武蔵国 世田谷城

世田谷城址 空堀と土塁

所在地:東京都世田谷区豪徳寺

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★☆■■■
公園整備度:★☆■■■



南北朝期〜戦国末期まで用いられた世田谷吉良家の城館。吉良家は足利氏の分流で、その発生は三河国幡豆郡
吉良郷(現在の愛知県西尾市東部)である。吉良家から更に分家しているのが駿遠の太守として有名な今川家で、
室町幕府の将軍職は「足利が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」と称されるほど、その家格は
高かった。尤も、吉良家の中でも数家が分流するほど血脈は多岐にわたっており、忠臣蔵で有名な吉良上野介
義央(よしひさ)は一般に「西条吉良家」と呼ばれる家なのに対し、世田谷吉良家は「東条吉良家」からの派生で
鎌倉幕府打倒の功績により建武政権から関東廂番の役に任じられた事が東国へ進出する契機となった。
建武政権は程なく全国の武士から失望され、代わって足利尊氏が新たな武家政権つまり室町幕府を開く事に
なるが、この過程で関東廂番の吉良家は改めて幕府の奥州探題(東北地方の統括官)4家の一つに数えられる
ようになる。これが奥州吉良氏の起こりだ。ところが数年の後、吉良家の家督相続問題や奥州探題職の再設定が
あった為、1390年(元中7年・明徳元年)吉良家は関東に召還される。斯くして奥州吉良家は武蔵吉良家と転じ、
さらに吉良治郎大輔治家は上野国碓氷郡飽間(あきま)郷(群馬県安中市)に閑居した。この時、治家を庇護した
鎌倉公方(室町職制における東国の最高指揮権者)足利基氏は飽間の他に武蔵国荏原郡世田谷郷にも所領を
与えた。前置きが長くなったが、これが世田谷に吉良家が入った経緯でござる。一説に拠れば、治家が世田谷を
手にしたのは1366年(正平21年・貞治5年)頃と言われるが、これでは先述した奥州探題職追放の時期と整合性が
取れない。また、世田谷に領地を与えられた後にも治家は飽間に在住したとする説もあり、世田谷城の築城
時期は判然としないのが実情でござる。ともあれ、治家かその子・頼治の頃に作られたと見られており、応永
年間(1394年〜1428年)に本格的な整備が為され(これを以って築城とする説もある)それ以来、吉良氏は
飽間を離れ世田谷に居を構えたとされる。1426年(応永33年)の記録には「世田谷吉良殿」とある為、この頃
までには本拠が世田谷になっていたと考えられよう。世田谷吉良氏の成立だ。
「足利が絶えれば吉良」と呼ばれる程の名門であるから、鎌倉公方の側近に迎えられた世田谷吉良氏は、中世
関東史の中で隠然とした存在感を有していた。時代が流れると鎌倉公方は肩書きだけで実力を失い、関東管領
(鎌倉公方の補佐官)上杉氏が東国の実権を掌握するも、その中で世田谷吉良氏はやはり勢力を維持し、上手く
上杉氏との共同歩調を取っている。巷説では、関東の序列は1位が鎌倉公方・2位が関東管領、そして3位が
世田谷殿であったとさえ言われる。そうした中、徐々に戦国乱世の足音が近づいてくる訳だが、治家―頼治
頼氏―頼高―政忠と続いた世田谷吉良氏は武功の将・成高の代を迎える。当時の関東は、鎌倉公方から転化し
下総国古河(茨城県古河市)に本拠を置いた古河公方・足利成氏(しげうじ)が復権を目指し上杉氏と対決する
「享徳の大乱」の渦中にあったが、成高はよく上杉方を補佐し奮戦。さらに上杉家臣・長尾景春(かげはる)が
叛いた「長尾景春の乱」も起こり上杉氏はその鎮圧に苦慮するが、成高は上杉氏の重臣である太田道灌と
共同して戦っている。道灌の書状に記された内容に、1480年(文明18年)吉良殿様(成高の事)は江戸城に
御籠城なさり御命令し、城下の兵はそれに従い数度の戦いを致して遂に勝利した、とある。江戸城とは勿論、
道灌が築いた江戸城(東京都千代田区)の事で、成高が道灌の城に馳せ参じ戦闘の指揮を執った事になる。
成高は戦いだけでなく文人としても秀でており、歌に通じた道灌が高名な歌人・万里集九(ばんりしゅうく)を
江戸城に迎えた折には「吉良閣下」から使いの者が来て扇に詩筆を求めたと言う。吉良閣下とは言わずもがな
成高の事であり、かの名軍師・道灌をして「吉良殿様」「吉良閣下」の尊称を使わしめる貴人であった事が
窺えよう。吉良の血筋は、乱世でも重きを為していたのだ。
その成高の頃、世田谷城は改修を受けたと考えられている。武略の人であった成高が、中世の武家居館から
地形を利用した城館へと進化させたと推測できよう。しかし、関東の戦国闘争はこの頃から更に激烈なものと
なっていく。小田原に基盤を固めた後北条氏が、南から武蔵国への進出を進めていたからだ。関東の実権を
握っていたとは言え、上杉氏は言わば“旧体制の家柄”である。一方、後北条氏はそれまでの伝統に縛られぬ
新進気鋭の戦国大名。名将・太田道灌も没した後、趨勢が如何になるかは自明の理であった。機に聡い
成高は、後北条氏が江戸周辺を領有する事に成功した1524年(大永4年)正月の高縄原(東京都港区高輪)
合戦以後、それまでの親上杉氏路線を転換し後北条氏へ従属。1530年(享禄3年)世田谷城が後北条氏に
攻略された、とする記録はこうした渦中において後北条方が城を接収した状況を示したものでござろう。程なく
城は吉良氏の手に戻されており、合戦で争奪したというような事では無いと推察する。成高は嫡子・頼康に
時の後北条氏当主・氏綱の娘(蒔田殿)を娶わせている。後北条氏側も、吉良氏には印判の使用を認めて
いる。現代とは違い、当時は書状に印判を用いる事が許されたのはごく一部の特権的階級に限られており
(将軍から認められた家格や職制あるいは大大名のみで、中小大名では不可能)
吉良氏と後北条氏の関係は、相互に認め合う良好なものだったのであろう。新興勢力たる後北条氏は、実力
以外に自身を正当化する権威が無かったからこそ「足利が絶えれば」の名族・吉良家を陣営に取込み、家勢
向上を図った意味合いもあっただろう。事実、世田谷城を巡る攻防戦というのは記録に残されていないのだ。
頼康の代に世田谷吉良氏は全盛期を迎え、世田谷は(現在は纏めて「東京23区内」だが、当時は別の町)
江戸と並んで南武蔵の主要な産業・交通拠点に数えられていた。頼康の所領は世田谷から衾(ふすま)村〜
碑文谷(ひもんや)郷(東京都目黒区)辺りまで広がっており、加えて蒔田(まいた、神奈川県横浜市南区)にも
後北条氏から領地を与えられている。氏綱は関東制覇の戦いに邁進する傍ら、戦火で荒廃した鶴岡八幡宮
(神奈川県鎌倉市)の修復事業も行っているが、これに賛同した吉良頼康は建材・人夫を大いに負担しており
豊かな経済力を誇った様子が分かる。頼康もまた、1546年(天文15年)鶴岡八幡宮を模した世田谷八幡宮を
城下に建立しており、領地の隆盛に心を配っていた事が示されてござる。
さて、後北条氏は更に領地を拡大し名実共に関東の覇者に成長していく。吉良氏との関係は相変わらず
良好ではあったが、こうなると主従の差が明確なものとなり、頼康は実子を有していたものの後北条氏の
意向で養子を貰い受け家督を継がせる事に。迎え入れられたのは堀越貞基(伊豆堀越公方の後継?)の
子・氏朝(うじとも)。貞基の室も氏綱の娘(高源院こと崎姫)で、頼康にとって氏朝は義理の甥という事に
なるのだが、いずれにしても後北条一門の血が吉良家に入っていく訳である。しかも氏朝には北条氏康
(氏綱の次代当主)の娘・鶴松院が娶わされ、頼康・氏朝の2代に亘り吉良家の室に後北条家の娘が嫁いだ
事になる。余談だが嫁入する鶴松院に氏康の叔父・幻庵宗哲こと長綱が与えた教訓書が「幻庵おほえ書」。
この書は戦国武家の所作指南書として非常に高名で、武家礼儀作法の教科書的な存在として後世まで語り
継がれてござる。
斯くして世田谷吉良家は後北条家の庇護下に置かれ、以後の経歴を紡いだ。16世紀前半、世田谷城は
後北条氏による改造を受け、防備を固めたようだ。
その後北条氏は1590年(天正18年)天下統一に王手をかけた豊臣秀吉に“最後の敵”と定められ、関東
征伐が行われる。全国から押し寄せる豊臣方の軍に対し、後北条氏は本拠・小田原城の守りを固める
一方、領内各地での拠点防衛も図ったが多勢に無勢、遭えなく敗北を迎えてしまう。世田谷城は一戦も
交えぬまま豊臣軍に占拠され、廃城。城は破却され、古材は新たな関東の主となった徳川家康の居城
江戸城の建材として転用され申した。吉良氏朝は数年後に没したが、嫡子・頼久は家康の旗本として
取り立てられ蒔田氏に改姓、江戸時代に血を残している。
城は世田谷郷の丘陵地を利用した平山城とされ、後北条氏が整備した最終形態では現在の世田谷
城址公園〜豪徳寺境内まで含むかなり広大なものだったと考えられている。尤も、豪徳寺の起源は
吉良政忠が亡くなった伯母を弔う為に開いた弘徳院にあるので、城の一部なのは当然の事と言えよう。
江戸時代になった後、この寺が“招き猫”の伝説で徳川譜代大名・井伊家の菩提寺とされたのは最近の
「ひこにゃんブーム」でつとに知られるようになった。
豪徳寺境内が切り離され、残りの敷地も明治以降の近代化で急速な宅地開発が為されたが、主郭部分と
思しき一角だけが幸運にも残存し、1940年(昭和15年)世田谷城址公園として一般開放されてござる。
現状、公園敷地は3835.72uだと言う。このようにして保全された公園敷地部分の旧跡は、遡れば1919年
(大正8年)10月に東京市(当時)史跡となり、太平洋戦争後の1952年(昭和27年)4月1日に東京都史跡に
指定。1955年(昭和30年)3月28日に東京都旧跡へと変更されている。
城全体の縄張りは経堂台地の先端、南東側へ突き出した半島状の地形を利用したもので城を囲うように
西〜南〜東へと烏山川が流れ、天然の外郭線を為す。更に北部(半島状台地の尾根続きな位置)には
小支谷が入り込み、堀切同様の効果で上面側から地続きの侵攻を阻止する構造だった。この敷地内を
大きく東西2つの曲輪に分け、東側(突端側)が主郭、西側(豪徳寺側)が副郭とされる。曲輪の外縁は
土塁や空堀で隔てられ、随所に櫓を設置。特に主郭の最南端部(半島台地の最先端)には物見台が
置かれていた。土塁はいわゆる比高二重土塁の体を為し、後北条氏による改修を連想させる。近年は
“後北条流築城術”という用語は忌避される傾向にあり、比高二重土塁に関しても後北条氏に特有の
構造物と考えるのを嫌う風潮だが、来歴からして後北条氏の手が入っているのは間違いないだろう。
そうは言っても城址公園以外の場所に城跡の遺構は皆無。烏山川も昭和40年代に暗渠化されており
世田谷城の全体像を確認する術は既にない。かろうじて残された城址公園内は土塁から成る起伏が
連なり城の要害ぶりを想像させ、空堀跡が堀底道として使われた雰囲気を読み取れるが、これまた
公園整備により法面をブロックで固められてしまい、城跡らしい情緒はないのが残念。園内は樹木が
豊富、四季折々の草花も多く散策には申し分ないのだが…。
最後に世田谷城と関連する伝説を一つ。吉良頼康の愛妾・常盤(ときわ)姫が身籠ると他の側室たちは
嫉み、頼康にある事ない事を吹き込んで常盤姫を貶めた。とうとう頼康が讒言を信じ常盤姫を遠ざけた
ところ、彼女は孕んだ身のまま城を落ち、自害してしまう。身を捨てる直前、実家の父に潔白を訴える
文を可愛がっていた鷺の足にくくり付け飛ばしたが、鷺は姫の父が住む奥沢城(世田谷区内)に辿り着く
直前、敢え無く息絶えてしまった。それ以来、鷺が力尽きた場所には鷺の形の花を咲かせる草が生える
ようになったと言う。これが鷺草の名の由来なのだとか。ちなみに、鷺草は世田谷区の花になっている。


現存する遺構

堀・土塁
城域内は都指定旧跡








武蔵国 渋谷城

渋谷城跡 城石

所在地:東京都渋谷区渋谷

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:★☆■■■



平安時代創建、渋谷氏の城館。途中経過が不詳の時期もあるが、戦国時代まで使われた。
そもそも渋谷氏は相模国高座郡渋谷荘(現在の神奈川県大和市南部)に起こった豪族。秩父平氏の一族、
武蔵国橘樹(たちばな)郡河崎(神奈川県川崎市)に居住し在地名から河崎姓を名乗った河崎冠者武綱は
1083年(永保3年)起きた後三年の役で源氏総領・源義家に従い参戦。その武功で土佐守基家(もといえ)の
名と渋谷荘ならびに武蔵国豊島郡谷盛荘(やもりのしょう)を与えられ申した。基家は谷盛荘の小丘陵に
父祖以来信心する妙見八幡を1092年(寛治6年)勧進、この社が今の渋谷城址に鎮座する金王(こんのう)
八幡宮へと繋がる。
基家の子・重家の代になると河崎から渋谷(相模国の)へ本拠を移した為、姓を渋谷に改めた。それが
渋谷氏の由来でござる。重家の後、総領は嫡男の重国に受け継がれ相模国内での渋谷一族はさらに
領土を広げて隆盛する。なお時が下ると重国の後裔は薩摩国(鹿児島県西部)など九州へも領地を
得て分枝の家を紡ぐ。一説によると、薩摩の国人として名高い東郷氏はこうした重国の末裔であり、
日露戦争における連合艦隊総司令官・東郷平八郎へとその血は繋がるとされている。
一方、妙見八幡が置かれた谷盛荘にも渋谷氏の一族が入植するようになり、この地も渋谷と呼ばれる
ようになった。妙見八幡改め渋谷八幡の敷地には重家の次子(重国の弟)・金王丸常光が館を構えた。
即ち渋谷城だ。元来、高座郡の地名であった渋谷はこうして豊島郡にも伝播した。現在では渋谷と
言えば東京都渋谷区の渋谷があまりにも有名で、大もとである高座郡の渋谷は小田急線の駅名や
郵便局の名に「高座渋谷」として残るのみ。しかも行政区分名としての高座郡渋谷村は数次の市町村
改変を経て1956年(昭和31年)9月1日、大和町(当時)と合併して消滅。よって、以下は全て豊島郡
渋谷村についての来歴のみ記載する。
渋谷城が置かれた渋谷の地形は、大きく見て渋谷川が浸食した谷となっている。唱歌「春の小川」の
題材になったと言われる渋谷川は今やほとんど暗渠化されて面影は無いが、それでも渋谷駅を挟んで
東に宮益坂、西に道玄坂がある事から渓谷だった事は一目瞭然だ。渋谷城の立地は谷の東側にある
青山台地の西端部(宮益坂の南側)であり、城を挟んで両脇に支谷が切り込む。加えて青山台地との
接点になる北東側は黒鍬谷と呼ばれる谷で分断。これが堀切の効果を出し城地は小型の独立丘となった
訳で、支谷や谷底にある渋谷川の流れが天然の堀を為していた事になろう。今でも金王八幡宮の参道は
急傾斜の階段、その下にはさらに渋谷川の谷底地形へと続く道が下っており、城がそれなりに要害の
地形を利用して築かれていた事が想像できる。現状の数値であるが、金王八幡宮境内の標高は26m、
渋谷川の水面は17mなので、およそ10m程度の比高差がある事になる。当時は侵食谷がもっと急峻で
台地上面も未整備だったであろうから、崖端城の様相を呈していただろう。平安末期の在地領主は
所領の開拓・管理とそれに対する外敵防御を生業としていたので、渋谷城は眼下の侵食谷を水田
耕作地とし、そこを一望するに適した場所だったのだ。
さて、金剛夜叉明王にあやかって名付けられたという金王丸常光は源平合戦期の人物で、様々な伝承を
持つ。1159年(平治元年)平治の乱で敗れた源義朝に付き従い、その最期を義朝の愛妾・常盤御前
(義経の生母)に伝えたとか、或いは源頼朝が平氏を打倒した後に弟・義経を亡き者にせんとして
放った刺客だが、源氏に忠義を尽くした彼は義経に刃を向けられず敢えて返り討ちに遭い壮絶な死を
遂げたなどなど。どれが本当でどれが虚構なのかは分からないが、渋谷八幡宮は彼を祀るようになり
金王八幡宮となり申した。
以後、渋谷氏と渋谷城の系譜は定かならず、室町時代になって1416年(応永23年)鎌倉公方・足利
持氏(もちうじ)に対して前関東管領・上杉禅秀(ぜんしゅう)が反旗を翻した「上杉禅秀の乱」において
禅秀方に渋谷氏の一党が味方したとあるくらいだそうな。
戦国時代になると1524年の高縄原合戦(上記、世田谷城の項を参照)に関連して後北条氏の別働隊が
渋谷城を焼き払い落とした記録が出る。平安末期に築かれた城は、およそ3世紀半渋谷氏の下で生き
長らえた事になるが、しかしこれが渋谷氏・渋谷城としての最後の記録で、以って廃城となったようだ。
以後、城ではなく金王八幡宮としての歴史が続き江戸時代になると徳川家光が3代将軍に襲職する事を
寿ぎ、1612年(慶長17年)社殿と神門が家光の乳母・春日局と傅役・青山伯耆守忠俊(ただとし)の寄進に
よって建立された。1769年(明和6年)(1801年(享和元年)説もあり)にも幕府によって門が造営されて
おり、徳川幕府が源氏の忠臣・金王丸に由来するこの社を保護した様子が良く分かる。この他、境内には
幾つかの末社や金王丸影堂、神楽殿などがあり、特に金王丸影堂には常光の愛刀「毒蛇長太刀」が
納められてござる。神門・社殿は渋谷区指定文化財、金王桜と呼ばれる長州緋桜の古木は渋谷区指定
天然記念物となっている。
渋谷駅に程近い都会の一等地、周りはビルばかりという場所でこれだけの神社が残されているのは実に
立派な事だと思えるが、一方で城としての遺構は全て近代化に流されて皆無。かつての石垣材と伝わる
城石(写真)だけが置かれるが、果たして真贋如何に?
別名で河崎氏館、または金王丸城とも。


現存する遺構

城石








武蔵国 深大寺城

深大寺城跡 土塁・空堀

所在地:東京都調布市深大寺元町

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★★■■
公園整備度:★★★■■



正確な築城年代や築城者は不明だが、武蔵七党の一つ・狛江氏によって築かれたとの伝承がある。
狛江氏による古城は「ふるき郭」と呼ばれ、15世紀頃には存在していたと考えられている。
しかしこの城が本格的に活用されるようになったのは戦国時代になってからの話。戦国初期、武蔵国周辺は
扇谷(おうぎがやつ)上杉家の勢力圏にあった訳だが、それを相模国に覇を唱えた後北条氏が侵食していく。
時の扇谷上杉家当主・修理大夫朝興(ともおき)は河越(川越)城(埼玉県川越市)に本拠を置き、南関東で
攻防戦を繰り広げる後北条氏の攻勢に頭を悩ませていた。こうした中、後北条軍との間で1530年6月12日に
勃発した小沢原(おざわがはら)の戦いに於いて、上杉軍が本陣を置いたとされるのが「ふるき郭」だったと
言われる。しかしこの戦いでも後北条軍が勝利を収め、更に上杉家の勢力は減退してしまう。加えて朝興は
1537年(天文6年)4月27日に没し、僅か13歳の嫡男・修理大夫朝定(ともさだ)へと代替わりした。
一方で老練の賢将となった後北条氏の2代当主・左京大夫氏綱には、小沢原合戦で初陣の勝利を飾った
嫡男・氏康が成長し、いよいよ以て後北条氏の攻勢は激しさを増していく。武相国境での防備を急務とした
朝定は、扇谷上杉家の重臣である難波田弾正広宗に「深大寺のふるき郭」の整備改修を命じたのである。
斯くして深大寺城が再構築され、その守将として広宗が入った。この時すでに扇谷上杉家の南武蔵防衛の
要であった江戸城は後北条方のものとなっており、深大寺城が後北条領に突出する形で最前線防備を
担うと考えられた為である。また、奪われた江戸城奪還も計画を進めていたようだ。これに対し後北条方は
深大寺城への付城として牟礼砦や烏山砦を構築。これらの経緯は「相州兵乱記」「北条記」「北条五代記」
「鎌倉九代後記」と言った史書に記されており、その初見は「河越記」という軍記物である。
ところがこの年の7月6日、後北条方は扇谷上杉方の裏をかいて河越城へと直接侵攻の軍を発す。予想外の
奇襲に防備ままならない朝定は15日に河越城を放棄して武蔵松山城(埼玉県比企郡吉見町)へと退去した。
朝定は河越城を回復できぬまま、後の河越夜戦にて敗死。享年22歳の若さだった上、これで扇谷上杉氏は
滅亡してしまうのだが、結果として河越を失陥した為もはや深大寺城は上杉家の防衛に寄与する事はなく
そのまま遺棄されてしまった。当然、周囲一帯は後北条氏の占領下に置かれた訳だが、後北条方としても
既に最前線ではなくなってしまった深大寺城に存在意義はなく、特に再利用された形跡はない。旧説では
深大寺城の遺構からして後北条氏による手が入っていたと考えられていたが、近年の研究においては
この縄張は上杉氏によるもので、後北条氏は改修していないと推測される。また、後北条氏による使用を
証明する史書なども見つかってござらぬ。こうして深大寺城は廃城になった。
1958年(昭和33年)以降、1969年(昭和44年)にかけて深大寺城跡調査団の手で発掘調査・測量調査が
数次に亘って行われ申した。1994年(平成6年)〜1995年(平成7年)には東京都教育委員会が、2005年
(平成17年)〜2006年(平成18年)には調布市教育委員会が発掘調査を成してござる。出土品はそれほど
多くなかったが、16世紀前半迄の瀬戸・美濃系天目茶碗や青磁碗、擂鉢などが確認された。また、堀跡は
2つの年代に分かれて構築された事が判明。即ち、第1期の古い年代の構造物は「ふるき郭」の遺構だと
考えられる訳で、伝承が事実であると証明された事になる。「ふるき郭」が15世紀代の物と推測される一方
第2期遺構は16世紀前半の物と考えられ、堀のみならず建物遺構も検出されている。これが上杉朝定の
指示によって作られた深大寺城の構造物で、それ以後の改変が見受けられない事から、後北条氏の手が
入らず、純然とした扇谷上杉氏系の築城技術を残していると判断できよう。しかし旧説では後北条流の
築城術と思われていたように、深大寺城の縄張は大掛かりな直線と屈曲の多用が見受けられ、さながら
後北条氏の城であったと見えなくもない。と言う事は、上杉系の城を接収した後北条氏が、それを踏襲
しつつも進化発展させたのが後北条流築城術だと推測するのが自然の流れでござろう。同様の事案は、
相模中央部の大庭城(神奈川県藤沢市)や武蔵中部の杉山城(埼玉県比企郡嵐山町)でも散見される。
ともあれ、このように「上杉時代の古態」をそのまま残している事が確実な希少性が評価され、1998年
(平成10年)東京都指定史跡となっていた深大寺城跡は2007年(平成19年)7月26日に国の史跡に指定。
2015年(平成27年)3月10日には追加指定を受けている。
現状、深大寺城の跡地は神代植物公園の水生植物園の中に取り込まれている。ここで注意したいのは
「深大寺の境内」でも「神代植物公園」でもなく「神代植物公園の水生植物園」である事だ。これらは全て
別々の場所であり、しかも結構離れた位置にあるので知らずに訪れると迷ってしまう。拙者もうろ覚えで
城跡を訪ねたので、あちこち探し回った挙句に最後の最後でようやく尋ね当たった経験が(苦笑)
そんな深大寺城は、武蔵野台地南縁に突出する舌状台地を利用した敷地。西を根元とし、東へ伸びた
台地先端部を、大きく3つの曲輪に分割している。城地全域は東西およそ270m×南北180m弱あったが
北は武蔵野台地本体との間に割って入る谷戸になっており、その低地はそのまま東から南まで回り
込んでいて、この低地は殆どが湿地帯になっていた。もうお分かりであろう、「水生植物園」と云うのは
この低湿地を利用し水辺の植物を植生しているからだ。斯くして深大寺城は城の3方を湿地帯で囲われ
西にのみ陸続きとなった堅固な地の利を活かしている。湿地と台地上面との比高は10m〜11mを数え、
その斜面はかなりの傾斜角を有する段丘崖を形成し、防御に有利な地形と言えよう。
東端から主郭〜二郭〜三郭が並ぶ連郭式縄張で、西端が大手(戦闘正面)になる城地でござるが、
現状、三郭は桜田倶楽部東京テニスカレッジのテニスコートになっており痕跡は埋まってしまっている。
本来は三郭と城外を隔てる堀や曲輪内部での構造物があった筈だ。二郭は水生植物園内の公園になり
三郭との間にある空堀や土塁(写真)が綺麗に復元整備されて見学できる。この二郭内には建物遺構も
検出(掘立柱建物9棟)された為、それを示す展示も。二郭の大きさは東西およそ50m×南北120m程度。
そこから更に東へと進むと、主郭との間を分断する空堀を経て主郭内部に到達する。この空堀は深さ
7m〜8m、南北両端部はそのまま竪堀となって崖下へと落ち込み、要するに巨大な“堀切”だった訳だ。
この辺りの遺構は手付かずな物が多く、往時を推測させてくれる雰囲気があり、城郭愛好家にとっては
期待感を盛り上げてくれる風合い。そして主郭内は仕切りの土塁があったり、曲輪を取り囲む塁壁が
残存していて、まさしく「中世城郭」と言った情景になっている。掘立柱建物4棟も確認されてござる。
主郭の大きさは東西50m×南北90m程。16世紀前半の城郭としては丁度良い“手頃な規模”であろう。
反面、虎口の構造は平虎口であったり、堀に作られた横矢の折れが少なかったりして、それもまた
16世紀前半らしい「進化途中」の古臭さが垣間見える。恐らく後北条氏の手が入っていたならば、
もっと複雑に横矢を掛けたり、虎口前衛に角馬出を設けたりしていただろう。さりとて、その脆弱さを
補うべく主郭虎口の脇にあたる北西隅部には櫓台と思しき土塁の高まりがあり、ここで一点防御を
担っていたと推測できる。この他、各曲輪の下段(湿地帯へと下りる傾斜面)にはいくつもの帯曲輪が
あったりして、それなりに作り込まれた城郭だった事が良く分かる。これだけ作っておきながら、敵に
「無視」されてしまった難波田広宗の無念さ?或いは焦り?は如何ばかりであっただろうか…。


現存する遺構

堀・土塁・郭群
城域内は国指定史跡




品川台場・浜御殿台場(浜離宮庭園)  筑土塁・牛込城