武蔵国 平山城

平山城跡

所在地:東京都日野市平山
■■■■■■■■*八王子市堀之内

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:★☆■■■



京王電鉄京王線・平山城址公園駅の南側あたりには平安時代末期、源氏による平氏追討の戦いにおいて戦功のあった侍大将
平山武者所季重(ひらやますえしげ)の居住地が存在した。そこから更に南側、日野市と八王子市との境界を跨ぐ山が平山城の
跡地だと伝承されている。現在、東京薬科大学の隣に都市公園として整備されている東京都立平山城址公園は、季重の居館を
護るために築かれた見張台とその周辺地勢を利用した場所と言われ、比高差30m程度ながら起伏に富んだ地形になっている。
山塊の西端には丸山(六国台)と呼ばれる見張台を有し、北端部は突出した断崖になっており敵勢がこちらから登ってくるのは
まず不可能だ。いわゆる「後ろ堅固」の砦であり、南側へ下る勾配を利用して曲輪を構成するようになっている。この傾斜地には
切岸のような起伏や井戸として使われそうな池があるが、実際にどのような用い方をしたのかは分からない。城砦があったと言う
伝承も口伝に過ぎず、確たる証拠や文献もない。城址公園の麓にある日野市立平山小学校の敷地〜駅前近辺にかけてが平山
季重の居館址と推定され、それは1961年(昭和36年)10月1日に日野市指定史跡となっているものの、山に城(砦程度だろう)が
あったとして、規模や構造的に物見台か狼煙台程度の働きであったと思われる。ただ、見張台となるだけあり城址公園から望む
風景は日野市や八王子市を一望できる広々としたもの。最近は夜景の名所になっているらしい。城跡から眺める夜景というのも
一興として楽しめるのは良うござろう。また、城址公園北端部の突先には季重を祀る平山季重神社の小さな祠が鎮座している。
その季重についてだが、平山氏はいわゆる武蔵七党の1つ・西党の流れを受ける一派であり、武蔵国多西郡舟木田荘平山郷を
領したために平山姓を称したものだった。西党の始祖は日奉武蔵守宗頼(ひまつりのむねより)と言う者であった事から、日奉党
(ひまつりとう)とも呼ばれるが、系図の上では宗頼の5代後裔が平山郷に入って平山姓を名乗り始めた八郎直季(なおすえ)で、
その嫡子が季重である。時は平安時代の末、季重は院の武者所に伺候した事から“武者所”と称されたが、保元・平治の乱では
いずれも源義朝に与していた。義朝が敗死し源氏が衰退してからは平氏に従ったものの、後に義朝の遺児・頼朝が平氏打倒の
旗揚げをすると幕下に馳せ参じ、一の谷の合戦においては熊谷次郎直実と武勇を競ったとされる猛将だそうな。平氏が滅んで
後白河法皇から右衛門尉(宮中警護の職)に任じられたが、勝手な任官を頼朝に激怒されて、鎌倉幕府の公式史書「吾妻鏡」に
「平山季重、顔はふわふわとして、とんでもない任官である」と罵倒された記述が残る。しかしその後、奥州藤原氏討伐に軍功を
挙げ、今度は頼朝から「驍勇無双の勇士」と称賛され鎌倉幕府が成立するや元老として取り立てられた。こうして見ると、頼朝も
随分と“気分屋”というか、その場その場の対応に差があり過ぎるような気もするが…それはさて置き、平山氏は以後も命脈を
保ち、執権(鎌倉幕府において将軍を補佐する、事実上の最高権力者)・北条氏による他氏排斥の毒牙にもかからずに済んだ。
ただ、鎌倉中期以降における平山氏の動静は不明で、多西郡に一定の所領を獲得していったと推測される以外には、戦国期を
迎えて下記の城での記録が現れるようになるまでは、伝承が途絶える事になる。当然、平山城(平山氏館)の行く末もどのように
なったのか分からないままでござる。


現存する遺構

堀・土塁
居館跡は市指定史跡








武蔵国 檜原城

檜原城址遠望

所在地:東京都西多摩郡檜原村本宿

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★★■■■
公園整備度:☆■■■■



東京の奥座敷、西多摩郡檜原(ひのはら)村にある城跡。村の観光名所である名勝・払沢(ほっさわ)の滝から望む標高449mの
山が檜原城山である。直下にある「橘橋」交差点の標高は262mなので、実に比高180m超を数える険阻な山に城は築かれた。
上記した平山氏は、鎌倉時代から室町時代にかけて多摩地区で着実に勢力を広げたと見られている。1416年(応永23年)、前の
関東管領(室町体制下、東国の統治を託された足利将軍家の分家・鎌倉公方を補佐する実質的な最高権力者)である上杉禅秀
(うえすぎぜんしゅう)が、鎌倉公方の足利左馬頭持氏(もちうじ)に対して起こした反乱「上杉禅秀の乱」において、平山三河守
正泰は公方に味方して信任を受け、檜原の地を与えられたと言う。こうして築かれたのが檜原城だが、武蔵から甲斐へと抜ける
山間の要衝にあたる檜原は、甲斐武田氏に対する備えとして重視されていた。武田氏は禅秀の乱において反乱勢に与しており
この城が甲斐から関東への反乱軍を食い止める防波堤、或いは関東から反乱軍を追い出す為の掃討基地として機能していた。
正泰なる人物は平山季重の3男・伊賀守季武(すえたけ)の後裔とされ、檜原村の村史では季武―筑前守重実―対馬守重遠―
季遠―実高―季信―盛季―季慶―季泰―正泰と繋がっている。更にその後の家系では、正泰から有季―有連―季守―季徳と
続くが、季徳には数名の子が居た中で、檜原城を守ったのは4男・伊賀守政重の系譜らしい。こうした経過を経る中、戦国時代に
なると平山一族は秋川(あきがわ、多摩川水系最大の支流)沿いに現在の日野市・青梅市・檜原村一帯を支配するようになって
いたようだ。記録には無いものの、時代背景と地勢から考えて平山氏は南関東の大名・扇谷(おうぎがやつ)上杉氏に従属して
いたと考えられるが、後に小田原後北条氏が伸張していく中でその配下に組み込まれ、強大な後北条氏から多摩地域の領有を
認められた事で、平山氏の勢力圏は維持された。後北条一門の中でも猛将として知られる北条陸奥守氏照(うじてる)は、多摩
地区の統治を担当し西に控える戦国最強を謳う強敵・武田氏に対する備えを固めていたが、平山氏はこの氏照麾下に加えられ
檜原城の防備を任されていた。檜原の地は、甲斐国から武蔵国へと通じる秋川街道を管掌する交通の要衝であり、氏照が最も
警戒を払った場所。然るに、檜原城は秋川街道を見下ろす断崖の上に築かれており、檜原谷を覆うような形で周囲の山々にも
支城が確保されていたと言う。平山政重は後北条氏の戦いに従軍する中、岩槻城(埼玉県さいたま市岩槻区)攻防戦において
21歳の若さで戦死してしまうが、その功に報いるため後北条氏は彼の遺児である長寿・善九郎の兄弟を庇護している。1559年
(永禄2年)に記録された後北条氏の軍役帳「小田原衆所領役帳」には平山長寿・善九郎の名が残ってござれば、幼いながらも
彼らは平山氏の名跡を継ぐ者として重く見られていた事なのだろう。兄の長寿は成長して伊賀守氏重、弟の善九郎は左衛門尉
綱景(季員とも)と称した。また、彼らの妹として鶴寿という姫もいたのだが、彼女の話は後で紹介する。
甲斐武田氏の滅亡後、後北条氏にとって新たな脅威となったのが天下統一を狙う豊臣秀吉。1590年(天正18年)秀吉の軍勢は
後北条氏討伐の為に満を持して出陣、後北条方の城郭を次々と降しつつ小田原城(神奈川県小田原市)へ迫った。多摩地方に
おける後北条家の拠点城郭であり氏照の居城だった八王子城(東京都八王子市)は、主の氏照が小田原へと参陣し城主不在と
なったまま前田又左衛門利家・上杉左近衛権少将景勝らの軍勢に攻撃され、留守を守った平山綱景らの奮戦も虚しく6月23日に
落城、綱景は討死する。このため、綱景の兄で檜原城に構えた平山氏重は八王子城の敗残兵を糾合し猶も当城で抵抗を続け
豊臣方と戦い続けたが、衆寡敵せず7月12日に落城した。指揮官であった氏重と、その子・新左衛門氏久は城を脱出したものの
氏重は城下の千足にある隠れ岩で自害する。氏久も共に自刃して果てたと云うが、異説としては落ち延びていずこかへ去ったと
考えるものもある。何はともあれ、後北条軍による組織的抵抗はこの戦いが最後となった。斯くして檜原城は歴史の表舞台から
消えていき申した。
上記した「橘橋」交差点の近くにある臨済宗大光山吉祥寺の裏手に登山口があり、そこから山へ至れば城跡。山中が幾つかの
段曲輪として削平され、竪堀もあるという事なのだが、これは後世に作られた林業用の作業溝と見る向きもあるので、実際には
どのような遺構だったのかがはっきりしない。その上、現在では城山の南斜面が採石場になっており半分削られた状態。史跡の
保全状態に懸念が残る一方で、城址自体は1991年(平成3年)3月8日に東京都指定史跡になっているので、最悪の事態は回避
できそうでもある。


現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群等
城域内は都指定史跡







武蔵国 藤橋城

藤橋城跡

所在地:東京都青梅市藤橋

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:★■■■■



青梅市の東部、埼玉県との境に程近い藤橋の地に築かれた小城郭。詳細は不明ながら、当城も平山氏に関連する城郭との事。
城内にある説明掲示板に拠れば、1820年(文政3年)に刊行された地誌書「武蔵名勝図会」の中で藤橋城についての記載があり
(正しくは「武蔵名勝図会」の成立は1823年(文政6年)のようだが)
“平山越前守虎吉という人の住居の地なり。この平山氏は北条氏照に仕えたる人なり。平山右衛門大夫・同伊賀守などは檜原
村に城跡あり。又、平井村・大久野村あたりは平山氏が旧跡なれば、この越前守もその一族なるべし。ここは土居を廻らし、
城跡もありて、その内の広さ東西二十間余、南北凡そ五十間程、入口の城戸門跡と覚しきところは南向きにて、すべて平地
なり。西より北へと廻らして今井村の水田に臨み、霞川の流れを帯びたり。この辺は崖にして高さ二丈あまりなり。”とある。
ここに出てくる越前守虎吉や右衛門大夫、伊賀守と云った人物がどのような者なのかは分からない。そもそも築城年代も不明。
多摩地域の中小豪族がいまだ動向定かならぬ時期に先んじて後北条氏へ従った平山氏が周辺の対立勢力を牽制する目的で
築いた城郭と見られ、説明にある平山虎吉なる人物が城主になったと考えられる。説明文にある今井村には土豪・今井氏の城
(今井城、青梅市内)があり、これは藤橋城から東北東へ1.4km、目と鼻の先と言える距離にある。
一方で藤橋城主の名として有名なのが平山光義だ。彼は同族である檜原城主・平山氏重と姻戚関係を結び、氏重の妹・鶴寿を
娶った。恐らくこの時点まで、両平山家は共に後北条氏配下にあったのだろう。しかし1560年(永禄3年)上杉謙信の関東侵攻で
彼らは袂を分かつ事になる。檜原の平山氏重は後北条方に残ったが、藤橋の平山光義は周辺諸勢力と共に謙信方へとなびき
小田原城攻略軍に参加する事となった。光義の敵対行為に際して鶴寿は離別され檜原へ送り返されたという説がある一方で、
謙信が越後へ引き上げた後、後北条軍に光義は捕らえられ鶴寿と共に下総国多古(千葉県香取郡多古町)へ追放されたとの
説もある。北条氏照が多摩を統括するのはこの後の事なので、虎吉や他もろもろの人物は光義以後の話なのかもしれない。
さらに、藤橋小三郎(平山氏縁者?)なる者も藤橋城主の名として挙がるので、この城の歴史は様々に交錯しているようだが、
概ね平山氏によって営まれ、そして廃城に至ったと考えられ申そう。廃された時期も不明だが、後北条氏に従っていたのならば
1590年の秀吉侵攻時というのが順当であろう。
さて説明文にある通り藤橋城は霞川(青梅市を横断し入間川に注ぐ川)を天然の濠として用いた小城で、周囲は水田あるいは
霞川に繋がる湿地帯に囲まれ、平地の中に僅かながら隆起する低台地を縄張りとしている。現在残される遺構は東西70m×
南北60m程度の主曲輪跡と、それに付随する腰曲輪、土塁、空堀など。主曲輪の跡は写真の通り小さな公園になってござる。
中でも特に土塁は比較的旧状を残した感があるため、藤橋城跡は1953年(昭和28年)11月3日に青梅市指定史跡となった。


現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は市指定史跡




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