武蔵国 品川台場

品川台場 第三台場と第六台場

 所在地:東京都港区台場

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆
★★★★



太平の 眠りを醒ます 砲台場■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
今でこそ「お台場」と言えば東京ウォーターフロントの観光地として有名な場所だが、江戸時代末期においては
異国の襲来に備える江戸湾のフロントラインであった。強力な武装を施した西洋列強の軍艦に対抗する最前線
基地として構築された海上要塞、それこそが「台場」すなわち砲台場の正体なのでござる。■■■■■■■■■
話は1853年(嘉永6年)の事。それまで200年以上に渡って鎖国政策をとり続けた日本に対し、西洋各国は開国
要求を突き付けてきた。中でもアメリカ合衆国は東インド艦隊の軍艦を派遣し、軍事圧力を以って江戸幕府への
開国通告を行った。有名な黒船来航の事件である。米国の国書を携えたマシュー=カルブレイス=ペリー提督
率いる4隻の米艦隊は1853年6月3日、江戸湾の入口にあたる浦賀(神奈川県横須賀市)へ来航、幕府に対して
国書受取を迫った。長射程砲を多数備えた黒船の出現に窮した幕府は、とりあえず6月9日に国書を受け取った
ものの、開国の判断は先延ばしにする。これに対してペリーは翌年の再来を予告し、その時までの開国決定を
促したのでござる。浦賀から引き揚げるペリー艦隊は、いったん江戸湾の奥まで侵入し艦隊行動を展開。江戸の
中心部をいつでも攻撃できる事をほのめかし、幕府への圧力を加えて去って行った。■■■■■■■■■■■
もちろん、幕府が大混乱に陥ったのは言うまでもない。長きに渡る太平の世を過ごし、満足な軍備もない日本が
いきなり外国の脅威に晒されたのである。対応に苦慮する幕府は開国の判断を検討しつつも、万が一の防備を
必要とし、日本沿岸を防衛する軍事拠点の構築を諸藩に指示した。斯くして、日本全国で異国船に対する要撃
体制を敷くべく「台場」と呼ばれる砲台場が多数建築される事となる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■

江戸湾防備の切り札…の筈が■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その中でも特に重視されたのが江戸湾。幕府の本拠である江戸城(東京都千代田区)目前にある海である。
海上から江戸城への攻撃を受ける事態を避けるべく、幕府は江戸湾の封鎖を急務とした。このため、伊豆韮山
代官であった江川太郎佐衛門英龍(ひでたつ)に命じて品川沖に砲台場を築造させた。これが品川台場、現在は
「お台場」と呼ばれる城郭の起源だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
英龍は蘭学(オランダからもたらされた西洋学問)に通じる知識人。艦砲射撃に対抗する砲撃戦の為に築く台場
なれば、西洋の砲術理論に適う設備が必要とされ、こうした理由で英龍が抜擢されたのだった。英龍はオランダ
兵学者であるエンゲルベルツの築城書を参考にして台場を設計、同年8月に工事が起工される。■■■■■■
当初の計画では、合計11基の台場を2列横隊に並べて展開させる予定であった。詳しく言えば、品川沖に第一
台場を置き、そこから北東に向かって第二・第三台場を設置。それと並行するようにして第四〜第六台場を敷設、
第一・第四台場、第二・第五台場、第三・第六台場が隣り合わせとなる形に候。そこから先には第七から第十一
台場がほぼ一列に並ぶ計画。第八台場だけは少し南にずれた位置だったので、第七・第八台場も隣同士になり
計画上では、第八台場が現在の有明北緑道公園のあたり、第九台場が豊洲市場7街区水産売場棟付近、第十
台場は同5街区青果棟、第十一台場はゆりかもめ新豊洲駅の近くに築かれる事となっていた。言うまでもないが、
有明や豊洲は現代の埋め立て地なので、当時は海の中である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
翌1854年(安政元年)に一番台場〜三番台場が完成。加えて四番台場〜七番台場が建造中という状況だったが
1基1万両という莫大な築城費用は幕府財政を逼迫させ、また、同年に日米和親条約が締結されて当面の危機は
回避された事から、台場築城計画は大幅に縮小される。結局、この年の半ばに工事は中止となり、竣工したのは
一番〜三番・五番・六番台場の計5基。四番・七番台場は未完に終わり、八番〜十一番台場は着工されぬままで
ござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

人工島要塞の戦闘教義(ドクトリン)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
これらの品川台場群は、西洋城郭理論によって築かれた稜堡式城郭であるが、函館五稜郭(北海道函館市)に
代表されるような星型の城郭ではない。1基1基の台場は殆んどが菱型のような四辺形(あるいはその変形たる
五角形)の縄張りになっており、1基の台場における四辺の砲座から計算される射軸が他の台場の射軸と相互に
補完して360度の射界を得るようになっていた。要するに、稜堡(五稜郭における星型の突出部分)一つ一つが
1基の台場という事だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうした台場は大砲の運用を最優先に考えた設計となっており、台場の外縁は土塁で固め砲座とし、その内側は
平坦な窪地に整地して弾薬の貯蔵や兵員駐屯地として利用するようになっていた。日本式築城法に多用される
複雑な曲輪割りや迷路化、階段による高低差などは一切無く、火砲や弾薬の運搬が迅速に行えるように単一の
曲輪とされ、ほぼ平坦な敷地を確保し、土塁によって止むを得ず発生する高低差にはスロープが用意された。
砲撃戦が主眼である以上、敵を城内に引き入れて殲滅するような白兵戦は想定していない為、このような構造に
なっているのだ。当然、敵の砲撃目標となるような高層建造物は排除され、台場内に建てられた貯蔵庫や陣屋は
全て平屋建ての低層建築でござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
第一〜第十一(予定)台場の配置にも妙が凝らされている。江戸湾に侵入し、江戸城・江戸市街地を砲撃できる
最深部まで外国船が入って来るならば、必ず品川沖を通らねばならない。深川沖、つまり有明や豊洲と言った
現在の埋め立て地一帯は水深が浅く、また海流の関係から大砲を備える大型艦船は座礁の懸念があるからだ。
品川から有明にかけて列を成して台場が並ぶなら、そうした大型船も台場の隙間を縫って進まねばならず、当然
台場からは砲撃(阻止行動)が行われるので当時の操艦技術・船体構造ではそれも無理。江川英龍はそのような
作戦まで考慮し一連の台場建造計画を練ったのだろうから、まさに英邁であったと言える。一方、動かぬ台場では
敵艦船から狙い撃ちされるのも必然。海戦として柔軟な対応を想定するなら、本来は敵に抗せる軍艦を配備して
「海軍力」を強化するのが最適解でもある。この点は、他ならぬ江川自身が「軍艦建造が第一、台場は次の策」と
上申していた処なのだが、それを差し置いてフネの建造(軍艦の調達)よりもまず台場築造を選んだ幕府の対応は
やはり200年の太平に腰が重かったと云う事なのか、或いは軍艦より台場の方が確実に作れるという“築城術”を
盲信していた結果なのか…?もっとも、近代兵制となった後でも東京湾内には第一〜第三海堡の人工島要塞が
構築されており、その戦術理論は後の時代にも受け継がれた訳だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■

史跡としての品川台場■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、異国船との砲戦を危惧して構築された品川台場であったが、結局実戦に用いられる事無きまま明治維新を
迎え、利用価値はなくなった。明治初頭まで放置された台場群は、1873年(明治6年)に海軍省が所管し、1875年
(明治8年)からは陸軍省が管轄する事となったが、その後の東京湾開発において順次廃棄され破却や埋立ての
運命を辿った。大正時代に入っても残されていたのは第三台場と第六台場の僅か2基で、ようやく史跡として保全
される機運が高まる。1916年(大正5年)にこれら2基の台場は当時の東京市所管とされ、1926年(大正15年)12月
20日に国史跡の指定を受けた。さらに1928年(昭和3年)7月7日、第三台場は都立(当時は府立)台場公園として
一般開放、現在に至っている。公園になった第三台場は整備も行き届いて、お台場海浜公園から徒歩で渡る事が
できるようになっている。上の写真において、右側にある大きめの四角い島が第三台場でござる。敷地内には陣屋
(兵営)跡や配備兵の食事を賄った竃の跡、火薬庫(穴蔵)跡、それに砲座の痕跡が確認できるようになっている。
一方の第六台場は海によって隔絶したままで、内部に立ち入る事は出来ない。特に整備も行われていないので、
台場内は鬱蒼とした森が生い茂り海鳥の繁殖地となっているようだ。写真左端にある、レインボーブリッジ直下の
島がそれ。第三台場と第六台場、隣り合わせにして全く対照的な現況でござるなぁ…。■■■■■■■■■■■
ともあれ、史跡としての価値は十分。保存状態も良好。都心の目の前という立地も最高。これ以上ない城跡として
2017年(平成29年)4月6日、財団法人日本城郭協会から続日本百名城の一つに選ばれ申した。■■■■■■■
なお、近代の埋め立て・整地作業に伴って旧台場遺材、特に地杭や石材の何点かが出土・保管されている。■■



現存する遺構

石垣・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡

移設された遺構として
地杭・石垣古材








武蔵国 御殿山下台場

御殿山下台場跡 記念碑と解説板

 所在地:東京都品川区東品川

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 あり

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御殿山の下に作った台場■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
品川台場群の構築は海中に人工島を作る大規模工事で、事前の測量調査で比較的深度の浅い場所を選んで設置されたのだが
(第二台場と第五台場の間、第七台場と第八台場の間に古隅田川海底渓谷の澪筋が走っており、それを避けて選地している)
それでも基礎工事(ここで使われたのが地杭)から石垣の構築、何より埋め立ての土砂という大量の資材を必要とした。地杭用の
木材は関東一円から取り寄せ、石垣石材は江戸城の石垣を築いたのと同じく真鶴半島や伊豆半島から調達し輸送。そして土砂は
手近の山を切り崩す事で突貫工事を成し遂げた。ここで崩されたのが品川周辺にある八ツ山・泉岳寺山・御殿山と言う低山だ。
ところが上記の如く、台場工事は途中で中止となってしまう。完成していたのは第一〜第三と第五・第六台場だけで、第四台場と
第七台場は未完成放棄、それ以外は未着工のままだった。その一方、切り崩した御殿山の麓にも別の砲台を築いている。これが
御殿山下台場(御殿山下砲台)で、品川台場群が海中の人工島だったのに対し、こちらは陸上の臨海台場であった。■■■■■
地図を見てみると、品川区の北辺部には目黒川が流れている。JR五反田駅〜JR大崎駅〜京急新馬場駅を縫って天王洲運河へ
注いでいるが、河口部は現代の河川改修による流路で、明治までは新馬場駅の辺りから大きく曲がって北へ進み、現在の八ツ山
通りがその流路であった。京急北品川駅前に架かる北品川橋に入り江があるのは旧目黒川河口の名残りであり、東品川1丁目の
町域は旧目黒川に沿って伸びる半島状の陸地だった訳だが(それより東にある天王洲や北の品川駅港南口一帯は後の造成地)
御殿山下台場はこの半島の北端部を使って作られた。その目の前に途中放棄された第四台場があり、更に一連の品川台場群が
北東へ向かって伸びている位置関係にある。いわば「品川台場の根元」に当たるのが御殿山下台場でござった。■■■■■■■

儚く消えた御殿山下台場の歴史■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
よく言われるのが、品川台場工事が取り止めになった代わりとしてこの台場が作られたという話である。されども御殿山下台場の
着工は1854年1月、品川台場計画の中止はその後なので、御殿山下台場の工事は品川台場と同時進行で行われていた。結局、
こちらの台場は同年11月(12月とも)に完成し、規模の大きさもあって154門もの大砲が配備されたと言う。■■■■■■■■■■
御殿山下台場の警備は鳥取藩池田家に命じられ、後に他の藩へ持ち回りとなったが、最終的に幕藩体制は崩壊して品川台場と
同じく役目を終えた。明治になると、工事中止となった第四台場に代わり“稜四番”と呼ばれるようになる。逆に、放棄された本来の
第四台場は“崩れ台場”と称されたそうな。どうやら四番の扱いは第四台場と御殿山下台場の間で混在するようになってしまったが
どちらにせよ、両者とも近代化の埋め立てによって元の形状を失い、内地に取り込まれていった。■■■■■■■■■■■■■
残存していた品川第三台場と第六台場が国史跡となる頃、既に第四台場も御殿山下台場も民有地として転用されており、1957年
(昭和32年)御殿山下台場の南半分を利用して品川区立台場小学校が開校。現在ではすっかり住宅街の中に消えてしまった。
ただ、地図をよく見れば御殿山下台場の原型である五角形は街路として残っている。台場小学校とその北にある高層住宅、更に
その西側にある某瓦斯器具製造会社の関東支社が入っている区画を繋げると野球の本塁板のような形状になるのだが、これが
御殿山下台場の跡地だ(台場小学校の敷地が五角形なのでそれが台場跡のように見えるが、もう一回り大きい範囲)。台場だった
遺構らしい遺構は残っていないが、小学校の前には解説板が置かれ、また品川灯台を模した像(写真)が立っている。品川灯台は
品川第二台場の西端に1870年(明治3年)日本で3番目の洋式灯台として建てられたのだが1957年に廃灯され1964年(昭和39年)
愛知県犬山市にある博物館明治村へ移築されている。1968年(昭和43年)4月25日、国重要文化財に指定。ちなみに日本最初の
洋式灯台は観音埼灯台、2番目は野島埼灯台だがいずれも地震で倒壊しており、現存の灯台建築としては移築品川灯台が最古。
その品川灯台を模した台場小学校校門前の像だが、基壇になっている石垣は御殿山下台場で使われていた石垣古材を転用して
組み上げたものだと云う。と言っても何だか乱雑に…もとい、荒々しい組み上げ方をしていて、品川台場に残っている石垣とは随分
風合いが異なって見えるのは御愛嬌、としておこう。石材が数個でも残されているだけ良しとしておかねばなるまい。■■■■■■
そういう状態なので、国史跡や続百名城となった品川台場とは全く違い史跡指定などは皆無。跡地も学校や住宅地なので、あまり
堂々と見学できるような環境でもない。それどころか、台場跡地をなぞる道路は細道・裏道のようなものなので車で進入するのも
ひと苦労(しかも一方通行路多し)、当然ながら駐車場所も無いので来訪時には注意すべきでござろう。台場跡地の中心に台場浦
公園という小公園があるので、辛うじて御手洗だけは確保されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

郭跡

移設された遺構として
石垣古材








武蔵国 浜御殿台場(浜離宮庭園)

浜御殿台場 将軍御上り場(御成船着場)

 所在地:東京都中央区浜離宮庭園

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★★
★★★★☆



甲府徳川家から将軍が誕生した事で■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
浜離宮恩賜庭園。東京都内でも屈指の名庭園として知られる観光名所なのだが、ここは幕末の一時期、幕府の
砲台場として活用されていた。よって、単なる庭園ではなく台場(城塞)遺構として当頁に掲載する事にしたい。
以下、徳川将軍家ゆかりの庭園としての経歴も含めて記載し申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
江戸開府時このあたりは一面の葦原で、寛永年間(1624年〜1644年)迄は徳川将軍家の鷹狩場とされていたが
4代将軍・家綱期の1654年(承応3年)徳川左馬頭綱重(つなしげ、家綱の弟)に1万5000坪が与えられ、海の埋め
立てが成されて彼の別邸が建てられた。1661年(寛文元年)綱重は甲府藩主となり“甲府宰相”と尊称されたため
この別邸が甲府浜屋敷、海手屋敷と呼ばれるようになり、甲府藩下屋敷として使われ始めた。1664年(寛文3年)
2万9500坪あまりが敷地に加えられ、1669年(寛文9年)に作庭や建築工事が完了している。■■■■■■■■■
1704年(宝永元年)、綱重の子である綱豊(つなとよ)が5代将軍・綱吉後の徳川宗家を相続する事と決定し家宣に
改名、12月5日に江戸城西ノ丸へ入った。このため、浜屋敷は将軍家の別邸となり、家宣の手によって大掛かりな
改修を受け、名も浜御殿と改められたのである。但し、浜御殿というのは一般名詞で日本全国他にも置かれており
甲府浜屋敷の事だけを指す固有名詞ではない事に注意されたい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、1707年(宝永4年)に行われたこの改修工事により浜大手門・大手門橋・庚申堂・茶屋などが建てられた。
綱吉没し家宣が6代将軍となった1709年(宝永6年)には浜御殿奉行の職が置かれ永井伊豆守直敬(なおひろ)が
任じられている。形としては邸宅だが、この頃から江戸城の外郭として考慮されていたとする説もあり、江戸湾の
海原を借景とした庭園や茶屋が整備された反面、火薬庫の設置や浜御殿詰め番士の設定など、多かれ少なかれ
軍事的側面も整えられている。例えば浜大手門には5000石以上1万石以下の上位旗本から寄合衆が選ばれ3年
在勤する事とされ、番士3人が羽織袴を着用する決まりになっていた。浜大手門警備の備品として、鉄砲5・弓3・
長柄槍10・持筒2・持弓1を常備している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

将軍家の庭園となって■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
これ以後、浜御殿は歴代将軍によって整備維持され、主に鷹狩場として使用されたが、敷地内には内堀や土塁が
構えられ、門は虎口で固められた上、馬場すなわち兵馬の教練場も設置されており、城塞としての機能を保持して
いた事がわかる。ちなみに海の目の前にあるだけあり内堀の水(無論、庭園の池も)には海水が利用されている。
このため池泉は潮の干満に応じて水位が変化するのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
浜屋敷時代に徳川綱吉が来訪して以来、浜御殿には歴代将軍が足しげく通い様々に利用された。徳川吉宗が8代
将軍になった翌年の1717年(享保2年)には御殿周辺の水域を禁漁区とし、水練場とした。1724年(享保9年)に江戸
市中の火事が延焼し、浜御殿が焼失するも程なく再建されてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この頃は吉宗による享保の改革が進行中で、西洋蘭学を積極的に取り入れる治世方針に伴い1729年(享保14年)
ベトナムから象が輸入され、浜御殿敷地内で飼育されている。更に同年、オランダ人のゲーゼルが浜御殿に宿泊し
吉宗に西洋騎馬術を披露。浜御殿は今で言う迎賓館の役割も果たしていたようだ。■■■■■■■■■■■■■
この流れは幕末期に加速する。太平の時代を謳歌した11代将軍・家斉や12代将軍・家慶らは浜御殿での鷹狩を
何よりの楽しみとしていたようで、家斉期の改修で現状の浜離宮公園の体裁が整ったのだが、その直後に起きた
黒船来航と共に国際情勢は激変し開国の運びとなり、1867年(慶応3年)イギリス全権公使のハリー=パークス、
フランス全権公使・レオン=ロッシュやイタリア特派全権公使夫妻が来訪している。■■■■■■■■■■■■■
これに先立つ幕末外交と浜御殿の関連が、台場すなわち戦闘城塞たる浜御殿台場の核心であろう。■■■■■

幕末期には海軍本拠に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1853年、ペリー率いるアメリカ合衆国東インド艦隊が日本へ来航、それまで鎖国を続けていた幕府に対し武力を
示して開国を要求した。軍事力での対抗が難しかった幕府は開国判断を翌年に先延ばしする返答で時を稼いだが
この間に沿岸を防備する砲撃陣地、つまり台場を全国各地に構築する命令を下した。幕府・諸大名はそれぞれ
沿岸要地に台場を築いていき、浜御殿でも護岸上に24ポンドカノン砲5門・榴弾砲3門を設置し台場としたのである。
また、御殿に隣接する汐留の地で当時の幕閣内随一の知識人である韮山代官・江川英龍が指導して砲術訓練を
行った。この年12代将軍・家慶が没し13代将軍となった徳川家定は、翌1854年に浜御殿台場の沿岸砲実射訓練を
上覧している。江戸の海における前線城郭となった浜御殿台場は、幕末史の裏方として随時名を現すようになり、
1866年(慶応2年)7月20日、第2次長州征伐の最中に大坂城(大阪府大阪市中央区)で病没した14代将軍・徳川
家茂の遺体は海路で江戸へ回漕、9月6日にここ浜御殿台場の将軍御上り場(船着場、写真)で揚陸された例が
挙げられる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
このように、開国後急激に用いられるようになった西洋式艦船の幕府運用拠点として浜御殿台場が重きを成し、
それに伴って歴史的な事象に携わっているのである。これは軍事面でも同様であり、家茂没後の11月に幕府は
浜御殿奉行を改組し海軍奉行とし、浜御殿を海軍所とした。この時、石室(後記)を着工してござる。翌1867年には
それまで築地南小田原町にあった幕府の軍艦操練所が浜御殿の隣、現在の中央卸売市場付近に移転して来た。
斯くして浜御殿は江戸幕府海軍の総本拠となり、明治維新後の草創期日本海軍もこれを継承していくのである。

明治新政府の管理下に置かれ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが幕府は大政奉還、さらに鳥羽・伏見の戦いで敗北し事実上滅亡。■■■■■■■■■■■■■■■■■
大坂城から戦線離脱した15代将軍・徳川慶喜が海路にて江戸へ帰還し上陸したのは、やはり浜御殿台場の将軍
御上り場だった。1868年(明治元年)1月の事である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
京都から東国へと進軍した新政府軍は同年3月、江戸へ進駐。江戸城はじめ幕府の諸施設は接収され、浜御殿も
同様だった。8月に皇室のものとなった浜御殿は太政官制における軍務官・外国官の預かるところとなり、更に11月
当時の東京府が所管するようになる。閏11月には明治天皇が巡幸された。明治帝はこれ以後、幾度となく浜御殿
(浜離宮)へと足を運んでいる。そして翌1869年(明治2年)の5月、工事が継続されていた石室が完成して、延遼館
(えんりょうかん)と名付けられ外国官の所管となった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ここでこの建物について詳細を記す。元来、幕府の海軍伝習屯所として構築されたもので、日本初の石造洋館で
ござる。工事途中に幕府が消滅し、明治新政府の下で完成を迎えた建物は、維新直後の迎賓館として鹿鳴館が
完成するまで使用される事となった。幕府時代から続いて浜御殿は外交の舞台であり続けたのである。その一方、
延遼館部分を除いた御殿敷地は1870年(明治3年)に宮内省の所管する離宮となる。■■■■■■■■■■■■
ここに、浜御殿の名は現在通用する浜離宮となり申した。これにより台場として設置されていた大砲は撤去され、
軍事的機能は消失される。隣の築地にあった旧幕府軍艦操練所が改組され海軍操練所、さらに1876年(明治9年)
海軍兵学校となり、そちらが海軍機能の中枢となった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
斯くして浜離宮は皇室離宮・外交部署として供されるようになり、幕末〜維新頃の様子が来日写真家として有名な
フェリーチェ=ベアトの手で撮影されている。同じく来日外国人にして日本国内の有名建築を多く手掛けた建築家・
ジョサイア=コンドルは1879年(明治12年)延遼館の改修をし、この年の6月に国賓として来日した前米国大統領・
ユリシーズ=グラント陸軍元帥が1ヶ月にわたって逗留、浜離宮庭園内の中島茶屋で明治天皇と会談している。
1888年(明治21年)にはオーストリア帝国のルドルフ皇太子も来訪した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■

近現代の波高し、それでも…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし翌1889年(明治22年)、老朽化を理由に延遼館が取り壊されて以後、浜離宮は受難の時代を迎える。■■■
大正年間(1912年〜1926年)に離宮敷地を払い下げ、鉄道敷設や魚市場への転用を図る計画が持ち上がり、本多
静六林学博士ら有識者の提言によって回避されたものの、1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災により
大きな被害を受けた。この時、残存していた浜大手門の渡櫓門建築が全損。他にも大手門橋・汐見茶屋が焼失した
上に、復旧工事の際には中門の枡形石垣が撤去されている。1944年(昭和19年)には太平洋戦争の空襲で多数の
建物が失われ、江戸時代以来残されていた建物は芳梅亭を残して全滅してござる。■■■■■■■■■■■■■
敗戦後の1945年(昭和20年)11月3日、離宮解除になり東京都へと下賜。1946年(昭和21年)4月1日から浜離宮恩賜
庭園として公園開放されたが、1947年(昭和22年)にはGHQ(連合国軍総司令部)の命令により占領米軍の練兵場と
なり、翌1948年(昭和23年)にテニスコート5面が作られてしまった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦後法制の整備によってようやく復権の兆しが現れたのはこの年の年末。文化財保護法に基づき12月18日、国の
名勝ならびに史跡として指定を受け、1952年(昭和27年)3月29日に追加指定、さらに11月22日には特別名勝・特別
史跡になっている。1949年(昭和24年)の台風10号(キティ台風)では将軍御上り場石段の一部が海中に没したが、
史跡指定範囲は陸上部25万215.72u(7万5690坪)、加えて海上部91m+河川上18m区間。この敷地の中に雄大な
池泉回遊式庭園が江戸時代以来の姿で残されている他、馬場や2つの鴨場(鴨猟用の泉水)があり、東京都内でも
屈指の大名庭園として必見の場所である。また、城郭遺構として辺縁部の石垣や門址枡形、各所土塁、内堀、水門、
雁木、船着場などが残されているため、城郭愛好家の目線で見れば「立派な城址」でもある。■■■■■■■■■
浜離宮へ通じる橋は江戸時代には4箇所だった時期があると云うも、現状では2箇所(大手門橋・中の御門橋)だけ
架けられている。このうち大手門橋が公園の主出入口となっており、入場口を入るや大手門枡形の見事な石垣が
出迎えてくれる。この枡形は内法43m×27mの規模を有しており、江戸城内の各城門枡形よりも大きいとされる。
関東大震災で消失するまでここに渡櫓門が建てられていたが、こちらの櫓台も幅8m×長さ33m、江戸城の各渡櫓門
基台より大きい。ただし、古写真に残る渡櫓の姿は櫓台の半分程度しか占有しないものなので、1707年の建築以来
櫓台石垣に比べて小型な建物が置かれていたようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、この大手門はじめ敷地内の古建築は芳梅亭以外全て失われているのが残念。時代ごとに記録が異なり、
浜御殿時代は盛んに建て替えが行われていたようであるが、今では当時の様子を推測する事すら叶わない。恐らく
こうした建物があれば、誰の目から見ても浜離宮が城郭であったと認められよう。■■■■■■■■■■■■■■
さりとて、建物が無かろうが浜離宮は第一級の史跡・名園である。駅から歩いて行けるだけでなく、水上バスを使った
来訪も可能なので、これほど観覧しやすい庭園はそう多くない筈だ。徳川家宣お手植えと伝わる三百年の松(東京
都内最大の黒松)をはじめとする園内の草木も四季折々に華やかな様子を見せてくれるので、都心散策の折には
是非とも見学したい場所としてオススメしておく。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・石垣・土塁・馬場・曲輪群等
城域内は国指定特別史跡・特別名勝




多摩地域城址群  世田谷城・渋谷城・深大寺城