足利家支流の名門、関東へ来たる■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
南北朝時代〜戦国末期まで用いられた世田谷吉良家の城館。吉良家は足利氏の分流で、その発生は三河国
幡豆郡吉良郷(現在の愛知県西尾市東部)である。吉良家から更に分家しているのが駿遠の太守として有名な
今川家で、室町幕府の将軍職は「足利が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」と称されるほど、
その家格は高かった。尤も、吉良家の中でも数家が分流するほど血脈は多岐にわたっており、忠臣蔵で有名な
吉良上野介義央(よしひさ)は一般に「西条吉良家」と呼ばれる家だが、世田谷吉良家は「東条吉良家」からの
派生で、鎌倉幕府打倒の功績により建武政権から関東廂番の役に任じられた事が東国へ進出する契機となった。
建武政権は程なく全国の武士から失望され、代わって足利尊氏が新たな武家政権つまり室町幕府を開く事に
なるが、この過程で関東廂番の吉良家は改めて幕府の奥州探題(東北地方の統括官)4家の一つに数えられる
ようになる。これが奥州吉良氏の起こりだ。ところが数年の後、吉良家の家督相続問題や奥州探題職の再設定が
あった為、1390年(元中7年/明徳元年)吉良家は関東に召還される。斯くして奥州吉良家は武蔵吉良家と転じ、
さらに吉良治郎大輔治家は上野国碓氷郡飽間(あきま)郷(群馬県安中市)に閑居した。この時、治家を庇護した
鎌倉公方(室町職制における東国の最高指揮権者)足利基氏は飽間の他に武蔵国荏原郡世田谷郷にも所領を
与えた。前置きが長くなったが、これが世田谷に吉良家が入った経緯でござる。一説に拠れば、治家が世田谷を
手にしたのは1366年(正平21年/貞治5年)頃と言われるが、これでは先述した奥州探題職追放の時期と整合性が
取れない。また、世田谷に領地を与えられた後にも治家は飽間に在住していたとする説もあり、世田谷城の築城
時期は判然としないのが実情である。ともあれ、治家かその子・頼治の頃に作られたと見られており、応永年間
(1394年〜1428年)に本格的な整備が為され(これを以って築城とする説もある)それ以来、吉良氏は飽間を離れ
世田谷に居を構えたとされる。1426年(応永33年)の記録には「世田谷吉良殿」とある為、この頃までには本拠が
世田谷になっていたと考えられよう。世田谷吉良氏の成立だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
中世関東で隠然たる存在感■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「足利が絶えれば吉良」と呼ばれる程の名門であるから、鎌倉公方の側近に迎えられた世田谷吉良氏は、中世
関東史の中で隠然とした存在感を有していた。時代が流れると鎌倉公方は肩書きだけで実力を失い、関東管領
(鎌倉公方の補佐官)上杉氏が東国の実権を掌握するも、その中で世田谷吉良氏はやはり勢力を維持し、上手く
上杉氏との共同歩調を取っている。巷説では、関東における序列は1位が鎌倉公方・2位が関東管領、そして3位が
世田谷殿であったとさえ言われる。そうした中、徐々に戦国乱世の足音が近づいてくる訳だが、治家―頼治―
頼氏―頼高―政忠と続いた世田谷吉良氏は武功の将・成高(しげたか)の代を迎えるのだ。当時の関東は、鎌倉
公方から転化し下総国古河(茨城県古河市)に本拠を置いた古河公方・足利成氏(しげうじ)が、復権を目指して
上杉氏と対決する「享徳の大乱」の渦中にあったが、成高はよく上杉方を補佐し奮戦。さらに上杉家臣・長尾四郎
左衛門尉景春(かげはる)が叛いた「長尾景春の乱」も起こり上杉氏はその鎮圧に苦慮するが、成高は上杉氏の
重臣である太田道灌と共同して景春方と戦っている。道灌の書状に記された内容に、1480年(文明18年)吉良殿様
(成高の事)は江戸城に御籠城なさり御命令し、城下の兵はそれに従い数度の戦いを致して遂に勝利した、とある。
江戸城とは勿論、道灌が築いた江戸城(東京都千代田区)の事で、成高が道灌の城に馳せ参じて戦闘の指揮を
執った事になる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
成高は戦いだけでなく文人としても秀でており、歌に通じた道灌が高名な歌人・万里集九(ばんりしゅうく)を江戸
城に迎えた折には「吉良閣下」から使いの者が来て扇に詩筆を求めたと言う。吉良閣下とは言わずもがな成高の
事であり、かの名軍師・道灌をして「吉良殿様」「吉良閣下」の尊称を使わしめる貴人であった事が窺えよう。■■
吉良の血筋は、乱世でも重きを為していたのだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
後北条氏との関係を深める■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その成高の頃に、世田谷城は改修を受けたと考えられている。武略の人であった成高が、中世の武家居館から
地形を利用した城館へと進化させたと推測できよう。しかし、関東の戦国闘争はこの頃からさらに激烈なものへと
なっていく。相模国小田原(神奈川県小田原市)に基盤を固めた後北条氏が、南から武蔵国への進出を進めて
いたからだ。関東の実権を握っていたとは言えども、上杉氏は言わば“旧体制の家柄”である。一方、後北条氏は
それまでの伝統に縛られぬ新進気鋭の戦国大名。名将・太田道灌も没した後、趨勢が如何になるかは自明の理
だった。機に聡い成高は、後北条氏が江戸周辺を領有する事に成功した1524年(大永4年)正月の高縄原合戦
(東京都港区高輪)以後、それまでの親上杉氏路線を転換して後北条氏へ従属。1530年(享禄3年)世田谷城が
後北条氏に攻略された、とする記録はこうした渦中において後北条方が城を接収した状況を示したものであろう。
程なく城は吉良氏の手に戻されており、合戦で争奪したというような事では無いと推察する。成高は嫡子・頼康に
時の後北条氏当主・左京大夫氏綱の娘(蒔田殿)を娶わせている。後北条氏側でも、吉良氏には印判の使用を
認めている。現代とは違い、当時は書状に印判を用いる事が許されたのはごく一部の特権的階級に限られており
(将軍から認められた家格や職制あるいは大大名のみで、中小大名では不可能)■■■■■■■■■■■■■
吉良氏と後北条氏の関係は、相互に認め合う良好なものだったのであろう。新興勢力である後北条氏は、実力
以外に自身を正当化する権威が無かったからこそ「足利が絶えれば」の名族・吉良家を陣営に取り込み、家勢
向上を図った意味合いもあっただろう。事実、世田谷城を巡る攻防戦というのは記録に残されていないのだ。■■
頼康の代に世田谷吉良氏は全盛期を迎え、世田谷は(現在は纏めて「東京23区内」だが、当時は別の町)江戸と
並んで南武蔵の主要な産業・交通拠点に数えられていた。吉良頼康の所領は世田谷から衾(ふすま)村〜碑文谷
(ひもんや)郷(東京都目黒区)辺りまで広がって、加えて蒔田(まいた、神奈川県横浜市南区)にも後北条氏から
領地を与えられている。氏綱は関東制覇の戦に邁進する傍ら、戦火で荒廃した鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)の
修復事業も行っているが、これに賛同した頼康は建材・人夫を大いに負担しており、豊かな経済力を誇った様子が
分かる。彼もまた、1546年(天文15年)鶴岡八幡宮を模した世田谷八幡宮を城下に建立しており、領地の隆盛に
心を配っていた事が示されてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、後北条氏は更に領地を拡大し名実共に関東の覇者に成長していく。吉良氏との関係は相変わらず良好では
あったが、こうなると主従の差が明確なものとなり、頼康は実子を有していたものの後北条氏の意向で養子を貰い
受け家督を継がせる事に。迎え入れられたのは堀越六郎貞基(遠江今川氏)の子・氏朝(うじとも)。貞基の室も
氏綱の娘(高源院こと崎姫)で、頼康にとって氏朝は義理の甥という事になるのだが、いずれにせよ後北条一門の
血が吉良家に入っていく訳である。しかも氏朝には北条左京大夫氏康(氏綱の次代当主)の娘・鶴松院が娶わされ、
頼康・氏朝の2代に亘り吉良家の室に後北条家の娘が嫁いだ事になる。余談だが嫁入する鶴松院に氏康の叔父・
幻庵宗哲こと長綱が与えた教訓書が「幻庵おほえ書」だ。この書は戦国武家の所作指南書として非常に高名で、
武家礼儀作法の教科書的な存在として後世まで語り継がれてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
斯くして世田谷吉良家は後北条家の庇護下に置かれ、以後の経歴を紡ぐ。16世紀前半、世田谷城は後北条氏に
よる改造を受け、防備を固めたようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その後北条氏は1590年(天正18年)天下統一に王手をかけた豊臣秀吉から“最後の敵”と定められ、関東征伐が
行われる。全国から押し寄せる豊臣の軍に対し、後北条氏は本拠・小田原城の守りを固める一方、領内各地での
拠点防衛も図ったが多勢に無勢、遭えなく敗北を迎えてしまう。世田谷城は一戦も交えぬまま豊臣軍に占拠され、
廃城。城は破却され、古材は新たな関東の主となった徳川家康の居城・江戸城の建材として転用され申した。■■
吉良氏朝は数年後に没したが、嫡子・左兵衛佐頼久は家康の旗本として取り立てられ蒔田氏に改姓、江戸時代に
血を残している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
今は静かな住宅街の公園に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城は世田谷郷の丘陵地を利用した平山城とされ、後北条氏が整備した最終形態では現在の世田谷城址公園〜
豪徳寺境内まで含むかなり広大なものだったと考えられている。尤も、曹洞宗大谿山豪徳寺の起源は吉良政忠が
亡くなった伯母を弔う為に開いた弘徳院にあるので、城の一部なのは当然の事と言えよう。江戸時代になった後、
この寺が“招き猫”の伝説で徳川譜代大名・井伊家の菩提寺とされたのは、最近の「ひこにゃんブーム」でつとに
知られるようになった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
豪徳寺境内が切り離され、残りの敷地も明治以降の近代化で急速な宅地開発が為されたが、主郭部分と思しき
一角だけが幸運にも残存し、1940年(昭和15年)世田谷城址公園として一般開放されてござる。現状、公園敷地は
3835.72uだと言う。このようにして保全された公園敷地部分の旧跡は、遡れば1919年(大正8年)10月に東京市
(当時)史跡となり、太平洋戦争後の1952年(昭和27年)4月1日に東京都史跡に指定。1955年(昭和30年)3月28日
東京都旧跡へと変更されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城全体の縄張りは経堂台地の先端、南東側へ突き出した半島状の地形を利用したもので、城を囲うように西〜南
〜東へと烏山川が流れ、天然の外郭線を為す。更に北部(半島状台地の尾根続きな位置)には小支谷が入り込み
堀切同様の効果で上面側から地続きの侵攻を阻止する構造だった。この敷地内を大きく東西2つの曲輪に分け、
東側(突端側)が主郭、西側(豪徳寺側)が副郭とされる。曲輪の外縁は土塁や空堀で隔てられ、随所に櫓を設置。
特に主郭の最南端部(半島台地の最先端)には物見台が置かれていた。土塁はいわゆる比高二重土塁の体を為し、
後北条氏による改修を連想させる。近年は“後北条流築城術”という用語は忌避される傾向にあり、比高二重土塁に
関しても後北条氏に特有の構造物と考えるのを嫌う風潮だが、来歴からして後北条氏の手が入っているのは間違い
ないだろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そうは言っても城址公園以外の場所に城跡の遺構は皆無。烏山川も昭和40年代に暗渠化されており、世田谷城の
全体像を確認する術は既にない。かろうじて残された城址公園内は土塁から成る起伏が連なり城の要害ぶりを想像
させ、空堀跡が堀底道として使われた雰囲気を読み取れるが、これまた公園整備により法面をブロックで固められて
しまい、城跡らしい情緒はないのが残念。園内は樹木が豊富、四季折々の草花も多く散策には申し分ないのだが…。
最後に世田谷城と関連する伝説を一つ。吉良頼康の愛妾・常盤(ときわ)姫が身籠ると他の側室たちは嫉み、頼康に
ある事ない事を吹き込んで常盤姫を貶めた。とうとう頼康が讒言を信じ常盤姫を遠ざけたところ、彼女は孕んだ身の
まま城を落ち、自害してしまう。身を捨てる直前、実家の父に潔白を訴える文を可愛がっていた鷺の足にくくり付け
飛ばしたが、鷺は姫の父が住む奥沢城(世田谷区内)に辿り着く直前、敢え無く息絶えてしまった。それ以来、鷺が
力尽きた場所には鷺の形の花を咲かせる草が生えるようになったと言う。これが鷺草の名の由来なのだとか。■■
ちなみに、鷺草は世田谷区の花になっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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