眺望の開けた小さな山城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
初沢城とも。初沢は「はつざわ」と「沢」を濁音で読む。JR中央本線/京王高尾線の高尾駅から南南西へ約800m、八王子市立
浅川中学校の裏にある山(山頂が駅から直線距離で800m地点に当たる)が初沢山城でござる。山の北側(北東隅)には高尾
天神社と菅原道真像が、南側には東京都水道局の初沢配水所と言う給水塔があり、両者を繋ぐように登山道が整備されて
いるので登城は非常に楽。ただ、その道の入り口は少々分かりづらく、「本当にここから繋がってるの?」と言う雰囲気なので
不安感が拭えないのだが、山そのものはそれほど険峻ではなく、その気になれば麓から20分で頂上へ上ることができる。■■
初沢山の山頂は標高294.1mを指し、麓の浅川中学校校庭は182m程度なので、比高差100m少々と言った所だろうか。この山
自体、直径430m程度の円形(多少のいびつさはあるが)をした敷地なので、それほど大きな山ではない。山頂は山の敷地の
やや南西側に偏移した位置となり、そこから数条の尾根が四方八方に広がっている。この尾根に沿って登山道が走っており、
登山道の途中で土塁や曲輪となるような削平地がいくつか見うけられるのだが、何せ痩せ尾根なので然程大きな曲輪がある
訳でも無く、取り立てて技巧的な虎口や堀切なども構えられていない。要するに、この痩せ尾根の一本道を登って来る敵に対し
途中途中で塹壕壁のような防御陣地を置いて、その行動を押し留める程度の構えだ。必然的に、戦国真っ盛りの時代ではなく
もっと前の時代に作られた城郭、仮に戦国期のものとしても物見砦程度の使われ方をしただけの城、と言った感じだろう。■■
とは言え、頂上からは高尾駅が真正面に望める展望が開けている。やはり物見や狼煙台としては有用な場所であったと推測
できる。加えて甲州街道がすぐ脇を通っており、ここが交通の要所である事は明らか。こうした経路は古来から武蔵国(現在の
東京都・埼玉県と神奈川県の一部)と甲斐国(山梨県)を結んでいた街道であり、この城は小仏峠(東京都と神奈川県境の峠)
方面の監視を行うために築かれた山城ではなかろうか。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名が来歴のカギ?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
椚田(くぬぎだ)城(椚田塁)、高乗寺(こうじょうじ)城と言った別名もある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
詳しい創建時期は不明で、築城の由来(築城者)についても不詳ながら、大きく2つの説があり、一つは椚田城の名から分かる
通り、椚田氏による築城とするもの。江戸幕府の公式学問所である昌平坂学問所によって編纂された「新編武蔵風土記稿」で
椚田氏と言うのは、平安末期〜鎌倉時代初期の人物である横山権守時重(多摩地域に根付いた開拓領主・横山党の一員)の
4男・大郎重兼が椚田の地(初沢町を含む周辺一帯)に入居し、その子・次郎広重から椚田姓を名乗ったとするもの。この城は
重兼が築いたとも言われるようだが、そうなると築城年代はちょうど鎌倉幕府が成立する頃と一致するだろう。ただ、そうなると
鎌倉武士の居館様式を踏襲するだろうから、椚田城≠初沢山城と言う事になるのかも。実際、初沢山城の南東側にある町域は
館町(たてまち)なので(そこも椚田郷に含まれる)、そこに置かれた居館と初沢山城が混同されている可能性もあろう。或いは
椚田氏の居館の“詰めの城”が初沢山城だったのやも。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その椚田氏や横山党は、鎌倉時代前期に起きた権力闘争「和田義盛の乱」において反乱側に与し敗北、衰退していく。横山党
旧領は、もちろん椚田郷も含め鎌倉幕府の政所別当・大江陸奥守広元(おおえのひろもと)のものとなった。中国地方の太守・
毛利氏の遠祖とされる広元だが、その他にも山形県の一大勢力となった長井氏も広元の系譜である。この長井一族の中に、
近隣の片倉城(八王子市内)主だった長井大膳大夫道広なる者がおり、彼は出家し膳太夫高乗と号した。その高乗が初沢山の
西麓に曹洞宗龍雲山高乗寺を開いている。膳太夫高乗の寺ゆえに高乗寺な訳だが、先に記した別名に高乗寺城とあるように、
長井氏が初沢山に城を築いた、とするのが二つめの築城説だと言う。高乗寺の開基は1394年(応永元年)、室町時代の事だが
この築城説では大江広元領有以来、鎌倉時代〜室町期のいずれかで初沢山城は築かれたのだろう。■■■■■■■■■■
長井氏の没落とその後■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
長井氏は鎌倉幕府に続き建武新政期〜室町幕府成立後もこの地を支配し、関東管領・上杉氏の配下にあったと見られるが、
1504年(永正元年)9月27日に起きた立河原の戦いにおいて山内(やまのうち)上杉氏と扇谷(おうぎがやつ)上杉氏が激突し
その流れで12月3日に「椚田城」が包囲され、翌日に城主・長井八郎広直が捕虜となり落城した、と言う。江戸幕府による史書
「本朝通鑑(ほんちょうつがん)」にある記載だが、ここで言う椚田城は初沢山城なのか、片倉城なのか、はたまたその両方か、
ハッキリとはしない。この数年後、1510年(永正7年)の時点では椚田が山内上杉の家臣・三田弾正忠氏宗(みたうじむね)の
領地とされており、扇谷上杉に従った長井氏は没落したようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その上杉氏も戦国時代本番になると小田原から伸張した後北条氏により攻め立てられ衰退した。後北条勢が武蔵国を制圧し、
それに伴い初沢山城も後北条氏の領有する城となったようである。ただ、多摩地域の統治拠点としては近隣にあった滝山城や
八王子城(共に八王子市内)を使用した為、初沢山城はその支城、或いは上記した通りに甲斐国方面を睨む小仏峠の動向に
備える監視哨のような使われ方をしたと考えられる。もし後北条氏が本格的に用いたのならば、もっと全山に渡って大掛かりな
改造を施されたであろうからだ。この後、後北条氏の勢力圏は更に拡大し上野国まで及んだ事で、初沢山城は後方城郭となり
1590年(天正18年)豊臣秀吉による後北条氏討伐の戦いにおいては抵抗拠点として不向きと判断され放棄されてしまった。■
結果として、初沢山城は豊臣軍によって占拠された後、廃城となったらしい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
史跡、公園としての初沢山城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以来、元の山林に戻った初沢山であるが、その遺構は山頂一帯で手付かずのままだった(山麓部は多少の改変を受けている)
事から、1927年(昭和2年)3月に史跡標柱が設置され、1952年(昭和27年)4月1日に東京都史跡指定。1955年(昭和30年)3月
28日に都旧跡と変更されて現在に至っている。小ぶりな山ゆえに、軽い散策気分で登れる初沢山は山頂にベンチが置かれ、
その傍らに写真の標柱が立って…いたのだが、最近どうやらこの標柱が新しいものに取り換えられた模様。そりゃそうだわな、
こんなボロボロの標柱じゃむしろ怪しいし、何か事故でも起こりそうだもの(爆)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、完全な余談なのだが、2025年(令和7年)2月24日に開催された「城熱祭(じょうねつさい)2025」において、城郭研究家の
中井均先生・加藤理文先生・西股総生先生に歴史学者の平山優先生を加えた4者の対談が行われた。この講話の中で、西股
先生が“関東(東国)の山城で初心者にオススメの城”として挙げられたのがここ初沢山城。駅から近く、簡単に登れる山城だと
云うのが推薦理由だったが、どうやら多分にネタ要素を含めた口ぶりなのであまり真剣に受け取らない方が良さそうだ(苦笑)■
だって、あの痩せ尾根をダラダラ登るのが初心者向けだとは…(登るのが苦でないと言うだけの話で遺構は全然分かり辛いw)
それにしてもまぁ、西股先生もよくぞ初沢山城なんか持ち出したモノだこと (^ ^;;;マニアック■■■■■■■■■■■■■■■
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