武蔵国 筑土塁

筑土塁址 筑土八幡神社

 所在地:東京都新宿区筑土八幡町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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周囲から隔絶した小山■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
飯田橋駅から北西方向へ、牛込消防署の裏山にあたる筑土(つくど)八幡神社一帯が城跡。「津久土」の字を充てる事も
ある。江戸城(東京都千代田区)の築城者である太田道灌の館があったとされ、その由緒から太田道灌別館とも。■■■
戦国時代に関東管領(室町体制における東国統治者)上杉氏の一門である上杉時氏なる者が砦を築いたという事から、
上杉氏塁との別称もある筑土塁であるが、上杉家譜の中に時氏という名は見受けられず、伝承がどこまで正しいのかは
疑問が残る。とは言え、この山は平野部の中に屹立する急峻な小山で、現在の八幡神社参道として作られている階段は
登るのに息が上がる程の急傾斜。飯田橋駅前(神田川(当時は平川)畔)の低地から見ると比高15m程度の低丘陵では
あるが、一面の低湿地帯が広がっていた往時にしてみればさぞかし眺望が利く築城好適地であったと思われる。飯田橋
駅から南側、市ヶ谷駅にかけて繋がる外堀は江戸幕府が成立してから掘削されたものなので、筑土塁の使用年代では
平川が北側を蛇行して流れるのみである訳だが、山続きとなる南側には牛込城(下記)が控えていたため筑土塁はその
出城として機能していたと推測されている。砦地の北を旋回する平川は、大きな意味で筑土塁の外濠を為したと考えられ
故に北側が戦闘正面として想定され申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
江戸時代に入ると、ここには水戸徳川家(徳川御三家の一つ)の附家老だった中山備後守の下屋敷が作られたと伝わる。
中山家は元来、小田原後北条氏の家臣であったが豊臣秀吉の全国統一に伴い主家が滅び、徳川家康に召し抱えられた
家柄。将軍・家康から篤い信任を受けた中山備前守信吉(のぶよし)は、寵愛する末子・左近衛権少将頼房(水戸家祖)の
補佐役に抜擢され、以後水戸家中において“縁の下の力持ち”たる慇懃実直な活躍を見せた。斯くして中山家は水戸藩の
筆頭家老として代を紡ぎ、家中第一の石高である2万5000石を領して支藩(常陸松岡藩)を興すに至る。■■■■■■■
筑土に下屋敷を得た中山「備後守」というのは、恐らく中山「備前守」信吉の誤伝でござろう。■■■■■■■■■■■■
この後、寛永年間(1624年〜1644年)に3代将軍・徳川家光が鷹狩を行う際の仮御殿が当地に作られた為、御殿山城との
別名も付けられているが、それもいにしえの話となり、現在は筑土八幡神社境内に僅かな森を残す以外、全くの市街地と
化してしまった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■







武蔵国 牛込城

牛込城址 光照寺

 所在地:東京都新宿区袋町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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上州からやって来た城主■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
東京都新宿区袋町、日本出版クラブ会館ビルの向かいにある浄土宗樹王山正覚院光照寺一帯が城址と伝わる。■■■
1985年(昭和60年)12月6日指定、新宿区登録史跡。戦国期に用いられた牛込氏の城砦。■■■■■■■■■■■■■
城主の牛込氏は遡れば上野国勢多郡大胡(おおご、現在の群馬県前橋市)に勢力を張る大胡氏からの流れ。大胡氏は
坂東武家の太祖・俵藤太(たわらのとうた)こと藤原秀郷に連なる名門、平安末期頃から上記の勢多郡に土着していたが
南北朝時代〜戦国期に没落し、西上野の国人盟主として強力な軍事力を有した長野氏や、南関東から進出した小田原
後北条氏らによって所領を失ったと伝わる。しかし一方で、一族の大胡宮内少輔重行は天文年間(1532年〜1555年)頃
その後北条氏から招聘され武蔵国へと移住し、この地に所領を得て臣従するようになった。重行の子・宮内少輔勝行は
1555年(弘治元年)から牛込氏を名乗るようになり、それに先立ち天文期に居城として築いたのが牛込城でござる。■■
この城は江戸城の支城として北西の鎮護に当たる一方、更に支城として上記の筑土塁などを構えていた。牛込近辺は
江戸を俯瞰する大きな台地上にあたり、その末端部に舌状台地として延びたのが筑土塁のある平川南岸丘陵だった。
まさしく江戸城を管制する好地であり、ここに勢力を張った牛込氏は江戸城の反対側に当たる日比谷や桜田、赤坂辺り
迄も所領に加えたと言う。だが牛込城の具体的な縄張りや構造などは全く不明、丘陵地上という立地が丘城を為さしめて
いた事を想像するのみだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
勝行の子である彦次郎勝重の代、1590年(天正18年)豊臣秀吉の全国統一によって後北条氏が滅亡。秀吉から後北条
旧領に封じられた徳川家康が改めて勝重を取り立てて旗本になったが、牛込城は廃された。以後、この地は江戸城の
郭外町屋として都市化され、それまで神田元誓願寺町にあった光照寺が1645年(正保2年)に当地へ移転してきて現在に
至っており申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

城域内は区指定史跡








武蔵国 稲付城

稲付城跡 静勝寺

 所在地:東京都北区赤羽西

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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小さな丘は街道管掌の要衝■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現地の案内板には「稲付」の読みに「いねつけ」の振り仮名が附けられてござる。JR赤羽駅の西側、東京都道460号線を
越えた先にある曹洞宗自得山静勝(じょうしょう)寺の境内が城跡。この寺は周囲より10mほど高い台地上にあるのだが
(この高さが比高差)その敷地は東西120m程度×南北80m弱と、かなり小ぶりな山で、写真をご覧頂ければ分かるように
急峻に切り立った斜面で周囲が固められている。台地そのものは南の主台地へ繋がる地形だが、往時はそれを堀切で
切断し、独立性を高めていたと推測される。静勝寺の150mほど南を東西に横切る道(中坂)は寺より2mくらい低い高度で
切り通しのようになっていた。静勝寺に伝わる記録で1687年(貞享4年)制作の「静勝寺除地検地絵図」では、それを証明
するように周辺の地形が記録され、かつての空堀跡が道となって描かれている。また、1987年(昭和62年)に寺の南側で
発掘調査が行われ、永禄(1558年〜1570年)末期〜天正年間(1573年〜1592年)に築かれたと目される堀跡が確認され
申した。この堀跡は長さ12m×深さ6mあった。但し、これらの堀跡は現代の宅地開発で整地されており、ほとんど全てが
湮滅してしまっている。やはり、城跡としての雰囲気は比高差に求めるしか無いだろう。■■■■■■■■■■■■■■
元々、この地は岩淵と呼ばれていたらしい。岩淵郷には鎌倉時代から宿場町が成立し、室町時代には関所が設置されて
街道の賑わいと共に交通の要衝として認知されるようになっていた。即ち、都道460号線はかつての岩槻街道を踏襲した
もので、江戸(鎌倉方面)と岩槻(埼玉県さいたま市岩槻区)を結ぶ主要幹線が岩淵郷の発展を支えていた訳だ。同時に
赤羽駅の東側には隅田川が流れている事にも注目。江戸時代以降の治水事業(利根川東遷や荒川放水路開削)より前、
隅田川は旧入間川とされ、現在の秩父地方から江戸湾へ直接流入する巨大水系を構成。岩淵郷は陸路と水路の両方を
掌握する要地だった。「稲付」と言う地名も、大水の発生で大量の稲が上流から岩淵郷に流れ着いた事が由来だとか。
一説には、1448年(文安5年)「熊野領豊嶋年貢目録」に「上岩ふちいねつき」の記載があり、その頃から豊島氏によって
何かしらの城砦が築かれていたと考える向きがある。豊島氏と言うのは、豊島郡(現代の東京23区周辺)を支配していた
中世の豪族で、そもそも豊島氏の発祥は北区内、豊島館だとされる(豊島館については下記)。■■■■■■■■■■

稲付城と太田道灌一族■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかしながら稲付城が本格的な城郭として築かれたのは戦国時代初頭になってからとするのが一般的である。文明年間
(1469年〜1487年)太田道灌の手によって築城されたのが始まり。上記した筑土塁の項目で登場した、太田道灌だ。当代
一流の文化人にして名軍師として知られる太田道灌こと備中守資長(すけなが)は、当時の武蔵・相模守護であった扇谷
(おうぎがやつ)上杉氏の家宰として頭角を現し、関東で長く続いた戦乱の中で扇谷上杉家の戦いに軍を率い、東奔西走
活躍している。江戸城、或いは岩槻城や河越城(埼玉県川越市)と言った名城がいずれも彼の手によって築かれたのは
扇谷上杉家の領内を固める必要性からであるが、そのように道灌が作った城の中に、この稲付城も含まれているのだ。
先述した江戸と岩槻を結ぶ要衝と言うのが、築城の理由であろう。現役当時の稲付城は、北側の山頂部(静勝寺境内)が
主郭、その南側下段に二郭が、更に堀切の外に外郭が並ぶ連郭式の縄張りだった。■■■■■■■■■■■■■■■
道灌の死後は孫の太田大和守資高(すけたか)が居城とした。切れ者すぎた道灌は主家・扇谷上杉家から疑念を持たれ
謀殺され、それが元で扇谷上杉家は衰退。入れ替わりで南から小田原後北条家が伸張するや、資高は上杉家に見切りを
つけて後北条家に鞍替えした。その結果、太田家は後北条家の家臣として重用され資高の子・新六郎康資(やすすけ)は
岩淵郷5ヵ村を安堵され、他の所領も合わせると後北条家臣団の中でも第6位の大身であった。江戸時代に入ってからの
幕府公式家譜「寛政重修諸家譜」で太田資高について「武蔵豊島郡岩淵の砦に住す」とあり、同様に「小田原編年録」では
岩淵砦の項目に「資康、大和守資高が時、ここに居す」と記されている。岩淵砦と言うのが稲付城の事でござろう。■■■
ところが康資は後北条家と折り合いが悪かったようで、1562年(永禄5年)後北条家を離反し房総の里見氏に身を寄せる。
そのため、稲付城は後北条家が接収したようだ。その後の経緯は定かでないが、1590年に後北条家が滅亡し徳川家康が
関東に入った頃、廃絶したようである。そして江戸幕府が成立すると、太田家の末裔・備中守資宗(すけむね)は稲付城の
跡に静勝寺を建立したのだった。これについて詳しく記せば、道灌の死後である1504年(永正元年)、稲付城の一角に彼を
弔う堂が雲綱和尚(道灌の師)により築かれ、道灌寺とした事に始まる。然るに太田家は関東へ入封した徳川家の家臣に
取り立てられ、晴れて江戸幕府譜代大名としての家格を有した。康資の孫である資宗は3代将軍・家光の側近として活躍、
1655年(明暦元年)道灌寺を改修し静勝寺としたのでござる。ちなみに、この寺の山号である自得山は道灌の父・太田道真
(どうしん、備中守資清(すけきよ))の戒名である自得院殿実慶道真庵主から採ったもの、静勝寺の名も道灌の戒名である
香月院殿春苑静勝道灌大居士に由来する。1695年(元禄8年)には道灌の木造坐像も作られ静勝寺で祀られるようになり
城跡は1961年(昭和36年)1月31日に東京都指定旧跡(史跡)に、道灌の坐像は1989年(平成元年)1月25日に北区の有形
文化財に指定され現在に至っている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

切岸・郭
城域内は区指定史跡








武蔵国 飛鳥山城

飛鳥山城跡

 所在地:東京都北区王子

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

■■■■
★★★★



都内有数の都市公園だが■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
JR東北本線の王子駅、そして都電荒川線の飛鳥山駅、その間に挟まれるようにあるのが飛鳥山公園である。春には花見の
名所として知られ、咲き誇る桜の木は徳川8代将軍・吉宗が庶民の憩いの場として賑わう事を意図して植樹したものと言う
歴史がある。この飛鳥山の歴史を更に遡ると、豊島氏の城、詳しく言えば豊島氏配下にあった滝野川氏の出城であったとの
伝承が残っている。これが飛鳥山城でござる。周辺には滝野川氏や豊島氏に関連する城砦が点在しているので、それらと
同様に豊島氏(滝野川氏)支城群の一つであったと推測されるのだろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さりとて、この城に関するそれ以上の情報は無い。豊島氏の城と言うのも、状況から推測されるのみだろう。飛鳥山と言えば
やはり都内の行楽名所という方がしっくりくるのだが、歴史に無縁という訳でもなく、先に記した徳川吉宗の植樹が有名な他
古くは古墳が作られたり、近現代の遺構としては壱万円札の肖像画となった渋沢栄一の旧宅建築物があったりと、城よりも
“目に見えて分かる”史跡が残されている。また、公園内にある「飛鳥山碑」は1737年(元文2年)建立の石碑で、徳川吉宗の
事績を顕彰する碑文が記され、1926年(大正15年)4月に東京府(当時)指定旧跡となっている。以降、数度に及んで名称・
種別変更が行われ、現在は1996年(平成8年)3月18日に東京都指定有形文化財(古文書)と言う扱いでござる。■■■■■
この他、公園内には“デゴイチ”ことD51型蒸気機関車や、都電の6000形電車が保存されている上、飛鳥山へ登る為の専用
軌道(モノレール)が敷設されているなど、鉄道好きの方々にも楽しめる設備が(そもそも駅の目の前だし)揃う。■■■■■
(飛鳥山公園モノレールは正確にはスロープカー、つまり斜行エレベーターなので鉄道ではないが細かい事は置いといてw)
写真はそんな飛鳥山の上にある山頂標識。ちなみにここの標高は25.4mで、都区内で最も低い山とされる港区の愛宕山より
0.3m低いそうだが、国土地理院では飛鳥山を正式の山としていないので、その順位は変わらないのだとか。惜しい…。■■








武蔵国 滝野川城

滝野川城跡 金剛寺

 所在地:東京都北区滝野川

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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石神井川が作り出した要害■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
上で紹介した飛鳥山を地図上でよく見てみれば、山の北半分をなぞるようにして石神井(しゃくじい)川が流れている。この川は
かつて瀧野川と呼ばれ、東京都小平市を始点として北区まで流れ、隅田川に合流している。現在の総延長は25.2kmであるが、
これは河川改修を経た結果の長さで、その昔はもっと蛇行し激しい水流に断崖を形成する暴れ川であった。そんな石神井川を
飛鳥山から西へ遡ってみれば、地図には様々な蛇行痕を残している事に気付くだろう。北区役所の西側(飛鳥山から約450m)
松橋と呼ばれる小さな橋の辺りに「さくら緑地」と言う湾曲が、更にその西にある紅葉橋の向こう側にも「もみじ緑地」なる小さな
公園が面積を有しているも、これらはいずれも石神井川…いや、瀧野川の削った蛇行流路を直線化した際の名残りでござる。
面白い事に、2つの緑地はいずれも川の対岸側にある町名が食い込むように振られており、この敷地がごく最近まで蛇行路の
まま残されていた事を物語っている。そしてこの2緑地に挟まれ、蛇行する瀧野川が西〜北〜東の三方を取り囲んでいた所に、
「もみじ寺」と称される真言宗瀧河山金剛寺なる寺がある。ここが滝野川城跡と目される場所だ。川を背にした岬のような地形、
しかもその川は崖で切り立った河畔になっているのだから、城を築くに相応しい険要の地であった様子は想像できよう。■■■
金剛寺の門前に掲げられている解説板(写真)が、滝野川に城砦が置かれた原初を記している。平家の圧政に業を煮やした
源頼朝は伊豆で挙兵するも敗退し安房へ逃れたが、瞬く間に勢力を回復し根拠地となる鎌倉を目指した。この進軍の途上で、
「松橋」の地に布陣したと言うのだ。「松橋」がどこを指すのか諸説あるようだが、先に「さくら緑地」を紹介する際に記述した如く
瀧野川に架かる橋=この地域、が頼朝の陣城となったと考えるのが一般的だ。金剛寺の寺伝では、弘法大師・空海がここで
不動明王像を彫ったとされ、頼朝はその不動明王に勝利を祈願したとか。1180年(治承4年)10月の事だ。鎌倉へ入った後に
頼朝は寺に堂宇を寄進したそうだが、果たしてどこまでが真実なのかは定かでない。■■■■■■■■■■■■■■■■

滝野川城としての歴史■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方で「滝野川城」としての歴史は室町時代に求める事が出来る。滝野川氏が城を構え、それを滝野川城とするものだ。豊島
一族の分流とされる滝野川氏であるが、しかしその実態はあまり詳らかではない。豊島氏そのものは平安期以来の開拓武士
団に始まるものだが、滝野川氏は鎌倉時代に分岐したものとする説がある一方、豊島氏の末裔で江戸時代中期の旗本だった
豊島左平七兵衛泰盈(やすみつ)が自家の来歴を編纂した「泰盈本豊嶋系図」では、滝野川氏について滅亡するまでの滝野川
太夫五郎信久―久吉―久道―豊明という4代を記している。「泰盈本」は後世の創作なので必ずしも信頼できるものではないが
それに拠るならば、信久が分流したのは年代的に室町中期と言う事になる。滝野川城の築城時期は文明年間だとされていて、
これと概ね一致する訳だが、そうした滝野川氏は本家である豊島氏と共に行動し共に滅びていく。通説では、関東管領の家宰
職を巡って反乱となった「長尾景春の乱」において、豊島氏は反乱側の長尾左衛門尉景春に与したため、豊島氏は領内の城を
太田道灌(道灌は扇谷上杉家の家宰として反乱平定側であった)に悉く攻められたのである。この結果、1477年(文明9年)に
豊島氏は所領を失って壊滅する。近年では道灌の攻略経路について再検証が行われ、豊島氏に対する攻略が他方面の城に
対して為されたと考えられるようになってきているが、いずれにせよ滝野川氏は歴史上から消え、この時を以って滝野川城も
落城・廃絶したと見られており申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現状では金剛寺境内となっている滝野川城跡だが、駐車場は数台分、参拝者用に用意されている。電車利用なら王子駅から
徒歩圏内なのだが、この一帯は昔ながらの古い道が入り組んでいるので、目的地まで上手く辿り着けない事もしばしば。時間に
余裕を持って行動するのが吉。寺そのものに城郭遺構は皆無であるが、「もみじ寺」と紹介したように紅葉の名所として楽しめる。
また、周辺には国の重要文化財に指定されている赤煉瓦酒造工場(旧国立醸造試験所第一工場)などもあるので、散策を含め
回ってみるのが良うござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■








武蔵国 平塚城

平塚城址 平塚神社

 所在地:東京都北区上中里・西ケ原

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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豊島郡の中心?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こちらも駅前物件。JR東北本線の上中里駅目前にある平塚神社がその比定地だ。先般から話の出ている豊島(豊嶋)氏の
本拠とされた事から豊島城(豊島館)とも呼ばれている。もともとは律令制時代に豊島郡の郡衙(ぐんが、郡の統治役所)が
置かれていた場所だと言う。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、長らく引っ張ったがようやく豊島氏の話。平安時代に坂東(関東)の地を開拓したのは、桓武平氏に連なる者だったが
その中でも豊島の地に拠点を置いたのが豊島氏である。ここで言う豊島の地とは「東京都北区豊島」、王子駅の北東側に
あたる「武蔵国豊島郡豊島村」の事だ。全くの余談だが、現代の「豊島」と言うと東京都豊島区に行き当たるが、豊島区内に
「豊島」の地名は無い。豊島郡の名を刻む豊島村は、この北区豊島に由来する訳だ。関東に盤踞した平氏のうち、実力ある
8つの家を坂東八平氏と呼び、そのうちの秩父氏(埼玉県の秩父地方を本拠とした武士団)から更に枝分かれした秩父二郎
武常が豊島郡へ入るようになる。武常の孫である三郎康家、又はその子(武常の曽孫)・左衛門尉清元(清光とも)の代から
豊島姓を名乗るようになったと言い、これが豊島氏の創始となった。豊島村に居を構えたのは清元の頃だとされている。
清元は源平合戦期に源頼朝へと臣従し、鎌倉幕府草創期の御家人となり申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■

八幡太郎義家の凱旋を迎え入れる■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方、ここ平塚城を築いたのは清元より100年ほど前の人物である豊島太郎近義と伝わる。「泰盈本豊嶋系図」では近義を
清元の大叔父としている。康家の父(武常の長子)が常家なる者で、その弟が近義だった。■■■■■■■■■■■■■
年代的には平安時代後期の事。貴族の繁栄に陰りが見え始め、武士による闘争が全国的に現れ始める頃だ。時おりしも
陸奥国で兵乱が起き、後三年の役と呼ばれる長い合戦が行われていた前後の時代である。1087年(寛治元年)この戦役を
平定させた源氏棟梁の陸奥守・源義家は都へ帰る途上、この平塚城に逗留し豊島一族の歓待を受けた。八幡太郎の名で
武家の最上位に君臨していた義家一党の軍には、賀茂次郎義綱・新羅三郎義光と言う義家の弟も轡を並べており、当時の
“最強三兄弟”が勢揃いしていた訳だ。言わずもがな、義家の末裔が鎌倉幕府の征夷大将軍・頼朝であるし、三弟・義光の
後裔は甲斐源氏(甲斐武田氏や陸奥南部氏)として枝葉を広げていく。源氏首脳陣を我が家に招いた豊島近義の栄誉は
末代までも誇れるものであっただろう。然る後、この平塚城が豊島氏の本拠となっていくのも頷けるものがある。ちなみに、
饗応の礼として義家は近義に自身が使っていた鎧と守り本尊の十一面観音を下した。義家死後、その鎧は城の鎮護として
埋められ、それが平たい塚となった事から「平塚」の名が付いたそうだ(だとすれば、旧来は別の名だった事になるが)。この
塚は古墳なのだそうだが、源氏棟梁に由来する名所として現在も平塚神社の裏手に残されてござる。■■■■■■■■■

豊島氏の興亡と平塚城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以来、豊島氏の本城として室町時代まで使われたとされる平塚城。清元の子・右馬允朝経(ともつね)の代あたりから本拠と
されたそうである。それ故に豊島城の名が流布していく。しかしながら豊島氏は鎌倉末期に石神井城(東京都練馬区)に居を
移したとする説もあり、平塚城は支城の扱いとなった、或いは事実上放棄されたと考える説まである。いずれにせよ、以後の
豊島氏を見てみれば長尾景春の乱に於いて太田道灌に攻め滅ぼされる歴史を辿るのだが、この折に道灌が最初に攻めた
「豊島城」が平塚城の事であると、旧説では信じられてきた。これが再検証で石神井城の事を指すと改められて、平塚城は
豊島勘解由左衛門尉泰経(やすつね、当時の豊島氏当主)の弟・平右衛門尉泰明(やすあき)が守っていたと言うが、それも
新説では練馬城(東京都練馬区)の事と変化している。泰明はその練馬城郊外の戦いで戦死し、石神井城を落とされて逃げ
延びてきた泰経は平塚城に拠ったのだが、これも道灌が1478年(文明10年)1月25日に攻め落とし、泰経はいずこかに消え
去った。これにて“八幡太郎を歓待した名族”豊島氏は滅亡し、恐らく平塚城も役割を終えたと考えられている。■■■■■
現状は平塚神社境内となっている城跡だが、その正確な範囲や規模は不明。土塁や空堀の痕跡が残るとも言われるものの
神社の聖域内らしく、一般見学者が立ち入れる場所ではないそうだ。甲冑塚も遠くから眺めるのみである。発掘調査によれば
平塚神社から離れた広い範囲で中世の遺物(陶器類・かわらけ・銭貨・板碑・宝形印塔・五輪塔・人骨など)や、城の遺構が
発見されたそうだが、現在ではそれを目にする事も無い。目立った遺構の少ない“伝説の城”、それが平塚城…いや、豊島の
城と言えるが、城の脇を切通しのように下って行く坂道の名は「蝉坂」。これは太田道灌が攻め寄せた「攻め坂」が訛ったもの
だとか。裏の裏まで見れば、何かしら隠されているのが平塚城なのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群




世田谷城・渋谷城・深大寺城  花岳(古小田原)城・小田原城・北条幻庵屋敷