武蔵国 初沢山城

初沢山城標柱

所在地:東京都八王子市初沢町・狭間町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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眺望の開けた小さな山城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
初沢城とも。初沢は「はつざわ」と「沢」を濁音で読む。JR中央本線/京王高尾線の高尾駅から南南西へ約800m、八王子市立
浅川中学校の裏にある山(山頂が駅から直線距離で800m地点に当たる)が初沢山城でござる。山の北側(北東隅)には高尾
天神社と菅原道真像が、南側には東京都水道局の初沢配水所と言う給水塔があり、両者を繋ぐように登山道が整備されて
いるので登城は非常に楽。ただ、その道の入り口は少々分かりづらく、「本当にここから繋がってるの?」と言う雰囲気なので
不安感が拭えないのだが、山そのものはそれほど険峻ではなく、その気になれば麓から20分で頂上へ上ることができる。■■
初沢山の山頂は標高294.1mを指し、麓の浅川中学校校庭は182m程度なので、比高差100m少々と言った所だろうか。この山
自体、直径430m程度の円形(多少のいびつさはあるが)をした敷地なので、それほど大きな山ではない。山頂は山の敷地の
やや南西側に偏移した位置となり、そこから数条の尾根が四方八方に広がっている。この尾根に沿って登山道が走っており、
登山道の途中で土塁や曲輪となるような削平地がいくつか見うけられるのだが、何せ痩せ尾根なので然程大きな曲輪がある
訳でも無く、取り立てて技巧的な虎口や堀切なども構えられていない。要するに、この痩せ尾根の一本道を登って来る敵に対し
途中途中で塹壕壁のような防御陣地を置いて、その行動を押し留める程度の構えだ。必然的に、戦国真っ盛りの時代ではなく
もっと前の時代に作られた城郭、仮に戦国期のものとしても物見砦程度の使われ方をしただけの城、と言った感じだろう。■■
とは言え、頂上からは高尾駅が真正面に望める展望が開けている。やはり物見や狼煙台としては有用な場所であったと推測
できる。加えて甲州街道がすぐ脇を通っており、ここが交通の要所である事は明らか。こうした経路は古来から武蔵国(現在の
東京都・埼玉県と神奈川県の一部)と甲斐国(山梨県)を結んでいた街道であり、この城は小仏峠(東京都と神奈川県境の峠)
方面の監視を行うために築かれた山城ではなかろうか。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

別名が来歴のカギ?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
椚田(くぬぎだ)城(椚田塁)、高乗寺(こうじょうじ)城と言った別名もある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
詳しい創建時期は不明で、築城の由来(築城者)についても不詳ながら、大きく2つの説があり、一つは椚田城の名から分かる
通り、椚田氏による築城とするもの。江戸幕府の公式学問所である昌平坂学問所によって編纂された「新編武蔵風土記稿」で
椚田氏と言うのは、平安末期〜鎌倉時代初期の人物である横山権守時重(多摩地域に根付いた開拓領主・横山党の一員)の
4男・大郎重兼が椚田の地(初沢町を含む周辺一帯)に入居し、その子・次郎広重から椚田姓を名乗ったとするもの。この城は
重兼が築いたとも言われるようだが、そうなると築城年代はちょうど鎌倉幕府が成立する頃と一致するだろう。ただ、そうなると
鎌倉武士の居館様式を踏襲するだろうから、椚田城≠初沢山城と言う事になるのかも。実際、初沢山城の南東側にある町域は
館町(たてまち)なので(そこも椚田郷に含まれる)、そこに置かれた居館と初沢山城が混同されている可能性もあろう。或いは
椚田氏の居館の“詰めの城”が初沢山城だったのやも。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その椚田氏や横山党は、鎌倉時代前期に起きた権力闘争「和田義盛の乱」において反乱側に与し敗北、衰退していく。横山党
旧領は、もちろん椚田郷も含め鎌倉幕府の政所別当・大江陸奥守広元(おおえのひろもと)のものとなった。中国地方の太守・
毛利氏の遠祖とされる広元だが、その他にも山形県の一大勢力となった長井氏も広元の系譜である。この長井一族の中に、
近隣の片倉城(八王子市内)主だった長井大膳大夫道広なる者がおり、彼は出家し膳太夫高乗と号した。その高乗が初沢山の
西麓に曹洞宗龍雲山高乗寺を開いている。膳太夫高乗の寺ゆえに高乗寺な訳だが、先に記した別名に高乗寺城とあるように、
長井氏が初沢山に城を築いた、とするのが二つめの築城説だと言う。高乗寺の開基は1394年(応永元年)、室町時代の事だが
この築城説では大江広元領有以来、鎌倉時代〜室町期のいずれかで初沢山城は築かれたのだろう。■■■■■■■■■■

長井氏の没落とその後■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
長井氏は鎌倉幕府に続き建武新政期〜室町幕府成立後もこの地を支配し、関東管領・上杉氏の配下にあったと見られるが、
1504年(永正元年)9月27日に起きた立河原の戦いにおいて山内(やまのうち)上杉氏と扇谷(おうぎがやつ)上杉氏が激突し
その流れで12月3日に「椚田城」が包囲され、翌日に城主・長井八郎広直が捕虜となり落城した、と言う。江戸幕府による史書
「本朝通鑑(ほんちょうつがん)」にある記載だが、ここで言う椚田城は初沢山城なのか、片倉城なのか、はたまたその両方か、
ハッキリとはしない。この数年後、1510年(永正7年)の時点では椚田が山内上杉の家臣・三田弾正忠氏宗(みたうじむね)の
領地とされており、扇谷上杉に従った長井氏は没落したようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その上杉氏も戦国時代本番になると小田原から伸張した後北条氏により攻め立てられ衰退した。後北条勢が武蔵国を制圧し、
それに伴い初沢山城も後北条氏の領有する城となったようである。ただ、多摩地域の統治拠点としては近隣にあった滝山城や
八王子城(共に八王子市内)を使用した為、初沢山城はその支城、或いは上記した通りに甲斐国方面を睨む小仏峠の動向に
備える監視哨のような使われ方をしたと考えられる。もし後北条氏が本格的に用いたのならば、もっと全山に渡って大掛かりな
改造を施されたであろうからだ。この後、後北条氏の勢力圏は更に拡大し上野国まで及んだ事で、初沢山城は後方城郭となり
1590年(天正18年)豊臣秀吉による後北条氏討伐の戦いにおいては抵抗拠点として不向きと判断され放棄されてしまった。
結果として、初沢山城は豊臣軍によって占拠された後、廃城となったらしい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

史跡、公園としての初沢山城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以来、元の山林に戻った初沢山であるが、その遺構は山頂一帯で手付かずのままだった(山麓部は多少の改変を受けている)
事から、1927年(昭和2年)3月に史跡標柱が設置され、1952年(昭和27年)4月1日に東京都史跡指定。1955年(昭和30年)3月
28日に都旧跡と変更されて現在に至っている。小ぶりな山ゆえに、軽い散策気分で登れる初沢山は山頂にベンチが置かれ、
その傍らに写真の標柱が立って…いたのだが、最近どうやらこの標柱が新しいものに取り換えられた模様。そりゃそうだわな、
こんなボロボロの標柱じゃむしろ怪しいし、何か事故でも起こりそうだもの(爆)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、完全な余談なのだが、2025年(令和7年)2月24日に開催された「城熱祭(じょうねつさい)2025」において、城郭研究家の
中井均先生・加藤理文先生・西股総生先生に歴史学者の平山優先生を加えた4者の対談が行われた。この講話の中で、西股
先生が“関東(東国)の山城で初心者にオススメの城”として挙げられたのがここ初沢山城。駅から近く、簡単に登れる山城だと
云うのが推薦理由だったが、どうやら多分にネタ要素を含めた口ぶりなのであまり真剣に受け取らない方が良さそうだ(苦笑)
だって、あの痩せ尾根をダラダラ登るのが初心者向けだとは…(登るのが苦でないと言うだけの話で遺構は全然分かり辛いw)
それにしてもまぁ、西股先生もよくぞ初沢山城なんか持ち出したモノだこと (^ ^;;;マニアック■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・曲輪群等
城域内は都指定旧跡








武蔵国 勝沼城

青梅勝沼城跡

所在地:東京都青梅市東青梅

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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古豪・三田氏の本拠とされる城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
JR青梅線東青梅駅から北に500mちょっと、曹洞宗宝蔵山光明寺の裏山が勝沼城。城址からは青梅の市街が一望できると共に
青梅街道を睨む交通の要衝。多摩西部の古豪・三田(みた)氏歴代の本拠とされる城郭である。■■■■■■■■■■■■■
三田氏は桓武平氏、特に東国で独立を図り新皇を称した剛毅の将・平将門の末裔を称し、平安時代からこの地を領有した在地
武士であった。青梅周辺は「杣保(そまのほ)」つまり“山の方”と言う広域地理を指す言葉で呼ばれ、豊富な山林資源を所有した
三田氏は鎌倉幕府や室町幕府からも父祖の地を安堵され、地盤を築いていた。戦国時代が始まるまでは、関東管領・上杉氏の
配下として高い地位を得ていたとも言われる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
正確な築城年代は不明だが、この頃に三田氏の本拠として勝沼城が築城され、その勢力は青梅・奥多摩から秩父・狭山にまで
及ぶようになったとされる。上記の初沢山城が1504年12月4日に落とされたと言うのは、三田氏宗の手によると見られる。また、
連歌師の柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)は1509年(永正6年)に勝沼城を訪れ、氏宗やその子・弾正忠政定らと連歌の会を
催した。この事は宗長の「東路乃津登(あづまじのつと)」の中で「永正六年八月一日、武蔵国勝沼という処に至りぬ。三田弾正忠
 氏宗ここの領主たり」と記された。宗長ほどの文化人が当地で歌の会を持つというのは、勝沼城そして三田氏が文化的素養と
潤沢な経済力(風流の宴を開けるだけの会所や庭園がある)を相応に有していた事を示したものであろう。武威では初沢山城を
落とし、文芸においても記録を残し、当時の三田氏が隆盛していた様子を垣間見るものだ。■■■■■■■■■■■■■■■

後北条氏に抗った気骨?意地?無謀?の果てに■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが戦国時代になると小田原から勢力を広げた後北条氏によって上杉氏は北へ追われ、それと共に武蔵国の豪族は服属を
余儀なくされていく。三田氏も同様で、後北条氏による統治機構へ組み込まれる事で多摩西部の領有を認められるようになった。
しかし1561年(永禄4年)、越後の龍と呼ばれる名将・長尾弾正少弼景虎は関東管領の権威を回復する大義を掲げて後北条氏の
討伐に乗り出し、関東地方各地の豪族を糾合して小田原城(神奈川県小田原市)攻撃の軍を進めた。この時、三田氏はかつての
主君筋にあたる関東管領隷下への帰参を望み景虎の軍勢に合流、小田原城への攻撃軍に加わったのでござる。■■■■■■
とは言え、この攻撃で小田原城が落ちる事は無く、景虎は関東管領の役職と上杉氏の門跡を継承し上杉政虎(まさとら)へと改名
(後の不識庵謙信)しただけに終わった。政虎が本国の越後国(新潟県)へと引き揚げてしまうと、一度は小田原攻めに加わった
関東の豪族は再び後北条氏へ帰属するようになったが、三田氏だけはそのまま後北条氏への対決姿勢を取るようになる。国人と
呼ばれる在地豪族は、上級権者である大名の権勢になびき、自身の所領を保全してくれる側に立つのが常なので、後北条氏の
勢力が及べばそれに従い、上杉の軍が押し寄せればそちらに服するのは仕方の無い事だが、再び後北条氏の風向きとなり他の
諸豪族が小田原側を向いたにも拘わらず三田氏だけは去って行った上杉の威勢を恃んだのである。■■■■■■■■■■■■
事ここに至り、三田氏と後北条氏の確執は決定的なものになり、以後、勝沼城に籠もる三田氏当主・弾正少弼綱秀(政定の子)と
後北条一門にして多摩制圧の任を帯びた剛勇の将・北条陸奥守氏照(うじてる、後北条氏4代当主・左京大夫氏政の弟)の間で
壮絶な戦いが続けられるようになり申した。多摩西部を領有する三田氏は、山林から産出する豊富な森林資源を確保し、それを
多摩川の水運で流通させる事により莫大な利益を得ていたと云う。中世、木材は建材として用いられるだけでなく薪や炭と言った
燃料材としても欠かせないもので、現代風に言えば“ゼネコン大手にして石油王”と言った感覚だ。この財源を使って後北条氏に
対する抵抗活動を継続したのだが、同時にそれは後北条氏にとっても魅力ある権益であり、是が非でも三田氏を打ち倒して入手
したいものと言えた。よって、多摩川下流域に次々と支城群を構築し三田氏の封じ込めを図った氏照により、次第に綱秀は劣勢に
陥っていく。最終的に綱秀は本拠地の勝沼城を支えられなくなり放棄する事となり、勝沼城の西にある詰め城・辛垣(からかい)城
(青梅市内)へと落ち延びていった。辛垣城と勝沼城との関係には諸説あるものの、この後、程無くして辛垣城も陥落し三田氏は
滅亡。辛垣城が落ちたのは1563年(永禄6年)前後と言われるので、勝沼城の放棄はそれより前と考えられよう。■■■■■■■
一族の中には後北条氏配下となった者もいたようだが、抵抗勢力としての三田氏が排除された事で多摩地域は氏照により完全
制圧され、勝沼城には氏照の家臣に加わった師岡山城守将景(もろおかまさかげ、出自は三田一族との事だが諸説あり)が入り
その居城となったようだ。このため勝沼城の名は師岡城と改められ、将景により手を入れられたと見られる。ただ、氏照は滝山城
(後に八王子城)を居城とし、また三田氏が滅んで後は一気に上野国付近まで戦線が北上した事で、多摩の城郭は最前線では
なくなった。故に師岡城の重要度は下がり、以後、歴史の表舞台からこの城の存在は消えていく。■■■■■■■■■■■■■
結局、豊臣秀吉の関東平定によって師岡城は落とされ廃城になったと思われる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

何となく残る遺構をどう見るか?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
光明寺の北側に急峻な斜面があり、その上が勝沼城の主郭。概ね、三角形の一角を切り落としたような台形をした敷地を為し、
その切り落とした角の先に馬出状の小曲輪が付属する。この馬出が城域の最南端、その直下が光明寺の敷地。現地案内板の
説明に従えば、主郭の北西側に二郭が、主郭の北東側には三郭が繋がっている連郭式の縄張り。二郭はいびつな四辺形をし、
三郭は自然地形に伴う屈曲(突出)部をいくつも付属させた長方形。三郭の南側にも馬出がある。■■■■■■■■■■■■■
主郭の最高所は標高215.8mを指すのだが、二郭の北端部も同高度。三郭敷地内は210m程度なので、城の内部ではそれほどの
比高差は無い。空堀で曲輪間を切断し、曲輪の外周を土塁で囲む事で防御性を高めているようだ。また、城外(南麓)の標高は
185m〜188m程度なので、台地の外に対しては比高差30mほどの“絶壁”で隔絶する天険性は有している。■■■■■■■■■
城域全体としては東西340m×南北180m程度と、さほど大きな城では無い。ただ、二郭〜主郭〜三郭の全域を取り巻いて横堀が
巡っており、造作は手が込んでいる。また、主郭や二郭は角ばった形状で整形され、要所要所に馬出を付随させる等、後北条流
築城術の特徴が見られよう。師岡将景による改造は、即ち後北条氏による改造だったと推測でき申す。されど、現代においては
城址の大半が風化し、また三郭は墓地となってしまっている。この墓地(=三郭)には関係者以外立入禁止の掲示が出ている為
(入れない事は無いようだが)そこへはあまり迂闊に進入しない方が良さそうだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
とは言え、それ以外の部分は勝沼城跡歴史環境保全地域となっており、散策路も整備されている。こうした範囲では空堀や曲輪
跡が散見でき、解説の案内板なども立てられてござる。写真もそのような看板の1枚で、その向こうに薄っすらとした土塁の列が
横切っている…のだが、お分かり頂けるだろうか?(汗)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
勝沼城跡歴史環境保全地域は指定面積13.4ha、1975年(昭和50年)12月26日の指定。文化財としての歴史を見てみれば1925年
(大正14年)5月に史跡標識が設置され、初沢山城と同日の1952年4月1日に東京都の史跡指定を受けた。同様に1955年3月28日
都旧跡となるも、こちらは1993年(平成5年)3月22日に種別変更で都史跡に戻っており候。ちなみに、「史跡」の要件を満たす事が
難しいものの、史跡に準じ、歴史理解に必要な痕跡を残すもの、或いは旧態を推定し得る場所が「旧跡」なんだそうな。だとすると、
旧跡から史跡に復するのは(或いはその逆も)どのような変化があったのでござろうか? (^ ^;■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・曲輪群等
城域内は都指定史跡








武蔵国 今井城

今井城跡

所在地:東京都青梅市今井

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★★■■■
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住宅街の空き地?に見えますが…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
青梅市の東端、埼玉県入間市との境界まで300m弱の場所に位置する古城郭。東京都道63号線(豊岡街道)が埼玉県境を越える
金子橋(霞川を渡る)の袂が三叉路となっており、都道から分岐して真西へ進む道路(山根通り)へ入って行くと250m程で武蔵野台
病院へ折れる小さな交差点に至る。この交差点(ビミョーな四つ角)から北西側の区画が今井城の敷地だが、住宅に囲まれていて
特段、入り口らしい入口は見当たらない。特に大通りである筈の山根通り側からは入れず、辛うじて北2箇所に用水路を渡る小さな
橋があって、そこを渡ると写真の風景が広がる。或いは城域西面に舗装道路の行き止まりがあり、そこから入る事も出来そうだが
ここも一般民家の目の前なので、あまり騒がしくするのは控えるべきでござろう。いずれの箇所にせよ、その内側が城址なのだが、
近隣に駐車場などは無く、また路駐余地も無いので注意。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の来歴としては、現地の土豪・今井氏の居城とされる。武蔵国北部一帯に勢力を築いた平安期の開拓領主団・児玉党の流れを
汲むと云う今井氏だが、室町中期の1416年(応永23年)に起こった関東の大乱・上杉禅秀(ぜんしゅう)の乱において反乱側に付き
討伐された事で弱体化、戦国時代になると勝沼城の三田氏に従う小豪族と化していた。今井城主として今井四郎左衛門尉経家や
その子孫・宗家らの名が江戸後期に編纂された地誌「武蔵名勝図会」の中に記されており、今井城は勝沼城の支城としての役割を
担っていたようでござる。この城から1.4kmほど西南西には平山氏の藤橋城(青梅市内)があるため(平山氏関連城郭の頁を参照)
後北条氏に従う平山氏と、三田氏に従う今井氏の間で緊張状態が続いたと思われる。然るに、三田氏が後北条氏に滅ぼされて後
後ろ盾を失った今井氏も、天正年間(1573年〜1592年)の間に滅亡したと言われる。それに伴い今井城も廃絶したようだ。■■■■
一方、今井城址では1967年(昭和42年)春と夏の2度に渡って青梅市教育委員会の手で発掘調査が行われ、北側にあった三郭の
土塁の中から開元通宝等の銭貨・骨壷・火葬骨・宝筐印塔それに板碑(墓石)が出土した。即ち、この場所は墓地だったのを潰して
新しい曲輪を増設した事になる。恐らくは今井家の屋敷墓だった所が三郭となったのだろう。出土板碑には「正和元年」1312年から
「文明十四年」1482年までの銘があり(現地案内板には1522年(大永2年)までと書かれている)、三郭の造営、つまり城の大改造が
1482年以降に行われた可能性が指摘される。その場合、今井氏自身が墓所を潰す(しかも墓石や供養塔を土塁に埋め込む)ような
事はしないだろうから、この改造は今井氏「以外」が行った筈であり、だとすればその時点で城は今井氏の手を離れていた?ならば
この時代、この地域でそれが出来たのは後北条氏か?と推測されるのである。さもなくば、何かしらの戦時に臨時構築された陣城と
云う事になろうが、これまた確たる証拠が無いのでハッキリとした事は言えないのがもどかしい。こんなに立派な土塁なのに…。■■

浮かぶ小島の中を切り分けて■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
大きく地形を捉えれば西から東へ伸びる多摩丘陵の南縁、もう少し細かく見れば北から南に裾野を広げる加治丘陵の最南端部に
ある小高い丘が城地。周囲の平地からすると、この丘は平野部に浮かぶ島のようで、恐らく往時は本当に低湿地帯に取り残された
島だったのだろう。城のある台地の内部は標高162m〜163m、南側の低地は155m程度なので、比高差10m弱の低台地である。■■
この“島”の中、南東にほぼ長方形の主郭が置かれている。東西およそ50m×南北45m程度、後の改変からなのか南東隅は欠損。
欠損部を除いて四周は土塁で囲まれており、その外部を空堀が取り巻く。主郭の西には、これも長方形の二郭が。こちらは縦長で
東西が20mくらい×南北は50m程だが、これも自然崩落のせいか南側は欠けている。三郭は主郭の北側にあり、件の用水路により
屈曲した横長の曲輪。恐らくこの用水路は、往時はきちんとした川の流れになっていて外濠の役割を果たしていたのだろう。■■■
城域全体としては東西南北それぞれ100m程度の範囲を使っていたようでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
主郭について言えば、まさしく「方形居館」の体を成しており、開拓領主に始まった(であろう)今井氏の武家居館だった事が窺える。
周囲の低湿地は水田耕作地帯、そこに浮かぶ小島の上に居館を構えた様子が推測されよう。これを中心として、時代が下るにつれ
二郭や三郭を増設し“居館”から“城郭”へと進化したのだろうが、興味深いのは三郭に「主郭側へ」土塁が構えられている点である。
通常、城と言うのは外に対して防備を固めるので土塁は外側に積まれるものだが、三郭では内側に対し積み上げられているのだ。
本来は外側に対しても土塁があったのだろう(都市化で整地されてしまった)が、それにしても内側に土塁があるのは異端と言える。
外濠(用水路)からの縦深が無い為、主郭に対する目隠しとして大掛かりな土塁を構築したのだろうか?或いは、内側の空堀に入り
込んだ敵兵を挟撃するための陣地にしたかったのだろうか?色々と考えさせられる遺構である。主郭や二郭に欠損部があるので、
往時はもっと他の構造物も有し複合的・重層的な守りを考慮した縄張りだったのかもしれない。だとすれば、後北条氏が手を加えて
いわゆる「比高二重土塁」のような状態になっていたのだろうか。実際、土塁と土塁の間の堀に入り込むと両側から畳み掛けられる
圧迫感を見せつけてくる状況となっており申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在、城跡は住宅街の真ん中にひっそりと取り残された形で存在し、城跡と知らなければ「未造成の空き地」に見えるかもしれない。
実際、拙者が訪れた際には近所の親子連れが野原で遊び、あるいは周辺住民が犬の散歩道にして闊歩していた。しかし本来なら
そこは城の曲輪跡であり、周囲は土塁や空堀の痕跡が様々に残る。上の写真を見てもわかる通り、広大な広間となる草原の奥に
土塁と思しき起伏が一列に並び、そこに木々が生えているのが確認できるのだ。この林の中に踏み込むと、唐突に中世城郭らしい
遺構の中に埋没できる。すぐ隣が現代の住宅地なので、「え、いきなり?」と言う衝撃に頭がついていけない程だ(笑)■■■■■■
華々しい遺構が残る城郭という訳ではないが、戦国時代における一地方豪族の居館址として評価されるべき点があるため、1953年
(昭和28年)11月3日に青梅市の史跡となっている。城跡の片隅が粗大ゴミの不法投棄場所になってしまっているのが惜しむ所で、
市史跡ならばもう少し手入れをして欲しい処。と言うか、きちんと史跡整備すれば市史跡どころか都史跡となっても良さそうだが…。



現存する遺構

堀・土塁・曲輪群等
城域内は市指定史跡




平山氏関連城郭  品川台場・御殿山下台場・浜御殿台場(浜離宮庭園)