば自動的にこの館を訪れた事になる訳だ(笑)
館の主は荒井城の項で記した土肥次郎実平。土肥郷を本拠に中村党と言われる有力な武士団を率いていた実力者で、現在の
湯河原町や真鶴町の一帯を領有していた開拓武士でござる。源頼朝が伊豆で挙兵した時からそれに従った頼朝最古参の将で、
石橋山の合戦で敗れた際には、山中で隠れる頼朝一行へ実平の妻が密かに食料などを運び込み、また実平が海路での脱出を
取り計らったと云う。更には、奥州から兄・頼朝の軍へ馳せ参じた源九郎義経を取り次いだのも実平であった上に、石橋山の折
山に潜んだ一行を見逃した梶原平三景時を頼朝に引き会わせたのも実平でござった。勿論、頼朝の命じる数多の戦に加わって
日本全国を遠征し、まさしく鎌倉幕府創業の功臣と言えた人物である。城願寺創建の経緯も、この実平が持仏堂を建てた事に
始まるとされるが、武将が城館の鎮守として寺や社を建立し、後代になってそうした寺社だけが残るという例も良くある話なので
やはり「湯河原駅から城願寺の辺り」という伝承はあながち間違ってないのだろう。
実平没後、家督と所領は嫡男の筑後守遠平(とおひら)が継承。平家滅亡の恩賞として土肥郷本領安堵の他に安芸国沼田荘
(ぬたのしょう、現在の広島県三原市)地頭職も与えられた。そのため、土肥郷は遠平の長男・左衛門尉維平(これひら)が継ぎ、
沼田荘は遠平の養子である左衛門大夫景平(かげひら)が受け継いでいる。ところが、維平は1213年(建保元年)5月に発生した
鎌倉幕府内の権力闘争である和田合戦において和田左衛門尉義盛(わだよしもり)へ与して敗北、同年9月19日に処刑された。
これにて土肥郷の居館も廃されたと考えられる。一方、景平はこの戦いに参加しなかったため生き残り、結果的に土肥氏嫡流の
地位も継承し、後の世に血を繋げていく。ちなみに、土肥遠平は早川郷(神奈川県小田原市を流れる早川流域)小早川村にも
居館を構えた事から小早川姓を名乗るようになり、景平以降はその姓を受け継いでいる。山陽地方で威勢を張った小早川氏は
ここに始まるのでござる。即ち、戦国時代に豊臣政権五大老の1人として挙げられた小早川左衛門佐隆景や、金吾中納言こと
小早川左衛門督秀秋の系譜は土肥氏に辿り着く訳だ。そう考えると、現状では何の遺構も残らない土肥氏館であっても、そこに
確かな歴史があった事を感じさせてくれよう。
写真は湯河原駅前にある土肥氏館趾の石碑と土肥実平夫妻像。いつの世も、内助の功あってこそ夫は存分に働けるものだが
実平の妻は日本史上の偉人・源頼朝の命をも繋ぎ留めたのだからその功績たるや絶大と言える。賢婦に感謝…と言った所かw





花岳(古小田原)城・小田原城・北条幻庵屋敷  足柄城・沼田城・河村城