武蔵国 初沢山城

初沢山城標柱

所在地:東京都八王子市初沢町

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:☆■■■■



八王子市の浅川中学校裏にある山が初沢山城でござる。
登山道が整備されているので登城は非常に楽。
その気になれば麓から20分で頂上へ上ることができる。
登山道の途中で土塁や曲輪となるような削平地がいくつか見うけられ、
頂上からは高尾駅が真正面に望める展望が開けている。
加えて甲州街道がすぐ脇を通っており、ここが交通の要所であることは明らか。
こうした経路は古来から武蔵国(現在の東京都・埼玉県と神奈川県の一部)と
甲斐国(山梨県)を結んでいた街道であり、初沢山城は
小仏峠(東京都と神奈川県境の峠)方面の監視を行うために築かれた山城でござろう。
詳しい創建時期は不明ながら、鎌倉幕府の政所別当・大江広元から分岐した一族、
長井氏が築いた城郭だと言われている。長井氏は鎌倉幕府に続き建武新政期、
室町幕府成立後もこの地を支配し、関東管領上杉氏の配下にあったと見られるが
戦国時代になると小田原から伸張した後北条氏が武蔵国を制圧し、
それに伴って初沢山城も後北条氏の領有する城となったようだ。
上記した通り、甲斐国方面を睨む小仏峠の動向に備えつつ
後北条氏が多摩地域を統治するために用いるようになった初沢山城であったが
1590年(天正18年)豊臣秀吉による後北条氏討伐の戦いにおいては
抵抗拠点として不向きと判断され放棄されてしまった。
結果として、初沢山城は豊臣軍によって占拠された後、廃城となったらしい。


現存する遺構

堀・土塁・曲輪群等
城域内は都指定史跡








武蔵国 勝沼城

青梅勝沼城跡

所在地:東京都青梅市東青梅・師岡町

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★☆■■■
公園整備度:☆■■■■



JR青梅線東青梅駅からほど近い光明寺の裏山が勝沼城。
城址からは青梅の市街が一望できると共に青梅街道を睨む交通の要衝。
多摩西部の古豪・三田(みた、さんだとも)氏歴代の本拠とされる城郭でござる。
三田氏は桓武平氏の末裔と言われ、平安時代からこの地を領有した在地武士で
鎌倉幕府や室町幕府からも父祖の地を安堵されて勢力を築いていた。
関東管領上杉氏配下の武士として高い地位を得ていたとも言われる。
この頃に三田氏の本拠として勝沼城が築城され、
その勢力は青梅・奥多摩から秩父地方にまで及ぶようになったとされる。
ところが戦国時代になると、小田原から勢力を広げた後北条氏によって
上杉氏は北に追われ、それと共に武蔵国の豪族は服属を余儀なくされていく。
三田氏も同様で、後北条氏による統治機構へ組み込まれる事で
多摩西部の領有を認められるようになっていたのでござった。
しかし1561年(永禄4年)、越後の龍と呼ばれる名将・長尾景虎は
関東管領の権威を回復する大義を掲げて小田原後北条氏の討伐に乗り出し、
関東地方各地の豪族を糾合して小田原城攻撃の軍を進めた。
この時、三田氏はかつての主君筋にあたる関東管領隷下への帰参を望み
景虎の軍勢に合流、小田原城への攻撃軍に加わったのでござる。
とは言え、この攻撃で小田原城が落ちる事は無く、景虎は関東管領の役職と
上杉氏の門跡を継承し上杉政虎へと改名(後の上杉謙信である)しただけに終わった。
政虎が本国の越後国(新潟県)へと引き揚げてしまうと、
一度は小田原攻めに加わった関東の豪族は再び後北条氏へ帰属するようになったが
三田氏だけはそのまま後北条氏への対決姿勢を取るようになる。
事ここに至り、三田氏と後北条氏の確執は決定的なものになり
以後、勝沼城に籠もる三田氏当主・綱秀と、後北条一門にして多摩制圧の任を帯びた
剛勇の将・北条氏照の間で壮絶な戦いが続けられるようになったのでござった。
多摩西部を領有する三田氏は、山林から産出される豊富な森林資源を確保し、
それを多摩川の水運で流通させる事により莫大な利益を得ていたという。
この財源によって後北条氏に対する抵抗活動を継続したのだが、同時にそれは
後北条氏にとっても魅力ある権益であり、是が非でも三田氏を打ち倒して
入手したいものと言えた。よって、多摩川下流域に次々と支城群を構築し
三田氏の封じ込めを図った氏照により、次第に綱秀は劣勢に陥っていく。
最終的に、綱秀は本拠地の勝沼城を支えられなくなり放棄する事となり
勝沼城の西にある詰めの城・辛垣(からかい)城へと落ち延びていった。
この後、程無くして辛垣城も陥落し三田氏は滅亡。
多摩地域は氏照によって完全制圧され、
勝沼城には氏照の家臣・師岡氏が入りその居城となったようだ。
以後、歴史の表舞台から勝沼城の存在は消えていく。おそらくは
豊臣秀吉の関東平定によって勝沼城は廃城にされたと思われる。
現在の城址は東京都の指定史跡となり、空堀や曲輪跡が散見できる。


現存する遺構

堀・土塁・曲輪群等
城域内は都指定史跡








武蔵国 今井城

今井城跡

所在地:東京都青梅市今井

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:☆■■■■



青梅市の東端、埼玉県入間市との境界まで300mほどの場所に位置する古城郭。
現地の土豪・今井氏の居城とされる。今井氏は勝沼城の三田氏に従う小豪族で、
今井城は勝沼城の支城としての役割を担っていたようでござる。
この城から1kmほど西には平山氏の藤橋城があり(平山氏関連城郭の頁を参照)
後北条氏に従う平山氏と三田氏に従う今井氏の間で緊張状態が続いたと思われる。
現在、城跡は住宅街の真ん中にひっそりと取り残された形で存在し
城跡と知らなければ「未造成の空き地」に見えるかもしれない。
実際、拙者が訪れた際には近所の親子連れが野原で遊び、
あるいは周辺住民が犬の散歩道にして闊歩していた。
しかし本来ならばそこは城の曲輪跡であり、周囲は土塁や空堀の痕跡が多々残る。
上の写真を見てもわかる通り、広大な広間となる草原の奥に
土塁と思しき起伏が横一列に並び、そこに木々が生えているのが確認できる。
華々しい遺構が残る城郭という訳ではないが、戦国時代における
一地方豪族の居館址として評価されるべき点があるため、青梅市の史跡となっている。
城跡の片隅が粗大ゴミの不法投棄場所になってしまっているのが惜しむ所でござる。


現存する遺構

堀・土塁・曲輪群等
城域内は市指定史跡




平山氏関連城郭  品川台場・浜御殿台場(浜離宮庭園)