武蔵国 品川台場

品川台場 第三台場と第六台場

所在地:東京都港区台場

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★★☆
公園整備度:★★★★



今でこそ「お台場」と言えば東京ウォーターフロントの観光地として有名な場所だが、
江戸時代末期においては、異国の襲来に備える江戸湾のフロントラインであった。
強力な武装を施した西洋列強の軍艦に対抗する最前線基地として構築された海上要塞、
それこそが「台場」すなわち砲台場の正体なのでござる。
話は1853年(嘉永6年)の事。それまで200年以上に渡って鎖国政策をとり続けた日本に対し
西洋各国は開国を要求。その中でもアメリカ合衆国は東インド艦隊の軍艦を派遣し
軍事圧力を以って江戸幕府への開国通告を行ってきた。有名な黒船来航の
事件である。米国の国書を携えたマシュー=カルブレイス=ペリー提督率いる
4隻の米艦隊は1853年6月3日、江戸湾の入口にあたる浦賀(神奈川県横須賀市)へ来航
幕府に対し国書受取を迫った。長射程砲を多数備えた黒船の出現に窮した幕府は、
とりあえず6月9日に国書を受け取ったものの、開国の判断は先延ばしにする。
これに対してペリーは翌年の再来を予告し、その時までの開国決定を促したのでござる。
浦賀から引き揚げるペリー艦隊は、いったん江戸湾の奥まで侵入し艦隊行動を展開。
江戸の中心部をいつでも攻撃できる事をほのめかし、幕府への圧力を加えて去って行った。
もちろん、幕府が大混乱に陥ったのは言うまでもない。長きに渡る太平の世を過ごし、
満足な軍備もない日本がいきなり外国の脅威に晒されたのである。
対応に苦慮する幕府は開国の判断を検討しつつも、万が一の防備を必要とし
日本沿岸を防衛する軍事拠点の構築を諸藩に指示した。斯くして、日本全国に
異国船に対する要撃体制を敷くべく「台場」と呼ばれる砲台場が多数建築される事となる。
その中でも特に重視されたのが江戸湾。幕府の本拠である江戸城目前にある海である。
海上から江戸城への攻撃を受ける事態を避けるべく、
幕府は江戸湾封鎖を急務とした。このため、伊豆韮山代官であった
江川太郎佐衛門英龍(ひでたつ)に命じて品川沖に砲台場を築造させたのでござる。
これが品川台場、現在は「お台場」と呼ばれる城郭の起源だ。
英龍は蘭学(オランダからもたらされた西洋学問)に通じる知識人。
艦砲射撃に対抗する砲撃戦の為に築く台場なれば、西洋の砲術理論に適う台場が必要とされ
こうした理由で英龍が抜擢されたのであった。英龍はオランダ兵学者である
エンゲルベルツの築城書を参考にして台場を設計、同年8月に工事が起工される。
当初の計画では、合計11基の台場を2列横隊に並べて展開させる予定であった。
翌1854年(安政元年)に一番台場〜三番台場が完成。加えて四番台場〜七番台場が
建造中という状況であったが、1基1万両という莫大な築城費用は幕府財政を逼迫させ
また、同年に日米和親条約が締結され当面の危機は回避された事から
台場築城計画は大幅に縮小される。結局、この年の7月に工事は中止され
竣工したのは一番〜三番・五番・六番台場の計5基。四番・七番台場は未完に終わり
八番〜十一番台場は着工されぬままでござった。
これら品川台場群は、西洋城郭理論によって築かれた稜堡式城郭であるが、
函館五稜郭に代表されるような星型の城郭ではない。1基1基の台場はほとんどが
菱型のような四辺形(あるいはその変形たる五角形)の縄張りになっており
1基の台場における四辺の砲座から計算される射軸が
他の台場の射軸と相互に補完して360度の射界を得るようになっていた。
要するに、稜堡(五稜郭における星型の突出部分)一つ一つが1基の台場という事だ。
こうした台場は大砲の運用を最優先に考えた設計となっており
台場の外周は土塁で固め砲座とし、その内側は平坦な窪地に整地して
弾薬の貯蔵や兵員の駐屯地として利用するようになっていた。
日本式築城法に多用される複雑な曲輪割りや迷路化、階段による高低差などは一切無く、
火砲や弾薬の運搬がスムーズに行えるよう単一の曲輪とされ、ほぼ平坦な敷地を確保し
土塁によって止むを得ず発生する高低差にはスロープが用意された。
砲撃戦が主眼である以上、敵を城内に引き入れて殲滅するような
白兵戦は想定していないため、このような構造になっているのだ。
当然、敵の砲撃目標となるような高層建造物は排除され
台場内に建てられた貯蔵庫や陣屋は全て平屋建ての低層建築でござった。
さて、異国船との砲戦を危惧して構築された品川台場であったが
結局実戦に用いられる事はないまま明治維新を迎え、利用価値はなくなった。
明治初頭まで放置された台場群は、その後の東京湾開発において順次廃棄され
破却や埋め立ての運命をたどる。大正時代に入っても残されていたのは
第三台場と第六台場のわずか2基で、ようやく史跡として保全される機運が高まる。
1916年(大正5年)、これら2基の台場は当時の東京市所管とされ
1926年(大正15年)12月20日に国史跡の指定を受け申した。
さらに1928年(昭和3年)7月7日、第三台場は都立(当時は府立)台場公園として
一般開放、現在に至っている。公園になった第三台場は整備も行き届き
お台場海浜公園から徒歩で渡る事ができるようになっている。
上の写真において、右側にある大きめの四角い島が第三台場でござる。
一方、第六台場は海によって隔絶したままで内部に立ち入る事はできない。
特に保全整備も行われていないので、台場内は鬱蒼とした森が生い茂り
海鳥の繁殖地となっているようだ。写真左端にあるレインボーブリッジ直下の島がそれ。
第三台場と第六台場、隣り合わせにして全く対照的な現況でござるなぁ…。


現存する遺構

石垣・土塁
城域内は国指定史跡








武蔵国 浜御殿台場(浜離宮庭園)

浜御殿台場 将軍御上り場(御成船着場)

所在地:東京都中央区浜離宮庭園

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★★★
公園整備度:★★★★☆



浜離宮恩賜庭園、東京都内でも屈指の名庭園として知られる観光名所だが
ここは幕末の一時期、幕府の砲台場として活用されていた。よって、
単なる庭園ではなく台場(城塞)遺構として当頁に掲載する事にしたい。
以下、徳川将軍家ゆかりの庭園としての経歴も含めて記載し申す。
江戸開府時このあたりは一面の葦原で、寛永年間(1624年〜1644年)までは
徳川将軍家の鷹狩場とされていたが、4代将軍・家綱期の1654年(承応3年)
徳川左馬頭綱重(つなしげ、家綱の弟)に1万5000坪が与えられ、
海の埋め立てが成されて彼の別邸が建てられた。1661年(寛文元年)
綱重は甲府藩主となり“甲府宰相”と尊称されたため、この別邸が
甲府浜屋敷、海手屋敷と呼ばれるようになり甲府藩下屋敷として
使われはじめ申した。1664年(寛文3年)には2万9500坪あまりが
敷地に加えられ、1669年(寛文9年)に作庭や建築工事が完了している。
1704年(宝永元年)、綱重の子である綱豊(つなとよ)が
5代将軍・綱吉後の徳川宗家を相続する事と決定し家宣と改名、
12月5日に江戸城西ノ丸へ入った。この為、浜屋敷は将軍家の別邸になり
家宣の手によって大掛かりな改修を受けて名も浜御殿と改められたのでござる。
ただし、浜御殿というのは一般名詞で日本全国他にも置かれており、
甲府浜屋敷の事だけを指す固有名詞ではない事に注意されたい。ともあれ
1707年(宝永4年)に行われたこの改修工事によって浜大手門・大手門橋
庚申堂・茶屋などが建てられた。綱吉が没し家宣が6代将軍となった
1709年(宝永6年)には浜御殿奉行の職が置かれ永井伊豆守直敬(なおひろ)が
任じられている。形としては邸宅であるが、この頃から江戸城の外郭として
考慮されていたとする説もあり、江戸湾の海原を借景とした庭園や茶屋が
整備された反面、火薬庫の設置や浜御殿詰め番士の設定など、
多かれ少なかれ軍事的側面も整えられている。例えば浜大手門には
5000石以上1万石以下の上位旗本から寄合衆が選ばれ3年在勤する事とされ、
番士3人が羽織袴を着用する決まりになっていた。浜大手門警備の備品として
鉄砲5・弓3・長柄槍10・持筒2・持弓1を常備している。これ以後、
浜御殿は歴代将軍によって整備維持され、主に鷹狩場として使用されたが
敷地内には内堀や土塁が構えられ、門は虎口で固められた上
馬場すなわち兵馬の教練場も設置されており、城塞としての機能を
保持していた事がわかり申そう。ちなみに海の目の前にあるだけあり
内堀の水(無論、庭園の池も)には海水が利用されている。
このため池泉は潮の干満に応じて水位が変化するのでござる。
浜屋敷時代に徳川綱吉が来訪して以来、浜御殿には歴代将軍が足しげく通い
様々に利用された。徳川吉宗が8代将軍になった翌年の1717年(享保2年)には
御殿周辺の水域を禁漁区とし、水練場とした。1724年(享保9年)に
江戸市中の火事が延焼し、浜御殿が焼失するも程なく再建されてござる。
この頃は吉宗による享保の改革が進行中で、西洋蘭学を積極的に取り入れる
治世方針に伴い1729年(享保14年)ベトナムから象が輸入され、浜御殿敷地内で
飼育されている。さらに同年、オランダ商館のケーゲルが浜御殿に宿泊し吉宗に
西洋騎馬術を披露。浜御殿は今で言う迎賓館の役割も果たしていたようだ。
この流れは幕末期に加速する。太平の時代を謳歌した11代将軍・家斉や
12代将軍・家慶らは浜御殿での鷹狩を何よりの楽しみとしていたようで
家斉期の改修で現状の浜離宮公園の体裁が整ったのだが、その直後に起きた
黒船来航と共に国際情勢は激変し開国の運びとなり、1867年(慶応3年)
イギリス全権公使ハリー=パークス、フランス全権公使レオン=ロッシュや
イタリア特派全権公使夫妻が来訪している。これに先立つ幕末外交と
浜御殿の関連が、台場すなわち戦闘城塞たる浜御殿台場の核心であろう。
1853年、ペリー率いるアメリカ合衆国東インド艦隊が日本へ来航、
それまで鎖国を続けていた幕府に対し武力を示して開国を要求した。
軍事力での対抗が難しかった幕府は開国判断を翌年に先延ばしする返答で
時間を稼いだが、この間に沿岸を防備する砲撃陣地、つまり台場を
全国各地に構築する命令を下した。幕府・諸大名はそれぞれ沿岸要地に
台場を築いていき、浜御殿でも護岸上に24ポンドカノン砲5門・榴弾砲3門を
設置し台場としたのでござる。また、御殿に隣接する汐留の地で
当時の幕閣内随一の知識人である韮山代官・江川英龍が指導して
砲術訓練を行った。この年、12代将軍・家慶が没し13代将軍となった
徳川家定は、翌1854年に浜御殿台場の沿岸砲実射訓練を上覧している。
江戸の海における前線城郭となった浜御殿台場は、幕末史の裏方として
随時名を現すようになり、1866年(慶応2年)7月第2次長州征伐の最中に
大坂城で病没した14代将軍・徳川家茂の遺体は海路で江戸へ回漕、9月に
ここ浜御殿台場の将軍御上り場(船着場、写真)で揚陸された例が
挙げられる。このように、開国後急激に用いられるようになった
西洋式艦船の幕府運用拠点として浜御殿台場が重きを成し、
それに伴って歴史的事象に携わっているのである。これは軍事面でも
同様であり、家茂没後の11月に幕府は浜御殿奉行を改組し海軍奉行とし
浜御殿を海軍所とした。この時、石室(後記)を着工してござる。
翌1867年、それまで築地南小田原町にあった幕府の軍艦操練所が
浜御殿の隣、現在の中央卸売市場付近に移転して来た。斯くして
浜御殿は江戸幕府海軍の総本拠となり、明治維新後の
草創期日本海軍もこれを継承していくのである。
ところが幕府は大政奉還、さらに鳥羽・伏見の戦いで敗北し事実上滅亡。
大坂城から戦線離脱した15代将軍・徳川慶喜が海路江戸へ帰還し上陸したのは
やはり浜御殿台場の将軍御上り場だった。1868年(明治元年)1月の事である。
京都から東国へと進軍した新政府軍は同年3月、江戸へ進駐。江戸城をはじめ
幕府の諸施設は接収され、浜御殿も同様でござった。8月に皇室のものとなった
浜御殿は太政官制における軍務官・外国官の預かるところとなり、
さらに11月、当時の東京府が所管するようになる。閏11月には
明治天皇が巡幸された。明治帝はこれ以後、幾度となく浜御殿(浜離宮)へ
足を運んでござる。そして翌1869年(明治2年)5月、工事が継続されていた
石室が完成、延遼館(えんりょうかん)と名付けられ外国官の所管となった。
ここでこの建物について詳細を記す。元来、幕府の海軍伝習屯所として
構築されたもので、日本初の石造洋館でござる。工事途中に幕府が消滅し
明治新政府の下で完成を迎えた建物は、維新直後の迎賓館として
鹿鳴館が完成するまで使用される事となった。幕府時代から続いて
浜御殿は外交の舞台であり続けたのである。その一方、延遼館部分を除いた
御殿敷地は1870年(明治3年)に宮内省の所管する離宮となる。
ここに、浜御殿の名は現在通用する浜離宮となり申した。これにより
台場として設置されていた大砲は撤去され、軍事的機能は消失される。
隣の築地にあった旧幕府軍艦操練所が改組され海軍操練所、さらに
1876年(明治9年)海軍兵学校となり、そちらが海軍機能の中枢となった。
斯くして浜離宮は皇室離宮・外交部署として運用されるようになり
幕末〜維新頃の様子が来日写真家として有名なフェリーチェ=ベアトにより
撮影されている。同じく来日外国人にして日本国内の有名建築を
数多く手掛けた建築家・ジョサイア=コンドルは1879年(明治12年)
延遼館の改修を行い、この年の6月に国賓として来日した前アメリカ大統領
ユリシーズ=グラント陸軍元帥が1ヶ月にわたって逗留、浜離宮庭園内の
中島茶屋で明治天皇と会談している。1888年(明治21年)には
オーストリア帝国のルドルフ皇太子も来訪した。
しかし翌1889年(明治22年)、老朽化を理由に延遼館が取り壊されて以後
浜離宮は受難の時代を迎える。大正年間(1912年〜1926年)に
離宮敷地を払い下げ、鉄道敷設や魚市場への転用を図る計画が持ち上がり
本多静六林学博士ら有識者の提言によって回避されたものの、
1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災によって大きな被害を受けた。
この時、残存していた浜大手門の渡櫓門建築が全損。他にも大手門橋
汐見茶屋が焼失した上、復旧工事の際に中門の枡形石垣が撤去されている。
1944年(昭和19年)には太平洋戦争の空襲で多数の建物が失われ、
江戸時代以来残されていた建物は芳梅亭を残して全滅してござる。
敗戦後の1945年(昭和20年)11月3日、離宮解除となり東京都へ下賜。
1946年(昭和21年)4月1日から浜離宮恩賜庭園として公園開放されたが
1947年(昭和22年)にはGHQ(連合国軍総司令部)の命令により占領米軍の
練兵場となり、翌1948年(昭和23年)にテニスコート5面が作られてしまった。
戦後法制の整備によってようやく復権の兆しが現れたのがこの年の年末。
文化財保護法に基づき12月18日、国の名勝ならびに史跡として指定を受け
1952年(昭和27年)3月29日に追加指定、さらに11月22日には特別名勝
特別史跡になっている。1949年(昭和24年)の台風10号(キティ台風)で
将軍御上り場石段の一部が海中に没したが、史跡指定範囲は
陸上部25万215.72u(7万5690坪)、加えて海上部91m+河川上18m区間。
この敷地中に雄大な池泉回遊式庭園が江戸期以来の姿で残されている他、
馬場や2つの鴨場(鴨猟用の泉水)があり東京都内でも屈指の大名庭園として
必見の場所でござる。また、城郭遺構として辺縁部の石垣や門址枡形、
各所土塁、内堀、水門、雁木、船着場などが残されているため、
城郭愛好家の目線で見れば「立派な城址」でもある。
浜離宮へ通じる橋は江戸時代には4箇所であった時期があるというものの
現状では2箇所(大手門橋・中の御門橋)だけ架けられている。
このうち大手門橋が公園の主出入口となっており、入場口を入るや
大手門枡形の見事な石垣が出迎えてくれる。この枡形は内法43m×27mの
規模を有しており、江戸城内の各城門枡形よりも大きいとされる。
関東大震災で消失するまで、ここに渡櫓門が建てられていたが
こちらの櫓台も幅8m×長さ33m、江戸城内の各渡櫓門基台より大きい。
ただし、古写真に残る渡櫓の姿は櫓台の半分程度しか占有しないものなので
1707年の建築以来、櫓台石垣に比べて小型な建物が置かれていたようだ。
ともあれ、この大手門はじめ敷地内の古建築は芳梅亭以外
全て失われているのが残念。時代ごとに記録が異なり、浜御殿時代は
盛んに建て替えが行われていたようであるが、現在では当時の様子を
推測する事すら叶わない。おそらくこうした建物があれば、
誰の目から見ても浜離宮が城郭であったと認められよう。
そうは言っても、建物が無かろうが浜離宮は第一級の史跡・名園である。
駅から歩いて行けるだけでなく、水上バスでの来訪も可能なので
これほど観覧しやすい庭園はそう多くない筈だ。徳川家宣お手植えと伝わる
三百年の松(東京都内最大の黒松)をはじめとする園内の草木も
四季折々に華やかな様子を見せてくれるので、都心散策の折には
是非とも見学したい場所としてオススメしておく。


現存する遺構

堀・石垣・土塁・馬場・曲輪群等
城域内は国指定特別史跡・特別名勝




奥多摩地域城址群  世田谷城・渋谷城・深大寺城